主の導き
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい(申命記8・2)/
1.聖書
2.主の導き
3.主から天使たちは人間を導き守る、それは一瞬の一瞬毎に行われている
4.霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった
5.再生した者(即ち、隣人を愛し、更に主を愛している者)がその過去の生活を反省する時、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれて来たことを知るであろう
6.聖母から司祭へ
7.サンダー・シング
1.聖書
詩篇73・24
あなたは御計らいに従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。
詩篇77・21
あなたはモーセとアロンの手をとおして
羊の群れのように御自分の民を導かれました。
2.主の導き
天界の秘義2678
「彼女を去らせた」。これは主がそれを彼ら自身のものであるものの中に棄ておかれたことを意味していることは、『去らせること』が主を表象しているアブラハムにより行われるときの、その意義から、また改良されて、霊的なものになりつつある者の最初の状態からも明白である。彼らの最初の状態は、彼らが自分たち自身から、かくて自分たち自身のものであるものから善を行い、真理を考えると想像しており、またそのときはそれ以外のことは知っていないということである。彼らは善と真理とはことごとく主から発すると告げられると、それを実際斥けはしないが、しかしそれを心では承認しないのである。なぜなら彼らは何かが自己自身以外の何らかの源泉から流れ入っていることを感じてはいないし、またそのことを内的に認めもしていないため、心にそれを認めもしないからである。改良されつつある者たちはすべて最初このような状態の中にいるため、それで彼らは主により彼ら自身のものであるものの中に棄ておかれるのである。それでも彼らはそのことにより知らないままに導かれて行くのである。
天界の秘義2679
「彼女は去り、ベエルシバの荒野を彷徨った」(創世記21・14)。これはその時信仰の教義的なものの中を彷徨する状態を意味していることは以下から明白である。『行って荒野を彷徨うこと』の意味は彷徨する状態であり、『ベエルシバ』の意義は信仰の教義である。
この節には改良される者たちの状態の性質はその始めはいかようなものであるかが記されているのである、すなわち、彼らは色々な彷徨に拉し去られるのである。なぜなら永遠の生命について多くのことを、かくて信仰の諸真理について多くのことを考えることが主により彼らに与えられているからであるが、しかし彼らは(今し方述べたように)彼ら自身のものであるものから考えるため、教義においても生活においても、彼方此方と彷徨わないわけにはいかないで、その幼少期から教え込まれたものを、または他人から彼らに印象づけられたものを、または自分自身から考え抜いたものを真理として掴まえるため―さらに彼らはその意識もしていない色々な情愛により迷わされるため―彼らは未だ、形と美と味わいとを一瞬には生みつけられることの出来ない未熟な果実のようなものであり、またはたちまち成長して、花と穂をつけることは出来ない柔かい葉のようなものである。しかしその時入ってくるものは、その大半は誤ったものではあるが、それでも成長を促進させる上に役に立つといったものであり、後になって、その人間が改良されつつあるとき、これらのものは一部は分離するが、一部はその後の生命に対して滋養を、またいわば液汁といったものをもたらしてくることに役立つのであり、さらにそれらのものは後になって一部は主が善と真理を植えつけ給うために用いられることが出来、また一部は究極的な面として霊的なものに役立つように用いられることが出来、かくして改良にいたる不断の手段として用いられることが出来るのであり、そうした手段は絶えず(互いに)関連し、また秩序をもって(互いに)他に絶えず続いているのである。なぜなら人間の凡ゆるものはその最小のものすらも主により予見され、永遠にその者の未来の状態のために供えられており、しかもそれは何らかの方法で可能な限り、またその者が自分自身が主により導かれるのに甘んじる限りその者の益になるように行われているのである。
天界の秘義8307
「あなたは慈悲をもってこの民を導かれた」。これは、悪から遠ざかって、善を受け入れた者たちにおける神的流入〔神の流入〕を意味していることは、『慈悲をもって導くこと』の意義から明白であり、それは神的なもの〔神のもの〕を受け入れることであり、悪から遠ざかる者たちが神的なものを受け入れるため、その者たちにおける神的な流入が意味されているのである。主から発している慈悲については、実情は以下の如くである。主の慈悲は各々の者のもとに不断に注がれているのである、なぜなら主は凡ゆる人間を、その人間がたれであろうとも、救おうと望まれているからである。しかしこの慈悲は、悪が遠ざけられない中は流れ入ることは出来ない、なぜなら悪とそこから派生した誤謬とはそれに対立し、それを妨害するからである。しかし悪が遠ざけられるや否や、慈悲が流れ入ってくる、即ち、主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である。このことから主の仁慈は普遍的なものであり、即ち、凡ゆる者に注がれており、また悪から遠ざかっている者には特に注がれていることを認めることが出来よう。人間は自分自身から悪から遠ざかることが出来るが、自分自身からは善を受けることは出来ない。人間が自分自身から悪から遠ざかることが出来るのは、主はそうした努力をもって絶えず人間の意志の中へ流れ入られ、かくてその自由の中に悪から遠ざかり、また同じく自分自身を善へ向けることを植え付けられるからである。主はまた人間に真理を理解する能力を与えられているが、しかし人間が理解しないのは、人間が理解しようと願わないためであり、このことは生命に属している悪のためである、なぜなら誤謬は悪を防禦し、真理は悪を非難する〔罪に定める〕ためである。かくて人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ないのであり、かくて慈悲を通して導かれることは出来ないのである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P61
‘88・10・25
花よ、私を望みなさい、我が掟を重んじ 私を喜ばせなさい、私を第一におき 全てのものに優先させなさい。 地上的なものはすべて 嫌悪するように、この世でなされた すべての悪を埋め合わせるには 莫大な償いを必要とする、他の人びとに代って償うように、ヴァッスーラ、決して見捨てない。私の教えに導かれて あなたは我がもとに来た、私とあなた、あなたと私は、代々終わりなく結ばれている、私の平和を受けなさい ♡ 来なさい ♡
「人間の深慮と神的摂理とを承認する者の性質と性格」。神とその神的摂理を承認する者は自分自身を導こうとは欲しないで、主により導かれようとする天界の天使に似ている。彼らが主により導かれるという証明は彼らはその隣人を愛するということである。しかし自然と人間自身の深慮を承認する者は主により導かれることを嫌って、自分自身を導こうとする地獄の霊に似ている。もし彼らが或る王国で偉大な人間であったなら、霊界では凡ゆる物を支配しようと欲する。もし彼らが教会の顕官であったなら、同じようにまた凡ての物を支配しようとする。もし裁判官であったら、判決を歪め、任意に法律を犯し、もし学者であったならその知識を用いて人間の自己性と自然に組みした信念を確認し、もし商人であったら、強盗として行動し、農夫であったなら、盗人として行動する。彼らは凡て神の敵であって、神的摂理を嘲笑する。
3.主から天使たちは人間を導き守る、それは一瞬の一瞬毎に行われている
天界の秘義5992[3]
とくに天使たちは人間のもとに在る善と真理とを呼び出し、それらを悪霊らのかき立てる悪と誤謬とに対立させている。かくてその人間はその真中におかれて、悪も善も認めはしない、また真中にいるため、自分自身を悪にも善にも向ける自由を持っている。このような手段によって主から天使たちは人間を導き、守っており、しかもそれは一瞬毎に行われ、実に一瞬の一瞬毎に行われているのである。なぜならもし天使たちが万が一一瞬でもその庇護を中絶するなら、その人間は悪へ真逆様に投げ落とされ、そこからその後は決して引き出されることは出来ないからである。これらの事柄を天使たちは主から得ている愛から行っている、なぜなら彼らは人間から悪を遠ざけて、彼を天界へ導くことにまさって歓ばしい、幸福なことを何一つ認めはしないからである。そのことが彼らの喜びであることについてはルカ15章7節を参照されたい。主は人間をこのように守られており、しかもそれがその者の生命の最初の糸からその最後の糸までも、後には永遠にいたるまでも絶えず行われていることをほとんどたれも信じてはいないのである。
神の摂理202
主は人間を一瞬毎に、実に一瞬を最少限に分った瞬間毎にすら、導かれない限り、人間は改良の道を離れて、死滅することが推論される。人間の心の状態の変化と変動とは、その現在の状態に従って、その後の状態に或る有機的な変化と変動とを与えている、それゆえもしその変動が永遠に続くならば、その変化は如何に甚しくなるであろうか。それはもし僅かでも狙いが外れるなら、長い距離では目標から非常に外れてしまう弓の矢のようなものである。もし主が人間の心の状態を絶えず導かれないなら、そのようになるであろう。主はこれをその神的摂理の法則に従って行われ、人間が自分自身を導いているように見えるのはこの法則に順応しているのである。しかし主は人間が如何に自分自身を導くかを予見され、絶えず境遇を正されている。許しの法則はまた神的摂理の法則であり、人間は凡て改良され、再生することができるのであり、他に如何ような種類の予定もないことは以下に見られるであろう。
神の摂理203
人は各々、幼時時代からその生命の終わりまでも、その最も微細な点についても、主により、導かれ、その最後の住居も先見され、供えられていることが推論される。
4.霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P221
私は、我がヴァッスーラ、この歳月 あなたの助言者だったが 同時に友でもあった、そして夜の間ですら あなたの内奥の自己を教え導き、あなたの霊魂に 我が現存で限りない歓びを与えた。 ほかの誰でもなく 私の 輝かしい現存だけに絶え間なく目を引き上げるよう 限りない愛をもって訓練してきた。 私が常にただ一人の霊的指導者 助言者であり、英知による指示を霊魂に与えてきた、霊的指導を得させようと あなたを東にも西にも送らず、北にも南にも送らなかった、私にまさる霊的指導を ほかのどこで得られよう? 霊魂をおおう闇をのぞき込み あなたの内奥の自己に真実の判断を下して その病に注意を喚起できるのは 私しかいなかった。 するとどうなったか、私への反抗心を放棄させたであろう? 道を逸れて行かないよう 歩むべき小道をなぞり 我が名をあなたの紋章として 我が足跡を辿らせたであろう?
5.再生した者(即ち、隣人を愛し、更に主を愛している者)がその過去の生活を反省する時、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれて来たことを知るであろう
天界の秘義4364[2]
霊的な事柄の場合も、また信仰の事柄の場合も、そうした事柄が仁慈の善に連結しつつある時も同一である。人間は、善と真理とは天界から直接に流れ入り、かくて人間の中に媒介物が無くて流れ入って来ると信じているが、しかしそれは非常な誤りである。主は各々の者をその者の幾多の情愛により導かれるのであり、かくて彼を暗黙の摂理によりたわめられるのである、なぜなら主は彼を自由を通して導かれるからである(1937、1947番)。自由はことごとく情愛または愛のものであることは前に見ることが出来よう(2870、2873番)、ここから善が真理と連結することはことごとく自由の中に行われるが、強制の中には行われないのである(2875−2878、2881、3145、3146、3158、4031番)。それで人間が自由の中に善へ導かれていると、その時は真理は受け入れられて、植付けられ、彼はその真理に感動し始め、かくて徐々に天界の自由へ導き入れられるのである。再生した者(即ち、隣人を愛し、更に主を愛している者)がその過去の生活を反省する時、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれて来たことを知るであろう。
聖母から司祭へ1973.12.19
私の運動の司祭たち皆が、この偉大な仕事に準備されるため、どのような心遣いをこめて前以って私に選ばれ、教育され、形づくられたかを知ったならば・・・!
最も取るに足りぬものであっても、彼らの人生におけるすべてのものには、的確な深い意味があります。そのため、めいめい、その存在の、茫然とするほどすばらしい本を、私と共に読む習慣をつければよいと思います。
彼らに心の上智の賜を与えましょう。そうすれば自分に関するすべてのことに、どのような意味があるかを私と共に理解するでしょう。
不可解だったたくさんのことの理由、苦しみの意味、見捨てられたことのわけ、倒れてしまったことの意味がみなわかるでしょう。ああ、私が特別に愛しているこの子供たちは、その人生において、どれほどの暗黒と煩悶の時を経験しなければならなかったことでしょう。
でも、それは彼らにとって必要で実り豊かな時期でした。それは、私が彼らをいっそうわがものとするためであり、あらゆるもの、すなわち自分のものの見方、感じ方、いろいろのもの、良い結果、良い活動、成功などに、たやすく執着することから離脱させるためでもあり、また、私だけのものとなり、私のためにのみ生き、ただ私の望みだけを行うことを学ばせるためでもありました。
自分は何もよいことはできない、たいした者ではないという印象を受けさせたかったのです。それで心の謙遜と幼子の精神という大きな贈物を彼らに与えました。私以外には何の支えも信頼できるものもなく、ただ私だけのものであるということを感じさせたかったからです。
嘲笑され、踏みつけられた、私のこの可哀想な子供たちによって、私は大きな計画を実現するでしょう。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P79
人と被造物全体は虚無に従っているとはいえ、永遠にそうなのではない。人は従順なる気持ちを失いこの災いだらけの儚き状態に全被造物を巻き込んだが、このような霊的戦いの場においてしか人の霊的力は完全に開発され得ないのである。この戦いにおいてしか、人は完成に必要とされるレッスンを学びとることはできないのだ。そこで、天の完全さの状態についに辿り着いた暁には、人は現世の苦しみと戦いについて神に感謝することだろう。神を愛する者たちのために何もかもがうまく働いてくれていたことが、そのときにはっきりわかるからである。
8.ヤコブの12人の息子たち
天界の秘義3913
なぜならヤコブの十二人の息子たちにより、人間が再生しつつある間に、または教会にされつつある間に、霊的なものと天的なものとへ導き入れられる手段となるところの十二の全般的なまたは基本的な事柄がここに記されているからである。なぜなら人間は再生しつつあるときまたは教会にされつつあるとき(すなわち、死んだ人間から生きた人間になり、または形体的なものから天界的なものになりつつあるとき)、彼は主により多くの状態を経て導かれるからである。これらの全般的な状態が『十二人の息子』により、後には『十二の種族』により示されているのであり、そうした理由から『十二の種族』は、前に見ることが出来るように(3858番)、信仰と愛との凡ゆる事柄を意味しているのである。なぜなら全般的なものは個別的なものと単一的なものとをことごとく含んでおり、この後のものは前のものに関わりを持っているからである。