再生していない人間
天界の秘義666
『契約』は再生と再生に関わるもの以外には何物をも意味していないことは、聖言の種々の記事から明白であり、そこには再生させたもうものは主のみであり、再生した人間により仰がれて、また愛と信仰のすべてにおける凡てであられるものは主のみであるため、主御自身が『契約』と呼ばれたもうている。
天界の秘義666[2]
主は契約そのものであられるからには、人間を主に連結するものは凡て契約に属していることは明白である―例えば愛と信仰、また愛と信仰に属した凡ての物は契約に属している、なぜならこれらは主に属し、主はそれらの中におられ、かくてこれらのものが受け入れられるところには、これらのものの中に契約そのものが存在しているからである。これら[愛と信仰]は再生した人間以外には何人の許にも存在しておらず、再生した人間のもとでは再生させたもう方または主に属したものはことごとく契約に属しており、または契約である。
天界の秘義671
再生していない人間は真理の理解を、または善の意志を持っておらず、たんにそのようなものであるように思われて、普通の言葉でそのようなものであると言われているものを持っているに過ぎないのである。しかし再生していない人間は理性と知識のいくたの真理を受けることはできるが、しかしその真理は生きてはいないのである。かれはまた異邦人の中に、また獣の中にすら存在しているような、一種の意志のいくたの善を持つことができるが、それらもまた生きてはいないのであって、それらは単に類似物に過ぎないのである。人間の中のこのような幾多の善はその者が再生し、かくてその幾多の善が主により生かされない中は生きてはいないのである。他生では生きているものと生きていないものとは極めて明白に認めらている。生きていない真理は物質的な、繊維のような、閉じこめられた物として、生きていない善は木のような、骨のような、石のような物として直ぐに認められている。しかし主により生かされている真理と善とは開いており、生命に満ち、霊的な天的なものに満ち、実に主からさえも開かれて明らかになっており、しかもこれは凡ゆる観念の中にも、凡ゆる行為の中にも、実にその何れもの最小のものの中にさえも行われている。
天界の秘義977
再生した人間のもとには新しい意志と新しい理解が在り、この新しい意志と新しい理解がかれの良心であり、すなわち、それらがかれの良心の内に在って、それを通して主は仁慈の善と信仰の真理とを働かせられるのである。再生していない人間のもとには意志が無く、意志の代わりに欲念が在り、従って凡ゆる悪を求める性向が在り、また理解も無く、単なる理論とそこから生まれてくる凡ゆる誤謬への転落とが在るにすぎない。
再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することが出来ると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪にすぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。即ち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、すなわち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復讐、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験により私に示されたのである。
天界の秘義987[2]
こうしたものが彼自身のものであり、こうしたものが彼の意志である。このことはまたたれにでも若しその者が反省するならば、単に以下のことからでも明白であるにちがいない、即ち、人間は生まれた時は、凡ての野生の動物と獣の中でも最も野卑な生物なのである。そして彼は成長して、自分自身の主人となると、もし法律の外的な束縛により妨害されないなら、また彼が大きな名誉と富とを得る目的から自分自身に課する束縛により妨害されないなら、彼は凡ゆる犯罪に突入して、宇宙の凡てを征服し、宇宙の凡ての者の富をかき集めない中は休むことも知らず、また自分の卑賤な僕として甘んじる者を除いては何人をも容赦しようとはしないのである。これが人間各々の性質である。たとえ無力であって、こうした企てが不可能である者には、また前に言った束縛の中にいる者にはそのことは知られていないにしても。しかしその可能性と権力とが与えられ、束縛が緩められるならば、彼らはその力の及ぶ限り突入するのである。動物は決してこのような性質を示しはしない。彼らはその性質のある秩序へ生まれているのである。凶暴で貪欲なものは他の生物に危害を加えはするが、しかし単にそれも自己防禦にすぎないのであり、彼らが他の動物を貪り食うのも飢えを満たすためであって、それが満たされると何物にも危害を加えはしないのである。しかし人間は全くそれと異なっている。この凡てから人間自身のものと人間の意志の性質のいかようなものであるかが明白である。
天界の秘義987[3]
人間はこうした悪と排泄物に過ぎないからには、彼は彼自身では決して悪を支配することが出来ないことは明白である。悪が悪を支配することが出来る、単に悪のみでなく、地獄もまた支配することが出来るとは全く矛盾である。なぜなら人間各々は悪霊を通して地獄と交流していて、そのことにより彼の中に悪が刺激されているからである。この凡てからたれでも主のみが人間の中の悪を、また人間のもとになる地獄を支配されていることを知ることができよう。また健全な心を持った者はそのように結論することが出来よう。人間の中の悪が征服されるために、即ち、人間の中に殺到して、これを永久に破壊しようと各瞬間努めている地獄が征服されるために、人間は主により再生されて、新しい意志を、即ち、良心を与えられ、良心を通して主のみが凡ゆる善を遂行されるのである。以下が信仰の要点である。即ち、人間は悪以外の何ものでもない、善はことごとく主から発しているということである。それでそれらは単に人間により知られているのみでなく、承認され、信じられてもいるのである。もし彼が身体の中でそのように承認しないなら、また信じないなら、それは来るべき生命の中にそのあるがままに彼に示されるのである。
天界の秘義5326
新しく創造られつつある人間における、即ち、再生しつつある人間における自然的なものは、再生していない人間における自然的なものの状態とは全く異なっているのである。再生していない人間における自然的なものは一切のものであって、そこからその人間は考え、欲して、合理的なものから考え欲しはしないのであり、ましてや霊的なものから考え、欲しはしないのである、なぜならこれらのものは閉じられていて、その大半のものは消滅しているからである。
天界の秘義6289
霊的な者は明確でない状態の中にいることは、彼らは再生していない中は、真理と善とについては全く深い暗闇に包まれており、再生しつつある間も、その承認するものは彼らの教会の教義の中に在るような真理であり、彼らはその真理を、それが真であろうと、なかろうと、信じているという事実から明白である。にも拘らずこの真理は意志のものとなり、そこから生命のものとなるとき、彼らのもとで善となり、かくて真理の善と呼ばれ、また信仰の善と呼ばれ、同じく霊的な善、または霊的な教会の善とも呼ばれるものはその善である。
真の基督教509
悔改めは人間の中なる教会の第一の要件である。
真の基督教509
再生しない人間とは悔改めない人間以外の何であろうか。
真の基督教510
悔改め以前は、人間は再生とは何の関わりも持たない。
真の基督教603
再生しない人間は自然的と呼ばれ、再生した者は霊的と呼ばれるのはこの理由による。それ故、再生した人間の心は霊的な領域に挙げられ、そこから、低い即ち自然的な心のうちにおこるものを、高い位置から観察するように観察することは明白である。
認識/
真の基督教726
主は永遠の生命と救いに在す故、主との交わりなくして永遠の生命と救いに到達することは出来ない。主は永遠の生命にて在し給うことは聖言の多くの記事によって、特にヨハネ伝の以下の語、「イエス・キリストは真の神、永遠の生命なり」(第一書5・20)によって明白である。救いと永遠の生命は一つのものである故、主は救いであることも同様に明らかである。名前のイエスもまた救いを意味し、それ故、全基督教会に亘り主は救い主と呼ばれ給う。聖餐には主との内的な交わりの中に在る者達のみが正当に近づき、而して彼等は再生せる者である。彼らについては改良と再生に関わる章に述べておいた。
主を信ずると明言し、隣人に善を為す多くの者が在る。然し、彼等は隣人への愛と主に対する信仰とによって行動しない限り、再生していない。何故なら、彼等は隣人の為ではなく、世俗的なまたは利己的な理由の為に隣人に善を為すからである。彼等は唇を以て主を告白するものの、その心は遠く主から離れている為、その業は単に自然的なものに過ぎず、内的には霊的な凡ゆる物を欠いている。隣人への愛と信仰は主のみから来り、而してこの二つは人間が自由意志から隣人へ自然的に善を為し、諸真理を合理的に信じ、主を見上げる時、即ちこの三つの事をそれが聖言の中に命ぜられている故に為す時、人間に与えられる。その時主は彼の心に仁慈と信仰とを植えつけ、それらを霊的なものに為し給い、かくして主は人間との交わりに入り、人間は主との交わりに入るのである。何故なら相互的でない交わりは存在しないからである。然し、凡てこの事は仁慈、信仰、自由意志、再生に関する章に詳細に説明されている。