現存・臨在

 

連結聖霊

 

 

 

1.現存

2.主はあらゆる者のもとに臨在されている

3.秩序が在る所には主が現存されている

4.主の現存を思えば罪を犯さなくなる

5.主は善の中に現存されている

6.主は、試練の状態の中では、その状態の中にいない時よりも、更に現存されておられる

7.愛は愛される者を愛自身の中に現存させる

8.聖霊は主御自身、主の現存

9.何処であれ、彼らはその思いのある所に現われる

 

 

 

 

1.現存

 

スウェーデンボルグ/神の摂理29

 

霊界では人は精神を集中させて他の者に会うことが出来る。もし誰かが他の者を考え、これと語りたいと願うならば、その者は直ちに現れ、互いに顔を合わせる。それは愛の情愛から他の者を考えても同じである。しかし後者の情愛では結合が生まれ、前者ではただ現存が生まれるに過ぎない。これは霊界の特質である。なぜならそこでは凡てのものは霊的なものであるが、自然界では霊的なものではなく、凡ては物質的なものであるから。自然界でも人間の情愛と思考の中にそれと同じことが起こるが、しかしそこには空間が在り、これに反し霊界では空間は単に外観に過ぎないゆえ、そこでは人間の霊の思いの中に起こることが実際起こるのである。かく記したのは、主の天使との結合と天使の主との外観上の相互的結合が如何にして行われるかを示すためである。なぜなら天使はすべてその顔を主に向け、主は天使の額を眺められ、天使は眼で主を見上げるからである。それは額は愛とその情愛に、眼は知恵とその認識に相応するからである。にもかかわらず天使は自らその顔を主に向けるのでなく、主が彼らを御自身に向けさせられるのである。主はこのことを彼らの生命の愛へ流れ入ることにより行われ、その愛を経て彼らの認識と思考へ入り、かくて彼らを御自身に向けさせられるのである。

 

 

 

神の摂理50

 

空間と時間の外観は彼らにはその情愛と思考の状態に依存している。それゆえ誰か他の者を情愛をもって考え、その者を見、またはその者と語りたいという確乎とした願いを持つなら、直ぐその者の眼前に立つことが出来るのである。これが、凡ての者にその者と情愛を等しくした霊が現れ、悪い霊は同じ悪に喜びを感じる者に、善い霊は同じ善に喜びを感じる者に現れる理由である。

 

 

 

神の摂理/326(イ)

 

 <神を承認することにより神の人間との結合と人間の神との結合が生まれ、神を否定することにより分離が生まれる>

 

神を承認しない者も、道徳的な生活をするなら、神を真に承認する者と同じように救われることが出来ると考える者がいるかもしれない。彼らは言う「この承認から何が生まれるのか。それは単に観念に過ぎぬのではないか。神は存在することを確実に私は知ったときに、私は容易に神を承認しないであろうか。私は神については聞いているが、神は見ていない。神を私に示しなさい、そうすれば私は信じるであろう。」これが神を否定する多くの者が神を承認する者と自由に議論することが出来る時の言葉である。しかし神を承認することは結合を生み、神を否定することは分離を生むことは、今、私が霊界で得た経験から説明しよう。

 

霊界ではもし誰かが他の者のことを考えて、その者と話したいと欲するなら、その者は直ぐに現れてくる。これは霊界の普遍的な法則であって、決して犯されない。その理由は霊界には自然界のような距離は無く、単に距離の外観が在るに過ぎないということである。他の特質は他の者についての或る知識と結合した思考によりその者が現れてくるように、他の者に対する或る情愛と結合した愛により結合が生まれるということである。この結合の結果彼らは共になり、親しく語り合い、同じ家または共同体に住み、しばしば会い、互いに親切を尽すのである。その反対もまた起こっている。例えば、もし誰かが他の者を愛さないならば、更に彼らを嫌忌するならば、彼はかれを見もせず、またかれに会いもせず、彼らは互いに感じ合う冷淡または憎悪に比例して互いに遠ざかっている。実際、もし誰かが他の者と共にいて、その心に嫌忌が生まれるなら、彼はその者の視野から消えて行くのである。

 

 この僅かな事柄から、霊界の現存と結合の如何ようなものであるか、即ち、他の者を思い出して、それと共にその者に会おうとの願いが生まれる時、その者は眼前に現れてくるのであり、また愛の情愛から結合が生まれることが明白になったに相違ない。人間の心の中の凡ての物も同じである。それは無数の物を含み、その個々の物は一つの物の他の物に対する情愛または愛に従って連なり、結合している。この結合は霊的なものであり、全般的にも個別的にも類似した性質を持っている。それは主が霊界と自然界に全般的にも個別的にも結合されていることから起こっている。それ故誰でも主を知り、それにより主を考えるに応じて主は現れ給い、誰でも愛の情愛から主を承認するに応じて、主はその者と結合されるが、他方、誰でも主を知らない限り主はおられず、主を否定する限り、主から引き離されることが明白である。この結合の結果は主は人間を御自身に向けさせ、かくて彼を導かれるということであり、分離の結果は地獄が人間を地獄自身に向けさせて導くということである。これが天界の凡ての天使は太陽としての主に面を向け、地獄の凡ての霊は主に面を背ける理由である。これらの考察から神を承認する結果と神を否定する結果は明白である。更に世で神を否定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。

 

 

 

スウェーデンボルグ/神の摂理/326(ロ)

 

 <人間は各々その生活の善に従って神を承認し、神と結合する>

 

 何らかの宗教的な知識を持つ者は凡て神を知ることが出来よう。彼らはまた知識からまたは記憶から神について語り、或る者は神につき知的に考えることが出来るのである。しかし人間は善良な生活を送らない限り、それはただ彼を神の前に連れ来るに過ぎない。なぜなら彼は神の前にいるにも拘らず神から面を背けて地獄に向けることが出来、もし邪悪な生活を送っているならば、そのようなことをするからである。しかし善良な生活を送っている者のみが、心に神を承認することが出来るのであり、主はその生活の善に従って彼らを地獄から連れ出して、御自身に向けさせられる。その理由は彼らのみが神を愛するということである。なぜなら彼らは神から発している神的な物に対する愛をその神的な物を為すことにより示すからである。神から発している神的なものとはその律法の教令である。教令は神である。なぜなら神御自身は神御自身の発出している神的なものであり、教令に服従することは神を愛することであるから。これが主が「私の誡命を守る者は私を愛する者である。しかし私の誡命を守らない者は私を愛する者ではない」と語られる理由である(ヨハネ14・21,24)。

 これが十誡には、一枚は神に関係し、他の一枚は人間に関係している二枚の板石の在る理由である。神は御自身の板石に含まれているものを人間が受け入れるように絶えず働かれているが、もし人間が自分の板石にある物を行わないならば、神の板石にある事を心で信じておらず、その場合、彼は神に結合してはいない。これが二枚の板石が結合して一枚となり、契約の板石と呼ばれた理由である。なぜなら契約は結合を意味するからである。人間は凡てその生活の善に従って神を承認し、神と結合する理由は、生活の善は主の中に在って主から発している善に類似しており、それゆえ人間は生活の善にある時、結合が生まれるということである。その反対が生活の悪に言われる。なぜならこれは主を斥けるからである。

 

 

 

天界の秘義5229

 

『憶い出すこと』が連結である理由は他生でたれかを憶い出すことは連結するということである、なぜならいかような霊でも他の者を心に憶い出すとすぐにその者はその眼前に現れ、彼らは共に語るほどにも眼前に近く現れるからである。こうした理由から天使たちと霊たちとはその知っている、または聞いている人物には凡て、主が彼らにその人物を心に思いうかべることを許されるときは、会うことが出来るのであり、その人物が眼前に現れてくるのを見ることが出来、その人物と話すことも出来るのである(1114番を参照)。

 

 

 

天界の秘義6893

 

思考そのものもまた現存[臨在]を生じさせるのである、なぜならたれか或る人物のことを考えると、その人物はその内なる視覚の前に恰も現存しているかのように現われてくるからである。他生では実際こうしたことが起るのである、なぜならたれかがそこで熱心に考えられると、その者はその場に現れてくるようになるからである。ここから他生では友は共に会い、また敵も共に会い、敵からは苛烈な苦しみを受けるのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P229

‘88・5・25

 

主よ、聖フランシスコをお呼びし、祈りましたが、祈るとき聞いておられるでしょうか?

 

♡ 聞かれないまま 無視されるものは何もない、すべてが天国では開かれている ♡ あなたの声を聞いて、聖フランシスコが横にいます、 ♡ 

 

 

 

2.主は凡ゆる者のもとに臨在されている

 

天界の秘義2706

 

 主は実に凡ゆる者のもとに臨在されているのである。なぜなら生命は主以外のいかような源泉からも発していないからであり、主は、その生命の最も微細な物をさえも、人間の中でも最悪の者のもとにおいてさえも、地獄そのものの中においてさえも統べ治められているが、しかし生命の受容に応じて種々の受容に応じて種々の方法で統べ治められているのである。主の善と真理との愛の生命を不正な方法で受け入れて、それを悪と誤謬との諸々の悪に歪める者らのもとにも主は臨在されていて、その者たちの目的を支配されて可能なかぎり善に向けられるが、しかしかれらのもとに主が現存[臨在]されていることは、不在[現存されはしないこと]と呼ばれ、実にそれは悪が善から、誤謬が真理から隔たっていると同じ度をもった不在である。しかし主の善と真理との愛の生命を受ける者たちのもとには主は臨在される[現存される]と言われ、実にそれも受容の度[受け入れる度]に順応しているのである。主の臨在は太陽の臨在の場合と同じであって、太陽は世の植物の中にその熱と光とをもって臨在[現存]しており、それもまたその受容に順応しているのである。

 

 

 

天界の秘義904

 

「神はノアに語られた。」これはこの教会の人間のもとに主が現在[臨在]されたことを意味していることは聖言の内意から明らかである。主は人間各々のものと話されている、なぜなら人間が意志し[欲し]考える善い真のものはことごとく主から発しているからである。人間各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる。悪霊どもはかれのいくたの悪を刺激するが、天使たちは善い、真のものを吹き入れる。天使達により吹き込まれる善い、真のものはことごとく主のものであり、かくて主は絶えず人間のもとに語られているが、しかしそれは人間各々により全く異なっている。自分自身が悪霊どもにより導き去られるのに甘んじる者らのもとでは、主は恰も在したまわないかのように、または遠くから、語られるため、それで主は語られつつあるとはほとんど言われることはできないが、しかし主によって導かれつつある者たちのもとでは、さらに近く現存されているものとして語られるのであり、このことは何人も主から善い真のことを考えないかぎり、善い真のことは一つとして決して考えることはできないという事実から充分に明らかとなるであろう。

 

 

 

天界の秘義904[2]

 

主の臨在はその人間がその中におかれている隣人に対する愛と信仰の状態に応じてその人間について述べられる。主は善の凡ての中におられるため、隣人に対する愛の中に主は現存[臨在]されているが、しかし主は、愛のない、信仰と言われているものの中にはそれ程現存されてはいない。愛と仁慈のない信仰は分離した、または結合していないものである。連結の在る所には凡て連結させる媒介物がなくてはならないのであって、それは愛と仁慈以外の何ものでもない、このことは主はたれにも慈悲深くあられ、たれをも愛され、たれをも永遠に幸福にしようと欲しておられるという事実から凡ての者に明白であるにちがいない。それ故他の者に慈悲深くあり、その者を愛し、その者を幸福にしようと欲するといった愛を持っていない者は、主に似ていないし、また些かも主の映像を宿していないため、主に連結することはできない。かれらが言っているように、主を見上げて、しかもそれと同時に隣人を憎むことは単に遥か彼方に立つことであるのみでなく、自分自身と主との間に地獄の深淵を持つことであって、もしかれらが万が一にもさらに近づきでもするなら、その深淵に落込んでしまうであろう。なぜなら隣人に対する憎悪は間に介在する奈落の深淵であるからである。

 

 

 

天界の秘義904[3]

 

人間が隣人を愛する時始めてその者の許に主の現存[臨在]が可能となる。主は愛の中におられ、人間が愛の中にいるに比例して、主は現存[臨在]され、主が臨在されるに比例して主は人間のもとに語られるのである。人間は自分は自分自身から考えているとしか考えてはいないが、事実は人間は人間自身からは只一つの観念[考え]さえも得ておらず、一つの観念の最小のかけらさえも得ていないのであって、悪い誤ったものは地獄から悪霊等を通して得ており、主からは天使たちを通して善い、真のものを得ているのである。かくのごときが人間における流入であり、その流入からかれの生命が発し、かれの霊魂と身体との交流が発しているのである。これらの事から『神はノアに話された』という言葉の意義が明らかである。かれがたれかに『言われること』の意味と(例えば創世記1・29,3・13、14、17、4・6、9、15、6・13、7・1)かれが『話されること』との意義は異なっている。ここでは、かれがノアに話されたことは現存[臨在]を意味している、なぜなら仁慈を与えられた再生した人間が今主題となっているからである。

 

 

 

天界の秘義1044[3]

 

 契約の『象徴』または『印』は以下のものである。すなわち、理解の人間自身のものの中に主が現存されるに比例して意志の人間自身のものが遠ざけられるのである。この間の実情は天界と地獄との実情に正確に同一である。再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から、天界であり、かれの意志の部分は地獄である。主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、かれが挙げられるに応じて、それに正比例してかれの地獄は遠ざけられるのである。それゆえ主が現存されているという『印』は、またはそのことを指示するものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

 

 

 

3.秩序が在る所には主が現存されている

 

 

天界の秘義6703

 

 主が現存されるときは、凡ゆる物は主の現存そのものにより秩序づけられるのである。主は秩序そのものであられ、それで主が現存される所には秩序が在り、秩序が在る所には主が現存されているのである。その秩序そのものは今以下に記されている頁に記されており、それは諸真理が善の下に正当に秩序づけられるということである。

 

 

 

4.主の現存を思えば罪を犯さなくなる

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P151

‘88・3・8

 

そう、あなたの聖なる仲間、私に向ってこのように唱えなさい、あなたの日々を私と分かち合いなさい、直ぐそばにいると 子どもたちが気づいてくれさえしたら、私は現存し 直ぐ横にいる、どこにいても、どんな時にも、このことに気づいたなら、もっと転ばないであろう、罪も犯さないであろう。 伝えなさい、親密になってほしいと ♡ 来なさい、愛している、あなたの師も愛しなさい ♡♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P60

‘88・10・24

 

はい、わが主よ。

 

では あなたがそう言うのを聞きたい、私を忘れないでいてほしい! わが現存を思い出すように。 我が現存をこのような仕方で黙想するのを どれほど望んでいるか分かるか? 非常に重要な奥義である。 我が現存を あなた方の殆どが 忘れているかに見える 我が現存を黙想しなさい。 永遠の愛をもって愛する、子どもたちよ、私が実際現存しているのを思い出して 喜ばせてほしい、私たち、あなたと私、私とあなた、「私たち」というこれらの言葉を用いて 自らを訓練するように。 あなた方の活動、話し合いや思いの中に 加えてほしい、私が聖なる者であるのを 忘れることなく 我が現存を尊ぶように。 私が(I Am)ともにいるのが分かっていて それを思い出すなら 罪も犯さなくなっていこう。 私、ナザレ人のイエス・キリストが、あなた方皆を祝福する ♡

 

 

 

マリア・ワルトルタ108・4

 

どんな仕事も、誠実になされるなら永遠の主の祝福に値するからです。しかし、わたしがそう言ったのは、神から祝福を得るための最初の力は、すべての行動において誠実であるということです。

 今、皆さんと一緒に、行動はいつどのように誠実であるかを考えてみましょう。労働が誠実であるのは、永遠の神が心に現存されるのを知りつつそれを遂行する時です。『神はわたしをごらんになっている。神はその眼差しをわたしとわたしの行動に注ぎ、一部始終を見てどんな些細な挙動も見落とされることはない』と言う者は、罪を犯すことが出来るでしょうか? いいえ、出来ません。なぜなら神に対する思惟は、為になる思惟であり、人間のどんな威嚇よりも罪を犯すことを人に断念させるからです。

 

 

 

黙示録講解107(4)

 

宗教から考えはしない者らは良心をもってはいない、なぜならかれらは霊的なものではなく、従って、かれらの外なる拘束するものが―それは法律と名声に対する恐怖であるが、それが―かれらのもとで弛められるなら、かれらは凡ゆる邪悪へ突入するからであるが、これに反し他方では、もし法律と世評にかかわる恐怖であるところの、外なる拘束するものが、宗教から考える者たちから仮にも取り去られるにしても、かれらは依然誠実に、公正に、善良に行動するのである、なぜならかれらは神を恐れ、主から―その主にかれらは連結しているため、その主から―天界を通して服従と仁慈との生命[生活]の中に留めおかれているからである。

 

 

 

5.主は善の中に現存されている

 

 

天界の秘義6707

 

 この凡てから今や基督教の善の性質により各人がいかような度における隣人となるかが決定されることが明らかである。なぜなら善は主のものであり、主はその善の性質に従って現存されているため、主は善の中に現存されているからである。そして隣人の起原は主から引き出されなくてはならないため、それで隣人を区別する相違は主が善の中に現存されていることに従っており、かくて善の性質に従っているのである。

 

 

 

6.主は、試練の状態の中では、その状態の中にいない時よりも、更に現存されておられる

 

 

天界の秘義7195

 

彼らが試練の状態の中では教会の神的な事柄について考えなかったその時にも連結が存在したのであるが、なぜなら主は、試練の状態の中では、その状態の中にいない時よりも、更に現存されておられるからである―例え外観ではそのようには見えないにしてもそのように現存されているのである(840番)。

 

 

 

 

7.愛は愛される者を愛自身の中に現存させる

 

 

天界の秘義9841

 

 愛は霊的に連結させるものであって、その愛が存在するところに主をも存在させるためである、なぜなら愛は愛される者を愛自身の中に現存させるからである。

 

 

 

 

8.聖霊は主御自身、主の現存

 

 

啓示による黙示録解説490

 

慰める者、真理の霊は― それはまた聖霊であるが ―発出する神的なものであって、これが主御自身であることは、「主にかかわる新しいエルサレムの教義」(46−54番)に見ることが出来よう。

 

 

 

啓示による黙示録解説949

 

主と連結している者たちは主の中におり、主もその者たちの中におられると言われ、また聖霊は彼らの中におられると言われている聖言の記事から明らかである― 聖霊は主であり、なぜならそれは主の神的な現存[臨在]であるから ―また神が彼らの中に住まわれて、彼らを教え、導かれ、舌に善いことを宣べさせ、身体に善いことを行わせられるようにと神に祈る時、明らかであり、その他それに類した性質の事柄からも明らかである、なぜなら主は愛と知恵そのものであられ、この二つのものは場所の中にはなくて、それらが受け入れられる所に存在し、またそれらが受け入れられる性質に順応しているからである。しかしこの秘義は主から天界から光を受け入れて、そこから知恵の中にいる者たちによらなくては理解されることは出来ない、なぜならこれらのものの用は、一は「神の摂理」を、他は「神の愛と神の知恵」を取り扱った二つの著作の中に記されている事柄であって、その著作の中に、主御自身は人間の中に受け入れられ給うに応じて存在され、神的な物は一つとして主から分離されてはいないことが示されているからである。

 

 

 

 

9.何処であれ、彼らはその思いのある所に現われる

 

 

神の愛と知恵285

 

何故なら霊的なものは思考に似ており、思考は人間の中に存在はするものの、人間はその思考により他の如何なる場所にも、その場所が如何ほど遠くにあっても、いわばそこに現われることが出来るからである。それがその身体の点においてさえ人間である霊と天使との状態である。何処であれ、彼らはその思いのある所に現われるが、それは霊界では空間と距離とは外観であって、彼らの情愛から生まれている思考と一つになっているからである。