赦す

 

赦せ赦せない心

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ルカ23・34

 

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1086

 

 「後向きに行った」。これはかれらが過誤や歪曲されたものに注意しなかったことを意味していることは『後向きに行くこと』の意義から明白であり、それは眼を外らして見ないことであり、それは以下の記事から明らかであって、そこにはかれらは父の裸かを見なかったと言われているのである。『見ないこと』は内意では留意しないことである。

 

 

 

天界の秘義1087

 

「そしてかれらの父の裸かをおおうた」。これはかれらがそれらをゆるしたことを意味していることは前後の関連から明らかであるのみでなく、『裸か』の意義からも、すなわち歪曲されたものからも明白である。

 

 

 

天界の秘義1088

 

 「そしてかれらの顔は後向きになっていて、かれらはその父の裸かを見なかった」。これは、そのようにそれが為されねばならないことを、また理論から生まれた過誤や過失のようなものに留意してはならないことを意味していることはそれが繰返されていることから明白である。なぜならここにはすぐ前に言われたことと殆ど同じことが言われており、それでこれらの言葉は同時に結論となっているからである。なぜならこの親教会は、またはこの教会の人間は悪意からこのように振舞ったのではなくて、単純な心からそのように振舞ったといった性格をもっていたからであって、このことは間もなく後に記されていることから明白であり、そこには『ノアはそのぶどう酒からさめた』、すなわちさらに良く教えを受けたと言われているからである。ここにとり扱われている事柄については、わたしたちは以下のように言ってよいであろう、すなわち、仁慈にいない者は隣人の悪のみしか考えないし、また悪のみしか言わないのであり、もし何か良いことを言うにしても、それは自分自身のためであり、またはその者らが友情の仮面の下でちやほや言う者のためであるが、それに反して仁慈の中にいる者は隣人の善いことのみを考えて、ただかれを善いように言うのみであり、しかもこれもかれら自身のためではなく、またその者たちが良く言う他の者から恩恵をうけるためでもなく、主が仁慈の中にそのように働かれていることから発しているのである。前の者は悪霊のようなものであり、後の者は天使のようなものであって、悪霊も天使も人間とともにいるのである。悪霊はその人間の中にある悪い誤ったもののみをかきたて、その人間を罪に定めるが、天使は善い真のもののみを刺激して、悪い誤ったものをゆるしている。このことから仁慈の中にいない者は悪霊に支配され、悪霊を通してその人間は地獄と交流し[連なり]、仁慈の中にいる者は天使たちから支配されて、天使たちを通してその人間は天界と交流している[連なっている]ことが明白である。

 

 

 

天界の秘義6655

 

「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)

 

これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。

 

悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、かれらの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。

 

このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。すなわち、かれらは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、かれらの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜならかれらはその隣人に対しては善以外には何ごともねがってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それをゆるすからである。

 

悪にいる者らはそうではない。かれらはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜならかれらは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜならかれらは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、かくれた力を持っていることを知っているからである。

 

 

 

新エルサレムの教義170

 

物事を善から眺めて、悪から眺めないことが罪の赦しの結果である(7697番)。

 

 

 

天界の秘義7697

 

「今願わくはこの一度のみ私の罪を赦してください」。これは彼らはその服従しなかったことを心にかけてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『赦すこと』の意義は心にかけないことであり―なぜなら赦すことはたれかを悪から心にかけないで、善から心にっかけることであるからである―『罪』の意義は(すぐ前の7696番のように)服従しないことである。

 

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・2

 

はずかしめられて、その自分の心の痛みよりも相手の悪意を悲しみ、進んで反対する者のために祈り、心からその不正をゆるし、他人のゆるしをねがうことを躊躇せず、怒りよりもあわれみの情を起しやすく、しばしばきびしく自分を抑え、肉体をまったく霊魂に従わせようと努める忍耐強い人は、大きい、ためになる煉獄の浄めをこうむっているのである。

 いま罪を清め、悪を根絶やしにすることは、未来の清めの時までこれをそのままにしておくよりもはるかにまさっている。

 まことに私たちはむやみに肉体を愛して、自分をあざむいているのである。