祝福・恵み・幸福

 

平安天使の喜び救い

 

 

 

1.祝福されている

2.祝福する

3.エホバの祝福

4.世における卓越と富は真の祝福ではない

5.天使における祝福の増大

6.恵み

7.アセル・情愛の至福

8.天界の幸福は報酬の目的なしに善を為すこと

9.天界の祝福

10.報い

11.主の先見・供えること

12.祝福する・・・頭に手を置く

13.祝福のあまり失神する

14.食べ物の祝福

15.無となるのは祝福

16.それを受け入れる者たちを、その最内部から感動させている

17.教える

18.それは彼の内部に貯えられて、身体に属する外部により覆われ、世の心配事のためで鈍くされている

 

 

 

 

1.    祝福されている

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解12

 

「祝福されている[幸である]」は、その中に天界が存在している者たちを意味している。このことは「祝福された者たち」の意義から明白であり、それは永遠に幸な者たちを、かくてその中に天界が存在している者たちを意味している。永遠なものではない祝福[]は実に祝福と呼ばれてはいるものの、それでも真のものと比較すれば、祝福ではない。なぜならそれは過ぎ去ってしまい、過ぎ去ってしまうものは、過ぎ去りはしないものと比較するなら、無[無意味なもの]であるからである。

 

 「その中に天界が存在する者」と言われているのは、天界は人間の中に在るためである。人間の外側に在る天界は人間の中に在る天界へ流れ入り、相応が在るに応じて受け入れられるのである。(天界は人間の中に在り、天界的な愛[天界の愛]の中にいる人間の内なるものは最小の形の天界であって、最大の形の天界に相応していることは、「天界と地獄」51−58、己が中に天界を持っている者は天界へ入ってくることは「新しいエルサレムの教義」232−236に見ることができよう。)

 

 

 

天界の秘義981

 

 『神は祝福された』が主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]を意味することは『祝福する』の意義から明白である。『祝福する』は、聖言では、その外なる意義では、―古代の、また現代のユダヤ人のように、また特に現今の基督教徒のように―外なる意義に止まっている者らにより与えられている聖言の説明に従って、凡ゆる地上的なまた形体的な善をもって富ませることを意味しており、それ故彼らは神の祝福を富から、凡ゆる物が豊富であることから、また自己の栄光から成立させたのである。しかし内意では『祝福すること』は凡ゆる霊的な天的な善を以って豊かにすることであり、その祝福は主によらなくては存在しないし、また決して在り得ないのであり、そのためそれは主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]とを意味しており、その現存と恵みとが必然的にこうした霊的な天的な善をもたらすのである。現存と言われているのは、主はひとえに仁慈の中におられ、ここに取り扱われている主題は仁慈から行動する再生した霊的な人であるためである。実に主は人間各々のもとに現存[臨在]されているが、しかし人間が仁慈から遠ざかるに比例して、主の現存[臨在]は―謂わば―欠如してしまい、すなわち主は遠ざかりたもうのである。恵み[恩ちょう]と言われて、慈悲と言われていない理由は―私の推測するところでは、今まで知られなかったところの―以下の理由によっているのである。すなわち、天的な人間は恵み[恩寵]のことを語らないで、慈悲のことを語るに反し、霊的な人間は慈悲のことを語らないで、恵み[恩寵]のことを語るのである。こうした言い方は以下の事情に根ざしているのである。すなわち天的な者たちは人類を汚れたもの以外の何ものでもなく、それ自身においては排泄物のようなものであり、奈落のものであるとして承認しており、それで彼らは主の慈悲をねぎまつるのである。なぜなら慈悲はこのような事態に述べられるからである。しかしながら霊的な者たちは人類はこのような性質のものであることは知ってはいるものの、それでも彼らは彼ら自身のものの中に止まっていて、その彼ら自身のものを愛しているため、それを承認してはいないのであり、それで慈悲のことを語るには困難ではあるが、恵み[恩ちょう]のことは容易に語るのである。言語上のこうした相違は卑下の相違から発しているのである。人間はたれでも自分自身を愛し、自分自身で善を行い、かくて救いに価することが出来と考えるに比例して、主の慈悲をねぎまつることはできない。若干の者が恵み[恩ちょう]をねぎまつることができる理由は、それが習慣的な言葉の形式となってしまって、その中には主のものは殆ど存在していないで、自己のものが多く存在しているということであり、このことはたれでも自分自身の中に、主の恵みを口にしている間に、発見することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義2853

 

「あなたの裔により地のあらゆる国民は祝福されるでしょう」。

これは善の中にいるすべての者の救いを意味していることは以下から明白である、すなわち『祝福されること』の意義は天的な霊的な善に富むことであり(981、1096、1420、1422番参照)、ここでは、救われる者たちについて述べられているため、救われることであり、(『祝福されること』は包括的な意味を持っていることは良く知られている)、『裔(スイード)』の意義は信仰の善であり(1025、1447、1610番参照)、『地の国民』の意義は善の中にいる者たちである、1159、1258−1260、1416、1849番参照)。

 

 

 

天界の秘義3017

 

 「祝福される」ことは、それが人間について述べられるときは霊的な天的な善で富まされることであり(981、1096、1420、1422番を参照)、そして彼は彼の中のいくたのものが主により霊的な天的な秩序に処理され、かくて神的な秩序の映像とその秩序に似た形に処理されるとき、その霊的な、天的な善をもって富まされるからであり(1475)、人間の再生はそれ以外のものではないのである。

 

 

 

天界の秘義6430

 

「そして彼は上なる天の祝福をもってあなたを祝福されるであろう」。これは、内から発する善と真理とをもって、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『祝福』の意義は真理が増し加わり、善が豊かに果を結ぶことであって、霊的な意義の『祝福』はそれ以外の何ものでもなく、『上なる天』の意義は、内から、である、なぜなら人間の天界は彼の内部に存在しているからである、それは、生命の善の中にいる人間はその内部の方面では天使たちと交わっており、かくて天界におり、その外部の方面では人間と交わっており、かくて世にいるためである。それで人間は主から天界を通して内から流れ入ってくる善と真理とを受けるとき、彼は『上なる天の祝福をもって祝福される』のである。

 

 

 

天界の秘義6431

 

「下に在る深淵の祝福をもって」。これは、自然的なものの中に存在している記憶知をもって、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『祝福をもって祝福されること』の意義は霊界から発しているようなものを与えられることであり、『下に在る深淵』の意義は自然的なものにおける記憶知である。自然的なものが『下に在る深淵』と呼ばれているのは(『天界』である)内部に対照されているからであり(前の6430参照)、自然的なものが『下にある深淵』により意味されているため、記憶知もまた意味されているのである、なぜなら記憶知はその歓喜とともになって自然的なものの中に在り、その生命を作っており、そのことはとくに霊的な人について言われるからである、なぜなら彼は記憶知により真理へ導入され、真理により善へ導入されるからであり、そのことから『下にある深淵の祝福をもって祝福されること』により、自然的なものの中で、記憶知を与えられ、かくて真理を与えられることが意味されていることが明白である。モーセの書のヨセフの祝福の中では『深淵』によりまた自然的なものにおける記憶知の諸真理が意味されているのである―

 

 その者の地はエホバから祝福されよ、天の貴い物、露、下にある深淵のために(申命記3・13)。

 

 

 

2.    祝福する

 

 

天界の秘義1422

 

「わたしはあなたを祝福する者を祝福しよう」。これは心から主を承認する者たちに与えられる幸福そのものを意味していることは、『祝福』の意義から明白であり、それは主から発している一切の事柄を、すなわち、真のものであるもののみでなく、善いものであるものを含んでおり、かくて、天的な霊的な、自然的な、世的な形体的なものを含んでおり、そして普遍的な意義では『祝福』はこれらの凡てのものを包含しているため、各々の記事の中に『祝福する』ことにより意味されていることが前後の関連から認めることができよう、なぜならこれはそれがその述部となっている事柄にそれ自身を適応させているからである。このことから『わたしはあなたを祝福する者を祝福しよう』は心から主を承認する者たちに与えられる幸福そのものを意味していることが明白である、なぜならすでに言ったように、内意では、主がここにとり扱われたもうているからである。

 

 

 

天界の秘義1422[2]

 

 古代人の間では、『エホバ』をまたは『主』を祝福する[ほめたたえる]は聖言から明らかなように、一つの定まった形式の言葉であったのである。かくてダビデの諸には―

 

 もろもろの集会の中で神を、イスラエルの基礎から主をほめたたえよ[祝福せよ](詩篇68・26)。

 

さらに―

 

 エホバにむかって歌え、その御名をたたえよ[祝福せよ]、その御救いを日々のべつたえよ(詩篇96・2)。

 

ダニエル書には―

 

 そのときその秘密は夜の幻の中に明らかにされた、それでダニエルは諸天の神をほめたたえて[祝福して]、言った、神御自身の御名は永遠にほめたたえられよ[祝福されよ]、知恵と力とは神のものであるからである(ダニエル2・19、20)。

 

 ザカリアとシメオンについてもまたかれらが『神をたたえた[祝福した]』と記されているのである(ルカ1・64、2・28)。ここに『主をたたえること[主を祝福すること]』は主に向って歌うことであり、主の救いの良い音づれをのべつたえることであり、主の知恵と力とを説くことであり、かくて心から主を告白し、承認することであることが明白である。このことを行う者たちは主から祝福されないわけにはいかないのであり、すなわち、祝福に属したものを、すなわち天的な、霊的な、自然的な、世的な、形体的な善を与えられないわけにはいかないのであり、これらのものが、こうした順序[秩序]をもって互いに他のものに続いている時は、それらは内に幸福を宿した善である。

 

 

 

天界の秘義1730

 

19節「かれはかれを祝福して言った、天と地とをもたれる方、いとも高い神にアブラムが祝福されますように」。『彼は彼を祝福した』は天的なものと霊的なものとを享受すること[楽しむこと]を意味し、『言った、いとも高い神にアブラムが祝福されますように』は、主の内的な人が主の内なる人から発したいくたの善を享受する[楽しむ]ようになったことを意味し、『天と地とをもたれる方』は、内なる人またはエホバが内的な人と外的な人と連結していることを意味している。

 

 

 

天界の秘義1731

 

「彼は彼を祝福した」。これは天的な霊的なものを楽しむことを意味していることは、『祝福すること』の意義が凡ゆる善を楽しむことであることから認めることができよう(981、1098番参照)。天的な霊的な善を楽しむ者は凡ゆる善を楽しむのである、なぜなら善はすべて、それがいかような名を持っていても、これらのものから発しているからである。この節に含まれている事柄は主の人間的な本質が神的な本質と連結していることを明らかにし、また告げているのであって、祝福それ自身はそのことを含んでいるのである。

 

 

 

天界の秘義4216

 

「かれらを祝福した」。これはそこから生まれてくる楽しさを意味されていることは、『祝福すること』の意義から明白であり、それは敬虔に成功と幸福とを願うことであり(3185番を参照)、かくてたれかが去って行くさい楽しさを立証することである。

 

 

 

天界の秘義6282

 

 「少年たちを祝福し」(出エジプト記48・16)。これはそれらのものに真理と善とを得させてください、を意味していることは、以下から明白である。

すなわち、「祝福すること」の意義は真理と善とを与えることであり―なぜなら霊的な意義では「祝福すること」はそれ以外のことを意味しないからである(1420,1422,4981)。ここの「少年たち」であるエフライムとマナセとの表象は教会の知的なものと意志であり、これに真理と善とが与えられねばならないのであり、すなわち、知的なものには、真理が、意志には善が与えられねばならないのである。

 

 

 

3.エホバの祝福

 

 

天界と地獄364*6

 

真の祝福は主から愛と信仰とを受けることであり、そのことにより主と連結することである、なぜならそこから永遠の幸福が生まれるからである、1420、1422、2846、3017、3406、3504、3514、3530、3565、3584、4216、4981、8939、10495.

 

 

 

天界の秘義4981

 

 「エホバの祝福」。これは増大したものを意味していることは『エホバの祝福』の意義から明白である。『エホバの祝福』はその純粋な意義では主に対する愛と隣人に対する仁慈を意味している、なぜならこれらのものを与えられる者たちは、その時天界と永遠の救いを与えられて、『エホバに祝福された者』と呼ばれるからである。ここから『エホバの祝福』は、外なる意義では、または世における人間の状態に関連した意義では、神の中に満足することであり、そこから人間がおかれている名誉と富の状態に―それが尊ばれて富んでいる者たちの間にあろうと、またはそれほど尊ばれない、貧しい者の間にあろうと、それに―満足することである。なぜなら神の中に満足している者は名誉と富とを用を果たす手段と認めており、彼らはそれらを「名誉と富を」考えると同時に永遠の生命を考える時、名誉と富とを何ら重要なものとしては認めないで、永遠の生命を本質的なものとして認めるからである。

 「エホバの祝福」または主の祝福は、その純粋な意義ではこれらのものを含んでいるため、「祝福」もまたその中に無数のものを含んでおり、引いてはそこから生まれてくる種々のものを意味しており、例えば霊的な善と天的な善を豊かに与えられることを(981、1731)、真理の情愛から実を結ぶものとされることを(2846)、天界の秩序に配列されることを(3017)、愛の善を与えられ、かくて主と連結することを(3406、3504、3514、3530、3584)、また楽しさを(3216)意味している。それゆえ「祝福」が特定的に意味しているものは連続した前後の事柄から認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義8939

 

『祝福される』がエホバにより言われている時は、その意義は信仰と仁慈とを与えられることであり(2846、3406、4981、6091、6099、8674番)、かくてまたそれらが流入することである、なぜなら信仰と仁慈とは主から人間のもとに流入するからである。これらのものが『祝福すること』の内意である、なぜならそれらのものが人間を永遠に祝福された、幸福なものにするからである。世における人間の生活の間では、人間が祝福と呼んでいるものは、富とか、名誉とかいった、人間を時間の中で祝福された、幸福なものにするのである。しかし聖言の内意に意味されている事柄は時間的な〔一時的な〕事柄ではなくて、永遠の事柄であり、一時的な事柄はそれに較べると、取るに足らないものである。

 

 

 

天界の秘義10495

 

「彼が今日あなたらに祝福を与えられるためです。」これは聖言から神的な真理を受け入れて、それにより主と連結することを意味していることは、『祝福』の意義から明白であり、それは全般的には主により人間に与えられるものであり、主の与えられるものは凡て愛の善と信仰の真理とに関連しているため、このものが、またこのもとから発した凡ゆるものが『祝福』により意味されているものであり、それでここでは聖言から神的な真理を受け入れて、そのことにより主と連結することが意味されているのである(1096、2846、3017、3406、4216、4981、6298、8674、8939番を参照、『祝福』は主との連結を意味している、3504、3514、3530、3565、3584、6091、6099番)。この間の実情のいかようなものであるかは前の記事で示したところである、聖言を通して主は人間と連結され、天界は世と連結することについては、10452番を参照されたい。

 

 

 

 

 

4.世における卓越と富は真の祝福ではない

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義10776

 

世における卓越と富とは、たとえその中に在る快楽から人間はそれを神の祝福と呼んではいても、真の神の祝福ではないことを知ることが出来よう。なぜならそうしたものは過ぎ去ってしまい、また同じく多くの者を迷わせ、彼らを天界から離れ去らせてしまうからであるが、しかし天界における生命[生活]とそこの幸福とは神的なもの[]から発している真の祝福である。このことを主もまたルカ伝に教えられている―

 

 天界に消え失せはしない宝をあなたたち自身のために作りなさい。そこでは盗人は近づかないし、しみも食いはしないからである。あなたらの宝の在る所には、あなたらの心もまた在るのである。(ルカ12・33,34)

 

 

 

天界の秘義9184[]

 

 しかし、内なる人が再生により開かれると、そのとき主から善がそれを通して流れ入り、外なる人を通して入っている信仰の諸真理を採用して、それ自身に連結させ、その連結に応じて秩序が転倒する。すなわち、第一位に立っていたものが最後の位置におかれるのである。

 

そのとき主は、その人間の中に在って生命に属している凡てのものが上を見上げるように、それらを御自身へ引き寄せたもうのである。そのときその人間は主と天界に属したものを目的としてみとめ、また主御自身をそのために一切の物が存在している目的としてみとめ、自己の利益と名誉の歓喜である前のものをその目的に対する手段として認めるのである。手段はその生命を専ら目的から得ており、目的を離れては生命を持たないことは知られている。

 

かくて自己の利益と名誉の歓喜が手段となると、そのときはそれはその生命を天界から来るところの、すなわち、天界を通して主から来るところの生命から得るのである。なぜならその歓喜がそのために存在している目的は主であるからである。

 

人間がこうした生命の秩序の中にいると、そのときは自己の利益と名誉の事柄は彼にとり祝福となるが、それに反し、彼がその転倒した秩序の中にいるなら、それらものものは彼の呪いとなるのである。人間は天界の秩序の中にいるときは凡ゆるものが祝福であることを主はマタイ伝に教えられている―

 

先ず天国とその義とを求めなさい。さすれば凡てのものがあなたたちに加えられるでしょう(マタイ6・33)。

 

 

 

5.天使における祝福の増大

 

天界の秘義6478

 

 天使はたれかに善を為す時は、またその者に天使自身の善を、幸運を、祝福を伝達し、しかもそれはその他の者に凡ゆる物を与えて、何物をも自分には保留はしまいとする願いをもって行われているのである。彼がそのようにして己がものを伝達していると、その時は善が彼の与える以上の幸運と祝福とをもって彼に流れ入り、しかもこれは絶えず増大して行くのである。しかし彼がこの幸運と祝福との流入を自分自身の中に得ようとする目的から自分の持っているものを伝達しようと願う思いが起こるとすぐに、その流入は消滅してしまい、ましてや彼がその善を伝えて相手から報いを得ようとする思いが何か入ってくるなら、さらに消滅してしまうのである。このことは私が多くの経験から知ることが出来たところであり、このことからまた主は個々の凡ゆる事柄の中にもおられることを認めることが出来よう。なぜなら主は凡ゆる者に主御自身を与えようと願われておられるような方であって、そこから幸運と祝福とは、主の映像であり、主に似た形である者たちのもとに増大するからである。

 

 

 

天界と地獄399

 

 天界の楽しさはいかに大いなるものであるかは、ただ以下のことのみからでも明白となるであろう、即ち、天界の凡ての者には自分の楽しさと祝福とを他に伝えることが楽しいのである、諸天界の凡ての者はそうした性質を持っているため、天界の楽しさはいかに無限なものであるかが明らかである、なぜなら前に言ったように(268)諸天界では凡ての者は各々の者に伝え、各々の者は凡ての者に伝えているからである。

 

 

 

 

6.恵み

 

 

ヨハネ1・17

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解22

 

「あなたたちに恩恵[めぐみ]と平安とがありますように」(黙示録1・5)

は真理と善との歓喜を意味している。このことは以下のことから明白である。すなわち、『恩恵[めぐみ]』の意義は真理の歓喜であり(そのことについては以下にすぐ述べよう)、『平安』の意義は無垢と愛との歓喜である(そのことについては「天界と地獄」を参照されたい。そこには天界における平安の状態がとり扱われている、284−290)。『恩恵[めぐみ]』が真理の歓喜を意味しているのは、二つのものが主から発出していて、その起源では結合はしてはいるものの、それらを受ける者たちのもとでは分離しているためである。なぜなら神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちと、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちがいるからである。

 

 神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちは主の霊的な王国の中におり、それで霊的なものと呼ばれているが、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちは主の天的な王国の中におり、それで天的なものと呼ばれている。(天界におけるこの二つの王国については「天界と地獄」の20−28番を参照されたい。)

 

 霊的な王国にいる者たちには真理のために真理を求める情愛の中にいることが主により与えられており、この神的なものが恩恵と呼ばれるものであり、それゆえ、たれでもその情愛の中にいる限り、主の神的な恩恵に浴しており、人間、霊、または天使のもとには、真理に感動する以外の神的な恩恵は決してないのである。なぜならその情愛の中にかれらに対する天界と祝福とが在るからである(「新しいエルサレム」の232、236、238番、「天界と地獄」の395−414番を参照されたい)。

 真理の情愛[真理に対する情愛]または真理の歓喜と言うも、それは同じことである。なぜなら歓喜のない情愛はないからである。

 

 

 

(2)とくにこのことが聖言における「恩恵」により意味されている。例えばヨハネ伝に―

 

 聖言は肉となられて、わたしたちの中に住まわれた。わたしたちはその方の栄光を見た。父の独り児の栄光としての栄光であり、恩恵と真理とに満ち満ちていた。その満ち満ちているものからわたしたちは凡て受けたのであり、恩恵に恩恵を受けたのである。律法はモーセを通して与えられ、恩恵を真理とはイエス・キリストを通して来たからである(ヨハネ1・14,16,17)。

 

「恩恵と真理」と言われているのは、恩恵は真理の情愛と歓喜であるためである。そしてルカ伝には、主は会堂の中で御自身にかかわるイザヤの予言を説明された後で、以下のように言われている―

 

 凡ての者はその御口から発した恩恵の言葉に驚嘆した(ルカ4・22)

 

主が話された神的な諸真理が「その御口から発した恩恵の言葉」と呼ばれているのは、それらは受け入れられるものであり、快いものであり、歓ばしいものであるためである。全般的に、神的な恩恵は主から与えられる凡てのものであり、そのようにして与えられる凡てのものは信仰と愛とに関係しており、信仰は善から発した真理の情愛[真理に対する情愛]であるため、そのことがとくに神的な恩恵[神の恩恵]により意味されているのである。なぜなら信仰と愛とを、または善から発した真理の情愛を与えられることは天界を与えられ、かくて永遠の祝福を与えられることであるからである。

 

 

 

7.アセル・情愛の至福

 

 

天界の秘義6408

 

「アセルからは」(創世記49・20)。これは情愛の至福を、即ち、主に対する愛と隣人に対する仁慈とに属している天的な情愛の至福を意味していることはアセルの表象から明白であり、それは永遠の生命の幸福と情愛の至福である(3938,3939)。

 さらにアセルは「至福」からそのように呼ばれたのである。この至福は内なるものであって、何人のもとでもその身体そのものの中では明らかに示されはしないし、かくて感覚には明らかにされないため、容易に説明することは出来ない。なぜなら人間は、その身体の生命の間では、身体の中に起こるものは明確に知覚はするが、その霊の中に起こるものは極めて不明確にしか知覚しないからであるが、それは、人間は身体内にいる間は、世の心づかいに妨害され、この心づかいが在るところには、情愛の至福は、自然的な感覚的な物が内なる物に調和した状態になっていない限り、身体の中までも流れ入ることが出来ないのであり、その時でさえも[調和している時でさえも]心の満足から生まれる静謐として、不明確にしか流れ入ることが出来ないためであるが、しかしそれはこの生命を去った後は明らかに示されて、祝福された、幸福なものとして認められ、その時はそれに内部も外部も感動するのである。約言すると、天的な情愛の至福は霊魂または霊そのものの至福であって、内なる道から流れ入って、身体にまでも浸透し、そこに、自然的な、感覚的な愛に妨害されない限り受け入れられるのである。

 

 

 

[]この至福は自己と世への愛の歓喜の中にいる者らのもとではその一片もありえない。なぜならそれらの愛は全く対立したものであるからであり、それでこれらの愛にいる者らは顕職に挙げられ、神としてまつられ、富に満ち溢れ、他の者以上に富を得る至福以外の至福が何か存在することは全く把握することはできないのである。もしかれらがこれらの愛から生まれる歓喜は外なるものであって、身体とともに死滅し、心の中に残るものは、地獄を支配しているような悲哀と憂うつとに死後変化してしまうが、内なる歓喜があって、それは天界にいる者たちにより享受される満足と幸福であると告げられるなら、これらの事をかれらは全く把握しないのである。それは外なるものがかれらを支配しており、内なるものは閉じられているからである。この凡てから「アセル」により意味されている情愛の至福により意味されていることを知ることができよう。

 

 

 

天界の秘義6410

 

 天界における至福を生むところの、善から発する歓びと真理から発する快さとは怠惰の中にはなくて、活動の中にあるのである。なぜなら怠惰により、歓喜も快さも歓ばしくも、快くもなくなってしまうが、しかし活動によって歓喜と快さは永続的なものとなり、絶えず高揚させ、祝福を生み出すからである。天界にいる者のもとでは、活動は用を遂行することに在り、それは彼らには善から発する歓喜であるが、また用を目標として真理を享受することに在り、それは彼らには真理から発する快さとなっている。

 

 

 

8.天界の幸福は報酬の目的なしに善を為すこと

 

 

天界の秘義6392

 

 現今では極めて僅かな者しか、報酬の目的なしに善を為すことに天界の幸福が在ることを知ってはいないことを知られたい。なぜならかれらは名誉を与えられること、他から仕えられること、富に溢れること、快楽の中に生きること以外に何らかの幸福が在ることを知らないからである。これらのものの上方に、人間の内部を感動させる幸福が在り、かくて天界的幸福が在り、この幸福は純粋な仁慈の幸福であることをかれらは全く知らないのである。

 現今の賢人たちにこれが天界の幸福であることを知っておられるか、否かとたずねてみられよ。ここからまた多くの者は、たれ一人良い業を自己功績をかえりみることなしに行うはずはないと信じて、それを斥けているのである。なぜならかれらは主によって導かれる者は、善い業ほどに為そうと願う物はなく、またその業による功績ほどに考えない物はないことを知らないからである。これは再生しつつある者に主から与えられる新しい意志の中に存在しているのである。なぜならこの意志はその人間の中にある主の意志であるからである。

 

 

 

 

9.天界の祝福

 

 

天界の秘義3776[2]

 

 このかんの実情は以下のようである、すなわちその外なる形では仁慈として見える仁慈は内なる形では必ずしも仁慈ではないのである。その性質とその源泉とはその目的から知られるのである。その内なる形では利己的なまたは世的な目的から発している仁慈は仁慈ではなく、またそれは仁慈と呼ばれてもならないのである、しかし隣人を、全般的な善を、天界を、かくて主をその目的として注視している仁慈は真の仁慈であり、その中には心から善を行うことを求める情愛を持っており、またそこから派生してくる生命の歓喜をもっていて、その歓喜は他生では祝福となるのである。人間が主の王国はそれ自身ではいかようなものであるかを知るためには、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、この善について探求することが今これらの節にとり扱われており、ここに先ずそこに在る仁慈がいかような起原から発しているかが尋ねられており、そのことが『兄弟たちよ、何処からあなた方は来ましたか』により意味されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義4529

 

 最後に彼らは或る一つの天界へ挙げられたが、そこでは彼らは内的な情愛の祝福のために、殆ど止まっていることは出来なかったのである。なぜなら祝福が骨の髄そのものへまでも沁み通って、その髄は祝福のためにいわば溶けてしまい、彼らは聖い失神状態に陥り始めたからである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」/天使館/P47

 

 此岸(しがん)では、わたしが師であり、模範である。彼岸(ひがん)では、わたしが報いであり、王である。わたしを有することが、あなたたちの至福となるだろう。苦しみを忘れることだろう。そのことをあなたたちに理解させるためには、どんな啓示も不充分であろう。なぜなら、未来の生活のよろこびは、まだ肉に結びつけられている被造物の想像力の容量をはるかに上回るからだ。

 

 

 

10.報い

 

 

天界の秘義10683

 

真理のために真理を愛し、真理のために真理を行うことを愛する者たちは主を愛し、自分自身の中に天界を受け入れるのである。なぜなら主から発している報いは真理のために真理を愛する情愛であり、天界は真理のために真理を愛する情愛の中に存在しているからである。

 

 

 

黙示録講解695ニ

 

「報い[報酬]」は、真理と善とに対する霊的な情愛の中にいる者たちが得るところの、祝福、幸福、歓喜の方面の天界を意味し、報いはかの情愛そのものである。なぜなら天界と言うも、またはかの情愛と言うも、同じことであるから。なぜなら天界はその情愛の中にあり、そこから発しているからである。

 

(20)しかし、霊的な情愛でなく、単に自然的な情愛から真理を話し、善を行い、天界を絶えず報いとして考える者らはイスラエル教会においては「雇われた僕」により表象されたのであり、かれらについてはその教会においては多くの法令があったのである。例えば―

 

雇われた僕らは過越節のものを食べてはならない(出エジプト12・43、45)(他略)

 

 

 

11.主の先見・供えること

 

 

天界の秘義6298

 

主の先見

供えること

 

 

 

12.祝福する・・・頭に手を置く

 

 

天界の秘義6292

 

頭に手を置くことは祝福が知的なものと意志とに伝えられ、かくてその人間自身に伝えられつつあることを表象。

 

 

 

13.祝福のあまり失神する

 

 

天界の秘義4529

 

 最後に彼らは或る一つの天界へ挙げられたが、そこでは彼らは内的な情愛の祝福のために、殆ど止まっていることは出来なかったのである。なぜなら祝福が骨の髄そのものへまでも沁み通って、その髄は祝福のためにいわば溶けてしまい、彼らは聖い失神状態に陥り始めたからである。

 

 

 

神の摂理254[]

 

福音には接したことはないが、宗教を持つ者もその神的な人間の中に、即ち、天界に、その皮膚、膜、軟骨、骨を形作ることによって位置を持つことが出来て、他の者のように、天界の喜びを経験出来るようにまた主により定められている、なぜなら彼らの喜びは最高の天界の天使のそれに、または最低の天界の天使のそれに似ているか否かは問題にはならないからである、それは天界に入る者は凡てその心の最高の喜びに入り、それ以上の喜びには堪えることは出来ないためである、なぜならそうしたものは彼を圧迫して、窒息させるからである。この実情は農夫と王のそれに譬えることが出来よう、即ち農夫は粗い毛の新しい着物を着て、歩き回り、豚肉、牛肉、チーズ、ビール、香料入りの熱燗の葡萄酒を並べたテーブルの前に腰を下ろす時、最大の喜びを経験するであろう、彼が王のように紫衣と絹、金、銀を着けその前に珍味、色々な種類の高価な料理、珍しい葡萄酒をのせたテーブルが置かれるなら、彼は圧迫を感じるであろう。このことは、如何にして、最初の者にも最後の者にも、各々その度に従って、天界の喜びがあるかを、従ってまた基督教世界の外側に在る者にも、もし彼らが悪を神に背き、宗教に背く罪として避けるならば、天界の喜びがあるかを示している。神を全然知らない者は僅かしかいない、これらの者は、もし道徳的な生活を送ったならば、死後天使たちから教えられ、その道徳的な生活へ霊的要素を受け入れることは、「新エルサレムの聖書の教義」(116)に見ることが出来よう。神は太陽と月の中におられると信じて、それらを拝する者の場合も同じである、彼らはそれ以上のことを知らないのであり、それ故これは彼らには罪とされない、なぜなら主は、『もしお前たちは盲人であるなら』―即ち、もしお前たちは知らないなら―『罪はないであろう』と語られるから(ヨハネ9・41)。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P254

 

 わたしが子供たちの中に入り聖霊で彼らを満たすとき、聖なる歓びと幸せに浸るあまり、その栄光と祝福に耐えられず、気を失う者さえいる。人が空しい肉の力から解かれ栄光へと変えられるまでは、血肉の体は神の国を継ぐことができず、朽ちるものは朽ちざるものを継ぐことができないからである。そのときこそ、わたしの心は天に行われているように、地のすべての被造物の中に行われることであろう。悩み苦しみ、嘆き悲しみ、死と災いは永遠にぬぐい去られ、子供たちはみなわが父の王国、聖霊の中にある歓びに入り、そこで永遠に治めるのである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P230

 

 かつて、ある集会に出席したときに、一人の素朴な村人が祈っているのを見た。彼は平和と幸福に満たされ、歓喜に震えて“主よ、有難うございます。有難うございます。でも、これ以上はいりません。死んでしまいます。もう十分です。十分です”と祈っていた。わたしは、彼がこの状態を終わらせたがっているのを知って、非常に驚いた。このとき、わたしはモーゼの話を思い出した。神はモーゼに『わたしの顔を見て生きられる者はいない』といわれ、モーゼは主を背後からしか見られなかった。霊はこのような至高体験に耐えられるが、肉体は耐えられないのである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/もう一つの使徒職/ヴァルトルタ自叙伝より/天使館/天使のパン/第7号P32

 

 ルースブルックが言っていることはとても正しいのです。「キリストの現存の中にいる魂は甘美さを感じ、この甘美さから神の愛の抱擁である清らかな喜びが湧いてきます。地上のあらゆる楽しみを集め、一つの楽しみにしてその全体、そのすべてを一人の人の上に投げかけたとしても、私が語るこの喜びには比べようもありません。何故ならそこには御自身のすべてを、まったく純粋に私たちに注いで下さっているイエズスがおられるのですから。そして私たちの魂は満たされるだけでなく、溢れ出るのです。このような楽しみは人をもはや喜びに浸らせるだけではありません。このような喜びは霊的な陶酔を生み出します。霊的な陶酔とは欲望が垣間見る可能性を超えた喜びを意味します。喜びの溢れは人をときには歌わせ、ときにはすすり泣かせます。悶えから開放されるために、人はときには運動に、ときには大声で叫ぶことに、そしてときには言語を絶する強烈な歓喜の深い沈黙に助けを求めます」。

 しかし言語を絶する強烈な歓喜の中では、人間性はわずかしか耐えられません。熱情は沈黙のうちに大きくなり、私たちを眩惑します。私はそのことを知っています。

 

 

 

天界と地獄409

 

 天界の喜びそのものはその本質ではいかようなものであるかを記すことは出来ない、なぜならそれは天使たちの生命の最内部にあり、そこから彼らの思考と情愛との凡ゆる物の中にあり、またそこから言葉の凡ゆる物と行為の凡ゆる物の中にあるからである。それは内部が完全に開いて、自由になり、歓喜と祝福とを受けているかのようであって、歓喜と祝福とは繊維の各々の中へ広がり、従って、その全体に広がっている。この喜びの認識と知覚とは記すことの出来ないものである。なぜならそれは最内部から初まって、その最内部から発している個々の凡ゆるものの中へ流れ入り、外部に向かって絶えずそれ自身を増大させつつ、広げているからである。天界にまだ挙げられていないため、その喜びの中にまだいない善良な霊たちは、天使からその天使の愛のスフィアによってそれを認めると、あたかも快い失神に陥るかのような楽しさに満たされる。このことは天界の喜びの何であるかを知ろうと願う者に時々起るのである。

 

 

 

天界と地獄410

 

ある霊たちは天界の喜びの何であるかを知ろうと願った時、それに最早堪えることが出来ないほどにもそれを認めることを許されたが、しかしそれでもそれは―私はそれを伝達されて認めることが出来たのではあるが―天使の喜びではなく、殆ど最低度のものでさえもなく、殆ど冷たいといってもよいほどにも微かなものではあったが、しかも彼らはそれを最も天界的なものであると言ったのである。なぜならそれは彼らには最も内的な喜びであったからである。このことから以下のことが明白になった。即ち、天界の喜びには幾多の度があるのみでなく、一人の者の最も内なる喜びでさえも、他の者の最低の、または中間の喜びにも殆ど達せず、また、誰でもその者自身の最も内なる喜びを受ける時は、その者はその天界の喜びにいて、それよりも更に内的なものには堪えることは出来ず、反ってそれは彼には苦痛となるのである。

 

 

 

天界と地獄282

 

無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分が最早自分自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいかような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が身を忘れるようにも思われるのである。

 

 

 

天界と地獄283

 

無垢の善にいる者は凡て無垢に感動し、たれでもその善にいるに応じて、感動するが、無垢の善にいない者らは感動はしない。

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P111

 

神への愛がある段階に来ると、私たちは神を心から崇めるようになります。私たちの心は、言葉では言い尽くせないような賛美に溢れ、私たちは言います。

「お父さま、私のために何もなさらないでください。私はただ、あなたのそばにいてあなたをお愛ししたいのです。私の霊的渇きをいやすための祝福は、これ以上必要ありません。主よ、あなたが私を愛してくださっているので、私は満足しています。あなたが私にくださるものは、すべて愛しています」と。

 

 

 

 

 

14.食物の祝福

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P228

‘88・5・25

 

今朝は、主を識別し ご一緒にお話しするのがちょっと困難なほど、大変忙しくしていました。後ほどベランダで昼食を摂りに行き 腰掛けました。食べていると突然、こころの目で内的に、主が一緒に座って私が食べているのをご覧になっているのが見えました。主は仰います: 「おいしいですか?」わたしは答えました:「はい、主よ、ありがとうございます。」ちょっと間があり、それから主はお尋ねになったのです:「食べ物を祝福してほしいか?」お答えしました:「はい、主よ、そうなさって下さい。」そこでイエスは食べ物を祝福し、食べ終えるまで一緒にいて下さいました。それから主に食事のことを感謝しました。

―主は食べる前に食物の祝福をお願いするようにと示されたのでした。

 

♡ 愛する者よ 祝福を願うように努めなさい、本当にあなたの食べ物を祝福する ♡

 

はい 主よ、お教え下さりありがとうございます。

 

ヴァッスーラ、愛している、最後まで天から訪れたあなたの教師となろう ♡

 

 

 

 

15.無となるのは祝福

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P65

‘89・12・13

 

愛された者よ 私をいとおしみなさい、覚えておくように ヴァッスーラ、多くの人にまさってあなたに好意を示したのです。 与えているこの恩恵は偉大な恵みです: あなたの神 私のうちに無となるという。 我が小さな種子よ、あなたに功徳はない、それでいて私のもとに引き上げ 私のうちにいるようにという熱意のあまり、あなたを大目に見て、罪さえも見過ごし 赦している、これで私の熱烈な愛が分かったであろう? 小さな者として留まり、たえず私に声をかけ、絶え間なく渇いているように、疲れたら私に依りかかっていなさい、私のうちに留まっているように そうしてほしいからです ♡ 愛があなたを愛している

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P162

‘98・6・22 (つづき)

 

あなたのうちに私は増し加わり その一方であなたを小さな者にしていくという 惜しげない好意を示そう。 あなたのうちは夜明けとなり 夜闇は消えていく。

 

 

 

天界の秘義3938[]

 

 発生することもまた主について述べられているが、しかしそれは主が世におられて、そこで神的なものを着けられた時にのみ述べられるのである。しかし主が神的な存在になられてからは、発生することは最早主については、主から発出している何らかのものとしてのみしか述べられることは出来ないのである。主から発出しているものは主の中に発生しているものとして現れているものであるが、それでもそれは主の中に存在しているのではなく、主から発しており、人間と霊と天使とを発生させるのであり、即ち、生かすのである。人間と霊と天使の中には発生することは生きることであり、彼が生きることは永遠の幸福である。永遠の生命の幸福は、それにその最高の意義で主の神的な存在から発している永遠が相応しているものである。永遠の生命の幸福が『祝福』によりその内意に意味されているものであり、情愛の歓喜によりその外意に意味されているものであることは解説の要もなく明らかである。

 

 

 

天界の秘義3938[7]

 

 さらに、永遠の生命の幸福について述べてみよう。世における生命の間善と真理との情愛の中にいる人間はそれを認めることは出来ないで、代わりに或る一種の歓喜を認めるのである。そのことの理由は彼は身体の中にいる間は世の心づかいとそこから生まれてくる不安の中にいて、そのため(彼の深いところに在るところの)永遠の生命の幸福はその時は他のいかような方法によっても明らかにされることは出来ないということである。なぜならこの幸福がその人間の外部に在るところの幾多の心づかいと不安との中へ内から流れ入ると、それはそこの幾多の心づかいと不安との間に沈んでしまって、一種漠然として歓びになるからであるが、それでもそれは内に祝福を宿し、祝福の中には幸福を宿している歓喜である。そうしたものが神の中に満足することの幸福である。しかし人間がその身体を脱ぎ棄てると同時にこの世の心づかいと不安とを脱ぎ棄てると、彼の内的な人の中に暗いままに隠れていた幸福は現れてきて、それ自らを明らかに示すのである。

 

 

 

 

16.それを受け入れる者たちを、その最内部から感動させている

 

 

天界の秘義2363

 

「願わくはわたしにその者たちをあなた方のもとへ連れ出させてください」。これはそこから、即ち、善と真理との情愛から発している祝福を意味していることは、これらの言葉の意義から、即ち、これらの言葉がここに『娘たち』により意味されている情愛について述べられている時のその意義から明白である。その事柄そのものについては、即ち、善と真理との情愛の中にはもっぱら祝福と幸福があることについては、それは悪とその歓喜の中にいる者のすべてには全く知られていない事柄である。彼らには善と真理との情愛における祝福は存在しないものか、または悲しいものか、その何れかのもののように見え、或る者には苦しいもの、実に致死的なもののようにも見えるのである。これが地獄の魔鬼と霊との実相であって、彼らはもし自己への愛と世への愛が、従って、そこから発している幾多の悪の歓喜が彼らから取り去られるなら彼らにはいかような生命も残ることは出来はしない、と考えもし、また信じもしており、真の生命はその祝福と幸福とをもってその時にこそ始まることを示されると、彼らは彼ら自身の歓喜を失ってしまうため、そこから一種の悲哀を感じ、そしてそうした生命の中にいる者たちの間に連れて来られると、苦痛と呵責に襲われ、更に、その時彼ら自身の中に死体のような、凄まじいばかりに奈落的なものを感じ始めるのであり、かくて(この祝福と幸福とが宿っている)天界を地獄と呼び、可能な限り自分自身を主の御顔から遠ざけ、また隠すために逃げ去ってしまうのである。

 

 

 

天界の秘義2363[2]

 

 にも拘らず凡ゆる祝福と幸福とは愛と仁慈に属した善の情愛の中にあり、また信仰に属した真理の情愛の中に即ち、その真理の情愛が善の情愛へ導いて行くに比例してその情愛の中にあることは以下の事実から認めることが出来よう、即ち、天界は(即ち天使の生命は)この祝福の中にあって、それは主から最も内なるもの[最内部]を通して流れ入っているため、それを受け入れる者たちを、その最内部から感動させているのである(540、541番参照)。その時また知恵と理知とが心の最も内なる奥所に入ってそれを満たし、善を天界の焔で燃やし、真理を天界の光で燃やし、しかもそれにはただそれらは表現を絶したものであるとしか描写できない祝福と幸福の認識が伴っているのである。この状態の中にいる者たちは自己を、また世を求める愛の幾多の悪の中にいる者たちの生命はいかに死んだものであるか、いかに悲しいものであるか、いかに嘆かわしいものであるかを認めている。

 

 

 

天界と地獄282

 

無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分が最早自分自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいかような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が身を忘れるようにも思われるのである。

 

 

 

 

17.教える

 

啓示による黙示録解説357

 

レビの種族は教会を教会とする本質的な愛である真理への愛を意味し、そこから理知を意味することは、以下の記事から明らかとなるであろう―

 

レビの子孫はエホバに仕え、エホバの御名において祝福するためにエホバにより選ばれた(申命記21・5)

 

『エホバの御名において祝福する』は教えることであり、それは真理の情愛の中にいて、そこから理知にいる者たちのみが行うことが出来るのである

 

 

 

 

18.それは彼の内部に貯えられて、身体に属する外部により覆われ、世の心配事のためで鈍くされている

 

 

天界と地獄401

 

 自己と世への愛にいる人間は、身体の中で生きている限り、そうした愛から楽しさを感じ、またそこから発してくる色々な快楽の中に楽しさを感じている。しかし神に対する愛と隣人に対する愛の中にいる人間は身体に生きている限りは、そうした愛から、またそうした愛から発する善い情愛から、楽しさを明らかに感じはしないで、単に祝福を感じるのみであり、それも殆ど認めることも出来ないものである、なぜならそれは彼の内部に貯えられて、身体に属する外部により覆われ、世の心配事のためで鈍くされているからである。しかし死後その状態は一変する、自己と世への愛の楽しさはそのとき苦しい、凄惨なものに変化するが、それは奈落の火と呼ばれているようなものに変化するからであり、また交互に彼らの不潔な快楽に相応した汚れた、不潔な物に変わるからであり、驚くべきことには、そうした物がその時彼らには楽しいものとなるのである。しかし世で神に対する愛と隣人に対する愛とにいた者のもとにあった漠然とした楽しさと、殆ど認められもしなかった祝福感とは、そのとき天界の楽しさに変化し、その楽しさは完全に認められまた感じられもするのである、なぜなら彼らが世で生きていたときその内部に貯えられて、隠れていたあの祝福はそのとき明らかに示されて、明らかに知覚されるからである、それは彼らはそのときその霊の中にいて、それが彼らの霊の楽しさであったためである。

 

 

 

天界と地獄412

 

 他生に入る者は凡て天界の祝福と幸福との性質を知らない。それは彼らは内なる喜びについては何ごとも知らず、それについては形体的な、世的な楽しさと喜びから考えつくもの以外には何ものも認めず、それでその知らないものは無意味なものと考えるからではあるが、しかし形体的な、世的な喜びは[内なる喜びに]較べるならば、全く取るに足らぬものである。それで、気質は良いが、天界の喜びの何であるかを知らない者たちは、その何であるかを知り、また理解するために、先ず、想像を絶した楽園へ連れて行かれる。すると彼らは自分たちは天界の楽園へ来たのであると考えるが、しかしそれはまことの天界の幸福ではないことを教えられ、かくして彼らはその最内部にも認められる内的な喜びの状態を知ることを許される。それから彼らはその最内部までも平安の状態へ入れられて、その平安はことごとく全く表現を絶したものであり、また想像を絶したものであると告白する。最後に彼らはその最も内なる感覚までも無垢の状態へ入れられる。このことから彼らは真の霊的な天界的な善の何であるかを知ることが出来るのである。