善の真理

 

真理の善善と真理との連結

 

 

天界の秘義3688[3]

 

以下のことを例にとってみよう。即ち、再生されることが出来る人間は―なぜなら主は先見され、また先見されるからには、またそのために供えられもするからであるが―最初は幼児のように、仁慈とは何であるかを未だ知ってはおらず、またその隣人とは何であるかを知ってもいないため、隣人に対する仁慈の業とは何であるかを未だ知ってはいないのである。それで彼は貧しい者に与えなくてはならないことを、またたれでも貧しい者に与える者は天国で報いを得ることを聖言から知っているため、彼は乞食に対して他の者以上に善を為すのであるが、それは彼はその乞食こそ聖言に意味されている貧しい者であると信じており、街路で乞食をするような者の大半は不敬虔な邪悪な生活を送り、神礼拝に属しているものは凡て軽蔑し、自分自身を全くものぐさと怠惰とに委ね切っていることを考えてはいないためである。にも拘らず再生の最初の状態の中にいる者は心からこのような者に善を行うのであるが、これらの善は再生が始まる源泉となるところの外なる真理の善であり、内的なものであるところの善の真理は、このようにしてこれらの行為に流れ入り、その子供がその中にいるところの[その子供がもっているところの]知識に応じて善を行うのである。

 

 

 

天界の秘義4241

 

『派生した真理』は、または善から発している真理は、善が存在する源泉となる真理とは明確に区別されている。善が存在する源泉となる真理は人間が再生以前に自分自身に浸透させるものであるが、しかし善から発生する真理は人間が再生以後自分自身に浸透させるものである、なぜなら再生以後では真理は善から発生するからである、それはそのときはその人間はその真理が真のものであることを善から認め、また知っているためである。このような真理が、かくて善の真理が、『エドムの野』により意味されているものである、同じく士師記から前に引用した記事においてもそのことが意味されているものである、『ああ、エホバよ、あなたがセイルから出て行かれたとき、あなたがエドムの野から進み出られた時』(5・4)。

 

 

天界の秘義5733

 

真理の善・・・霊的教会のもの

善の真理・・・天的教会のもの

 

『真理の善』と『善の真理』の表現が再三用いられているため、その相違を述べよう。天的な教会は霊的な教会に対していかようなものであるかを知らない者はその相違を到底知ることは出来ない。善の真理は天的な教会のものであり、真理の善は霊的な教会のものである。天的な教会の者であった者たちのもとでは、善は本来の居所である意志の部分に植え付けられ、この善から、即ち、主から発しているこの善を通して、彼らは真理を認識し、そこから善の真理を得たのである。しかし霊的な教会の者である者たちのもとでは、善は真理により知的な部分に植え付けられるのである、なぜなら真理は凡て知的な部分のものであり、真理を通して彼らは善へ導かれ、真理を行うことが彼らの善であり、そこから彼らは真理の善を得ているからである。この後のものは霊的な教会の者である者たちに元来述べられはするが、それでも善の真理もまた、彼らに、本来は述べられはしないものの、述べられるのであり、そのことについては更に他の所に多く語ることにしよう。

 

 

 

天界の秘義6574

 

大きな[偉大な]民

 

なぜなら善から発した真理は善を発生させる真理に較べて偉大であるからである、それは前の真理(善から発した真理)は、善から形作られているため、それ自身において善であり、かくて善の形であるからである。

 

 

 

 

結婚愛61

 

結婚愛は善と真理との結婚から発していることは以下の項に、または章に示そう。それをここに示したのは、ただこの愛は天的な、霊的な、聖い起原から発しているため、天的なものであり、霊的なものであり、聖いものであることが認められるためである。そして結婚愛の起原は善と真理との結婚から発していることが認められるためには、この主題についてここに少しく簡単に語っておくことが必要である。創造された一切の物の中には善と真理とが連続していることは今前述したところである。しかしその連結は相互的なものでない限り、連結はない、なぜなら一方の側にはあるが、それに応じて他方の側にはない連結は自ずから解消してしまうから。さて善と真理との連結があって、それが相互的なものであるため、善の真理または善から発している真理が在リ、真理の善、または真理から発している善の在ることが生まれている。次章に善の真理または善から発した真理は男性にあり、男性そのものであり、真理の善または真理から発した善は女性に在リ、女性そのものであって、この二人の者の間に結婚の結合のあることが認められるであろう。このことをここに記したのは、(読者が)そのことについて予備的な知識を得ておくためである。