再生しつつある者
天界の秘義1580
「全地はあなたの前にあるではありませんか」。これは善そのものを意味していることは、善い意味における『地』の意義から、ここではカナンの地の意義から明白であり、それは天的なものであり、それでまた善である(それについては前の566、620、636、662番を参照)。ここの内なる人は外なる人に呼びかけているが、しかし外なる人の中にあって(内なる人)に一致していないものに呼びかけているのであり、それは人間が試練と争闘の中におかれた場合に実際起るように、自分自身の中に何かの悪を認めて、その悪から離れようと欲するとき行うのが常である。なぜなら試練と争闘の中におかれた者たちには以下のことは知られているからである、すなわち、彼らは自分自身の中に一致しないものを認めるのであり、争闘がある限り、そこから彼らは離れることができないのであるが、それでも離れることを欲求し、ときには、悪に対して怒って、それを放逐しようと欲求するほどにもなるのである。これらがここに意味されている事柄である。
天界の秘義2041
「あなたらはあなたらの陽の皮の肉に割礼をほどこさなくてはならない。」これは自己への愛と世への愛とを遠ざけることを意味していることは、『割礼』の表象と意義とが汚れたいくたの愛から清められることであり(そのことは2039番に説明した)、また『肉』の意義が人間自身のものであることから明白である(このことは前の999番にとり扱った)。人間自身のものは自己へのまた世への愛以外の何ものでもなく、かくてそこから派生してくるあらゆる欲念であり、そしてそれはいかに汚れたおのであるかは第一部に示されたところである(141、150、154、210、215、694、731、874−876、987、1047番)。遠ざけられねばならない人間のこの人間自身のものが意味されているため、『陽の皮の肉』の表現が用いられているのである。
[2]主から発している天界的愛の流入を妨害している二つの所謂愛とその愛の欲念とが存在している、なぜならこれらの愛が内的な人を、また外なる人を支配し、それらを占有すると、それらはその流入してくる天界の愛を斥けるか、窒息させるかしてしまい、またそれを歪め、汚してしまうからである、なぜならそれらは主の神的慈悲の下に後に示されるように、天界の愛に全く相反しているからである。しかしこれらの愛が遠ざけられるに正比例して、主から流入してくる天界的愛[天界の愛]が内的な人の中に現れはじめ、いな、光を与えはじめ、かれは自分が悪と誤謬の中にいることを認めはじめ、つぎに自分が現実に[まことに]清くないものと汚れたものの中にいることを認めはじめ、ついにはそれが自分の自分自身のものであったことを認めはじめるのである。再生しつつある者とは、これらの愛が遠ざけられつつある者である。
[3]この遠ざけられることは再生していない者らのもとにもまた認めることができるのである、なぜならかれらが不幸になり、健康を害し、病気になったとき、とくに今にも死のうとしているとき、起ることではあるが、かれらが聖いもの思いにふけっているとき、またはいろいろな欲念が静められているとき往々起ってくるように、こうした愛のいろいろな欲念がかれらの中に静止していると、そのときは、身体の、また世の事柄は静まって、いわば死んだようになっているため、かれらは多少天界の光を、またそこから生まれてくる慰めを認めるのである。しかしこれらの人物のもとでは問題の欲念は遠ざけられているのではなくて、たんにそれらが静まっているにすぎないのである、なぜならかれらはその以前の状態に帰って行くと、直ぐにもその同じいくたの欲念に再び帰って行くからである。
[4]悪い者のもとにもまた、身体のまた世のものは静められることができ、そのときかれらは一種の天界的なものの中へいわば引き上げられることができるのであって、こうしたことは他生における霊魂たちのもとに起るのであり、とくに世に生きていた間に天界について非常に多くのことを聞いていたため、主の栄光を見ようと切望している新しく着いたばかりの者たちのもとに起るのである。前に言及した外なる者はそのときかれらの中に静まってしまっており、そのようにしてかれらは第一の天界に連れて行かれて、かれらの欲望を楽しむのである。しかしかれらは長く止まっていることはできない、なぜなら身体のまた世のものがたんに静止しているのみであって、天使たちのもとにおけるように、それらのものが遠ざけられてはいないからである(このことについては541、542番を参照されたい)。天界的な愛〔天界の愛〕は主から人間の中へ絶えず流れ入っていて、それらの愛のいくたの欲念とそこから派生してくるいくたの誤謬を除いては、他の何ものもそれを妨害し、さまたげはしないのであり、また人間にそれを受けることができないようにさせもしないことを知らなくてはならない。
天界の秘義2682[3]
しかし現今ではわずかな者しか再生していないため、わずかな者しかこの状態を知ってはいない。再生途上にいない者には、かれが真理を知ろうと、知るまいと、彼の知っているものが真理であろうと、なかろうと、そうしたことは、かれが何かを真理として通用させさえすることができるなら、何の相違も作りはしない。しかし再生しつつある者は、永遠の救いについて多く考えるため、教義と生活については多く考えるのであり、それでもし真理が彼らのもとに欠けるなら、それが彼の思考と情愛の主題となっているため、彼らは心で悲しむのである。その一方の者の、またその他方の者の状態は以下の点から認めることができよう。すなわち、人間は身体の中にいる間は、その霊の方面では天界に生きており、その身体の方面では天使たちと実際共にいることができると同時に身体に属しているものにより人間とともにいることができるように創造られているからである。しかし自分には死後生くる霊があると信じている者は僅かしかいないため、再生しつつある者も僅かしかいないのである。それを信じている者たちには他生はその者たちの思考と情愛のすべてであり、世はそれに比較すると無価値なものであるが、しかしそれを信じない者らには世がその者らの思考と情愛のすべてであって、他生はそれに比較すると無価値なものである。前の者は再生することのできる者であるが、他の者は再生することができない者である。
天界の秘義3153
現今大半の人にはこれらの事柄は全く知られていないため、かれらはこうしたことが起ることを知ってさえいないが、それは主として現今では再生しつつある者は僅かしかいないためであり、また再生しつつある者も、教義から以下のことを知ってはいないためである、すなわち、信仰の真理が導き入れられて、連結する対象は仁慈の善であり、しかもこれは合理的なものの中に行われるのであり、そのとき、その状態は全く変化するが、しかもこのことはその人間がもはや信仰の真理から仁慈の善へと考えないで、その善から真理へと考えるためである。
天界の秘義3286[2]
人間については、実情は以下のようになっている、すなわち、かれが再生しつつある時、善が(すなわち隣人に対する善意が)主によりかれの合理的なものの中へ徐々に注ぎ入れられ、その意志または善へ自然的な人から真理が接合されるが、しかしこのことが為されたときも、自然的なものは未だ再生していないのであり、このことは以下の事実から知ることができよう、すなわち、内なるまたは合理的な人は外なるまたは自然的な人としばしば戦うのであって、争闘が在る限り、自然的なものは再生していないのであり、そしてその自然的なものが再生していないときは、合理的なものは真理の方面ではうまずめなのである。そうしたものが全般的な実情であり、合理的なものが自然的なものから相違している個々の各々の場合も同様であり、合理的なものはその個々のものの中で真理の方面でうまずめであると言われているのである。
天界の秘義3286[3]
再生の業は主として、全般的にのみでなく、個別的にも、自然的な人を合理的な人に相応させることにかかわっており、自然的な人は以下の方法で主により合理的なものを通して相応するのである、すなわち善が合理的なものの中へ(徐々に)注ぎ込まれ、この善の中に真理が土地に植え付けられるように植え付けられ、かくして合理的な真理により自然的なものは服従するのであり、それが服従すると、そのときそれは相応するのであり、そしてそれが相応するに比例して、その人間は再生するのである。
天界の秘義3570[2]
合理的なものは内なる人の中に在り、そこにいかようなものが処理されているかは自然的なものには知られてはいない、なぜならそれは自然的なものの観察のスフィア[領域]を越えているからである、こうした理由から単に自然的な生活を送っているに過ぎない人間はその内なる人の中に、即ち、その合理的なものの中に起っている事を何ら知ることは出来ない、なぜなら主はすべてこのようなものをことごとくその人間が知らないままに処理されるからである。ここから人間は自分がいかようにして再生しつつあるかを何一つ知らないし、また自分が再生しつつあることも殆ど知らないのである。しかしもしその者がそれを知りたいと願うならその者がその者自身に差し出しはするが、殆どたれにも明らかにはしないその幾多の目的を注意しさえすればよい。もしその幾多の目的が善の方へ向いているなら、即ち、もしその者が自分自身のことよりも隣人と主のことを更に心に掛けているなら、その時はその者は再生の状態の中にいるのであるが、しかしその幾多の目的が悪の方へ向っているなら、即ち、その者が隣人と主よりも自分のことを心にかけているなら、その場合は彼は何ら再生の状態の中にいないことを知らなくてはならない。
天界の秘義5122[2]
その後その終りであった仁慈が初めとなり、そこから新しい状態が始るが、それは両方の方向へ進んで行くのである、すなわち、さらに内的なものとまた外的なものへと進んで行くのである。さらに内的なものへとは主に対する愛に向って進むことであり、外的なものへとは信仰の諸真理へ向って進むことであり、さらに遠く自然的な諸真理へ向って進むことであり、また感覚的な諸真理へ向って進むことであり、かくてそれらのものは合理的なものにおける仁慈の諸善と愛の諸善に連続的に相応するようにされ、かくて天界の秩序へ入るのである。
天界の秘義5159[3]
しかし僅かな者しかこのかんの実情のいかようなものであるかを把握できないため、それを例により説明しよう。自らが再生することに甘んじない者は身体のいくたの物を身体のために愛し、それ以外の目的からは愛しないのであり、彼はまた世を世のために愛して、それ以上高い所には登らないのである、なぜなら彼は高いもの、または内的なものを凡て心では否定しているからである。しかし他方再生しつつある者も同じく身体の物を、また世の物を愛しはするが、しかしそれは高い、またはさらに内的な目的から愛しているのである、なぜなら彼は身体の物を健全な精神をもつ目的から愛し、その心とその健全さとをさらに内的な目的から、すなわち、善を味わい(または善によって賢明になり)、真理を理解するために愛しているのである。他の人間のようにかれもまた世のいくたの物を愛しはするが、しかしかれは、世、その富、所有物、名誉を通して善い真のものを、公正で公平なことを行う手段を得ようとする目的からそれらのものを愛しているのである。
天界の秘義5159[4]
この例は再生していない者と再生している者の特質をそれぞれ示しており、また外形では彼らは似ているように見えるが、しかし内なる形では全く似ていないことを示しているのである。以上言ったことからこれらの部類の人物の中に状態の変化と転倒とを生み出す理由はいかようなものであるか、またそれはいかような性質のものであるかもまた明白である。またさらに再生した者の中には内的な物は外的な物を支配しているに反し、再生していない者の中には外的な物が内的な物を支配していることを認めることができよう。支配しているものは人間の中の目的である、なぜなら目的は人間の中に在る凡ての物をその目的そのものに服従させ、従属させるからである。かれの生命そのものはかれの目的以外のいかような源泉からも発してはいないのである、なぜなら彼の目的は常にかれの愛であるからである。
天界の秘義5326[2]
しかし再生しつつある人間にあっては霊的なものが一切のものとなっていて、自然的なものをその考え、欲することにおいて左右するのみでなく、丁度原因が結果の性格を決定するようにも、その自然的なものの性格をも決定するのである、なぜなら凡ゆる結果において働きかける唯一のものは原因であるからである。かくて自然的なものは霊的なものがあるままのものとなるのである、なぜなら自然的なものにおける自然的な事柄は、例えば、自然界から多少のものを得ている知識は、それ自身からは何ごとも為さないで、ただ霊的なものが自然的なものの中に活動し、自然的なものにより活動し、かくて自然的に活動することに同意するにすぎないからである。それは丁度結果の場合と同様であり、結果の中には原因の中に在る物よりも多くの物が在るが、しかしたんに原因にその結果そのものを結果の中に遂行させ、原因それ自身をその度の中に実際に生み出させる物が在るにすぎないのである。この僅かな説明からでも、新しく創造された人間、すなわち、再生した人間における自然的なものの実情のいかようなものであるかを認めることができよう。
天界の秘義5773
彼らが『その上着を裂いて、かれら自身を僕としてささげたこと』により意味されているところの、彼ら自身のものから発した真理のために嘆くことについては、再生しつつある者たちのもとには転向が起きることを知らなくてはならない、すなわち、彼らは真理により善へ導かれ、その後善から真理へ導かれるのである。こうした転向が起きるとき、または状態が変化して、前の状態とは反対の状態になるとき、嘆きが起きるのである、なぜなら彼らはそのとき試練に入れられ、それにより彼ら自身のものであるものは弱められ、砕かれて、善が導入され、善とともに新しい意志が、導入され、新しい意志とともに新しい自由が、導入され、かくて新しい自分自身のものが導入されるからである。このことがヨセフの兄弟たちが絶望してヨセフのもとへ帰って、彼ら自身を彼に僕としてささげたことにより、しばらくの間はその状態におかれ、ヨセフも試練が終わるまでは自分を明らかにはしなかったことにより表象されているのである、なぜなら試練が終わると、主は彼らに慰安をもって輝かれるからである。
天界の秘義5804
再生しつつあり、霊的なものになりつつある人間は真理により先ず善へ導かれるのである、なぜなら人間は真理によらなくては、または聖言から引き出された教義によらなくては、霊的な善の何であるかを、またはそれと同一のものであるところの、基督教の善の何であるかを知らないからである。このようにしてかれは善へ導き入れられるのである。その後、かれはその中へ導き入れられたときは、もはや真理を通して善へ導かれはしないで、善を通して真理へ導かれるのである、なぜならかれはそのとき前に知っていた諸真理を善から認めるのみでなく、また以前は知りもしないし、また知ることもできなかった新しい諸真理から善を生み出すからである、なぜなら善には諸真理に対する渇望が伴っているからであり、それは善は諸真理とともに在って、いわば、それらにより養われ、それらにより完全なものになされるためである。この新しい真理はかれが以前知っていたものと非常に相違しているのである、なぜならかれらが前に知っていた真理にはほとんど生命がなかったが、今かれの得る真理には善から生命があるからである。
天界の秘義5804[2]
人間が真理により善に来たときは、かれは『イスラエル』であるが、かれがそのとき善から、すなわち、主から善を通して受け入れる真理は新しい真理であり、それが父とともにいた間のベニヤミンにより表象されているのである。この真理により善は自然的なものの中に豊かに実を結ぶものとなり、善がその内に宿っている無数の諸真理を生み出すのである。このようにして自然的なものは再生し、豊かに実を結ぶことを通して先ず善い果実をもった木のようななり、継続的に庭園のようになるのである。この凡てから霊的な善から発した新しい真理により意味されていることが明白である。
天界の秘義6392
さらに報酬のない善の業の中の幸福に関係していることについては、現今では極めて僅かな者しか、報酬の目的なしに善を為すことに天界の幸福が在ることを知ってはいないことを知られたい、なぜなら彼らは名誉を与えられること、他から仕えられること、富に溢れること、快楽の中に生きること以外に何らかの幸福が在ることを知らないからである。これらのものの上方に、人間の内部を感動させる幸福が在り、かくて天界的幸福が在り、この幸福は純粋な仁慈の幸福であることを彼らは全く知らないのである。現今の賢人たちにこれが天界の幸福であることを知っておられるか、否かと尋ねてみられよ。ここからまた多くの者は、たれ一人良い業を自己功績を顧みることなしには行う筈はないと信じて、それを斥けているのである、なぜなら彼らは主によって導かれる者は、善い業ほどに為そうと願う物はなく、またその業による功績ほどに考えない物はないことを知らないからである。これは再生しつつある者に主から与えられる新しい意志の中に存在しているのである、なぜならこの意志はその人間の中にある主の意志であるからである。
天界の秘義6610
人間は生きている限り、その思考の幾多の観念は変化しており、即ち、それらは増大し、分割され、かくて種々の新しい社会へ拡がっており、悪にいる者にあっては、奈落の社会へ拡がっているが、そのことはまた誤謬を確信している者らにも言われる。しかし真理を確信している者、即ち、信仰を説得されている者にあっては、思考の幾多の観念は著しく制限されているものの、再生しつつある者にあっては、思考と情愛とは絶えず新しい天界の幾多の社会へ導入され、その広がりも増大している。その前に思考と情愛もまた同時に分割され、分割されると、観念と結ばれ、観念が再び新しい社会と交流するのである。更に特に全般的なものは個別的なものに満たされ、個別的なものは単一的なものに見たされ、かくて新しい真理に満たされ、そのことによって照示は増大している。
天界の秘義6611
私は人間の生命の状態の変化について霊たちと以下のことを話した、即ち、それは不定なものであり、人間は上方へ、また下方へ、時には地獄の方へ連れ去られて行くのである。しかし自らが再生することに堪える者たちは絶えず上方へ連れて行かれ、かくて常に更に内的な天界の社会の中へ入れられるのである。スフィアがこれらの社会の中へ拡がるのは再生されつつある者たちに、特に試練により再生されつつある者たちに主により許されており、その試練の中では悪と誤謬とに対して抵抗が為されるのである、なぜなら主はその時悪と誤謬とに対して天使たちを通して戦われるからであり、そのようにしてその人間は更に内的な社会であるところの、これらの天使たちの社会の中へ導き入れられ、一たび彼はいかような社会であれ、その中へ導き入れられると、彼はそこに止まり、そこからまた更に拡がった、また高揚された認識する能力を受けるのである。
天界の秘義6717
「レビの娘を娶った」(出エジプト記2・1)。これは善と連結したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘を娶ること』、即ち、妻に娶ることの意義は連結であり、レビの表象は善である(6716番を参照)。その起原が善から発している真理が善と連結する事はいかように理解しなくてはならないかを述べよう。再生しつつある人間の中に主により徐々に導入される真理は善にその起原を得ているのである。最初の期間では、善は内なる人の中に在るため、それはそれ自身を示しはしないが、真理は外なる人の中に在るため、それはそれ自身を示すのであり、そして内なるものが外なるものに働きかけるが、外なるものは内なるものに働きかけはしないため(6322番)、真理に働きかけて、それを自分自身のものとするものは善である、なぜなら善以外には何ものも真理を承認して、それを受け入れはしないからである。このことは再生しつつある人間の中に現存している真理の情愛〔真理に対する情愛〕から明らかである。その情愛そのものは善から発しているのである、なぜなら愛のものである情愛はそれ以外のいかような源泉からも発することは出来ないからである。しかしこの最初の期間内に、即ち、再生以前に受け入れられる真理は善の純粋な真理ではなくて、教義の真理である。なぜならこの時にはその人間はそれが真理であるか、否かを考えはしないで、それが教会の教義のものであるため、それを承認しており、彼がそれが真理であるか否かを考えないで、教会の教義のものであるため、それを承認しており、彼がそれが真理であるか、否かを考えないで、教会の教義からそれを承認している限り、それは彼のものではなく、それでそれは彼のものとはされないからである。これは再生しつつある人間の最初の状態である。
天界の秘義7999
「銀で買われた(者)」。これは、何らかの霊的な真理を持っているところの者を意味していることは以下から明白である、即ち、『買うこと』の意義は取得して、己がものとすることであり(4397、4487、5374、5397、5406、5410、5426番を参照)、『銀』の意義は真理であり(1551、2954、5658番)、ここでは霊的な真理である。なぜなら買われた僕は内意では自然的な人であり、それで買う主人は霊的な人であるからである。いかようにしてこのことが生じるかは、いかようにして霊的なものがそれ自身のために自然的なものを買うかが、即ち、取得して、己がものとするかが知られない限り、知られることは出来ないのである。人間は再生しつつある時は、その内なるものと外なるものとは、即ち、霊的なものと自然的なものとは最初互に背馳しているのである、なぜなら霊的なものは天界に属したものを欲しているが、しかし自然的なものは世に属したものを欲しているからである。しかしその時霊的なものは絶えず自然的なものの中へ流れ入って、それを(霊的なものに)一致させており、そのことは真理により行われており、そして霊的なものが自然的なものの中で霊的なもの自身に持ってくるものは『銀で買われる』、即ち、真理により取得され、所有されると言われるのである。
天界と地獄289
再生しつつある人間の場合も似ており、特に試練後の場合のように、その人間の中に善と真理とが連結すると、そのとき彼は平安から発した歓喜の状態へ入って行く。