厄介な人を我慢する

 

慈悲赦す忍耐辛抱強い

 

 

 

1.聖書

2.トマス・ア・ケンピス

3.サンダー・シング

4.マリア・ワルトルタ

5.ジャン・マリ・ヴィアンネ

6.マザー・テレサ

7.ルイザ・ピッカレータ

8.マーリン・キャロザース

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・5

 

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 

 

 

マタイ5・7

 

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 

 

 

マタイ5・9

 

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

 

 

 

マタイ5・38−42

 

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 

 

 

マタイ5・43−48

 

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

シラ27・30、28・1−7

 

「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。

 

 

復讐する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。

隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。

 

人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。

自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。

弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。

 

自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。

掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。」

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

キリストに倣いて/2巻3章[2]

 

善良でおとなしい人といっしょにくらすのは、少しもむずかしいことではない。それはだれでも自然に楽しく思うところで、人はみな平和を喜び、自分と同じ考えの者をいっそう愛するからである。

しかし人触りが悪いなみはずれた者や、だらしのない者や、自分に逆らう者などと、平和にくらすのはこれこそ大きな恩恵であって、称賛すべき雄々しいことである。

 

 

 

キリストに倣いて1巻17章[1]

 

 あなたはもし他人と平和に仲よくくらしたいならば、多くのことにおいて自分のわがままを捨てることを学ばなければならぬ。

 修道院や他の団体の中にいて、不平も言わず、死ぬまで心変わりもせずに辛抱するのはなかなかなみたいていなことではない。

 だからここでよい生涯を送り、幸いな臨終をとげる人は恵まれた者である。

 

 

 

キリストに倣いて1巻16章[1]

 

 他人の欠点を耐え忍ぶこと

 

自分や他人の身において改めることのできぬ所は、神が別の摂理(はからい)をしてくださるまで辛抱忍耐しなければならぬ。

そして多分これは自分の試練(こころみ)となり、忍耐のためにいっそう役立つのだろうと思うがよい。忍耐がなければ、私たちの功勲(いさおし)はほとんどなんの価値もないからである。

 

 しかしかような妨げに出会ったならば、神があなたを助け、柔和な心でこれを辛抱させてくださるよう、熱心に祈らなければならぬ。

 

もし人に一二度忠告してみて、相手がそれを聞き入れないならば、争わずにすべてを神にお任せするがよい。それは主のみむねが行なわれ、主があらゆるしもべにあがめられたもうためである。神は悪を善に変えることをよくご承知である。

 

 他人のどんな不足や弱点もがまんするように努めるがよい。なんとなればあなたもわが身にそういう所をたくさんに持っていて、他人に辛抱してもらわなければならぬからである。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P201

 

 わたしは、こうもいった。『自分を愛すると同じように隣人を愛せ』と。ある意味では、すべての人が互いの隣人ではあるが、あの言葉は、あなた方の近くに生きている人々を特に指した言葉である。仲の悪い隣人であっても、二、三日ぐらいの間なら平和にやってゆくことは容易である。だが、近くに住んでいて毎日のように厄介の種を作る者を耐え忍び、自分のように愛することは至難の業である。だが、あなたがこのような大きなもめ事を克服するならば、誰をも自分のように愛することは、もっと容易になる。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P102

 

ペトロ! 私には分るが、それでもおまえに愛徳を持て、と繰り返して言います。厄介な人を我慢することは、これは小さくない徳の一つです。そうしなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P90

 

「彼が私を年端のいかぬ子供のように扱うときでもですか?普段はともかく彼はときどき常識外れなことを言いますよ」

 

「黙ってそれを聞き流すのです。それが怒りを鎮める唯一の薬なのです。謙遜と忍耐をもって沈黙しなさい。相手を罵らないで、もう黙っていられないと思ったら、そこを去りなさい。黙ることを知り、逃げることを知る。これは卑怯のためではなく、返答に窮したためでもない。ただ徳のため、賢明のため、謙遜のためです。

 

議論のとき、正義を守るのは決して易しくないし、心の平和を守るのも難しい。何時でも何かが心の中を濁し、雑音を立てる。そのとき人間の心に反映している神のかたどりは消えてゆき、もう神のことばを聞くことができない。兄弟の間の平和!敵に対しても平和。彼らが我々の敵であればサタンの友だちである。自分を憎む人を憎んで、自分もサタンの友人になりたいのですか。愛から外れている人が、どうして他人を愛へ導くことができよう。

 

あなたたちはよく私に言う。『イエズス、あなたは何回も教えを繰り返すだけでなく、それを実行しておられるのに、それでもあなたは憎まれている』と。私はこのことを何時も繰り返そう。何時かあなたたちと一緒にいられなくなるときには、この教えを天から聖霊を通して繰り返そう。我々は敗北ではなく勝利を教えたい。このために神を賛美しよう!回心者がいない日はなかったか、神の働き手はこれに注意すべきで、うまくいけば主をたたえ、勝利を手にしないときも世間の人々のように平和を失うことがないように。そうすれば・・・」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P340

 

 「不浄者になる? おまえを動揺させているのはそんなことではない。おまえは神殿の人たちを敵にしたくないんだ。それでいら立っている」とペトロとアルフェオのヤコボとフィリッポと、台所に残っていた熱心もののシモンが穏やかな口調で言う。他の使徒たちは子供たちと一緒に台所から出て、先生の所に行ってしまう。これは功徳のある逃亡だったろう。愛徳に背きたくなかったのだから。

 

 

 

 

5.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

聖ヴィアンネの精神P153

 

 自然の感情の赴くままに善業をしても、少しも功徳になりません。一緒に暮らして世話してやれるような一人の寡婦が欲しいと思っていた婦人が、聖アタナジオの処に、彼の貧しい人々の中から探してくださいと頼みに来ました。ずっと後のこと、司教様に会ったこの婦人は、頼み甲斐もないと司教様を非難しました。言うところによると、司教様が選んだ人は余りに善良で、天国のために何らの善業も得させてくれないと言うのです。そして、他の人をよこして下さいと頼みました。

 

聖人はできるだけ悪い人を見つけてやりました。やかまし屋で、手におえない、何をしてやっても満足しない寡婦でした。このようにしなければなりません。私共の思いのままになり、私共を有難く思い、感謝を示す人に善業をしても大きな功徳にはならないからです。

 

 十分に優遇してくれないといつも思っている人々がいます。何事も彼等には当然のようです。誰にでも、お返しには忘恩の仕打ちです・・・そうです。このような人々に好んで善業をしなければなりません。あらゆる行為に際して賢慮であり、決して自分の好みを求めず、できるだけ神様のお気に召すようにしなくてはなりません。

 

 

 

 

6.マザー・テレサ

 

 

両親へ

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P29

 

自分の家庭の外で人々にほほえむことはたやすいことです。あまりよく知らない人をお世話することは、実はとても易しいことなのです。あなたの家の中で毎日会っている家族を、思いやりをもって、優しく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいことです。特に疲れていたり、イライラしていたり、機嫌が悪かったりする時はなおさらです。だれにでもそんな時があります。そんな時こそ、苦しむ姿のうちに救い主が私たちのところに来ておられるのです。

 

 

 

 

7.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P10

 

主はまた私に、主から決して離れることなく被造物を愛する方法も教えて下さいました。つまり、被造物を神の似姿として眺めるのです。もし人が私に何かよいことをしてくれた時は、まさにそれは主から来たものとして感謝すべきで、主こそが私にたいしてなされたそのよい行いの最初の動機、主人公であり、彼らを通して主が私にそれをして下さったのです。反対に、もし私にたいして何か嫌なことをされた時は、それが霊的なものであれ身体的なものであれ、ただ私のよりよい善のために、神様がそれを行うことをお許しになったと考えなければなりなません。それで私の心はますます神に引きつけられ、結ばれるのを感じるのでした。それゆえに、全ての人を神のうちに見、また彼らの一人ひとりのうちに神のお姿を見ることによって、もう彼らにたいする尊敬を失うことがなくなりました。もし人が私を冷やかしたりしても、反対に私の霊魂にとって新しい功徳を獲得させてくれたのだと考えて、その人を神様のうちに愛さねばならないという義務をもっと感じるのでした。その反対に、もし人がほめ言葉や拍手をもって私に近づいてくるような時、私は心の中で、今日はこんなふうだけれども人間の気まぐれから明日は私を憎むこともできるのだと思いながら、それら全てを私への軽蔑のように受け取っていました。とにかく私の心はあの頃から、言いようのないほどの自由を獲得いたしました。

 

 

 

 

8.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/恐れからの解放/P271

 

私は、自分が持っているものはすべて、まさに私が必要とするものであると信じるようになりました。もし怒りっぽい人物とつき合うという霊的な訓練が私に必要なら、神さまはそのような人物を私のそばに送られることでしょう。生活の中での私の目的は、彼を裁くことでも途方にくれることでもありません。それは、神さまがその人を通して私を祝福してくださると信じるようになることなのです。

 この発見は、私にとってなんと大きな解放だったことでしょう。それは非常に大きな助けになったので、私はあなたがこの原則を理解し、自分に適用するようになることを祈ります。そうするなら、怒りっぽい結婚相手や子供も家族も、乱暴な運転手も店の客も、あなたの益となるのです。上司でさえ、あなたの益のために役立つようになるのです。

 ところが、私たちが同じ人間である他の人のゆえに、怒りっぽくなったり、不機嫌になったり、恐れたり、思い悩んだりすることを選ぶならば、神さまは私たちの肉体が死へと急ぐのを許されることでしょう。恐れは強力なもので、それを私たちの心に許すなら、すぐに健康と幸福を支配してしまうのです。

 

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P88

 

 厄介な人がまわりにいなければ、もっとたやすく完全な人になれるのにとあなたは思っていませんか。でもちょっと待ってください。なぜ、そんな人々が回りにいると思っているのですか。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなた方の必要をすべて満たしてくださいます」(フィリピ4・19)という聖句を私はよく引用します。私たちが一緒に暮していく必要のある人たちをも神は与えておられるのだと考えてみたことはありませんか。

 あなたは言うかもしれません。「でも主よ、酒癖の悪い夫(あるいは、愛のない妻/ものわかりの悪い上司/天界に終えない反抗的な子供)なんか必要ありません」と。あなたがそのような人と暮しているのなら、その人こそ、あなたが必要としていると神の言われる人なのです。そうでなければ、神はその人をあなたのそばにおかれなかったことでしょう。

 私たちの古い性質を取り除き、喜んで神の御旨に従うことを教えるために、神はどのようにして私たちを困難な状況に置かれるのかということについて、これまで私たちは考えてきました。厄介な人々と暮していかなければならないということほど効果的に服従を教えてくれるものは他にありません。神は、全く死ぬほどいらいらさせる人を私たちの人生にもたらされることがよくあります。私たちには、そのような人が必要だからです。その人は、私たちの心にある最も醜い部分を明るみにしてくれるのです。その醜い部分を取り除くためには、まず自分自身の中にあるその醜さに気づく必要があります。頑なで、自己中心的な自我を、喧嘩腰になって言います。「人の指示なんか受けたくない。誰にもそんなたわごとは言わせない」と。あなたは、内側の醜いものが頭をもたげて、いつも決定権を握ろうとしていることに気づいていますか。それは肉と呼ばれる、人間の古い性質で、神に従うことによってのみ、それを治めることができるのです。

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P94

 

 あなたが妻あるいは夫であるなら、親子関係とはまた別に、従順を実行するすばらしい機会が与えられていることになります。あなたは、夫がありのままの状態であることを喜んでいますか。神が特にあなたの必要を満たすために妻を選んでくださったことを感謝していますか。私の教会には、神が夫を変えてくれることを期待して、まず、夫のゆえに神を賛美しようとしたと話してくれた女性がいます。しかし何も起こりませんでした。それで彼女は、神が自分たちに望んでおられることに対していかに服従するかということについての説教に耳を傾けるようになりました。彼女は、自分自身の態度を見つめるようになり、夫ではなく自分を変えてくださるようにと神に求めました。彼女が変えられるにつれて、夫も変えられるようになりました。

 妻や夫に従順であるということは、何はともあれ、ありのままの相手に満足することなのです。相手が一緒に暮らしにくいような人だとしても、それは、そのような状態を私たちが必要としているからです。私たち自身の頑なな自我のとげを取り除くのにこれ以上適した方法はないからです。あなたは、今よりも愛情豊かで思いやりがあり、辛抱強い人に変えられる機会を心から感謝できますが。本当の従順には、力があります。だからこそ、ぺトロは、こう書いたのです。「同じように、妻である皆さん、夫に従いなさい。そうすれば、たとえ、みことばを信じない夫であっても、彼らは、妻の言葉によってではなく、その行いによって、神のもとへ導かれるでしょう」(第1ぺトロ3・1)。