真理の善

善の真理善と真理との連結

 

1.意志における、また行為における真理

2.霊的善

3.霊的な善は教義以上のもの

4.この真理は善であり、真理の善と呼ばれ、新しい諸真理を絶えず生み出す

5.穀物

 

 

 

1.意志における、また行為における真理・・・仁慈

 

天界の秘義2669[]

 

愛の善が天的な教会を作るものである、しかし信仰の善が霊的な教会を作るものである。信仰の真理は作りはしないで、導き入れるのである。

 

 

天界の秘義2697

 

霊的な教会の人間は信仰の諸真理により再生するように見えるが、しかしかれはそれが真理の善によって行われることを知らないからである。なぜならこれは[真理の善]は、明白には現れてはいないで、ただ真理の情愛[真理を求める情愛]の中にのみそれ自らを明らかに示しており、次には真理に従う生活の中にそれ自らを明らかに示しているに過ぎないからである。たれ一人決して真理によっては、その真理の中に善が存在している時以外は再生することは出来ないのである。なぜなら善を欠いた真理には生命はなく、それで善から分離した真理によってはいかような新しい生命も生まれないのであるが、しかしながら人間は再生によりそれを得るからである。

 

 

天界の秘義3095

 

真理の善は真理によって善から生まれるものであり、真理を母とし、善を父として生まれてくる子供のようなものである。自然的な人における純粋な善はすべて、これから、即ち、合理的な人における善と真理との結婚から発している。この善は真理の善と呼ばれるものであり、聖言では『水鉢』または『貯水所』により意味されている。

 

 

天界の秘義3295

 

「一方の民は他方の民に勝つであろう」。これは最初は真理が真理の善に勝るであろうということを意味していることは以下から明白である、すなわち、『民』の意義は真理であり(直ぐ前の3294番参照)、『勝つこと』の意義は勝ることである。最初に言及されている『民』は真理を意味しているが、しかし二番目に言及されている『民』は真理の善を意味しており、真理の善は真理から発生してくるかの善であり、それはそれが始めて発生してくる際は真理であるが、しかし善として見えるため善と呼ばれているのである。そこから『民』によりこの善がまた意味されており、それはそれが始めて発生してくるさいは真理の善と呼ばれるのである。この善について或る観念を得るために、私たちは以下のことを知らなくてはならない、即ち、人間は再生していない中は、真理から善を行っているが、しかし再生した後は、善から善を行うのである。それで理解から発している善はそれ自身では善ではなくて、真理であるが、それに反し、意志から発している善は善である。例えば、自分の両親を尊敬しないで、十誡の誡命からかれらを尊敬することを習う者は、初めて彼らを尊敬する時は、それを戒めから行っているのであって、この尊敬は誡命から発しているため、それはそれ自身では善ではないのである、なぜならそれは愛から発していないで、律法に対する服従か、または律法の恐怖か、その何れかから発生しているからである。それにも拘らずそれは真理の善と呼ばれているが、しかしそれが始めて発生してくる際はそれは真理である、なぜならその時はその人間は善を行うのではなくて、真理を行うからである、それに反しその人間が愛からその両親を尊敬すると、その時は善である。他の凡ての場合も同じである。

 

 

天界の秘義3332

 

「ヤコブはエソウにパンとあじ豆の豆汁を与えた」。これは真理の善と教義的な事柄の善とを与えられた生命の善を意味していることは以下から明白である、すなわち、エソウの表象は生命の善であり(3300、3322番)、『パン』の意義は天的なものであるのみでなく、また霊的なものである愛の善全般であり(276、680、2165、2177番)、かくてまた真理の善であり―なぜならこれは霊的な善であるから―『あじ豆の豆汁』の意義は教義的なものの善である、なぜなら『豆汁』は教義的なものの混沌とした塊りを意味し、『あじ豆』はその善を意味しているからである。ヤコブがそれらをエソウに与えたことは、その内意では、これらの善はヤコブにより表象されているところの真理の教義を通して来ることを意味している(3305番)。

 

 

天界の秘義3332[2]

 

 この最後の節に、これらの言葉とそれにつづいている言葉により、再生しつつある時の霊的な人の真理と善との方面の進歩が記されているのである、すなわち、かれは先ず真理の教義的な事柄を学び、次にそれらの事柄に感動し(それが教義的な事柄の善であり)、次にかれはこれらの教義的なものを心で観察することによってその中に在る真理に感動し(それが真理の善である)、最後にそれらのものに従って生きることを意志する[欲する]が、それが生命の善である。このようにして霊的な人は再生しつつあるときは真理の教義から生命の善へ進んで行くのである。しかしかれが生命の善の中にいると、秩序は転倒してしまい、かれはこの善から真理の善を見つめ、真理の善から教義的なものの善を見つめ、教義的なものの善から真理の教義的なものを見つめるのである。このことから人間は感覚的な人間であることからいかようにして霊的なものになるか、またかれは霊的なものになると、いかような性質のものになるかを知ることができよう。

 

 

天界の秘義3332[3]

 

 これらの善は、すなわち、生命の善と真理の善と教義的なものの善とは互に他から明確に区別されていることは、その事柄を注意深く考察する者により認められることができよう。生命の善は意志から流れ出る善であり、真理の善は理解から流れ出る善であり、教義的なものの善は記憶知から流れ出る善である。教義的なものである善はその中にこれらの他の善を持っているのである。

 

 

天界の秘義3332[4]

 

『あじ豆』が教義的な事柄の善を意味していることは以下の事実から明白である、すなわち、小麦、大麦、豆、あじ豆、あわ、裸麦はパンを意味しているようなものであるが、しかしその種類に応じてその意味が異なっているのであり、『パン』は全般的に善を意味していることは前に述べもし、示しもしたことから明らかである(276、680、2165、2177番)、かくて善の色々な種類が問題の穀物により意味されており、高貴な種類の善は『小麦と大麦』により意味されているが、それ程高貴でない膳は『豆とあじ豆』により意味されているのである、このこともまたエゼキエル書から明らかである―

 

 あなたはまた小麦と大麦と豆とあじ豆とあわと裸麦を取り、それらを器に入れ、それでパンを作りなさい(エゼキエル4・9)。

 

 

天界の秘義3459

 

「男かその兄弟に誓った」。これは真理の善の中にいる者たちにおける確認を意味していることは以下から明白である、すなわち、『誓うこと』はたは『誓約[誓い]』の意義は確認であり(2842、3037、3375番)、『男がその兄弟に』の意義は真理の善であり、またはそれと同一のことではあるが、この善の中にいる者たちである(『男』が真理を意味することは、前の265−、749、1007、3134、3309番に、『兄弟』が善を意味していることは2360番に、また真理の善の何であるかは3295、3332番に見ることができよう)。ここにアビメレクにより表象されている者たちは、またはアビメレクがその王であったペリシテ人により表象されている者たちは、すなわち、信仰を教会の本質的なものとしてそれを仁慈の前に置いている者たちはこの善の中にいるのである。このようなものである者たちは真理の善以外の善の中にはいないのである、なぜならかれらは聖言からは信仰にぞくしているもの以外のものは、かくて真理にぞくしているもの以外のものは何一つ抽出して引き出しはしないし、善にぞくしているものを、かくて生命にぞくしているものをほとんど見ないからである。それで彼らは信仰の教義的な事柄を確認はするが、仁慈の教義的な事柄はいかようなものも確認しないからである。これらの者が善を行うときは、それは信仰の教義的な事柄から発していて、そこから発している善は真理の善と呼ばれるものである。

 

 

天界の秘義3459[2]

 

 この善の中にいる者たちに主は御自身を連結させられるが、しかし仁慈の善の中にいる者たちに連結させられるほどには連結させられないのである、なぜなら愛と仁慈とは霊的な連結[霊的に連結させるもの]であるが、信仰は愛と仁慈とを通さなくては霊的な連結ではないからであり、それがそうであるため、かれらは『イサクと契約を結んだ』とは言われないで『男がその兄弟に誓った』と言われているのである、なぜなら『契約』は愛と仁慈とにぞくしている善について述べられているが、しかし『誓約[誓い]』は信仰にぞくしている真理について述べられるからであり(3375番)、『祝宴[宴]』により意味されている『共に住むこと』(3456番)もまた真理の善の中にいる者たちについて述べられている。他生におけるこうした性格の者たちから、わたしはかれらが仁慈の善の中にいる者たちから離れていることを知ることが許されたのである、なぜなら後の者は前の者よりも密接に主に連結しており、前の者の善はいわば固くで、自らがたわめられることに甘んじないし、伝達されもしないし、かくて天界にはいないで、天界の門口にいるからである。

 

 

天界の秘義3463[2]

 

なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。

 

 

天界の秘義3463[3]

 

たれでもこうしたことはいかようになっているか、またその相違の性質と特質とはいかようなものであるかを、たんに以下の仁慈にかかわる普通の教えからでも知ることができよう―

 

何であれ、あなたたちが人が自分にしてくれるように願うことはことごとく、あなたたちもそのように人にしてやりなさい(マタイ7・12)。

 

 この教えから行動する者は他人に善いことを実際為しはするが、しかしそれはそのように命じられているからであり、かくてそれは心の情愛から発しているのではない、かれはそれを行うときは常に、自分自身から始め、また善を為すにさいし、功績を考えているが、これに反し教訓から行動しないで、仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり、かくて自由から行動しており、かれが行動する時は常に、善いことを真に意志することから始めるのであり、かくてそれが自分に歓ばしいという理由から始めるのであり、かれはその歓びの中に報酬を得ているため、功績を考えはしないのである。

 

 

天界の秘義3463[4]

 

それでこのことから信仰から善を行うことと仁慈から善を行うことの間の相違のいかようなものであるかが認められることができるのであり、また、信仰から善を行う者は仁慈から善を為す者よりも主である善そのものから遠ざかっていることが認められることができるのであり、前の者はまた真理の中には極めて僅かしかいないため、仁慈の認識するほどにその中へは容易に導き入れられることもできないのである、なぜならたれ一人真でないものが先ず根絶されない限り、この善へ導き入れられることはできないからであり、そのことはこのようなものが[真でないものが]根を下ろして確信されてさえいる間はありえないからである。

 

 

天界の秘義3688[3]

 

以下のことを例にとってみよう。すなわち、再生されることが出来る人間は―なぜなら主は先見され、また先見されるからには、またそのために供えられもするからであるが―最初は幼児のように、仁慈とは何であるかを未だ知ってはおらず、またその隣人とは何であるかを知ってもいないため、隣人に対する仁慈の業とは何であるかを未だ知ってはいないのである。それで彼は貧しい者に与えなくてはならないことを、またたれでも貧しい者に与える者は天国で報いを得ることを聖言から知っているため、彼は乞食に対して他の者以上に善を為すのであるが、それは彼はその乞食こそ聖言に意味されている貧しい者であると信じており、街路で乞食をするような者の大半は不敬虔な邪悪な生活を送り、神礼拝に属しているものは凡て軽蔑し、自分自身を全くものぐさと怠惰とに委ね切っていることを考えてはいないためである。にも拘らず再生の最初の状態の中にいる者は心からこのような者に善を行うのであるが、これらの善は再生が始まる源泉となるところの外なる真理の善であり、内的なものであるところの善の真理は、このようにしてこれらの行為に流れ入り、その子供がその中にいるところの[その子供がもっているところの]知識に応じて善を行うのである。

 

 

天界の秘義3865

 

真理の善とは何であるかは、しばしば前に説明したところである、すなわち、それは生命のために真理を愛する情愛である、なぜなら生命は後に再生する者たちにより真理の中に凝視される[注視される]善であるからである。真理に応じた生命[生活]がないなら、真理は善と連結しないのであり、従って真理は己がものとされはしないのである。

 

 

天界の秘義3865[2]

 

 たれでもこのことを悪い生活をしている者と善い生活をしている者に注意を向けることによって明らかに認めることができよう、すなわち、悪い生活を送っている者らは、たとえ他の者のように子供時代と青年時代の間に教会の教義を教えられているにしても、点検されると、主については、または主に対する信仰と教会の真理とについては些かも何事も信じていないことが明らかにされるが、それに反し良い生活を送っている者たちのことごとくは、その者たちが真理であると信じている真理に対する信仰を持っているのである。しかし乍ら教会の監督者たちが行っているように、真理を教えはしているものの、悪い生活を送っている者らは、実際信じていると告白はしているものの、それでも依然心では信じてはいないのである。これらの者の中の或る者たちのもとには信仰のように見えるところの確信は在るが、それはそれが真理であるためではなくて、自分の任務、名誉、利得のためにそれを告白する方が好都合であるために確認された単なる記憶知以上のものとはなっていないのである。これは耳を通って記憶の中へ入る以上に深くは浸透していないのであり、記憶から唇に向って発出はするが、心の中へ入って、心から告白に向って発出はしないのである。このことから真理の承認の性質を、すなわち、信仰の性質を示すものは生命[生活]であり、人間はいかような生活を送ろうとも、恩寵を通して救われることができると宣言し、各々の生命は死後もその者のものに止まるという教義に反駁するものは生命の善から分離した信仰であるということが明白である。

 

 

天界の秘義4169

 

単に善と呼ばれている『善』によっては意志の善が意味しているが、しかし『真理の善』によっては理解の善が意味されている。意志の善は善から善を為すことであるが、しかし理解の善は真理から善を為すことである。真理から善を為す者たちにはこの二つのものが同一のものであるように見えるが、それでもそれらは互に非常に異なっているのである、なぜなら善から善を為すことは善を認識してそこから善を為すことであり、善を認識することは天的な者のもとに専ら存在しているに反し、真理から善を為すことはそれを記憶知とそこから生まれてくる理解から為すことであるが、しかしそれはそれがそうであることを認識することなしに為すことであり、またたんにわたしたちが他の者からそのように教えられているためにのみ為すことであり、またはわたしたちがわたしたち自身の知的な能力によりわたしたち自身で問題の結論に到達したために為すことであるからである。これは実に誤った真理でありうるのであるが、しかしそれでもそれが善をその目的としているなら、その人間がその真理から為すものは善のようになるのである。

 

 

天界の秘義4337

 

 ここのヤコブは真理の善を表象していることを知られたい。しかし真理の善はそれ自身において認められるなら、それはたんに真理にすぎないのである、なぜなら真理は単に記憶の中にのみ在るかぎり、それは真理と呼ばれているが、意志の中に在り、そこから行為の中に在るときは、真理の善と呼ばれるからである、なぜなら真理を行なうことはそれ以外のものではないからである。何であれ意志から発出しているものはことごとく善と呼ばれている、なぜなら意志の本質的なものは愛とそこから派生している情愛であって、愛とその情愛から為されるものはことごとく善と名づけられるからである。真理もまた、その真理が意志と行為との中に在る真理とならない中は、すなわち、真理の善とならない中は、内なる人を通して流れ入って、その起原においては神的なものであるところの善と―その善がここにエソウにより表象されているのであるが、その善と―連結されることはできないのである、なぜなら内なる人を通して、流れ入り、その起原においては神的なものであるところの善は意志へ流れ入ってそこに、外なる人を通して導入されているところの真理の善と会うからである。

 

 

天界の秘義4353[3]

 

 このことから、合理的なものが自然的なものに、または内なる人が外なる人に連結することが起る以前に人間における真理は先ず意志と行為における真理に(すなわち、真理の善)にならなくてはならないことを認めることができよう。しかしいかようにして真理は真理の善となるかはたれにでももしその者が注意するなら明白であるにちがいない。神的な真理はすべてこの以下の教えを、すなわち、神を何ものにもまさって愛し、隣人を自分のように愛するということを顧慮しているのである。実にこれらの教えからまたこれらの教えのために真理は存在しており、またこれらの教えへ真理はさらに近くからまたさらに遠くから到達しようとしているのである。それで諸真理が行為に移されるとき、それらはその初まりとその目的へ、すなわち、隣人に対する仁慈と主に対する愛へ継続的に導入され、そのことにより真理は真理の善と呼ばれる善となり、そのことが起ると、そのときそれは内なる人と連結されることができるのであり、その連結は、さらに内的な真理がこの善の中に植え付けられるに従って、継続的にさらに内的なものとなるのである。行為が先行し、人間の意志することがそれに続いているのである、なぜなら人間が理解から行なうものを、かれは遂には意志から為すのであり、最後にはそれを習慣として身につけるのであり、そのときそれはかれの合理的なまたは内なる人の中に導入されるからである。そしてそれがその内なる人の中に導入されてしまうと、その人間はもはや真理から善を為さないで、善から善を為すのである、なぜならかれはそのときその中に祝福の何かを、またいわば天界の何かを認めはじめるからである。それが死後もかれのもとに存続していて、それによりかれは主により天界へ挙げられるのである。

 

 

天界の秘義4390

 

真理の善の何であるかはすでに述べたところである、すなわち、それは意志と行為における真理である。この真理は善と呼ばれるものであり、この善から発している良心は真理の良心と呼ばれている。真理から発しているこの善は、その人間が良く意志することから仁慈を実践するに比例して、かくてかれがその隣人を愛するに比例して、またその隣人を愛する方法において増し加わるのである。

 

 

天界の秘義4538[3]−[5]

 

 主が人間を新しくされる時は、主は先ずかれに信仰の諸真理を教えられるのである。なぜなら信仰の諸真理がないなら人間は主とは何であるかを、天界とは何であるかを、地獄とは何であるかを知らないし、(中略)かれがこれらの事柄を学んでいない中はかれは善の何であるかを知ることはできないのである。なぜならその善によっては社会的な善と道徳的な善が意味されてはいないからである。(中略)善によっては霊的な善が意味されていて、その善は聖言では仁慈と呼ばれており、この善は全般的に言って、何ら利己的な理由からでなくて、情愛の歓喜から他の者に善を欲し、善を為すことである。この善は霊的な善であって、この善には何人も信仰の諸真理によらなくては達することはできないのであり、その真理は主により聖言と聖言を宣べ伝えることを手段として教えられるのである。人間は信仰の諸真理を教えられた後で徐々に主に導かれて真理を欲し、また欲することからそれを行うようになるのである。この真理は真理の善と呼ばれている。なぜなら真理の善は意志と行為における真理であるからであり、それは教義のものであった真理がそのとき生命のものとなるため真理の善と呼ばれるのである。ついにその人間が善を欲し、それを欲することからそれを行うことに歓喜をおぼえるとき、それはもはや真理の善とは呼ばれないで、善と呼ばれるのである。なぜならかれはそのとき再生していて、もはや真理から善を欲して善を行うのではなく、善から真理を行うからであり、そしてかれがそのとき行う真理もいわば善である。なぜならそれは善であるその起源からその本質を得ているからである。

 

 

天界の秘義5733

 

真理の善・・・霊的教会のもの

善の真理・・・天的教会のもの

 

『真理の善』と『善の真理』の表現が再三用いられているため、その相違を述べよう。天的な教会は霊的な教会に対していかようなものであるかを知らない者はその相違を到底知ることはできない。善の真理は天的な教会のものであり、真理の善は霊的な教会のものである。天的な教会の者であった者たちのもとでは、善は本来の居所である意志の部分に植えつけられ、この善から、すなわち、主から発しているこの善を通して、かれらは真理を認識し、そこから善の真理を得たのである。しかし霊的な教会の者である者たちのもとでは、善は真理により知的な部分に植えつけられるのである、なぜなら真理は凡て知的な部分のものであり、真理を通してかれらは善へ導かれ、真理を行うことがかれらの善であり、そこからかれらは真理の善を得ているからである。この後のものは霊的な教会の者である者たちに元来述べられはするが、それでも善の真理もまた、かれらに、本来は述べられはしないものの、述べられるのであり、そのことについてはさらに他の所に多く語ることにしよう。

 

 

天界の秘義5820

 

「あなたらは帰って、わたしたちのために少しの食物を買いなさい」。これは真理の善が所有されなくてはならないことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『買うこと』の意義は自己のものとすることであり(5397、5406、5410、5426番を参照)、『食物』の意義は真理の善である(5410、5426、5487、5582、5588、5655番)。霊的な食物は全般的には凡ゆる善であるが、しかし個別的には真理すなわち、意志における、また行為における真理により得られる善である、なぜならこの善は意志することと為すことから善となり、真理の善と呼ばれるからである。真理がこのように善とならないかぎり、それは他生では人間の益とはならないのである、なぜならかれは他生へ入ると、それはかれの意志に一致していないし、かくてかれの愛の歓喜に一致していないため、消滅してしまうからである。信仰の諸真理を意志し(欲し)、為し、かくてそれを善に変えるためではなくて、たんに名誉と利得のためのみにそれを知り、教えようとの目的から、世でそれを学んだ者は、たとえ世では非常に学問のあるものと考えられようとも、他生ではその諸真理を剥奪されて、かれ自身の意志に、すなわち、かれの生命に委ねられてしまうのである。そしてかれはそのときもその生命の中にいた状態に止まり、驚くべきことには、そのときかれは信仰の凡ゆる真理に反感を抱き、以前はそれをいかほど確認していたにしても、今はそれを自分自身に対して否定してしまうのである。真理を意志し、行うことにより、すなわち、生命[生活]により、真理を善に変えることが、真理の善を己がものとすることにより意味されていることであり、それが『わたしたちのために少し食物を買いなさい』により意味されているのである。

 

 

天界の秘義5826

 

 もし教会のものである霊的な善が存在するなら、内なる善と真理とが存在するというこのことについては、実情は以下の如くである。イスラエルが表象している霊的な善は真理の善であり、すなわち、意志における、また行為における真理である。この真理が、またはこの真理の善が人を教会であるようにするのである。真理が意志の中に植えつけられると(そのことはその人間が真理に従って生きようとの目的から真理に感動するという事実から認められるのであるが)、そのとき内なる善と真理とが存在するのである。人間がこの善と真理の中にいると、そのとき主の王国はかれの中に在り、従ってかれは教会であり、かれに似た他の者とともになって全般的な教会を作るのである。このことから教会が教会であるためには霊的な善が、すなわち、真理の善が存在しなくてはならないのであり、決して真理のみであってはならないことを認めることができよう、が、真理のみから現今では教会は教会と呼ばれており、教会は互いに他から区別されているのである。だれでもその者自身の中に、真理が生命[生活]を目的としないなら、それに何の意味があるか否かを考えてみられよ。その目的がないなら教義的なものは何であろうか。十誡の教えはそれに従った生活がなくては何であろうか。なぜならもしたれかがその教えとその意味の凡てを完全に知っているにしても、それに反した生活を送るなら、それに何の益があろうか。それには一体何の効果があろうか。或る者に対しては、地獄に投げ込まれるという効果があるにはあるが。聖言から発した信仰の教義的なものの場合も同一である、それは基督教生活の教訓である、なぜならそれらは霊的な律法であるからである。これもまた、それが生命のものとならないかぎり、何ものにも寄与はしないのである。自分の生命そのものに入ってくるものをのぞいては、何か有意義なものであるものが自分の中に在るか否かを、また、生命である人間の生命がその意志以外の何処に在るか否かを自分自身の中で考えてみられよ。

 

 

天界の秘義6289

 

霊的な者は明確でない状態の中にいることは、彼らは再生していない中は、真理と善とについては全く深い暗闇に包まれており、再生しつつある間も、その承認するものは彼らの教会の教義の中に在るような真理であり、彼らはその真理を、それが真であろうと、なかろうと、信じているという事実から明白である。にも拘らずこの真理は意志のものとなり、そこから生命のものとなる時、彼らのもとで善となり、かくて真理の善と呼ばれ、また信仰の善と呼ばれ、同じく霊的な善、または霊的な教会の善とも呼ばれるものはその善である。

 

 

天界の秘義6427

 

内意におけるこの二つの節の内容は明らかにした事柄から明らかではあるが、それでもこれらの事柄は霊的な王国の性質が知られない限り、明確でないに違いない。この王国は、信仰の真理の中にいるが、それを生命の真理とし、かくて善と為している者たちから成っている、なぜなら信仰の真理は生活されると、善となり、『真理の善』と呼ばれるが、しかしそれは本質では行為における真理であるから。主の霊的な教会の中では信仰の真理は多様なものとなっている、なぜなら一つの教会で真理でないと言われているものが他の教会では真理であると言われており、それは各教会の教義に従っており、かくて真理と呼ばれているものは教義的なものであるからである。この真理は善と連結するものであり、霊的な教会の善を作るのであり、かくてその善はその真理と同じものになっている、なぜなら善は真理からその性質を得ているからである。

 

 

天界の秘義6427〔2〕

 

 ここから霊的な教会の善は不潔なものであることが明白であり、それは不潔なものであるため、霊的な者は神的手段によらなくては天界には入れられることは出来ないのである。神的な手段そのものは、主は世に来られて、御自身における人間的なものを神的なものとされたということであり、このことによって霊的な者は救われたのである。しかし彼らにおける善は不潔なものであるため、彼らは必然的に悪と誤謬とによって悩まされ、かくて争闘の中に置かれない訳にはいかないのである。しかし主はこれらの争闘によって彼らの中の不潔なものが徐々に潔められるように配慮されているのである、なぜなら主は彼らのために戦われるからである。そのことが『娘は城壁の上を進んだ』により、『射る者は彼を苦しめ、彼を射、彼を憎んだ、が、彼はその弓の強さの中に坐り、その手の腕は力あるヤコブの手により強くされ、そこから、イスラエルの石である羊飼いが出る』により意味されている事柄である。

 

 

2.霊的善

 

天界の秘義5826

 

イスラエル

 

真理の善

 

意志における行為における真理

 

 

教会が教会であるためには霊的な善が、すなわち、真理の善が存在しなくてはならない

 

 

天界の秘義5837

 

霊的な善は人間の中に教会を作る、「霊的な善」というも「教会」と言うも、それは同じ事

 

 

3.霊的な善は教義以上のもの

 

天界の秘義5997

 

霊的な善は教義以上のものであって、教義はこの善から発しており、それで霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしないのである。なぜならかれはその目指していた目的の中にいて、もはやそれに到達する手段の中にはおらず、そして教義的なものは目的としての善に到達する手段以外の何ものでもないからである。

 

 

4.この真理は善であり、真理の善と呼ばれ、新しい諸真理を絶えず生み出す

 

天界の秘義5826[5]

 

 更に人間が再生して教会となるためには、真理を通して善へ導かれなければならないのであり、真理が意志における、また行為における真理となるとき、かれは導かれるのである。この真理は善であり、真理の善と呼ばれ、新しい諸真理を絶えず生み出すのである、なぜならそのとき初めてそれはそれ自身を豊かに実らせるからである。そこから生み出され、または実った真理は内なる真理と呼ばれるものであり、それが発生してくる源泉である善は内なる善と呼ばれている。なぜなら何一つそれが意志の中に植えつけられるまでは内なるものとはならないからである、なぜなら意志のものであるものは人間の最も内なるものであるからである。善と真理とが意志の外側に在って、理解の中にのみ在るかぎり、それらは人間の外側に在るのである、なぜなら理解は外に、意志は内に在るからである。

 

 

5.穀物

 

天界の秘義5959

 

『穀物』が善の真理を意味し、他の所では真理の善を意味していることについては、実情は以下のようである。その意義は流入が内なる天的なものから発している時と内なる霊的なものから発している時とでは異なっている。内なる天的なものから流れ入っているものは善意外の何ものでもなく、それは実際その中に真理を持ってはいるが、しかしこの真理は善である。しかし内なる霊的なものから流れ入っているものは真理意外の何ものでもなく、それが生命のものとなるとき、『真理の善』と呼ばれるのである。それでここから『穀物』は時には真理の善を意味し、時には善の真理を意味しており、ここでは『ヨセフ』である内なる天的なものから発しているため、善の真理を意味している。