マーリン・キャロザース
(1924〜2013)
摂理/
1970年『獄中からの讃美』 生ける水の川(日本1974年)
1972年『讃美の力』 生ける水の川(1975年)
『この世に天国を』(『天国の到来』1992年)
1979年『賛美の山の勝利』 マルコーシュ・パブリケーション(1995年)
1982年『モア・パワー』 角笛出版(1993年)
1984年『隠れた思い』 生ける水の川(1993年)
1992年『聖なる楽しみ』 生ける水の川(1993年)
1997年『恐れからの解放』 雲の間にある虹出版(2000年)
2001年『あなたはいま幸せになれる』雲の間にある虹出版(2003年)
2003年『心にひそむ罪』雲の間にある虹出版(2005年)
2012年『信仰その驚くべき力』 雲の間にある虹出版(2014年)
マーリン・キャロザースは米国の牧師。兵士、従軍牧師(チャプレン)として軍隊勤務が長い。
トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』が「離脱」を強調していたように思いますが、
これは一歩進んで、神の摂理や、喜び、讃美のもたらす効果を解説。非常に実践的な現代版修養書。
御声や御姿による主のご出現を彼は受けています。
1.感謝しているか
2.摂理
3.讃美
4.私があなたを愛しているというそれだけのことだ。私は、私に信頼するすべての子らにこのようにしたいのだ
5.不平の原因は不信仰
6.私たちが神を讃美するとき、他の人がキリストに導かれる
7.赦しは、賛美をする上でなくてはならない土台
8.教派
9.赦せない心
10.アルコール中毒
11.主の愛を知った人たち
12.厄介な人を我慢する
13.主は父なる神御自身
14.神の同意を求めるようになる
15.死後のいのち
16.神が守ってくださるという確信
17.路上伝道は効果が無い
18.賛美は筋肉を鍛えるのと同じ
19.機首を上げよ
20.死刑囚(囚人)からの手紙
1.感謝しているか
マーリン・キャロザース/獄中からの讃美P112〜120
しかし、主が、
「そうなのだ。わが子よ。わたしは、あなたに嬉しいと思ってもらいたいのだ。喜んでもらいたいのだ! 」
と言われるのを聞いて、ほっとしました。
私は笑いつづけました。そして、私が嬉しいと思うように神が望んでおられることを知ったので、余計に嬉しくなり、喜びは倍化しました。そのとき再び、静寂が訪れ、私は何事かを学ぼうとしているな、と感じました。
「さて、わが子よ。よく聞くがよい。残る生涯、何が起ろうとも、それがわたしの子が味わった苦しみに勝るものでない限り、常に喜んでいてもらいたい。最初わたしが、あなたのためにキリストが死んだことを嬉しく思うかどうかたずねたとき、あなたは嬉しいと感じていたが、そのときと同じように、たとえこれから何にぶつかろうと、いつも喜んでいて欲しいのだ」
私は答えました。
「主よ。わかりました。私は残る生涯、感謝にあふれた毎日を送ります。私は、あなたをあがめ、喜び、歌います。私は笑い声をあげ、叫び、これからどのようなものがふりかかってきても、私は喜びに満たされるようにします」
その時その場で、喜ぶことを約束することはやさしいことでした。その時、私はすばらしい祈りの時を持っており、喜びが川のようにほとばしり出ていたのですから・・・。
翌朝、自分のベッドのはしに座っていると、声が聞こえました。
「おまえは、何をしているのか」
「起きなくて済むならいいなー、と思いながら、ここに座っています」
「わたしたちは昨夜、約束した筈だが」
「しかし、主よ。あなたが、このようなことも含めておられるとは、知りませんでした」
「『あらゆることにおいて』とわたしが言ったことを、もう忘れたのか?」
そこで答えました。
「でも、主よ、正直に申しあげて、私はここ二十年ものあいだ、毎朝自分のベッドのはしに座りながら、もし起きなくて済むなら、そして、もう五分間寝ていることができたらどんなに良いだろうなぁ、と思ってきたのです」
ところが、その時、御霊が言われました。
「いま、起床の時間だということを、あなたは感謝していい筈だが・・・」
「主よ、どうしてですか? 私にはわかりません」
主はいつも、極めて忍耐づよく、また親切です。
「あなたは、進んでやる気のある人間にしてもらいたいと思うか」
「はい、主よ。本心からそう思っています」
その晩、私が床につくとき、次のように祈りました。
「主よ。これは少し辛い訓練ですので、あなたが助けてくださらなければできません。私は、あなたの言われる時間には、いつでも起きるつもりですが、起床する時間に、感謝できるかどうか分かりません」
私に聞こえてきたのは、ただ
「あなたにその気があるのか」
ということばだけでした。
「はい、主よ。あります」
次の朝、目が覚めると、まっさきに頭に浮かんできたのは、右足の親指のことでした。
「それが動かせるかどうか、やってみるがよい」
と聞こえてきました。やってみると、動かせました。
「あなたは、それが動かせることを感謝しているか」
「はい、主よ」
「こんどは、足首をためしてみるがよい − 感謝しているか」
「はい、主よ」
「次はひざだ − 感謝しているか」
「はい、主よ」
「さて、座れるかどうか、やってみなさい」
「はい、主よ。座れます。しかし、実の所、まだ、横になってこのまま寝ることができたら、と願っているのです」
主は、極めて忍耐強く、言われました。
「立てるかどうか、やってみなさい − 感謝したいとは思わないか。バス・ルームまで歩いて行けるかどうか、やってみなさい。そして鏡をのぞいて見なさい。見ることができて、感謝だとは思わないのか」
「はい、主よ。思います」
「こんどは、何か口に出して言ってみなさい」
「ハレルヤ!」
「見聞きできて、嬉しくはないのか」
「はい、主よ。嬉しいです」
それから、静寂が訪れました。私は、再びこの静けさの中で、神が何か大切なことを教えようとされていることを知りました。
「わが子よ。わたしはあなたを愛しているから、あらゆることに感謝することを教えてあげよう。あなたは、そこに立って、あらゆることを感謝することを学びたいのか? それとも希望通りベッドに戻って感謝することを学ぶまで、動いたり、見聞きできないようになりたいのか? どちらを選ぶか、決めなさい」
私は空中に六十センチもとび上がって、言いました。
「主よ。わかりました! 私は感謝しています。いつも、感謝するようにします」
あくる朝、また、その次もその翌日も、私が目覚めて最初に考えたのは、
「主よ。私は感謝します」
ということでした。それからはずっと、
もう起きる時間になったといって、情けなく感じることはありませんでした。
パウロは、
「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」
と言っています。朝起きることは、”私の弱さ”でした。神は私に、それを取り上げて苦痛から喜びに変えるように言われたわけですが、私がそれを実行したところ、すばらしいキリストの力と喜びが私の上に訪れたのです。
私は、自分の発見したことをほかの人たちに話したくてたまりませんでしたが、御霊は、だめだ、と言われました。人に話す前に、まず自分が少しも疑わないでどんな困難な状況も喜びに変えることができるようにならなければならないと言うのです。
私は、T・テサロニケ5・16−18を暗記し、何回も繰り返して自分に言い聞かせました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」
ある日、信号機のところに近づいてきたとき、信号が黄色にかわりましたが、私は合法的になんとか通り抜けられました。うまくやったので、私の顔には感謝の笑みが浮かびました。私は神の臨在を感じましたが、主は、
「表情をそのままにしておくように」
と言われました。そこで私は、顔に浮かべたほほえみをそのままにしました。
「なぜ、あなたはそんなに嬉しがっているのか」
「主よ。信号のところをうまく通れたからです。ありがとうございます」
「もし、信号が早目にかわって、自分が止まらなければならなかったら、どうしたと思うか」
「主よ。たぶん私は、少しぶつぶつ言って、自分が通り抜けるまで待っていてくれたらよさそうなものだ、と言ったと思います」
「わたしが信号機をコントロールしていることを、知らなかったのか。わたしは、宇宙も、時間それ自体もコントロールしているのだよ。こんど、ある信号機が赤にかわったら、感謝しなさい。その時、信号を赤にかえたのは、わたしであることを知るだろう」
その後、信号が赤になると、私は止まり、信号が変わるのを待っている間、何をしたら良いのか尋ねました。
「道路を横切って歩いていく人が見えるか。彼は、あなたの祈りを極度に必要としている。そこに座ったまま、彼のために祈ってあげなさい」
わたしたちは、神を信じていると言います。しかし、神がわたしたちの生活のどんなに些細なことまでもコントロールしておられることを、本当に信じているでしょうか。それとも、神はもっと大事な仕事にかかっておられるのだから、小さなことにはかかわりあってはおられない、と思っているのではないでしょうか。わたしたちの髪の毛が何本あるか神はご存知だと、イエスは言われました。そうだとすれば、神は私たち自身より、私たちの生活のどんな細かなことにも、ずっと身近な関心を寄せておられることをどうして信じられないのでしょうか。あなたは、自分の髪の毛が何本あるかご存知ですか?
神は、いっさいのことをコントロールしておられ、ご自分を愛する者たちのために、いっさいが益となるように働いておられます(ロマ8・28)
私は、一層神に信頼しはじめましたが、サタンの方はどうなのでしょうか。彼がしのび込んできて、神のみこころに反してわたしたちを攻撃することはできないのでしょうか。
神は、サタンがユダの中にはいり、ご自分の御子を裏切るのを許されました。神が許されたので、サタンはぺテロをあれほどまでに弱くして、イエスを知らない、と言わせることができたのです。そして、神の許しを受けて初めて、陰謀をめぐらし、イエス・キリストを十字架につけた人間たちの心の中にはいることだできたのでした。神はかれらを止めようと思えば、いつでも止めることができました。また、一万の御使いたちを送って、サタンのあらゆる計画を一掃することもできました。しかし神は、それを止めることをなさいませんでした。なぜなら、神は、いっさいの罪と苦悩がイエスをつらぬき通すとき、それあ純粋な喜び、讃美、および勝利となってほとばしり出て来ることを知っておられたからです。
サタンは、神の許可を受けなければ、わたしたちに対して指一本触れることができないのです。サタンがヨブを試みるのを、神が許可されたことを思い出してください。サタンに対して神が許可を与えられるのは、神がごらんになって、それが喜びにやがて変えられる可能性がある場合にのみ限られているのです。
わたしたちがこの秘けつに気づくならば、すばらしい神の祝福に溢れた日々が始まるのです。復活されたキリストの力が、わたしたちの内に宿っているのですから、わたしたちが、すべての事に喜ぶのを学ぶ時、わたしたちは、奇跡と力、そして勝利を体験するようになるのです。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P25
感謝し始めた頃、本気で感謝したことは半分もありませんでしたが、感謝をささげることは、神が私に望まれていることを私が従順に行っていることを外的に示す行為であるとも言えました。それは私にとって最初のステップであり、多くの結果を見るまでにはかなりの時間がかかりました。変化はゆっくりとしたものでした。「感謝します」と言うとき、少しずつですが、本気で言えるようになり、以前だったら必ず、私の心をかき乱したり、みじめにしていたことに対して本当にうれしくなっている自分に少しずつ気づくようになりました。それに、私に起こるすべてのことを神が取り計らっておられるということをますます確信するようになっていましたし、私を愛しておられることを示されるために、神がそれらの状況を私の生活にもたらされたことを信じることはそれほど難しいことではありませんでした。
困難な状況にある人々に分かち合いをすることや、彼らの困難な状況を彼らに代わって神に感謝することを始めるにつれて、私の確信はますます強められていきました。信仰の表現としての賛美は、神に懇願するよりもはるかに顕著な結果をもたらしたのです。賛美は時々しなければならないというだけのものではないことが分かったのです。賛美は礼拝、神への愛の本当の表現であると、聖書は何度も何度も述べています。
2.摂理
マーリン・キャロザース/獄中からの讃美P124
「わが子よ。あなたに知ってほしかったのは、わたしの許しがない限り、誰もあなたに法外な請求をしたり、傷つけたり、ひどい目にあわせたりすることがないから、今後、心配する必要がないということだったのだ。あなたのいのちは、わたしの手のひらの中にある。あなたは、ただ、わたしを信頼していれば良いのだ。あらゆる環境の中でわたしに感謝しつづけてゆくならば、毎日の生活における、どんな些細な出来事においても、わたしがどれほど完ぺきに働いているか見えるようになってくるのだよ、マーリン」
「ハレルヤ、主よ!」
私は本当に喜び、シートの上でとび上がりました。
「主よ、ありがとうございます。このようにすばらしい真理を示してくださり、感謝します」
私は宇頂天になっていましたが、ふと、もし私がつぶやいたり、不平を言ったりしていたら、この一連の出来ごとは絶対に何の益ももたらさなかった筈だ、ということに気がつきました。神が私をどれほど愛しているか教えてくださろうとしているのに、私は、なんと多くの機会を今まで見過ごしてきたことでしょう。わたしたちのほとんどは、こういったすばらしい機会をあたかも重荷のようにかつぎ回っているのではないでしょうか。しかし神は、これらのすべてが、キリストにあって喜びに変えられるように定めていてくださったのです!
いま、この瞬間、神がわたしたちの心をあふれるばかりの喜びで満たそうと望んでおられるということは、なんと輝かしいことでしょうか。わたしたちの善性とか、わたしたちの義、あるいは犠牲によるのではありません。それはただ、主イエスを信じる信仰にかかっているのです。
私のかけている椅子がつぶれても、それは主のみこころであり、コーヒーが熱すぎたり、トーストがしめっぽくなっていても、それは主のみこころ、ということになります。
わたしたちが、本当にそのことを信じはじめるとき、神の力がわたしたちの生活の中で現わされるようになってきます。主イエスが、
「人々があなたを迫害するとき、あなたが貧しいとき、おどり上がって喜びなさい」
と言われたのは、わたしたちにこのことを説明するためだったのです。
3.讃美
マーリン・キャロザース/獄中からの讃美P146
イエスは、わたしたちをとりまく環境を変えるとは約束されませんでした。しかし主は、神が実際に“すべて”をコントロールしておられることを学び、それを信じる人たちに対して、大いなる平安と清い喜びを与えることを、約束されています。
“主をあがめ、感謝する”という行為はまさに、わたしたちをとりまく環境の中に神の力を解き放ち、もしそれが主のみ旨であるなら、その環境をも変えていただくことができる、クリスチャンに与えられた特権なのです。
問題の解決を妨げているのは、わたしたちの態度だということが、よくあります。勿論、神は主権をお持ちですから、わたしたちの間違った思考パターンや態度をつきぬいて、ご自身のみわざをなさることがおできになります。しかし、神の完ぺきなご計画とは、わたしたち一人ひとりをご自身との交わりに導き入れることですから、わたしたちの間違った態度を気づかせるような環境や出来ごとを、神はあえてお作りになるのです。
私は、主をあがめ、讃美する祈りは、神との交わりにおける、最も次元の高いかたちであり、つねにわたしたちの生活の中に絶大な力を発揮するものであるということを確信するようになりました。主をあがめるのは、気分が良いからするというものではありません。これはむしろ、従順に基いた行為です。しばしば、讃美の祈りは、文字通り歯をくいしばりながら、意志の力をもってなされるものですが、わたしたちが、忍び抜く時、神の力がわたしたちの内から解き放たれてくるのです。初めは恐らく、それほど目立たない流れかもしれませんが、やがて神の力は水量豊かな流れとなってわたしたちの上にあふれ、すべての傷や傷あとを洗い去ってしまうのです。
4.私があなたを愛しているというそれだけのことだ。私は、私に信頼するすべての子らにこのようにしたいのだ
マーリン・キャロザース/讃美の力P81〜84
フォート・ベニングに軍付属牧師(チャプレン)として配属されていた頃のことです。ある日、私は遠くの他の州に出かけていたのですが、帰る頃になって次の約束の時間に間に合うように帰れないことに気づいたのです。私が乗ることになっていた飛行機は悪天候のため欠航になり、その次の便では約束の時間に間に合わない状態でした。車で帰ることは問題になりませんでした。飛行機が飛ばないので本当に困ってしまいました。チャプレンになってからその時まで、基地での平常の任務を妨げるような講演の約束をしたことはありませんでした。その時の私は、あたかも任務怠慢ということになるはめにあったのです。私は祈りました。
「主よ、あなたは、今まで私がおくれたことをご存じです。今、このことを全部み手にゆだねます。あなたは、私のために完全なご計画を持っておられることを信じます。あなたは私の必要を満たして下さる方です。そのことを感謝します」
その日話を頼まれていた集会で空軍のあるパイロットに会いました。彼は近くの基地に配属されていたのですが、私の心配を知って、こう言いました。
「私の司令官に電話して何とかできないか聞いてみましょう」彼の司令官はその依頼にこたえてくれました。
「よろしい。私自身いくらか飛行時間をとる必要があるので、よろこんでチャプレンをフォート・ベニングまでお乗せしよう。明朝六時に基地へお連れしてくれ」
その夜、私はパイロット宅にお世話になり、翌朝六時に二人は空港へ向かいました。私はさわやかな平安を感じました。神が必要にこたえてくださったことをよろこびました。しかし、いかに豊かにこたえてくださったかはまだ分かってはいませんでした。
私は予想していた飛行機をさがして見渡しました。エンジンが四つある大型の飛行機が並んでいました。しかしただ飛行時間をとるためだけの飛行に飛び立とうとしているような機は見当たりませんでした。小型で、あまり乗り心地のよくない飛行機で、時間に間に合うように私を乗せて帰ってくれるだけで十分な小型の飛行機を私は予想していたのです。それ以上のものは必要でないと考えていました。
パイロットは立ち止まって言いました。
「これです。先生、お乗りください」
私は見上げました。目の前にあったのは、滑走路で一番大きな飛行機だったのです。それは一ブロックほどあるように見えました。
主よ、これが私に用意されたものとは思えません、と心の中で言いました。私はなかばボーッとした状態でステップを上り、乗務員の後について、広いラウンジの中の心地よい席に案内されました。乗客は私ひとりでした。飛行機にはあらゆる文明の利器がとりつけられていました。貨物の輸送機ではありませんでした。
司令官が来て自己紹介をし、この飛行機をゆっくり楽しんでくださいと言ってくれました。私はお礼を言うにも口の中でもぐもぐするだけでした。感極まっていたのです。神は私がフォート・ベニングへ遅れずに帰れるように飛行機を備えてくださいました。しかし、どうしてこんな大型のぜいたくな飛行機を備えられたのでしょうか。なぜ神は、私の目的に合うだけの小型機を用意されなかったのでしょうか。
私は身分不相応の感を強くもちました。こんな大型の飛行機は浪費ではないかという考えがサッと頭をかすめました。
「主よ、これは一体どういう意味でしょうか」と私は当惑して、尋ねました。
「私があなたを愛しているというそれだけのことだ。私は、私に信頼するすべての子らにこのようにしたいのだということをあなたに知ってもらいたい」と簡潔な答がかえってきました。
「主よ、少しずつ分かってきました」このことを考えていると、喜びがうちにわき上がってきました。
「私はあなたがどんな人でも、耳を傾けてくれる人に、人生に起こるすべてのことで感謝するように教えてもらいたい。そうすれば、私は天の窓を開いて、彼らが求め、あるいは望む以上の恵みを注ぐでしょう」
「主よ、ありがとうございます」
私は座席にすわって感謝に満たされていました。心の中にみ声が続きました。
「このことを忘れてはいけません。あなたは私の恵みを受けるに価するだけの人間となることはできないのです。何かをし、何かの報酬として恵みを受けることはできないのです。私があなたに与えるものはすべて無代価の贈り物でなければなりません。それは私の善意によるものです。あなたはこのことを理解し、受け入れることを学ばねばなりません」ふつう民間機を利用する時はいつも、私は軍の牧師室から十マイルはなれた飛行場に着陸していました。ところが、この巨大なエンジン四つの飛行機はフォート・ベニングに着陸しました。それも約束してあった場所から二、三百ヤード以内の所だったのです。建物の中に入って時計を見ました。正確に時間通りの到着でした。一分も早すぎず、また遅すぎなかったのです。
神は私たちの必要を備えてくださいます。しかも豊かに、そして無償で備えられるのです。
5.不平の原因は不信仰
マーリン・キャロザース/讃美の力P199
イスラエルの民の不平の原因は不信仰でした。そして、私たちの小さな不平のひとつひとつの根底にも不信仰があるのです。
不信仰がイスラエルの民をカナンから締め出したのです。しかし神は、彼らをただカナンという地理的な場所へ導くことだけでなく、もっとそれ以上の事を、彼らのためにしようと願っておられたのです。つまり神の約束の地とは、また完ぺきな安息の場、完ぺきな信頼と平安の状態のことでもあったのです。
「神の約束―すべての人が彼の安息の場に入るのを許されるという約束がなお存続しているにもかかわらず、あなたがたのうちにある者は、そこに入りそこなうかも知れません。ですから、私たちはおそれおののかねばなりません。・・・なぜなら、神を信じる私たちだけが、彼の安息の場に入ることができるからです。神は仰せられました。『私を信じない者は決して入ることはできない、と私は怒って誓った』(ヘブル4・1、3〔リビング・バイブル〕)
神は今、私たちのために完ぺきな安息の場を備えていてくださいます。死後のことを言っているのではありません。現在のことを言っているのです。つまり、私たちがみな信仰に基づいて入ることができる“神に全く信頼する状態”のことです。しかしこの状態に入るためには、私たちの不信仰の罪、すなわち不平、不満、つぶやきをすてなければなりません。不信仰は神に対する重大な罪です。
不平/
6.私たちが神を讃美するとき、他の人がキリストに導かれる
マーリン・キャロザース/讃美の力P227
私たちが神を讃美するとき、他の人がキリストに導かれます。逆にもし私たちが、毎日のささいな、いらいらする事の中で信仰のない人たちと同じようにブツブツつぶやき不平を言うなら、人々は信仰をもっていようがいまいが、実際には何も変わりはないではないか、と思うでしょう。私たちの日常生活のささいな事柄についてもキリストを信じると信じないではこんなにも違うのだという事実を彼らが見ることができないならば、いくらイエスが必要だと説いても、どうして彼らが信じるでしょうか。
私たちの中にあるキリストの命に他の人たちを引きつけるのは、私たちの語る言葉ではなく、私たちがどういう人間であるか、どういう態度、行動をとっているかによるのです。それは私たちの日常生活において最もよく現れます。仕事が遅れたり、困難に直面したりする時、あるいは突発事故に、あるいは毎日出くわす事に、私たちはどう反応するでしょうか。世間の人たちと何の違いもないように反応するでしょうか。それとも私たちの態度を見た人たちが足をとめて、「あの人はどこか違ったところがある。私が必要とする何かを持っている」と言うことになるでしょうか。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P19
私たちが自分の家族の一人一人を絶えず赦すことから始めることができたら、どれほどの違いをもたらすことでしょう。互に不平を言ったり、イライラしたり怒ったりする代わりに、「主よ、父が私とお約束をまたもや破ったことを感謝いたします。父を赦しますから、主よ、あなたも父を赦してください」とか、「主よ、私の子供がまたもやベッドメーキングを忘れました。感謝いたします。私は子供を赦します」と言うのです。そのようにし始めてごらんなさい。訪れて来る人々が、あなたの家庭と食卓の雰囲気の良さの秘密を知りたいと思うようになるでしょう。そのときこそ私たちは彼らをイエスに紹介することができるのです。
7.赦しは、賛美をする上でなくてはならない土台
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P276
神に完全に赦されたと信じた時、心の内に生じたあの喜びを、私は決して忘れません。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P5
本当の賛美とは、赦された者の心から自ずとあふれ出てくるものなのです。赦しは、賛美をする上でなくてはならない土台になります。それは、私たちと神との関係全体を握るかぎでもあります。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P11
赦さない心は賛美をする心になり得ません。赦しは、私たちと神との関係だけでなく、他者との関係を開くカギともなります。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P11
赦そうとしない心は、私たちから平安、喜び、そして健康を奪い取ります。
8.教派
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P21
時として、クリスチャン同士が教会でうまくいかないことさえあります。でもイエスは、「あなたがたが互に愛し合っているのを見て、人々はあなたがたが私の弟子であることを知るようになります」と言われたのです。
教会が冷たく、教会員が互に厳しく批判的であると感じられるときは、赦そうとしない精神がすべての喜びと愛を消しているのかもしれません。あなたがそんな教会にいるならば、あなたをそこに置いてくださったことを神に感謝し、自分自身の態度をよく調べてみてください。
パウロは書いています。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてのことに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」(コロサイ3・13−15)。
もしすべてのクリスチャンが、互に愛し、赦し合うという責任と特権にふさわしく生きていたなら、今よりはるかに少ない教派しか今日、存在していないことでしょう。常に赦し、愛すること、平和で心を満たすこと、常に感謝することは私たちのすばらしい特権なのです。
マーリン・キャロザース/この世に天国をP98
様々な教派があるのは、クリスチャンが互に仕え合うことのできない結果です。
9.赦せない心
10.アルコール中毒
11.主の愛を知った人たち
主の愛/
マーリン・キャロザース/モアパワー/P216
ある55才の男性が手紙をくれました。
「私は孤児で、子供時代のほとんどは、あちらこちらへと移されました。それは皆が私を拒絶してのたらい回しだと受け取ってしまい、誰かが私を愛するとは信じられなくなってしまいました。何人かの人が、私を懸命に愛そうと努力しましたが、私は、心の奥で、自分はとても愛されるべき者ではないと信じきっていたのです。何年間も、頭の中では、神は私を愛しておられると信じていましたが、それは、私にとって、全く現実的なことではありませんでした。神は、この六週間あまり、私の過去の経験やその他のことなどについて、私を取り扱われましたが、私が愛されているということには、全く考えも及びませんでした。
そして、先週のある日、先生の本『天国の到来』(モア出版より既刊)を読んだ後、私は一杯のコーヒーを飲み、新約聖書を読みながら、レストランに座っていました。すると突然、ある考えが、大型トラックがぶつかってくるように、私を襲いました! ― 神が私を愛しておられる!
それがどのように迫ってきたかを表現することはできません! 私は、声の限りにこう叫びながら、通りを駆けて行きたいほどでした。『皆さーん。神様は私を愛しておられるんです! 神様は私を本当に愛しておられるんですよ! 』
五十五才の男が、このようなことをするのは、実にばかげていると思われることは知っていました。そして、その時以来、心から喜びが溢れています。私は今までに、どんなことにおいても、こんなにいい気分になったことは一度もありませんでした。そして、どんなことがあっても、この素晴らしい気分を打ち壊すものはないでしょう。
先日、私はハシゴからコンクリート舗装された道路に落ちてしまいました。私はただ笑って言いました。「やれやれ、主を讃美します!」
私は未来についてこれほど素晴らしく感じたことはありませんでした。未来はとてつもなく素晴らしいことを知っています。そして、現在は、今まで経験したことがないような平安と満足に満たされているのです。」
だれでも神の愛を全く個人的なものとして理解すると、心の奥で、新しい感情が生まれます。それは、「神様。私は生まれてきてよかったと思います! 」と叫びたくなるようなものです。
なぜ、私たちは生まれたのでしょうか?
教えましょう。
神の愛を認め、受け取り、味わうためです。
マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P44
最近私は、まるで10代の若者のような元気さに溢れた老人に出会いました。この人は私に、神さまがどのようにすばらしいことを自分にしてくださったかを、繰り返し興奮して語ってくれました。私の質問に応じて、彼は自分の生い立ちを話してくれました。
彼が生まれて3週間目に母親は死んでしまいました。父親は何とか彼を生かしておくために食料と屋根を提供してくれる家庭に彼を預けました。父親の仕事は綿摘みで、その収入は息子を何とか養い、息子に部屋と食事を与えてくれる家庭をいくらかでも助けるのが精一杯だったのです。結局、息子が預けられた家庭の数は15にものぼりました。やがて、彼が父親と綿摘みの仕事を一緒にできるまでに成長したとき、彼らは一部屋だけしかない小屋に一緒に住みました。
その人はこんな説明をしてくれました。「私は生きていくために働くことを学びました。父のしてきた重労働を感謝することも学びました。私は働けば働くほど強くなっていったのです。私たちは貧しく、学校にも行けませんでしたが、食べるもののすべてを、またどんな小さな喜びをも感謝しながら成長しました。私はいまでも、一日のひとときひとときを感謝しながら過ごしています。」
この人は最近、結婚してから54年間も連れ添ってきた女性を失いました。彼はこの女性について喜びをもって語り、こんなすばらしい妻を与えられたことを神さまに感謝するのでした。悲しみも、自分が哀れだという感情も表さず、その心には神さまが彼に与えてくださった良いこと以外には何もないように見えました。この人は、私が誰であるのかを全く知りませんでした。私に話しかけてきた動機は明らかに、ただ自分の感謝にあふれた態度で私を祝福したいということだけだったのです。
人生の経験は、私たちの益にもなり、害にもなります。どちらになるかを決めるのは私たちです。人が年をとると、現在それぞれが心の内に蓄えつつある喜びが、外へ向かって輝き続けるか、もしくは喜びが不足するかどちらかなのです。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P283
私たちは、母親の腕に抱かれていた時代から、愛されたいという気持ちを持っていました。だから、私たちを愛する神の愛がどれほど深いか知った時、生まれた時から持っていた望みが満たされるのです。
12.厄介な人を我慢する
13.主は父なる神御自身
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P73
神は永遠のいのちという贈り物を必ず下さることを信じてください。では、なぜ神はそんなことまでしてくださるのでしょう? あなたが善良な人だから? そうではありません! それが神のご性質だからです。神は、ご自分のいのちまであなたに下さろうとしたではありませんか。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P115
神はご自分が創られた者たちの人生を何世代にもわたって観察してこられたので、人間がいつも正しく生きることができないのをご覧になっていました。しかし、それでも神は自らの意志で、イエス・キリストとしてこの世に来られ、完全できよい人生を送られました。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P166
イエスこそこの世のすべてを創造された方なのです。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P243
私たちの望みはただひとつ。この地上に来られ、そのいのちを私たちに下さった創造主に信頼を持つことのみです。
マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P259
人間は実際に見たこともない人を愛することなどできないのを、神さまはよくご存知でした。そこで、完全なご計画を考え出されたのです。ご自身が御子イエスとして、この世に来られるご計画を。
あるお方が、私たちの益となることのために苦難をお受けになったと知れば、その人を愛することは容易になります。そしてさらにこのお方が、あるがままの姿の私たちを愛してくださるのがわかれば、私たちもまたこの方を愛したいと望むようになるでしょう。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P264
今の社会には、神は信じるが、それはイエスではないという人がたくさんいます。それは、何も信じないより、何か信仰を持っていたほうがましだと思っている人たちです。だが、ヤコブは、そんなタイプの信仰を、悪霊が信じる信仰と同じものとして分類しています。
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブの手紙 2章19節)
14.神の同意を求めるようになる
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P282
神をもっと深く愛するようになると、自分たちがすること、考えることすべてについて、神の同意を求めるようになります。
15.死後のいのち
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P279
信仰のない人たちは、うわべは飾っていても、心の内には死と未知なことへの恐怖があります。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P280
人は、自分が死んだら、あとはどうなるかということを心配するのも神はご存じでした。また若くて健康なときには、そんなことは考えもしないでしょう。しかし、病気、老齢、何かの危険などに脅かされると、人はみな死後のいのちについて考え始めます。私は戦場でそんな人たちを数多く見てきたので、神を信じない人や、死後のいのちを信じたことがない人がどうなるかをよく知っています。
死という黒い雲が迫って来ると、何かを信じていようといまいと、人はそのことに心を奪われます。陸軍の従軍牧師だったころ、私は数多くの兵士たちと、死や死後のいのちについて話し合いました。すると、神を信じていない人たちの中にも、私の話すことが真実だと信じてくれる人たちも出てきたのです。神が私を戦場に遣わした理由のひとつがこのことだったと私は信じています。
そして、今私は、数多くのまだ神を知らない人たちにあることを話しなさいと神に語られていると信じています。あることとは、死後のいのちは実際あることです。死ねば何が起きるかを、私たちははっきり知ることができるのです。
16.神が守ってくださるという確信
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P279
祈りへの答え、心の喜び、神が守ってくださるという確信などは、信仰によって得られます。信仰がなければ、サタンが喜んで用いている苦しみの犠牲になるかもしれません。
17.路上伝道は効果が無い
マーリン・キャロザース/モアパワー/P176
私たちは、残りの生涯を、路上に立って、福音の良い知らせを叫ぶこともできますが、それでも関心を払う人は誰もいないでしょう。事実、そんなことをしても、サタンでさえ私たちを無視するでしょう。私たちの活動が誰かに良い影響を与えるようにならなければ、サタンは、私たちが何を行おうと気にもとめません! 私たちの生活を見て、キリストについて考えるようになる人が出てくると、サタンは私たちに対してとても用心深く注意を払うのです。
18.賛美は筋肉を鍛えるのと同じ
マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P43
(限りない成長)
私たちがあまり体を鍛えなければ、筋肉は弱くなるでしょう。いつも鍛えていれば、筋肉は成長し強くなります。この法則にはいささかの不公平もありません。筋肉を鍛えることに努力を集中する人は強くなっていきます。そのような人たちは来る日も来る日も、毎年、毎年、目標達成のためにがんばります。ほかの人たちはその結果だけを見てうらやむかもしれませんが、その人たちの努力に対抗してみようという意志はないのです。
霊的な幸せもまた持続的な努力を必要とします。ウェイト・リフティングの重さが大きければ強く良質な筋肉が発達するのを同じように、困難に向かっても神さまを賛美し続けることは、強く喜びに満ちた魂を育てます。神さまは、私たちの霊の働きをそのように設計されたのです。
神さまがお造りになったこの人間というものが幸せになるための公式は、理解は簡単でもそれを実行するのはなかなか難しいものです。ピリピ人への手紙4章4節は言います。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」
いつも、ですか? 喜びたくないときでもですか? そのとおりです! 困難なときにあって喜ぶことは、筋肉を強化するために思いウェイトを持ち上げるのと同じことなのです。
(以下、上記「11.主の愛を知った人たち」マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P44
「最近私は、まるで10代の若者のような元気さに溢れた老人に出会いました。」に続く)
19.機首を上げよ
鬱/
マーリン・キャロザース/獄中からの讃美P158
それは、まばゆいばかりに純白な光で、その輝かしさはことばで表現できないほど、まばゆいものでした。黒雲の上に出て見ると、その上を歩けることに気づきました。その輝きをじっと見ている限り、苦労せずに歩くことができるのですが、黒雲の性質を調べようとして下を向くと、私はたちまち沈み始めてしまうのでした。その輝きを見ていなければ、その上に留まることができないのです。
それから場面が変わり、私は遠くの方からこの三つの層全体を眺めている所に戻っていました。
「これは一体、何を意味しているのでしょうか」
と私がたずねると、答が与えられました。
「雲の下にある日の光は、多くのクリスチャンが普通の光として受け入れている光で、かれらはその光の中で生活している。そして、そのはしごは、わたしを讃美する、というはしごである。多くの者たちがそれに登って、すべてのことについて、わたしをあがめることを学ぼうと試してみる。最初、かれらはとても熱心だが、自分たちには理解できないことにぶつかると、かれらは混乱して、しっかりはしごにつかまっていることが出来ない。かれらは信仰を失い、滑り落ちて行く。かれらが落ちて行くと、絶えざる喜びと讃美の中に生きる道を見つけたいと願っていた、ほかの人たちまでも傷つけてしまう。
しかし、困難な時期を通り抜ける人たちは、新しい世界に到達することができる。そして、かれらは、かつてかれらが正常だと思っていた生活は、わたしをあがめる者たちにわたしが備えておいた生活とは比べ物にならないことを悟り、わたしが常にかれらを見守っていることを信じることができる。天の王国の光に到達した者は、いろいろな困難がどれほど暗く見えようとも、自分の目をその問題にとどめず、キリストにあるわたしの勝利にとめている限り、その困難の上を歩くことができる。自分の人生における、どんな些細なことにも神が働いておられると信頼することが、どれほど困難に思えても、讃美のはしごをしっかり握りしめ、上に向かって進むのだ! 」
マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P319
不幸せは悪魔が用いる道具です。
(中略)
私たちはみな、不幸せの持つ強力な影響力を感じ取っています。それはすべての人を底なしの穴に引きずり込むことが可能なのです。
不幸せには限度というものがありません。不幸せに苦しめば苦しむほど、その破壊的な力は強くなります。私たちを支配したいという飽くこと無い欲望を許せば許すほど、それはますます貪欲になっていきます。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P78
神が今のままのあなたを理由があって造られたことを信じますか。そしてあなたが今いるところに、神に望まれて置かれたことも。このことについてちょっと考えてみてください。もしあなたが、私や私の知っている皆と同様なら、あなたは様々な環境に取り囲まれており、それらに対して二つのうちのどちらかの仕方で反応しているはずです。それらをうれしく思っていないなら、あなたは落ち込んでいきます。うれしく思っているなら、あなたの気分は上向きのはずです。さて、あなたは今、上昇中ですか、それとも下降中ですか。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P79
私たちが屈服するとき、私たちの目は問題に向けられており、心は不平不満で一杯です。私たちが服従するとき、私たちの目はキリストに向けられており、心は賛美で満ちています。屈服するとき、私たちは惨めさと悲しみの中に、時間の経過と共に、深く沈んで行きます。これとは対照的に、服従するとき、私たちはやがて、たとえ問題が残っていても、キリストにおける喜びをかみしめることができるほどに高められていきます。
幾つもの国が、戦争用の毒ガスを開発しています。それは全く目に見えませんしにおいもしませんが、その犠牲者は、その存在に気づくことなくそれを吸ってしまいます。サタンは、何が起こっているのか私たちが気づかないまま、私たちの心と精神に入りこませることのできる死の「ガス」を持っています。それは、不平を言う態度です。私たちの中には、あまりにも不平を言うことに慣れていて、それが自分の当然の権利だと思っている人もいますが、イスラエルの民が荒れ野で死ぬこととなった原因は、不平とつぶやきにありました。パウロは初代教会のクリスチャンに警告しました。「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」(第1コリント10・10)。
不平は、不信仰と疑いの表れであるがゆえに、致命的な罪なのです。神が事態を掌握されており、あなたにとって最善のことをなしておられると本当に信じていたら、不平を言いはしないでしょう。あなたが不平を言うとき、あなたは屈服しています。問題によって高められているのではなく、引きずり下ろされているのです。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P105
その後の24時間の間に、サンドラは貴重な発見をしました。彼女が自分の思いを神に向け、苦悩のゆえに神に感謝するときは、頭痛が耐えやすくなったのですが、彼女が痛み自体に注意を向けたときは、頭痛がひどくなったのです。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P108
あなたが神を愛する理由を全部並べあげてみてください。そのリストは日々増えていくのがわかるでしょう。それぞれの理由のために神に感謝してください。声に出して言ってください。あなたが受けた祝福を歌い上げてください。その祝福を他の人にも分かち合ってください。
パウロは、エフェソの教会の人々に、「・・・互に詩や、賛美の歌、霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心から歌い、琴を奏でなさい」(エフェソ5・19)と勧めています。それをあなたの習慣としていくなら、憂鬱や不機嫌を超越するところまで引き上げられるようになり、神への愛はさらに深まるでしょう。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P109
「私のこの新しい愛は、感情以上のものです。日毎に移り変わる気分に影響されるものではありません。神がどれほど私を愛してくださっているかを考えると、私は、神が与えてくださったものすべてを愛さざるを得なくなってしまうのです。子供がリビングのじゅうたんに残した汚い足跡や、手で触って壁につけた油っぽい汚れさえ私は愛しています。私はこう言うのです。『主よ、これらの汚い跡をありがとうございます。私の子供たちをありがとうございます。子供たちを今よりもっと愛せるように助けてください』と。すると子供への愛が心に溢れてくるのです。こんなにたくさん愛せるなんて私は世界一の幸せ者です」。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P110
たいていの場合、私たちが不平を言うのは、私たちがしなければならない小さなことに対してです。たとえば、朝起きたり、皿を洗ったり、車を洗ったり、食料品を買ったり、雨漏りのする屋根を修理したりというようなことです。しかし、神は、日常のわずらわしい仕事の一つ一つを特別な気づかいをもって与えてくださっているのです。「言葉にしろ、行いにしろ、何かをするときには、主イエズスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエズスの名において行いなさい」(コロサイ3・17)と私たちは言われています。私たちがしなければならないこと、その一つ一つが神への愛を表わすものであるべきです。そうすれば、神の愛によって私たちはさらに高く引き上げられることでしょう。
マーリン・キャロザース/讃美の力/P244
二十年ほど私は胃が悪くて苦しんでいました。いろんな種類の食物が胃の調子をひどく悪くするのでした。多くの医師にかかり、あらゆる薬を飲みましたが効きませんでした。(中略)
手術後、病院のベッドに横たわっていた時、苦痛が以前になかったほど激しくなりました。鎮痛剤も麻酔薬も効きませんでした。何時間も眠れず、本当にその部屋の暗闇が押し迫ってくるかのように感じながら横になっていました。私はまわりをうろついている悪しき闇の力を身近に感じ、その恐怖に屈服しそうになる誘惑と必死に戦いました。死にたくはなかったのですが、このような惨めな姿で生きていることを恐れたのです。
その暗闇がいよいよ大きくなったと見えた瞬間、私は叫びました。「主よ何が起ころうとも、どのように惨めになろうともかまいません。このことを全部あなたに感謝します。あなたがここから何かよいことを起こそうとしておられることを信じます」
その瞬間、病室の暗闇は太陽よりも輝く白光で破られ、追い払われました。その光は数年前、幻で見たのと同じような輝いた光でした。その時、聖霊がその幻を私に説明してくださいました。すなわち、陽の輝く牧場をおおうように黒雲がただよい、その雲の上には輝く白光があるのです。雲の上高く、キリストがすでに私たちのために確保してくださっているよろこびと祝福があるのです。しかしそこへ到達するためには、混乱と苦しみの黒雲を真っすぐに貫くはしごを上らねばなりませんでした。その雲の中は、私たちの普通の感覚―見、聞き、感じる―を用いても、方向を知ることができないのです。ただ信仰によって一段一段神を讃美することによってのみ、そのはしごを上ることができるのです。暗い雲を貫いて上っていく間に、感覚に頼る気持ちが取り除かれて、神のみ言葉に信頼することを学んでいくのです。讃美のはしごは私たちを高く天に引き上げ、そこでキリストと共なる座を与えてくれるのです。
この驚くべき輝く光に全身を包まれて病院のベッドに横たわっていた時、かつて幻であったものが今や現実になっていることを、私は突然悟りました。
神が私の苦しみを益とされていると信じて、信仰によって歩んできた数年間は、暗闇と不安の黒雲の中を上っていく数年間だったのです。その雲がなければ、私は自分の感覚と感情に頼る気持を捨てることを決して学ばなかったでしょう。今や、私はその黒雲をさらに大きくするすべての状況から神に感謝できるようになりました。他のどんな方法で私は徹底的に神に信頼することを学び得たでしょうか。他のどんな方法で私は、このようにうるわしい光と喜びにひたることを経験し得たでしょうか。
病院から退院した時、胃の状態についても神は何かをしてくださったことを知りました。かつては何時間もの苦しみにさらされたその食物にももはや悩まされなくなりました。何年もの間、遠ざけていたいちごも、りんごも、アイスクリームも今は安心して食べられるということの新しい自由に私は歓喜しました。
過去数年間、他人のために祈れば、すぐにいやされたのです。けれども神は私をみ言葉に信頼させることによって私の信仰を強める道を選ばれたのでした。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P166
,87・5・2
一致を求めなさい。私の花たちを癒し、香りを与え、茂らせる、我が庭園を美しくさせよう、あなた方の心に水を与え、生き返らせる。
被造物よ! あいしている! あなた方の上に輝こう そうするなら私の暖かい光はあの重く暗い雷雲を散らし、消し去ってしまう。
私の光はそれらを貫き 重くのしかかる暗やみと悪 あなたに弱さと、みじめさと悪徳しかもたらさなさったこのやみはすべて 消え失せてしまうであろう。私の暖かい光は花を皆生き返らせ
天からは正義、成聖、清さ、誠実、平和と愛の露を降らせる。
私は 寝ずにあなた方の上に目を注ぐ熱心な牧者、思い出しなさい、私はこの世の光、御言葉です。
20.死刑囚(囚人)からの手紙
マーリン・キャロザース/讃美の力/P253
あるひとりの死刑囚がこんな手紙をくれました。
「私は電気椅子の死刑を宣告されています。私は死なねばならないことが分かっています。長い間、死の向こうに何の希望をも持っていませんでした。恐怖が私の考え全体を支配していました。私は神にも人にも捨てられたと思っていました。その時『獄中からの讃美』を読んだのです。まるで私は生きかえったのでした。神は現実的な方であり、すべての人の人生に働いてみ子を『救い主』として、『主』として受け入れさせようとしむけておられるのだということを私はあえて信じます。
私は自分の汚い人生をふりかえって、しみじみと悟りました。いっさいのことは私が神を求めるようになるために、神のゆるしによって起こったのであると。実際、私は神を求め始めたのです。そして目のくらむようなある瞬間、私はすべてのことは神がそこに働いておられ、私たちの益となり、神の栄光となるようにしておられるのだということを知ったのです。生まれて初めて、私は自分の全人生が神によって祝福されていることを、また御子を信じる信仰によって私は主のものであることを知りました。今、私は本当に自由で、神の平安と喜びに満たされています」
マーリン・キャロザース/讃美の力/P254
また、別の囚人はこのように書いています。
「私はすべての人間、すべての事を憎むようになっていました。どんなに頑張っても、私は自分が生きていることを喜ぶ理由を見いだせませんでした。ある人が『獄中からの讃美』をくださいました。最初それを読んだ時、ナンセンスな話だと思いました。しかし考え直してみるうちに、だんだんと私の台無しになった自分の人生を神に感謝してみようという気持ちになってきました。『いずれにせよ自分はどん底にいる。どっちにころんでも損はない』と考えたわけです。
私はこれまでの自分のことを、思い出すままに一つ一つ考え始めました。そして、その一つ一つが私のための神のご計画の一部であることを神に感謝しました。こんなことはばかげたことのように思えましたが、私は無理に続けました。そうしているうちに、何かが心の中に起こり始めました。私の混乱した人生の中に、神ご自身が個人的に係わっておられると考え始めたのです。神がこの私に関心を持っておられたなどということが、本当にありうるだろうか? 忘れていたいろいろな事がひとつまたひとつと次第に思い出されてきました。以前はそれらを悲劇だと思っていました。しかし今では、それらはみな、私には神が必要だということを確信させるための神の真実やご計画の一部であったと考えられるようになってきました。
私は自分の人生のどんな細かい事も神に感謝しました。憎んだり、迷惑をかけたり、中傷したり、裏切ったりした人たちのことを神に感謝しました。
よろこびに満ちた平安があふれてきました。すべてのにがにがしい過去を神がいやしてくださっていたのです。獄の壁はとけ去り、代わって平安が私を取り囲みました。壁や囲いがあっても、もはや私は囚人ではありません。キリストにあって自由にされたのです。神をほめたたえます」
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P90
私は、終身刑の判決を受けた受刑者からいろいろな話を聞いたことがあります。神が自分たちでさえ愛していてくださるのを知った時、喜びでいっぱいになったとその人たちが話してくれたのを聞いて、私の心もまた喜びで満たされたのでした。悔い改め、神の約束を信じた時、突然、圧倒されるような喜びを感じたと彼らは言うのです。
その人たちの中には、あんな事などしなければよかったのにと繰り返し思いつつ何年も過ごしてきた人たちもいました。家族や友人たちから仲間外れをはっきりと宣言されていたのです。ある人たちは、長年、まったくだれからも何の連絡もなく、自殺を考えながら何時間も過ごしました。でも、そんな人たちも、イエスの赦しと平安に満たされたのです。そこで彼らは、仲間の囚人たちにイエスのことを語り、語られた人たちも同じように、赦しと平安を体験していきました。