慰安

 

石井藤吉主の愛

 

 

 

天界の秘義840

 

 「神は憶えられた。」これは試練の終りと革新の始めとを意味することは前後の記事から明らかである。『神は憶えられた』は、特に、神が慈悲深くあられることを意味している、なぜなら神が憶えられることは慈悲であるからであり、そしてこれが特に試練の後に述べられているのは、新しい光がその時輝き出るためである。試練が続いている限り、人間は主は在さないと想像するが、それは彼が魔鬼に激しく悩まされてしばしば絶望し、神が在すとは殆ど信じることは出来ないからである。しかし主はそのとき彼が全く信じることも出来ない程に親しく臨在されているのである。しかし試練が止むと、その人間は慰安を受け、その時始めて主が臨在されていることを信じるのである。それ故現在私たちの前に置かれた記事の中の、外観に応じて表現されている『神は憶えられた』という言葉は試練の終りと革新の始めとを意味している。『神』が憶えられたと言われて、『エホバ』とは言われていないのは、未だ人間は再生に先立つ状態にいたためであるが、しかし彼が再生すると、その時(本章の終りの20、21節のように)『エホバ』と言われるのである。その理由は信仰は未だ仁慈に連結していないということである、なぜなら人間は仁慈から行動するとき始めて再生したと言われるからである。仁慈の中にエホバはおられるが、仁慈に連結していない信仰の中にはそれ程おられはしないのである。仁慈こそ他生における人間の存在と生命そのものである、そしてエホバは存在と生命そのものであられるため、人間が存在し、生きていない中は、『エホバ』が彼と共におられるとは言われないで、『神』が共におられると言われるのである。

 

 

 

天界の秘義2693

 

「彼女に言った、ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますか」。これはその状態について認識することを意味していることは以下から明白である。即ち、聖言の歴史的な部分における『言うこと』の意義は認識することであり―このことは前に説明したー『ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますか』の意義は、それが陥っていた状態であり、ここではそれは、例え彼女は尋ねられて、ハガルよ、なぜあなたは苦しんでいますかと言われているものの、主がその状態を完全に知っておられたことを意味している。文字の意義ではそれは主から尋ねられたことであるが、内意ではそれは凡ゆる物の無限の認識[凡ゆる物を無限に認識すること]である。私たちは聖言の中で人間がその状態について尋ねられていることをここかしこで読んでいるが、その理由は、人間が他の者は一人として自分の考えを知ってはいない、ましてや自分の情愛の状態を知ってはいないと信じているということである。さらに一つの理由は、人間が自分の感情を表現することが出来ることから慰安を覚えることが出来、それがしばしば救いとなるということである(1701、1931番を参照)。

 

 

 

 

天界の秘義2841

 

「エホバの天使は天から再びアブラハムに呼びかけた」。これは主のさらに大きな慰めを意味していることは以下から明白である、すなわち、『天から呼ぶこと』の意義は慰めることであり、『エホバの天使』の意義は主の神的なものそれ自身である(前の2821番を参照、そこには同じ言葉が記されている)。このことが『再び[二度も]』言われているのは、さらに大きな慰めがあるためである。最初の慰めは12、13、14節に含まれていて、そこの主題は人類から来ていて霊的な者と呼ばれている者たちが子として取り上げられるという主の摂理であり。さらに大きな第二の慰めは、以下に記されている節(17、18など、終りまで)に含まれている、すなわち、それは霊的な者は天の星のように、海岸の砂のように増大し、たんに彼らのみが救われるのみではなく、善の中にいるすべての者も救われるにちがいないということである。これらは主の愛の事柄であったのであり、それで主はかれらから慰めを得られたのである。たれ一人その者の愛のものである事柄によらなくては慰めを得ないのである。

 

 

 

天界の秘義7155                                  

 

ここから『彼らは自分たちが悪の中にいるのを見た』により、彼らは彼ら自身が堕地獄に近づいていることを認めたことが意味されているのである。なぜなら絶望状態にある者たちは自分は最早その攻撃に堪えることが出来ないと考えるため、自分は自分自身を誤謬の捕虜として引き渡さないわけにはゆかないと考え、それで絶望の状態であるからである、しかしその時彼らは救い出され、謂わば暗闇から光の中へ導き入れられ始めるのである。

 

 

 

神の摂理41

 

 今や人間は主と密接に結合するに応じて益々幸になることが理解出来よう。しかしこの幸福は世ではまれにしか現れない。なぜなら人間はその時自然的な状態におり、単に相応によってのみ連なっており、そしてその連なりも、特に悪に対する争闘の後の心の或る休息と平安以外のものとしては感じられないからである。しかし人間が自然的なものを脱ぎ去って、霊的な状態に入るとき―それは人間がこの世を去った後に起こるが―上述の幸福は徐々に明らかになる明らかになってくる。