先見

 

 

 

天界の秘義3854[2]

 

全般的に先見と摂理[供えられること]については、先見は人間に関連しており、摂理は主に関連している。主は、人類はいかようなものになるかを、その各々の者の性質はいかようなものになるかを、悪は絶えず増大して、ついに人間は人間自身では地獄に真逆様に突入することを永遠から先見されたのである。(中略)

 

それで主はもし人間が自らが自由の中に天界へ導かれることに甘んじなくても、それでもさらにおだやかな地獄へたわめられるようにと配慮されるが、しかしもし人間が自らが自由の中に善を導かれることに甘んじるなら、天界へ導かれるようにと配慮されるからである。(中略)

 

人間をそのような性質へ向って支配し、たわめられ、しかもそれは人間の自由を絶えず調節することによって行われているということが明白である。

 

 

天界の秘義5155

 

(供えられたものからではなくて)先見されたものから決定されたものが意味されている理由は、供えることは善について述べられはするが、先見[予見]は悪について述べられるということである、なぜなら善はすべて主から流れ入っており、それでこれは供えられはするが、しかし悪は凡て地獄から、または地獄と一つになっている人間自身のものから発しており、それでこれは先見[予見]されるからである。悪については、摂理[供えること]は悪をより小さな悪の方へ向けることであり、または決定させることであり、かくて為し得るかぎり善の方へ向けることまたは決定づけること以外の何ものでもないが、しかし悪そのものは先見されるのである。

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理〔主が供えられること〕は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである、なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている、なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的がないなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。