主の愛

 

主の慈悲

 

 

1.聖書

2.主の愛

3.主の愛は引きよせる

4.炎の渦巻

5.人の主への愛は主御自身が起こす

6.愛は力

7.愛は連結そのもの

8.主は世の凡ゆる人間を、その者らがたれであれ、愛されている

9.『父のわたしを愛したもうたように、わたしもまたあなたがたを愛した。』(ヨハネ15・9)

10.終身刑の判決を受けた受刑者

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ3・16

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

 

 

ヨハネ13・1

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 

 

 

ヨハネ13・34−35

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 

 

 

ヨハネ15・9

 

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

 

 

 

2.主の愛

 

 

天界の秘義1735

 

エホバは、または主の内なる人は、愛の天的なものそのものであり、即ち、愛そのものであったのであり、この愛には純粋な愛の属性以外には、かくて全人類に対する純粋な慈悲の属性以外にはいかような属性も適合していないのであり、それは凡ゆる者を救って、彼らを永遠に幸福にし、彼らにその持っている凡ゆるものを与えようと欲するといったものであり、かくて純粋な慈悲から、進んで従って来ようとする者をことごとく天界に、即ち、それ自身に、愛の強い力により引き寄せようと欲するといったものである。この愛そのものがエホバである。

 

 

 

天界の秘義1735[2]

 

愛を除いては何ものにも存在が属性づけられることは出来ない。凡ゆる生命の存在そのものが、即ち生命そのものがこの愛から―それが愛の中に、または愛そのものに属しているため―発している。そしてエホバのみが愛であられるため、彼のみが生命の存在であられまたは生命そのものであられるため、一切のものはことごとくそこからその存在と生命とを得ているのであり、また何人もエホバのみによらなくては、即ち主のみによらなくては、自分自身からは存在することも、生きることも出来ないのである、そして何人も主のみによらなくては自分自身からは存在し、生きることは出来ないため、人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である。天使たちは主の愛の中に生きているため、主の生命の存在そのものの中に生きているからには、彼らは自分たちが自分たち自身から生きているのではなくて、主から生きていることを明らかに認識しているのである。しかしそれでも彼らには彼ら自身から生きているという外観が言い尽くし難い幸福と共に他の凡ての者にもまさって与えられているのである。それでこれが主の中に生きることであって、それは私たちが主の愛の中に、即ち、隣人に対する仁慈の中に生きない限り、決して在り得ないのである。

 

 

 

天界の秘義1789

 

「あなたの大きな報い」。これは勝利の目的と目標とを意味していることは『報い』の意義から明白であり、それは試練の争闘の後の賞品であり、ここでは主は御自身に対しては如何ような勝利の賞品をも決して求められはしなかったため、勝利の目的と目標である。主の勝利の賞品は全人類の救いであったのであり、主が戦い給うたのは全人類に対する愛から発していたのである。この愛から戦う者は自分自身に対して如何ような賞品をも求めない、それはこの愛は他の者に自分自身のものをことごとく与え、移譲し、自分自身のためには何ものも得ようとは欲しないものであるためであり、それでここに『報い』により意味されているものは全人類の救いである。

 

 

 

天界の秘義1799[2]

 

主の王国には外なる者と内的な者と内なる者とがいる。第一の天界の中にいる霊は外なる者であり、第二の天界の中にいる天使的な霊は内的な者であり、第三の天界の中にいる天使は内なる者である。外なる者たちは主に内的な者たちほどには密接に関わりを持ってはおらず、または近づいてはいないし、また内的な者も内なる者ほどには主に関わりを持ってはいないし、または近づいてもいないのである。主は神的な愛からまたは慈悲から、すべての者を御自身の近くに置こうと望まれておられ、それで彼らが戸口に、即ち第一の天界にいないで、第三の天界の中にいるように、出来ることなら、単に御自身のもとにいるのみでなく御自身の中にさえいることを望まれておられるのである。こうした者が神的な愛または主の愛であるが、教会はその時単に外なるものの中にのみいたため、主はこの言葉の中に訴えられて、『ご覧なさい、わたしの家の息子が、わたしの嗣子[相続人]であります』と言われたのであり、この言葉によりかくて主の王国の中には外なるもののみしか存在しないであろうということが意味されているのである。しかしそれに続いて記されている節の中に慰めが、内なるものにかかわる約束が続いて記されているのである。

 

 

 

天界の秘義1865[]

 

 主には全人類の救が唯一の慰めであれられたのである、なぜなら主は神的な天的な愛の中におられ、その人間的な本質の方面においてさえも、神的な天的な愛それ自身となられて、その愛の中にはすべての者を愛する愛のみが顧慮され、また心に抱かれているからである。

 

 

 

天界の秘義1865[]

 

神的な愛はこうしたものであることは子供に対する両親の愛から認めることが出来よう、この愛はそれが降る度に応じて増大しているのである、即ち、それは直接の子供たちに対するよりも更に遠い子孫に対しては更に大きなものとなるのである。原因と起原なしには何一つ決して存在しないのであり、従って次々と継続して行く子孫に対しては絶えず増大していくという特質を持っているところの、人類におけるこの愛もまた原因と起原なしには存在していない。この愛の原因と起源は主から発しない訳にはいかないのであって、主から結婚愛のすべてが流れ入っており、また子供に対する両親の愛が流れ入っており、その愛の源泉は、すべての者に対する主の愛は自分の子供に対する父親の愛に似ていて、主はすべての者を自分の嗣子にしようと望まれており、すでに生まれている者に嗣業を供えられているように、これから生まれる者たちにもそれを供えられているということである。

 

 

 

天界の秘義2077

 

主の情愛または愛は全人類に対するものであって、それは神的なものであり、主はその人間的な本質をその神的な本質に結合されることによって全人類を御自身に完全に接合させ、永遠に彼らを救おうと望まれたのである(この愛については1735を参照されたい。この愛から主は幾多の地獄と絶えず戦われた、1690,1789,1812、また主はその人間的なものをその神的なものに結合されたことにおいて、神的なものを人類と連結させること以外には何ごとをも顧みられなかったのである、2034番)。

 

 

 

天界の秘義2077〔2〕

 

主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じ難いものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何ら省みはしない。否、出来ることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦も厭いはしないのである。ここから死んだ者たちから蘇りつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。

 

 

 

天界の秘義2253

 

「あなたはその所を破壊して、その真中にいる五十人のために、それを赦されはしませんか」(創世記18・24)。

 

これは愛から執り成されたことを―彼らは滅んではならないと執り成されたことを―意味していることは「五十」の、「義しい」の、同じくまた「その真中」の、即ち、都の真中の意義から明白であり(それについては直ぐ前の2252番を参照されたい)、その事柄のすべては愛から執り成されたことを、彼らが滅んではならないことを意味している。(執り成しについては、前の2250番を参照)。それが愛から発していたこともまた明らかである。主にあっては、主が世におられたときは、全人類を永遠に救おうと激しく望まれたのである。これは天的な生命そのものであり、その生命により主は御自身を神的なものに、神的なものを御自身に結合されたのである―なぜならエッセ[存在]それ自身は、またはエホバは全人類に対する愛そのものである慈悲以外の何ものでもないからである―そしてその生命は純粋な愛の生命であって、それはいかような人間にも可能ではない。生命とは何であるかを、また生命は愛と同一であることを知らない者はこのことを把握はしない。このことは人間がその隣人を愛する度に応じて、主の生命にあずかる[主の生命を受ける]ことを意味している。

 

 

 

天界の秘義2261

 

主の生命は慈悲であり、それは全人類に対する愛の慈悲である。

 

 

 

天界の秘義3742

 

主はたれにでも御自身をさえ、御自身のものである一切のものをさえ与えようと欲しられ、事実、彼らが受け入れるに応じて、即ち、主に似た形、主の映像として、善の生命の中におり、真理の生命の中にいるに応じて、それらを与えられているという全人類に対する愛と慈悲から発しているのである。このような神的努力が絶えず主から発しているため、前に言ったように、主の生命は人間のものとして所有されるのである。

 

 

 

天界の秘義4320

 

主のみから発している生命が各々の者のもとではその者自身の中にあるかのように見えることは全人類に対する主の愛または慈悲から発しているのであり、主は主御自身のものであるものを各々の者に所有させて、各々の者に永遠の幸福を与えようと欲しられているのである。愛は愛自身のものであるものを他の者に所有させることは知られている。なぜならそれはそれ自身をその他の者の中に示して、それ自身をその者の中に現存させるからである。ましてやそのことは神の愛に言われるのである!

 

 

 

天界の秘義6478

 

 天使はたれかに善を為すときは、またその者に天使自身の善を、幸運を、祝福を伝達し、しかもそれはその他の者に凡ゆる物を与えて、何物をも自分には保留はしまいとする願いをもって行われているのである。

かれがそのようにして己がものを伝達していると、そのときは善が彼の与える以上の幸運と祝福とをもって彼に流れ入り、しかもこれは絶えず増大して行くのである。

 

しかし彼がこの幸運と祝福との流入を自分自身の中に得ようとする目的から自分の持っているものを伝達しようと願う思いが起こるとすぐに、その流入は消滅してしまい、ましてや彼がその善を伝えて相手から報いを得ようとする思いがなにか入ってくるなら、さらに消滅してしまうのである。このことはわたしが多くの経験から知ることができたところであり、このことからまた主は個々の凡ゆる事柄の中にもおられることを認めることができよう。なぜなら主は凡ゆる者に主御自身を与えようと願われておられるような方であって、そこから幸運と祝福とは主の映像であり、主に似た形である者たちのもとに増大するからである。

 

 

 

天界の秘義6495

 

 今までに引照した凡てのことから、主から発している流入は直接的なものであり、また天界を通して間接的なものであることを認めることが出来よう、しかし主から発している流入は天界的な愛の善であり、かくて隣人に対して愛の善である。この愛の中に主は現存されている、なぜなら主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである、そしてこの愛の善は主御自身から発しているため、主御自身がその中におられ、かくて主はこの愛の善の中にいる人間のもとに現存されているのである。

 

 

 

ピオ神父/魂の酸素81

 

 あなたはこれまで長い間、主を愛してきたのでしょう? 今でも、愛しているのでしょう? そしてこれからも永遠に、愛して行きたいと願っているのでしょう? それなら、おそれてはなりません! たとえあなたがこの世にある罪をことごとく犯したと知っても、イエスはこう言われるでしょう。

「あなたの多くの罪はゆるされた。あなたは多く愛したからである!」

 

 

 

 

3.主の愛は引き寄せる

 

 

天界の秘義6645〔2〕

 

 人間における教会の実情はそれが継続的に新しい状態を経るということである、なぜなら人間は信仰の真理と仁慈の善とを強められるに応じて、他の状態へ導き入れられ、かくて前の状態はそれに続く状態に対する面となり、しかもそれが絶えず続いて行われるからである。かくて教会であり、または再生しつつある人間は絶えず更に内的なものの方へ導かれ、かくて天界の更に内部へ導かれて行くのである。そのことが行われるのは、主は愛から―それは神的なものであるため、無限なものであるため―人間を御自身にまでさえも引き寄せ、かくして彼を凡ゆる栄光と幸福とをもって祝福しようと欲しられるためであり、そのことはまたヨハネ伝の主の御言葉から非常に明白である―

 

 わたしは、父なるあなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らも凡ての者も一つのものとなるように、彼らもまたわたしたちの中に一つのものとなるように祈ります。あなたがわたしに与えられた栄光をわたしは彼らに与えました、わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです、わたしが彼らの中に、あなたはわたしの中に(おられるように一つとなるためです)。父よ、あなたがわたしに与えられた彼らもまたわたしがいるところにわたしと共にいて、あなたがわたしに与えられたわたしの栄光を見るように、とわたしは願っています、わたしは彼らにあなたの御名を知らせましたが、またそれを知らせましょう、あなたがわたしを愛されたその愛が彼らの中に在り、わたしも彼らの中にいるためです(ヨハネ17・21−24、26)。

 

 

 

天界の秘義6645〔3〕

 

 これらは受け入れる凡ゆる者に対する神的な愛〔神の愛〕の御言葉であることは非常に明白であり、更に、主は他生では太陽として現れ給い、そこから天界全体を熱と光をもって満たされているという事実からも明白になるであろう。この太陽の焔は神的愛〔神の愛〕以外の何ものでもなく、そこから発している光は、神的真理であるところの、愛の聖いものである。このことから主の愛はいかに偉大なものであるかを認めることが出来よう。それでこのことから、教会に属している者たちは新しい状態の中へ絶えず入れられ、かくて絶えず天界の更に内部へ入れられ、従って主の御許へ更に近づけられて行くのである。

 

 

 

天界の秘義8604

 

主の方を眺めることは何であるか、世と自己の方を眺めることは何であるか、自己の下方を眺めることは何であるか(7814−7821)、すなわち、自己の上方を眺めることは隣人の方を、国の方を、教会のほうを、天界のほうを。かくて主の方を眺めることであり(7814、7815、7818)、自己の下方を眺めることは世と自己の方を眺めることであり(7817)、自己の上方と下方とを眺めることは目的とすることであり、凡ゆる物にまさって愛することであり(7818)、人間は以下の事実により獣から区別されているのである。

 

すなわち、人間は自己の上方を、また自己の下方を眺めることができ、自己の上方を眺めるときは、人間であるが、下方を眺めるときは、獣であり(7821)、自己の上方を眺めることは主により高揚されることである(7816)。なぜなら主は主御自身から発している真理を通して各人のもとへ流れ入られ、そのことによって人間に生命を与えられるからであるが、それは主から発している光は神的真理であって、生命であるためである(ヨハネ1・4)。

 

主から発しているこの神的真理は人間のもとにある善の中へ流れ入って、その善によりその人間を真理そのものへ引きよせるのである。なぜなら主から発している生命は愛から発しているため、引き付ける力をもっているからである。それは愛はすべて、連結して、一つのものとなろうと欲しているため、その中にはこうした(引き付ける)力をもっているためである。それで人間は善の中におり、善から真理の中にいるときは、主から引き寄せられて、主と連結するのである。

 

 このことが「主の方を見上げること」により意味されているのである。しかし人間は善の中におらず、かくて善から発した真理の中にもいないときは、そのときもまた主から引き寄せられてはいるが、高揚されることはできないのである。それは悪とそこから派生した誤謬はそれ自身を(主に)背けるためである。このことが「下方を」または「自己と世の方を眺めること」により意味されているのである。

 

主は人間を主御自身に引き寄せられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている。

 

わたしは、もし地から上げられたならば、凡ゆる人間をわたし自身のもとへ引き寄せよう(ヨハネ12・32)。

 

この凡てから、モーセがその手をさし上げたときイスラエルは勝ち、その手を下ろしたときアマレクが勝ったことにより意味されているところの、信仰が主の方を眺めたときは、戦う真理が征服したが、信仰が下方の自己と世の方を眺めたとき、誤謬が征服したっことをいかように理解しなくてはならないかを今や認めることができよう。・・・(出エジプト17・11)

 

 

 

アマレクについて

 

天界の秘義8607

 

「アマレクは勝った」。これはそのとき誤謬が征服したことを意味していることは以下から明白である。すなわち、「勝つこと」の意義は征服することであり、アマレクの表象は内的な悪から発した誤謬である(8593)。

イスラエルがときには征服し、ときにはアマレクが征服したことにより、霊的な教会にぞくした者たちは絶えず主を仰いでいる信仰の中にいることはできず、自分自身と世とを見つめる信仰の中に交互にいることが表象されたのである。なぜならその教会にぞくしている者たちは、信仰については、明確でない状態の中におり、したがって、脆弱(な状態)の中にいるからである(これがかれらの特質であることについては、2708,2715,2718,2831、2935、2937、3833、6289、6500、6639、6865、6945、7233を参照)。

ここからアマレクは抹殺されなくてはならないという命令にも拘らず、かれはヨシュアによって絶滅されず、後には士師たちによっても、王たちによっても、カナンの地では絶滅されはしなかったのである。

 

 

 

 

4.炎の渦巻

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

熱心者のシモン:「もちろんです。これからも深く考えていきたい。私は自分がいかに愚かであるかを強く自覚して卑下しています。神は私たちを子供と見なすために、ご自分に似た者となるように望まれている。神がいかに偉大か、少しは分かったつもりです。私の心に注がれるあなたのすべての光によって、神の完璧な多彩さが次第に浮き彫りにされてきます。私は知らない土地を一歩一歩進んでいく人のように、私たちを“子”と呼びたい偉大なかの完全さの認識を深めていって、空翔ける鷲のようにまた深海を泳ぐ魚のように自由にかけめぐったのに、その境に触れることがありません。神とは、何なのでしょうか」

 

主:「神とは、決して届かない完全、完璧な美、限りない力、理解を超えるもの! 神とは、決して超えられない善、壊せないあわれみ、はかり知れない上智。神は神となった愛、神は愛、愛そのもの。神の完全を知れば知るほど曇りない空を翔け上り、限りない深淵に身を投じたようと言うが・・・。神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に巻き込まれ、死と命とからなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解するに値する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

「主よ!」

 

シモンは完全に圧倒されて沈黙が続く。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P216

 

主:「(前略)聖霊は肉体のヴェールなくして、あなたたちの上に止まり、その七つの賜を持ってあなたたちに降り、あなたたちに助言を与えるであろう。そうだとすれば神の助言はどんなに崇高なものであるか、それを受けるためには完全で英雄的な意志を持って準備せよ。あなたたちは、あなたたちの御父とあなたたちのイエズスと聖霊との関係において似た者になれますように。そのために完全な愛徳と完全な清さを、それらは愛を理解できるように。そして、その愛をあなたたちの心が受け止める事ができますように、観想の渦巻きの中に入りなさい。自分が人間である事も忘れるように努め、セラフィムに変われるように努めよ。観想の炎の中に飛び込みなさい。神の観想は、火打ち金をぶつけて、飛び散る火花で火と光を起こすのに似ている。不透明な物質を常に消耗し、それを清い輝きの炎に変える火は清めである。けれどもあなたたちが愛を持っていなければ、あなたたちの中に神の国を持てないであろう。なぜならば神の国は愛であり、そして愛と共に現れ、愛によってあなたたちの心に住むからである。」

 

 

 

聖母から司祭へ1988.3.31

 

 こうするときイエズスは、あなたちの小さな心をお取りになって、これを開き、拡げ、ご自分の愛でみたしてくださいます。イエズスは、あなたのうちに愛し、あなたたちも、かれのうちに愛するようになり、イエズスの完全な神的愛のすばらしい渦の中に、ますます深く沈められるでしょう。

 そのとき、人間として、おん体のうちに生きておられるイエズスと深い親密な関係をもつように召された愛弟子ヨハネのようにあなたたちも新しいヨハネとなって、ご自分の光栄あるおん体とご生活に対して、親密な関係をもつようにと、イエズスは、あなたたちを召されます。

 イエズスは、地上のすべての聖櫃の中に、聖別されたパンの外観のもとに、隠れていて、犠牲として、実際に現存しておられるのです。

 

 

 

ヘブライ人への手紙12・29

 

実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P67

 

 天国では、信徳と望徳とはなくなります。天国では、私共の理性に暗くたれこめている霧は消え去るからです。知恵は、この世で隠されていた事柄を知るでしょう。すべてがあるのですから、もう何も希望しなくなります。宝を持てばそれ以外のものを獲得しようと、望みません・・・だから愛徳は、ああ、私共は愛に酔いしれるでしょう。神様の愛の太陽の中に、溺れ沈み、イエス様のこの広大な愛の中に溶け込んでしまうでしょう・・愛は、この世ながらの天国の味わいです。もし、愛を悟り、感じ、味わうことができるならば、どんなに幸福になることでしょう。それなのに、人々は神様を愛しないのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P68

 

神様を愛することができるというこの幸福を理解するならば、いつまでもじっと恍惚の中に陥ってしまうでしょうに・・・。

 

 

 

キリストに倣いて4・4・3

 

ああ私の神、私の魂の擁護者、人間の弱さを補い、あらゆる内的慰安をお与えになるおかたよ、主は敬虔に聖体を拝領する主のお愛しになる者に、この秘跡で多くのおん恵みをお与えくださいましたし、またいまもなおしばしばお与えくださいます。 

なんとなれば主は種々の艱難に際してかれらに多くの慰めを注ぎ、失望落胆の底からこれを引き上げて主のご加護を希望させ、新たに恩恵をたれて内的にこれを力づけ照らし、聖体拝領前心配してなんの愛情も感じなかった者でも、この天上の食べ物飲み物に元気づけられたのちは、自分がよいほうに変わったと気づくようにしてくださるからであります。

 主がお選みになった者に対して、かようになさるのは、かれらに自分だけではその弱さがどれほどひどいか、主のおん恵みご恩恵から得るところがいかに多いかを、真に認めさせ、明らかに体験させてくださるためなのであります。

 なんとなればかれらは、自分独りだけでは、冷淡でなんの感情もわかず、不信心でありますが、主によって熱心に、快活に、信心深くされるからであります。

 じつに、だれか謙遜に甘露の泉に近づいて、それから少しは甘露を得て帰らない者がありましょうか?

 まただれか烈しい火のそばに立って、それから少しは熱を受けない者がありましょうか?

 そして主はいつも満ちあふれる泉であり、常に燃え決しておとろえることのない火でおいでになるのであります。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P66

‘89・12・16

 

あなたに平安。 聖性は一日では達成できない、障害物や小さな十字架に満ちたこの道を 忍耐強く歩んで行かなければならない、私から離れて行かないように、続けてくれるか? この道の果てまで 私とともに登りつめてくれるか?

 

離れては行きません、わが主よ。あなたのお着物をしっかりと握っている拳を開いてしまいませんよう、どうぞお助け下さい。

 

私の十字架にすがっていなさい そうするなら我が十字架が 完徳まではるばる導いていくであろう、あなたのそばに私はいて(I am)、一致している(I am)。 祈りなさい 我がヴァッスーラ。 愛によってまず 生ずるのは熱意だからです、私 主は、我が愛をもってあなたを充満させた ♡ 一人ひとりの霊魂もやって来て この愛の海原に身を投じ 満たされて この愛を感じてほしい ♡ 私 イエスは皆を愛している、我が聖心に入って来なさい、その深い深淵にあなた方を隠したいと切に願う、いつまでも永遠に隠したまま 私だけのためとなるように ♡ 花よ、私を愛しなさい、愛しなさい、礼拝しなさい、礼拝しなさい、そうしたら後は私が行う、こう言うのを学ぶように: 「イエス 私の心をあなたの憩いの場として下さい、憩いに来て下さい 主よ。」

 

 

 

 

5.人の主への愛は主御自身が起こす

 

 

あかし書房/マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P300

 

「アグラエ、あなたは主のことがまだ分かっていない! 主へのあなたの望みは、主があなたの愛に応え、あなたの友人であり、あなたを招き、呼び、あなたを欲しがっている証なのです。神は人間の望みを前にして、手をこまねいていたりはしない。なぜなら、その心にその望みをおこしたのは、すべての人間の創造主である彼ご自身がおこしたからです。“神の望みは、いつも人間の望みの先にある”神はいとも完全なものであり、その愛は人間の愛よりも強く、勤勉です」

「だけど、神はどうして・・・泥のような私まで愛せるのですか」

 

「あなたの知恵だけで推しはかろうとしない方がよい。神は人間の知恵には不可解としか見えないあわれみの深淵なのです。かえって愛の知恵、霊の愛によって分かります。この愛は、神の奥義の中に躊躇することなく入り神と霊魂との関係の奥義までに入り込みます。繰り返して言いますが、神がこれを望むから、その中に入るのです。」

 

 

 

 

6.愛は力

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P16

 

呪わなかったのを、私の弱さと取ったのか・・・いや、弱いのではない、私は救い主なのだ。救い主は、呪うことをしない、ただ、人を救うだけだ。救いたい・・・お前は、『私は力だ、あんたを憎み、あんたに勝つ』と言ったが、私こそが、力で唯一の力である。その力は、憎むことではなく、愛だ。愛は、憎むことも、呪うことも決してしない。

 

 

 

 

7.愛は連結そのもの

 

 

天界の秘義2034

 

「あなたとあなたの後の裔」。これは主を信じるすべての者との連結が主から存在していることを意味していることは、『裔[種]』の意義が、前にいくども話された信仰であることから、また『あなたの後の』の意義が、(前の2019番に説明された)主に従うことであることから明白である。神的な本質が人間的な本質と結合し、人間的な本質が

 

[種]により、前に示されたように、仁慈の信仰が意味されているのである。(1025,1447、1510番、信仰は仁慈そのものであることは第一部に見ることができよう、30−38、379、389、654、724、809、916、1017、1076、1077、1162、1176、1258、1798、1799、1834、1844番)

 

 

 

天界の秘義2034 [2]

 

さらに主は御自身の父との結合を話されておられるとき、すぐ間をいれないで、御自分が人類と連結されることを語っておられ、それはそのことがヨハネ伝に明白であるように、結合の原因であったためである。

 

  父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中におりますように、彼ら凡ての者が一つのものとなるためであります。彼らもまたわたしたちの中で一つのものとなるためであります。あなたがわたしに与えられた栄光をわたしは彼らに与えました、わたしたちがまことに一つのものであり、わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられますように、彼らも一つのものとなるためであります。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました、またそれを知らせましょう。あなたがわたしを愛されたその愛が彼らの中にもあるためです(17・21、22、26)。

 

 このことから、主が御自身を父に結合させられたことのうちに御自身を人類に連結させることを目標とされていたことが、また主はそのことを、それが主の愛であったため、心に抱かれていたことが明白である、なぜなら連結はことごとく愛により遂行され、愛は連結そのものであるからである。

 

 

 

天界の秘義2034 [3]

 

さらに同じ福音書に―

 

  わたしが生きているために、あなたらもまた生きるでしょう、かの日あなたらはわたしは父の中におり、あなたはわたしの中にわたしがあなたらの中にいることを知るでしょう、わたしの戒めを抱いて、それを守る者、その者こそわたしを愛する者である(14・19−21)。

 

 このことから同じく以下のことが明白である、すなわち主はその人間的な本質をその神的な本質と結合させられることにおいて御自身を人類と連結させることを目標とされていたのであり、それが主の目的であり、またそれが主の愛であり、その愛は、人類の救いが、すなわち、御自身を主の父と結合させられることにおいて眺められる人類の救いが主には最も深い喜びであられたほどのものであったのである。ここにまた結合させるものが、すなわち、主の戒めを心に抱いて、それを行い、そのことによって主を愛することが記されているのである。

 

 

 

天界の秘義2034 [4]

 

さらに―

 

  父よ、あなたの御名を栄化してください[あなたの御名に栄光を与えてください]、それで天から声が来た、わたしはそれを栄化しました、さらにそれを栄化しましょう。イエスは言われた、この声が来たのはわたしのためではなく、あなたたちのためである。しかしわたしが地から上げられるとき、凡ての者をわたしの後に引きよせよう(12・28、30、32)。

 

『栄化[栄光を与えること]』により、前に言ったように、結合が意味されており、そして主は御自身を父と結合させられたことにおいて御自身を人類と連結させることを顧慮されていたことは、『わたしは上げられるときは、わたしはすべての者をわたしの後に引き寄せよう』という御言葉の中に明らかに言われているのである。

 

 

 

天界の秘義2034[5]

 

無限なるものを、または至高の神的なものを人類と連結させることは、神的なものとなされた主の人間的なものを通して行われたことは、またこの連結が主が世に来られた原因であったことは多くの者が心の中に問いかけるアルカナであり、かれらはそれを把握しないため、それを信じはしないのである、そしてかれらは把握しないという理由から信じていないため、それはかれらには嘲笑の材料となり、または彼らを躓かせるものとなっている。それがそうであることを私は他生に入ってくる者たちから多くの経験から知ったのである。これらの者の中極めて多くの者は ―世では有能な者であった者らのほとんど大半の者らは― 主が人間となられ、外なる形では他の人間のようであられ、苦しまれた、それでも主は宇宙を支配されていることを単に考えるのみで、たちまちそのスフィア[霊気]を嘲罵で満たしてしまうのである、なぜならそうしたことは身体の生命の中では彼らには嘲笑の材料となり、または彼らを躓かせるものであったからである ―たとえ当時は[身体の生命の中にいた頃は]そのことについてはかれらは一言も洩らしはしなかったし、外面的には恭々しく主を崇めていたのではあるが。なぜなら他生では内部が開かれて、そこから辺りにひろがってくるスフィアによりそれが明らかにされるからである(このことは第一部1048、1053、1316、1504番にとり扱ったところである)。このことから彼らはいかような信仰を持っていたかまた主についていかようなことを考えていたかが明白に認められるのである。

 

 

 

天界の秘義2034[6]

 

それがそうであるからにはこの事柄をさらに少しく説明した方がよいであろう。人間における天的なものがことごとく、すなわち、主に対する愛がことごとく死滅してしまい、かくて善の意志がもはや存在しなくなってしまった後では、人類はそのとき神的なものから引き離されてしまったのである、なぜなら愛以外には何ものも連結を遂行しないからである、そしてそれが絶滅してしまったとき、分離が起ったのであり、分離が起ると、そのとき破滅と根絶とが続いて起ってくるのである。それでそのとき主が世に来られて、その人間的なものを神的なものに結合し、この結合により御自身の中に愛の信仰と仁慈により人類を連結させることを遂行されるにちがいないという約束がなされたのである。

 

 

 

天界の秘義2034[7]

 

(創世記3・15に語られた)その最初の約束のときから来られるにちがいない主に対する愛の信仰が連結を生んだのである。しかし全世界にもはや愛のいかような信仰も残らなくなったとき、そのとき主は来られて、その人間的な本質を神的な本質に結合され、かくてそれらは共に結合したのであり、そのことは主は明らかに言われているのであるが、同時に主は真理の道を教えられたのである、すなわち、主を信じる者はたれでも、すなわち、主を愛し、主のものである事柄を愛し、全人類に対する愛である主の愛の中におり、かくて隣人に対する愛の中にいる者たちは連結し、救われるにちがいないことを教えられたのである。

 

 

 

天界の秘義2034[8]

 

主の中に、人間的なものが神的なものになされ、神的なものが人間的なものになされたとき、その結果人間のもとへ無限なるものが、または至高の神的なものが流入したのであり―そうしたことはそれがなかったならば決してありえなかったのである―さらにその結果、霊たちの世界に満ち溢れていたところの、またその世界に世からやってくる霊魂のために絶えず満ち溢れていたところの、またその世界に世からやってくる霊魂のために絶えず満ちていたところの恐るべき誤謬の信念と恐るべき悪の欲念とが消散させられ、その信念と欲念の中にいた者らは地獄に投げこまれて、そのことにより分離されてしまったのである。このことが行われなかったならば、人類は滅亡してしまったであろう、なぜなら主は霊たちにより人類を支配されるからである。彼らはまた他のいかような方法によっても消散させられることはできなかったであろう、なぜなら(そのときは)神的なものは人間の合理的なものを通して内なる感覚の事柄へ働きかけることは全く不可能であったからである、なぜなら内なる感覚の事柄は至高の神的なものがそのように結合していないときはその至高の神的なものの遥か下に存在しているからである。さらに深いアルカナは割愛しよう、それらはいかような人間にも把握できるようには説明することはできないのである。(前の1676、1990番に述べられたことを参照されたい、すなわち、天的な天使たちの天界には主は太陽として現われ、霊的な天使たちの天界には主は月として現れたもうている、陽は主の愛の天的なものであり、月はその愛の霊的なものである、1053、1521、1529−1531番、あらゆるものは全般的にもまた個別的にも主の視野の下におかれている、1274、1277番)。

 

 

 

 

8.主は世の凡ゆる人間を、その者らがたれであれ、愛されている

 

 

霊界日記1495

 

主は世の凡ゆる人間を、その者らがたれであれ、愛されているのである、なぜなら主は彼らを地獄から救い出されたからである。

 

 

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P86

 

この若者の喜びに源は、自分自身の価値のなさと神の偉大さを確信していることにありました。「神はとても多くの方法をとおして、私がいかに価値の無い人間であるか教えてくださいました。神がいかに偉大であるかわかるようになってきましたので、私は神を賛美するのです。神が私を愛しておられると知ることは、この世で最高の気分です。私は自分がとても小さく、それにあまり賢明ではないと感じますが、私と私の全ての問題は、神の御手の中にあります。私はもはや何の心配もしていません。神は全てを掌握しておられます。主に賛美!」

 

 

 

 

9.『父のわたしを愛したもうたように、わたしもまたあなたがたを愛した。』(ヨハネ15・9)

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・30・6

 

「『父のわたしを愛したもうたように、わたしもまたあなたがたを愛した。』(ヨハネ15・9)とは、わたしが愛する弟子たちに告げたところである。しかしわたしがかれらを遣わしたのは、この世の楽しみを受けさせるためではなくて大いなる戦闘(たたかい)をさせるためであり、名誉を得させるためではなくて侮辱をこうむらせるためであり、怠けさせるためではなくて働かせるためであり、休ませるためではなくて忍耐により多くの果を結ばせるためであった。わたしの子よ、これらの言葉を忘れぬようにせよ。」

 

 

 

 

10.終身刑の判決を受けた受刑者

 

 

マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P90

 

 私は、終身刑の判決を受けた受刑者からいろいろな話を聞いたことがあります。神が自分たちでさえ愛していてくださるのを知った時、喜びでいっぱいになったとその人たちが話してくれたのを聞いて、私の心もまた喜びで満たされたのでした。悔い改め、神の約束を信じた時、突然、圧倒されるような喜びを感じたと彼らは言うのです。

 その人たちの中には、あんな事などしなければよかったのにと繰り返し思いつつ何年も過ごしてきた人たちもいました。家族や友人たちから仲間外れをはっきりと宣言されていたのです。ある人たちは、長年、まったくだれからも何の連絡もなく、自殺を考えながら何時間も過ごしました。でも、そんな人たちも、イエスの赦しと平安に満たされたのです。そこで彼らは、仲間の囚人たちにイエスのことを語り、語られた人たちも同じように、赦しと平安を体験していきました。

 

マーリン・キャロザース

石井藤吉