救い

 

 

救い主主は赦し給う神のうちの真のいのち

連結現存・臨在慰安祝福

主の慈悲主の愛魂の目的

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.シルワン

5.慰安

 

 

1.聖書

 

 

詩篇60・13−14

 

どうか我らを助け、敵からお救いください。

人間の与える救いはむなしいものです。

神と共に我らは力を振るいます。

神が敵を踏みにじってくださいます。

 

 

 

詩篇62・6−9

 

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。

神にのみ、わたしは希望をおいている。

神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。

わたしは動揺しない。

 

わたしの救いと栄えは神にかかっている。

力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

民よ、どのような時にも神に信頼し

御前に心を注ぎ出せ。

神はわたしたちの避けどころ。

 

 

 

ヨハネ3・16−21

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

 

 

 

ヨハネ15・1−10

 

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

 

 

ヨハネ14・21

 

 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。

 

 

 

ヨハネ14・23−24

 

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。

 

 

 

 

黙示録3・19−21

 

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義4981

 

 「エホバの祝福」。これは増大したものを意味していることは『エホバの祝福』の意義から明白である。『エホバの祝福』はその純粋な意義では主に対する愛と隣人に対する仁慈を意味している、なぜならこれらのものを与えられる者たちは、その時天界と永遠の救いを与えられて、『エホバに祝福された者』と呼ばれるからである。ここから『エホバの祝福』は、外なる意義では、または世における人間の状態に関連した意義では、神の中に満足することであり、そこから人間がおかれている名誉と富の状態に―それが尊ばれて富んでいる者たちの間にあろうと、またはそれほど尊ばれない、貧しい者の間にあろうと、それに―満足することである。なぜなら神の中に満足している者は名誉と富とを用を果たす手段と認めており、彼らはそれらを「名誉と富を」考えると同時に永遠の生命を考える時、名誉と富とを何ら重要なものとしては認めないで、永遠の生命を本質的なものとして認めるからである。

 「エホバの祝福」または主の祝福は、その純粋な意義ではこれらのものを含んでいるため、「祝福」もまたその中に無数のものを含んでおり、引いてはそこから生まれてくる種々のものを意味しており、例えば霊的な善と天的な善を豊かに与えられることを(981、1731)、真理の情愛から実を結ぶものとされることを(2846)、天界の秩序に配列されることを(3017)、愛の善を与えられ、かくて主と連結することを(3406、3504、3514、3530、3584)、また楽しさを(3216)意味している。それゆえ「祝福」が特定的に意味しているものは連続した前後の事柄から認めることが出来よう。

 

 

 

 

天界の秘義7211

 

神的な人間的なもの〔神の人間性〕が天界の凡てのものである理由は、そこではたれ一人、最内部の、または第三の天界の天使でさえも、ヨハネ伝の『これまでにたれ一人神を見た者はない』(ヨハネ1・18)、『あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたこともなく、またその御形を見たこともない』(ヨハネ5・37)という主の御言葉に従って、神的なものそれ自身についてはいかような考えも抱くことが出来ないということである。なぜなら天使たちは有限なものであり、有限なものは無限なものを考えることは出来ないからであり、それで天界では彼らは神については人間の形を考えない限り、何の考えも持たないか、または不当な考えを抱くかし、かくて信仰によっても、愛によっても神的なもの〔神〕と連結することは出来ず、それが実相であるため、天界では彼らは人間の形を取られた神的なものを認めているのである、そこから諸天界における神的な人間的なもの〔神の人間性〕が彼らの注視する凡てのものであり、かくて彼らの信仰と愛との凡てのものとなっており、そこから連結が生まれ、連結を通して救いが生まれているのである(6700番)。

 

 

 

天界の秘義8939

 

『祝福される』がエホバにより言われている時は、その意義は信仰と仁慈とを与えられることであり(2846、3406、4981、6091、6099、8674番)、かくてまたそれらが流入することである、なぜなら信仰と仁慈とは主から人間のもとに流入するからである。これらのものが『祝福すること』の内意である、なぜならそれらのものが人間を永遠に祝福された、幸福なものにするからである。世における人間の生活の間では、人間が祝福と呼んでいるものは、富とか、名誉とかいった、人間を時間の中で祝福された、幸福なものにするのである。しかし聖言の内意に意味されている事柄は時間的な〔一時的な〕事柄ではなくて、永遠の事柄であり、一時的な事柄はそれに較べると、取るに足らないものである。

 

 

 

天界の秘義10495

 

「彼が今日あなたらに祝福を与えられるためです。」これは聖言から神的な真理を受け入れて、それにより主と連結することを意味していることは、『祝福』の意義から明白であり、それは全般的には主により人間に与えられるものであり、主の与えられるものは凡て愛の善と信仰の真理とに関連しているため、このものが、またこのもとから発した凡ゆるものが『祝福』により意味されているものであり、それでここでは聖言から神的な真理を受け入れて、そのことにより主と連結することが意味されているのである(1096、2846、3017、3406、4216、4981、6298、8674、8939番を参照、『祝福』は主との連結を意味している、3504、3514、3530、3565、3584、6091、6099番)。この間の実情のいかようなものであるかは前の記事で示したところである、聖言を通して主は人間と連結され、天界は世と連結することについては、10452番を参照されたい。

 

 

 

 

啓示による黙示録解説9

 

 

「時は近いからである」は、教会の状態が最早教会が、その主との連結の方面で持ちこたえることが出来ないほどにもなっていることを意味している。主との連結を生み出し、そこから救いを生み出すところの二つの本質的なものが、即ち、「一人の神を承認すること」と「生活の悔改め」が在るが、しかし現今では、一人の神を承認することに代って、三人の神が承認され、生活〔生命〕の悔改めに代って、自分は罪人であるという口先のみの悔改めが在って、この二つによっては(主との)いかような連結もなく、それでこの二つの本質的なものを承認する新しい教会が起らない限り、たれ一人救われることは出来ない、こうした危険のために、その時間は、マタイ伝の御言葉に従って、主により短縮されている―

 

なぜならその時世の初めから今の時まで無かったような、またこの後も無いような大いなる苦難が臨むからである、まことに、その日が短くされなくては、たれ一人救われはしないであろう(マタイ24・21、22)。

 

 

 

黙示録講解86

 

『わたしは地獄の、また死の鍵を持っている』(黙示録1・18)は主は救う力を持たれていることを意味している。このことは以下から明白である、即ち『鍵』の意義は開き、また閉じる力であり(「秘義」9410番を参照)、『地獄』の意義は悪であり―なぜなら悪はことごとく地獄から発し、地獄に属しているからである―『死』の意義は霊的な死とも呼ばれている堕地獄の状態である(5407、6119、9008番)。『地獄の、また死の鍵を持つこと』はまた救う力を意味している、なぜなら主のみが人間のもとにおける幾多の地獄を遠ざけ、そのことにより堕地獄の状態を遠ざけられるからであり、地獄が遠ざけられるとき、人間は救われるのである、なぜならそれに代って天界と永遠の生命とが流れ入るからである、なぜなら主は絶えず人間のもとに臨在[現存]されて、その者に天界を満たそうと願っておられるが、しかし幾多の悪がそれが受け入れられるのを妨げているからであり、それで、幾多の地獄が遠ざけられるに応じて、即ち、人間が悪から遠ざかるに応じて、主は天界とともに流れ入られるのである。主がここに御自分は『地獄の、また死の鍵を持っている』と言われているのは、すぐ前に主は『代々の代々までも生きている』と言われているためであり、そのことにより主から永遠の生命が発していることが意味されているのであり、主が信仰の中に、また愛の中に受け入れられているに応じ、主は人間の中におられ、主が人間の中におられるに応じ、主は幾多の悪を遠ざけられ、かくて幾多の地獄と永遠の死とを遠ざけられるのである。そのことを主のみが行われるのであり、そうした理由から主が受け入れられなくてはならないのである、そのことはまたすぐ前に(83番)引照した聖言の記事から明白である。『地獄』により凡ゆる種類の悪が

                                                                                                                                                                                

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P171

 

救いには懺悔が必要だが、神の御恵みによって罪が許されない限り、懺悔だけでは罪人を救うことはできない。例えば、ある人に石を投げて彼が死んだとしよう。自分の罪を懺悔することによって二度と同じ過ちを繰り返さないとしても、人に与えた害は取り返しがつかない。死んだ人の命は戻ってこないのである。本人を許し、また突然の死によって被った喪失を来生で取り戻せるよう計らってくださるのは神だけである。このようにして、加害者も被害者も共に救われるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P172

 

真実の永遠の歓びを得ることが魂の目的である。罪のような誤った手段によってこの目的を遂げようとすれば、幸せを歓ぶ魂の能力そのものを破壊することになる。人の中にこのような歓喜する力と感覚をお造りになった神は、神との交わりの中で人が永遠の幸せを楽しむことを願っておられるからである。これが救いである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P173

 

進化論を奉じる科学者、哲学者は自然淘汰による適者生存を口にする。ところで、幾百万とも知れぬ回心した人々は、神の淘汰において不適者生存という事実があることを証明している。酒乱、暴行犯、人殺し、泥棒らが罪と悲嘆の深淵から救い上げられ、平和と歓びの新生命を受けている。罪人を救わんがため世に降りてこられたイエス・キリストを通して得られる救いがここにある(テモテ1・1・15)。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P348

 

 救いは罪の赦しにあると考えている人々がいます。確かにある程度まではそうでありますが、完全な救いは罪からの解放にあるのです。イエス・キリストは、赦すためばかりか、罪から解放するために来られました。

 わたしは、自分では甘い実をつけることのできない苦い木のたとえ話をよくします。「善行をせよ。そうすれば善人になれる」と語る人々がいます。よい木は苦い実をつけることはありません。苦い木が甘い実をつけることもない。それは接ぎ木による以外は不可能なことです。接ぎ木されるときのみ、悪い木の性質は変えられます。そのように、罪人は、キリストに接ぎ木されない限り、善行をすることはできません。信じて罪を悔い改める人々は、主が御血をもって自ら接ぎ木してくださいます。こうして、キリストに接ぎ木された人々は、新しい性質を持ち、新しい人間となります。このように新しい人となり、新生命を受けることこそが救いです。イエス・キリストは、この方法によって、わたしたちをお救いになります。主は、お赦しになるばかりか、新生命を与えてくださいます。教えによってではない、わたしたちの心(ハート)の中に生きることによって、そうしてくださるのです。今日、贖罪を信じない人が多いのは、イエス・キリストにおける救いの体験を持たないからです。体験をしている人は、イエス・キリストを通して新生命を受けることの真実を知っています。

 

 

 

・悔い改めが最も必要、救われている証拠は平和の経験

 

十字架は天である/サンダー・シング全集P637

<悔い改めが最も必要である>

 悔い改めは神の国に入ろうとする者にとっては最も必要である(マタイ伝3の2)。神の国は只未来の国ではなくこの地上から始まるのである。最も小さい一つの罪でも、悪い思考の一つでさえも我らの希望を滅ぼし、神の国の外に居らせるのに十分である。所せん小さい罪というものが最も危険である。丁度病気を起こさせる細菌のように、我々は肉眼を以て細菌を見ることが出来ないが何千の人がこの惨害に委ねられているように我々も見ることの出来ない罪の為に禍を受けるのである。我々が罪の中から解放されて神の国に入ることが出来た証拠は平和の経験である。一人の教授が或る時に私に尋ねた。『何処に貴方が救われているという証拠がありますか』と。私は答えて言った『それは丁度或ものを食べて甘味を知った様に私は自分の救われていることを平和の経験によって知っています』。ある人は氷で焼く(凍傷を起す)ことを信じようとせず保温の手段をせずに裸足で氷の上を歩いて、その足の皮膚を損傷してしまった。その中にある人は罪が苦痛の原因となることを理解しない。

 罪は神と我々との間の結合を破壊する。ある人は自分の破れた骨が接がれる前に苦痛から救われることを願った。何と愚かなことか。罪によって起された苦痛が取り去られる前に先ず神と我々との関係が回復しなければならない。

 

 

 

4.シルワン

シルワンの手記/P79

 

 祈る心は自分のうちに愛を感じる。そして、聖霊はその人の救いを証してくださる。

 

 

 

5.慰安

 

 

天界の秘義2693

 

「彼女に言った、ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますか」。これはその状態について認識することを意味していることは以下から明白である。即ち、聖言の歴史的な部分における『言うこと』の意義は認識することであり―このことは前に説明したー『ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますか』の意義は、それが陥っていた状態であり、ここではそれは、例え彼女は尋ねられて、ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますかと言われているものの、主がその状態を完全に知っておられたことを意味している。文字の意義ではそれは主から尋ねられたことであるが、内意ではそれは凡ゆる物の無限の認識[凡ゆる物を無限に認識すること]である。私たちは聖言の中で人間がその状態について尋ねられていることをここかしこで読んでいるが、その理由は、人間が他の者は一人として自分の考えを知ってはいない、ましてや自分の情愛の状態を知ってはいないと信じているということである。さらに一つの理由は、人間が自分の感情を表現することが出来ることから慰安を覚えることが出来、それがしばしば救いとなるということである(1701、1931番を参照)。

 

 

 

6.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P276

 

 神に完全に赦されたと信じた時、心の内に生じたあの喜びを、私は決して忘れません。