主は赦し給う

 

仲間を赦さない家来のたとえ(マタイ18・23)

主はユダをも赦された主は忘れてくださる

赦す赦せ

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

5.ピオ神父

6.ヨゼファ・メネンデス

7.コンソラータ

8.サンダー・シング

 

 

 

 

1. 聖書

 

 

詩篇32・1−5

 

いかに幸いなことでしょう

背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

いかに幸いなことでしょう

主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

わたしは黙し続けて

絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。

御手は昼も夜もわたしの上に重く

わたしの力は

夏の日照りにあって衰え果てました。

 

わたしは罪をあなたに示し

咎を隠しませんでした。

わたしは言いました

「主にわたしの背きを告白しよう」と。

そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを

赦してくださいました。

 

 

 

詩篇103・1−5

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。

わたしの内にあるものはこぞって

聖なる御名をたたえよ。

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

 

 

 

エレミヤ31・34

 

そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 

 

 

主の祈り(マタイ6・12)

 

我らが人に赦す如く

我らの罪を赦し給え。

 

 

 

マタイ6・14−15

 

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

 

 

 

マタイ18・21−22

 

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

 

 

 

ルカ7・44−50

 

そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 

 

 

ルカ15・17−20

 

そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 

 

 

ルカ23・34

 

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」      

 

 

 

ルカ23・39−43

 

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

ヘブライ8・12

 

わたしは、彼らの不義を赦し、

もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

真の基督教409

 

主の来り給わぬ以前は、殆ど何人も内なる人と仁慈とは何であるかを知らなかった。これが主が極めてしばしば兄弟愛即ち仁慈について教えこみ給うた理由であり、これが旧約聖書と新約聖書との相違を作っている。善は仇と敵に為さねばならぬことを主はマタイ伝において教え給うた。

 

「古の人に汝の隣を愛し、なんじの仇を憎むべしと云えることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを呪う者を祝し、汝らを憎む者に善を行い、汝らを害し、責むる者のために祈れ。これ天に在す汝らの父の子とならんためなり。」(マタイ5・43−45)

 

而して、ペテロが主に「幾度わが兄弟我に向かいて罪を犯さんに我これを赦すべきや、七度までか」と尋ねた時、

 

「イエスは彼に向かい、七度迄とは我言わじ、七度の七十倍までと言うなり」と答え給うた(18・21、22)。

 

 私はまた、主は凡ゆる人間の罪を赦し給うことを天界から聞いたのである。なぜなら、彼がペテロに七度の七十倍まで赦すように語り給うた以上、彼自身何を赦したまわないであろうか。

 

更に、彼は愛そのもの善そのものにて在す故、罪に対して決して刑罰を加え給わず、また決して、罪を彼らに帰し給わない。にも拘らず、罪は悔改めに依らない限り、拭い去られないのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ24・6/天使館P196

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

自分の過ちを認め、それを心から悔やみ、謙遜に、誠実な心で表明する者をは赦してくださいます。赦してくださるだけでなく、報いてくださいます。おお! わたしのは、謙遜で誠実な者にどれほど慈悲深いことか! を信じ、に信頼する者に!

 

鈍重で、塞がれているあなたたちの霊を解き放ちなさい。光を迎えるために、精神を整えなさい。闇の中の灯台のように、は案内者であり、聖なる慰めです。

 

との友情は、その信徒たちの至福、他に匹敵するもののない富であり、それを所有する者は決して孤独ではなく、絶望の苦さを味わうことはありません。聖なる友情は苦しみを皆無にはしません。苦しみは受肉されたの定めであったし、人間の定めでもありうるのですから。でも聖なる友情はこの苦しみを、その苦しさの中で甘くし、天上的な一触で、十字架の重みを軽くする光と愛撫をそれに混ぜ合わせてくれるのです。

 

それゆえ神の全善があなたたちに一つの恩寵を与えるなら、その受けた良いものをの栄光のために用いなさい。良いものを有害な武器にするような愚か者たち、あるいは富は赤貧に変える放蕩息子たちのようであってはなりません。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P173 (マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P417/119)

 

「あの方に私の過ちを聞いてもらいたい・・・洗者に話したが、こっぴどく叱られたものだから逃げてしまった。私のような者は許されないだろう・・・」

「何をしたのだ」

「たいへん悪いことだ。あの方だけに話したいが、どう思う? 呪われるだろうか? 」

「いいや。イエズスがベッサイダで話しているのを偶然そこに居合わせて聞いたのだが、一人の罪の女について話していた。ああ、何ということば! そんなことばを言われたいために私も罪人でいたかったほどだ・・・」

「ほら、おいでになるぞ」とだれかが叫ぶ。

「たいへんだ! 恥ずかしい! 」こう言うと、さっきの人が逃げ腰になった。

「子よ! どこに逃げるつもりですか。光を憎むほど心は暗いのか。許しである私を恐れるほどの罪を犯したのか。どんな罪か。あなたの中に、“本当の”後悔があれば、たとえ神を殺したとしても恐れるべきではない。泣くのではない。それよりも一緒に泣きましょう」

逃げかけた人をつかまえたイエズスは自分に引き寄せると、群集に向って言った。

「一分だけ時間をください。この人を慰めたい。すぐあなたたちのもとに戻ります」

 家に向かい角を曲がろうとした時に、そこに隠れていたヴェールの女に触れた。イエズスは一瞬その女を見つめ、そこから十歩進むと立止まって話を聞き始める。

「子よ、どうしたのか」

 五十がらみの男は、数々の邪欲に焼かれ、秘密の苦しみに心が荒れている顔をしており、ひざまずくと腕を伸ばしてしぼり出すような声で叫んだ。

「父の全財産を使って女たちと楽しむのを邪魔されないように母と兄とを殺しました・・・その後、平和が消えた・・・私の糧は血ぬられていた。私の眠りは・・・悪夢・・・私の快楽は、女たちの胸に抱かれ淫蕩の叫びの中に、この手で殺した母の体の冷たさ、この手で毒殺した兄のあえぎをなぞっていた。快楽の女たちに呪いあれ。蛇のような、飽くことを知らないうつぼ。私の滅び! 私の滅び! 」

「呪うな。私はあなたを呪わない」

「私を呪わないのですか」

「いいえ。私は泣いてあなたの罪を背負います。何と重い、押しつぶされそうですが、これを背負ってあなたに許しを与えます。そうです。あなたの罪を許します」

 しゃくりあげながら、すすり泣く男の頭に手を伸ばして祈る。

「父よ、私の血はこの人のためにも流されます。いまは、私の涙と祈りを。父よ、この男は痛悔しているので許してください・・・」

 かがんで男に手をかして立たせる。

「罪が許された。あなたはいまから、犯した罪の償いの生活を送るべきです」

「神は私を許されたのですか。では母は? 兄は? 」

 イエズスが答える。

「神が許す罪はだれからも許されます。さあ、行きなさい。もう二度と罪を犯すのではない」

男は号泣し、イエズスの手に接吻する。イエズスは泣いている男をそこに残して家に向かう。ヴェールの女はイエズスに近づこうと身じろぎするが、しかしすぐにうつむき動かない。イエズスは、女に目もくれず通り過ぎる。

群集の前にふたたび姿を現わして、イエズスはこう言われた。

「一人の霊魂が主に戻りました。ご自分が造られた霊魂たちを、とぐろを巻く悪魔から奪い返して天の道に戻らせる全能の神が祝福されますように」

 そして“私はあなたの神なる主である”という十戒の説明を始める。

 

 

 

マリア・ワルトルタ25・11/天使館1巻P208

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

子らよ、わたしたちのために、に仲裁していただくには、希望し、祈り、赦さねばならないのです。あなたたちも、あなたたちの受難を生きなさい。あなたたちの犯した罪に値する受難を。喜びつつ、いかに受難を克服し、それを変えるかをわたしはあなたたちに教えましょう。法外に希望しなさい。信頼を失わず祈りなさい。赦されるために赦しなさい。子らよ、の赦しこそあなたたちが熱望している平和なのです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P156

 

あなたたちの中にあるはずの愛は、彼らからすべての恐れを追い出すようにせよ。ヨハネの手紙にあるとおり(ヨハネ第一の手紙4・18)。しかし恐れを抱かせる人にも完全な愛はない。それで“どうしたのか”と言うな。“さあ、ここを去れ”と言うな。“お前のような人は、よい愛に対しての趣味を持っているはずがない”と言うな。その代りに、私の名前でこう言え。“愛せよ、そうすれば私があなたをゆるす”“おいで。イエズスの腕が開かれている”と。“天使のパンとこの言葉を味わい、地獄の瀝青とサタンの嘲りを忘れよう”と言え。

 使徒は、自分と他人の十字架といっしょに自分と他人の弱さを背負うべきである。そして、傷を受けている羊を背負って私のところに来る時に、このさまよった人をこう安心させて“今からすべてが忘れられた”と言え。

 そしてまた“救い主を恐れるな。彼は天からあなたのために、本当にあなたのために来られたのです。私はあなたを待っている。あなたを聖なる牧場に連れて行きたい。彼のところにあなたを渡す橋にすぎないのである”。

 以上の言葉は、よい牧者にいつも誠実であったあなたたちにあまり関係ないかもしれないが、しかし、あなたの心に信頼を大きくし、多くの人にとって私に来るように励ましとなり、しおれかかった花の再生に役立つ露となるであろう。顔を上げよ。天は上の方にある。マリア(著者のこと)平和に行け。主は、あなたとともにおられる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/329・9/5巻中P84

 

 しかし、それでも神はお赦しになります。もしも、その魂が悪行と縁を切り、それからの人生で、人間の真の目的を追求しようとするならば、その目的は、真の神の王国の中で永遠の平安を得ることです。あなたは今まで悪の道を歩いてきましたか? あなたはがっかりして、もう今からでは正しい道を歩くのには遅すぎると思っていますか? 『こんなことは少しも知らなかった! 私は無知で、どうしたらよいか分からない』と、惨めな気持ちになりますか? いや、そんなふうに考えることはありません。この世の事を最初からやり直すには、たいへんな時間や労力がいりますが、信仰においては、そうではありません。永遠の真理である主なる神は実に気前がよく、あなたが道を間違えた所まで、あなたを戻らせることはないのです。『私は真理を望む』と言った途端に、神の気前のよさが分かります。真理とは、つまり神ですから、神は完全に霊的な奇跡によって、あなたに上智を注ぎます。それによってあなたは無知だった状態から、超自然的な知識を得ることになります。まるで何年も前からその知識を持っていた人々のように。

 上智とは、神を欲すること、神を愛すること、自分の魂を養うこと、神の王国へ向かうことです。肉的、この世的、悪魔的なすべてと縁を切ることです。上智とは神の掟への服従です。それは、愛、従順、節制、誠実の掟です。上智とは、自分のすべてで神を愛し、隣人を自分のように愛すること。これらが神の智において賢くなるために、不可欠な要素です。そして隣人とは、自分の血族や、同じ人種、同じ宗教の人々ばかりではなく、すべての人のことです。富んだ人、貧しい人、賢い人、無知な人、ヘブライ人、フェニキア人、ギリシャ人、ローマ人・・・」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P13

 

 わたしはあなたたちを救い、数えきれない方法で再び救い、あなたたちの犯した七千回の罪を赦し、更に七千回赦した。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P68

 

 まことにわたしは言う、人間的な罪を犯してそれを痛悔する不幸な人々を、わたしは胸に抱きしめる。わたしにはすべてが出来るということを、彼らが常に認めているかぎり。しかし、人間的な学問の一教義に基いて、わたしが与えるようにとが望んだ顕示における超自然性を否定する人々には裁き主の顔で望むだろう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P108

 

 あなたたちの霊魂の眼が完全に見えなくなる前に、医師と光のもとに来なさい。血がこぼれ溢れて死の湖になる前に、生命の源に来なさい。あなたたちの貧しい愛の能力をひとつに集め、それを神に向けなさい。肉欲とサタンが盗んだあとの残りの愛の欠けらをあなたたちが彼に捧げても、愛はあなたたちを赦すだろう。

 財産の初物と財産の総体は、神に捧げられるべきだ。しかし、もしあなたたちがそうすることを知らなかったとすれば、おお、わたしの命で買い取った子らよ、偉大で、力づよく、慈悲深い主に、あなたたちにまだ残っているものを捧げなさい。あなたたちの心の貧しさ、福音的清貧ではないが、人間的な貧しさにおいて、肉に拒否した残りの最後の一個の小銭をあなたたちの心から剥ぎ取りそれをわたしにください。わたしの愛する者のために生命を犠牲にするのは少しも苦にならないのをわたしは知っている。あなたたちにとって一つの口づけを犠牲にすることが少しも苦にならないのと同じで、愛が彼を酔わせているからだ。そして捧げるものとは不釣り合いなあなたたちの努力に対して、あなたたちが与えたものとは不釣り合いな褒美をわたしはあなたたちに与える。わたしのもとに来さえすればそれを与えるつもりだ。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P225

 

神と出会うための鍵は、まさに祈ることです。まず、自分の生活を規則にかなったものにしなければなりません。神はとても慈悲深い方です。神は私たちに話してくださるのに、私たちの完璧さとか、私たちが聖人になることとかを期待なさってはいません。現世に生きる私たちを、あるがままに受け入れてくださいます。私たちに恩寵を与えてくださり、こう言われます。「あるがままの姿で来なさい! 欠陥だらけのままで。それでも、私はあなたがたをゆるそう。だが一歩前へ進みなさい!」。すべてのことが奇跡的に起こることを期待している人々がいます。たくさんの方が私のところに来て「すみません。私は神の答えをいただいたことがありません。でも私のために祈ってください」とおっしゃるのです。ご当人は何もしようとしません。自分でできるだけのことをやってみたかどうか、考えるべきなのですけれど。一言で言えば、神のために決心しなければなりません。神は心をご覧になりますから、神のために決心しなければ、誠実に進むことはできません。誠意がなく、口先だけで祈っても、決して進歩はしません。神と出会うことは一度もないでしょう。ある青年から、「でも私は祈り方を知りません。一度も祈ったことがありません。どうすればいいのですか?」と尋ねられたことがあります。私はこう答えました。「親友になら、話すことはできるでしょう?」。「もちろんです!」と彼。それで私は「神はあなたの親友ですよ。話しさえすればいいのよ。神とおしゃべりしなさい! とても簡単なことよ」と答えました。「ただそれだけでいいんですか?」。「もちろんよ。親友に話すようにお話しすればいいのよ。なんでも話すの。背中が痛ければ、まずそのことを話してごらんなさい。神とお話しすれば、その話は神に向かうのだから、祈りになるのよ」。

 

 

 

ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/P45

‘86・9・7

あなたに平和。 来て 悔い改めなさい。

 

 どうすればいいですか?

 

こう言って祈るように:「お父さま、わがすべての罪をお赦し下さい。」

こう祈るとき、心をこめて神を讃えなさい、言葉に気持ちを込めて。 ダニエル

 

 

 

ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/P63

‘86・10・11

あなたに平和。

 

 神のメッセージを受け取るのがどうして私なのですか?

 

私、神が、選ぶ。 私があなたを選んだ。 メッセージを授けるように育ててきた。

 

 最近お決めになったことですか?

 

これが私の答え:母の胎であなたが形づくられる以前に、私、神が、計画した。 私のやり方を学ぶように ♡

 

 本当にその間沢山の罪を犯しました!

 

赦しを願うなら すべての罪は赦される。 これからはそばにいなさい 道を案内する。 まだ教えているところだから間違いを犯しても落胆しないように。 私、神は、全能者。 全宇宙は我が手中にある。

 

 

 

 

5.ピオ神父

 

 

ピオ神父/魂の酸素81

 

 あなたはこれまで長い間、主を愛してきたのでしょう? 今でも、愛しているのでしょう? そしてこれからも永遠に、愛して行きたいと願っているのでしょう? それなら、おそれてはなりません! たとえあなたがこの世にある罪をことごとく犯したと知っても、イエスはこう言われるでしょう。

「あなたの多くの罪はゆるされた。あなたは多く愛したからである!」

 

 

 

 

6.ヨゼファ・メネンデス

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P287

 

“さて、わたしの選んだ人々が慈父としてのわたしの聖心を、どのように罪人に知らせたらよいかについて、記しなさい。”

 そこでヨゼファは小さいテーブルの前に跪き、み主が語られるままを書きとった。

 

“わたしは人々の心の底まで知りぬいている。その情欲も、世俗とその快栄にひかれて行くことも、人々がわたしの聖心を傷つけ、多くの者にとって、わたしの苦難も、わたしの血も、無益に終わっていることも永遠から知っている。しかしわたしは、かれらが聖心を痛めるのは罪そのものではなく、罪を犯したのち、わたしのところに隠れ家として帰ってこないこと、それが聖心を傷つけるのである。わたしは、本当に罪人を赦したい、選ばれた者たちは、わたしの聖心が愛と慈悲にみちあふれて、罪人を待っていることを人々につげてほしいのだ。”と。

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P297

 

“わたしが求めているのは愛で、人々を愛す、その愛に愛で答えてくれることを待っている。それなのに、たびたび愛の代わりに冷たい眼をむけられる。これが聖心を傷つけるのだ。おまえは、わたしを愛し、霊魂を得ておくれ。おまえの行為をわたしの聖心に一致させ、おまえとともにいるわたしのところに住みなさい。わたしは愛のみを望むのだ。

 ああ、もし人々がわたしがどんなに恵み深く皆を待っているかを知ったなら・・・。わたしは愛の中の愛、赦しを与えることがわたしの喜びなのだ。“

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P341

 

“聖時間を罪人を赦すために自分にひきよせたいとの望みに燃えるわたしの聖心の感情に合せて過すようにさせてあげる。哀れな罪人たち、何とめくらなのだろう。わたしは、ただ赦すことのみ望むのに、人々はわたしに背くことしか考えない。これこそわたしの最大の苦しみだ。あまりにも多くの霊魂が失われ、赦されるために、わたしの聖心に来ようとしない。”

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P341

 

“警官が罪人を追いかけるように、わたしも罪人を追いかける。が、警官は罰するためで、わたしは赦すためだ。”

 

 

 

 ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P341

 

“聖時間を罪人を赦すために自分にひきよせたいとの望みに燃えるわたしの聖心の感情に合せて過すようにさせてあげる。哀れな罪人たち、何とめくらなのだろう。わたしは、ただ赦すことのみ望むのに、人々はわたしに背くことしか考えない。これこそわたしの最大の苦しみだ。あまりにも多くの霊魂が失われ、赦されるために、わたしの聖心に来ようとしない。”

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P346

 

わたしの聖心ほど、赦してやりたいとの望みに燃える心が果たしてあるだろうか。しかもその愛の報いとしてこんなにもひどい侮辱を受けるとは。哀れな霊魂たち・・・。

 

 

 

 

 

7.コンソラータ

 

 

中央出版社/ロレンツォ・サーレス著/『シスター・コンソラータ』―愛の最も小さい道―P90

 

−イエズス−

 

「コンソラータ、善良で信心深い霊魂、あるいは私にささげられた霊魂すら『私は救われるでしょうか』という疑いのことばをもらして、私の心の底の底まで傷めることがしばしばある。

 

聖福音を開き、私の約束を読みなさい。私は私の羊たちに約束した。『私は彼らに永遠の生命を与えるから、彼らは永遠に滅びることなく、また私の手から彼らを奪うものはないであろう。』(ヨハネ10・28)

 

コンソラータ、わかりましたか? だれも私から一つの霊魂も取ることができないのだ! 次を読み続けなさい。『私の父が私に与えたもうたものは、すべてにまさってとうといものである。だれもそれを私の父の御手から奪うことはできない。』(ヨハネ10・29)

 

コンソラータ、わかりましたか? だれも私の手からひとつの霊魂も奪うことができない・・・永遠に至るまで彼らは滅びないであろう・・・なぜなら、私が彼らに永遠の生命を与えたからである。だれのために私はこれらのことを言ったのだろう?すべての羊のため、すべての霊魂のために!

 

それなのになぜ『私は救われるでしょうか。』という侮辱的なことを言うのだろう。私は聖福音の中でだれも私からひとつの霊魂も奪うことができない。そして霊魂に永遠の生命を与え、霊魂は滅びることができない、と確証している。コンソラータ、私を信じなさい。

 

地獄へは、本当に行きたい者だけが行くのだ。なぜならだれも私からひとつの霊魂も奪うことができないが、私の与えた自由意志により、霊魂は私からのがれ、私にそむき、私を否定し、自分の自由意志のままにサタンのもとに行けるからである。

 

このような不信頼によって私の心を痛める代わりに、あなたたちはもう少し天国について考えなさい! 私はあなたたちを地獄へ行くため、悪魔の仲間に入れるために創ったのではなく、天国へ行くため、永遠の愛の中で私と一致して楽しむために創ったのである! わかりましたか?

 

コンソラータ、地獄へは行きたい者だけが行くのだ・・・地獄へ行くのではないかとあなたたちが恐れるのはなんと愚かなことだろう。あなたたちの霊魂を救うために私の血を流し、全生涯ちゅう恵みにつぐ恵みを注いだのに・・・私のあがないの果実をとり入れようとするまさにその時―つまり霊魂が私を愛そうとしている時である臨終にあたって、最大の敵サタンが、私から霊魂を奪い去るのをどうして許せようか? 聖福音の中で、私が霊魂に永遠の生命を与え、だれも私の手から奪い去ることができぬと約束しているのに、どうして私があえてそんなことができようか? コンソラータ、どうしてそんなひどいことが信じられるのか?

 

わかりましたか? 最後の最後まで改心しないのは霊魂がわざわざ地獄へ行きたいと望み、どうしても私のあわれみを拒む場合だけだよ。私はどんな人でも決してゆるさぬことはないから! 私はすべての人々に無限のあわれみを贈る。私の血はすべての人々のために流されたのだから!

 

霊魂を永遠の災いに堕すのは犯した罪の多いためではない。悔い改めさえすれば、私は何もかもゆるすのだから。むしろその霊魂が、どうしてもゆるしてもらいたくない、地獄へ行きたいと望むからだ!

 

十字架上の盗賊聖デイスマスは、非常に多くの罪を犯したが、私に対してただ一度の信頼の心を起こしたために、瞬間的にゆるされ、その改心したちょうどその日に、天国へはいり、聖人のひとりとなった!

 

私のあわれみと、私への信頼の勝利をこれによって悟ることができよう! コンソラータ、私にすべての霊魂を賜った父なる神は、すべての悪魔よりもずっとずっと偉大で、全能である。私の父の御手から、だれも霊魂を奪い去ることはできない!

 

コンソラータ、私を信頼しなさい! いつも私を信頼しなさい! 私が必ず成し遂げることを盲目的に信じなさい。私は限りもなく優しく、あわれみに満ち、『悪人の死を望まず、かえってその罪人が改心して、生きることを望む』(エゼキエル33・11)のだから。」

 

 

 コンソラータはイエズスのこの御招きに心から従い、全生涯のあらゆる困難、悪魔の攻撃にもかかわらず、この信頼を忠実に保った。「神に信頼すること! それのみが私に翼を与えます。恐れは私を凍らせ麻痺させて、あらゆる行動を封じます。・・」と自分の経験を言い表している。(1935年11月3日)

 

 

 

 

8.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P233

 

ある殺人者は吊し首になる代わりに戦場に送られ、王と国のために勇敢に戦ったために、深い傷を受けながらも勝利者として帰国した。のちに彼は再度法廷に引き出されたが、王は彼の負った傷をみるや彼の罪をすべて赦免し、そればかりか彼の手柄に報いて名誉ある地位に就かせた。そこで、自分の兄弟、姉妹を救うためわたしの側に着き、サタンとの聖戦を勇敢に戦う者は、罪の赦しをわたしから受けるばかりか、神の国において冠と王国を授けられる。