神のうちの真のいのち

 

 

主の中にいる

主と一緒(私たち)地上の天

 

 

 

 

1.聖書

2.ヴァッスーラ

3.ルイザ・ピッカレータ

4.マリア・ワルトルタ

5.主の中にいる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ14・20

 

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

 

 

 

ヨハネ14・23

 

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」

 

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P237

‘87.6.10 ダッカで

 

♡ ヴァッスーラ、私たちは一致していると言わなかったか、私たちは一つです、愛する者よ、それを「神のうちの真のいのち」と呼ぶのです ♡ 私のために生きなさい。 ここに書いてもらいたいことがある

(今度は何を神は、お書きになるのかしらという、ある期待の気持ちを持っていました・・・)

 

分裂は主の身体を引き裂く

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P74

‘88・11・16

 

このようにしてサタンはあなたに指を触れることが許されていない(*)、 あなたにこう約束する ♡ 私のほうからは、決して見捨てたり、なおざりにはしない、何一つ不足しないであろう。 あなたに平安を与え 小さな霊魂にたいして特別に抱く愛を示した、我が聖心を しめした。 そこで 我がヴァッスーラ、あなたは私を測り知れないほどに愛し 我が霊を悦ばせるようにと造られている、私を常に望み、従うことによって喜ばせなさい、我が怒りを和らげ、慰め 憩わせてほしい、私を礼拝し、私のうちに希望し、完全に盲目的に信じなさい、これらが我が心の指針。 私を尊び、我が反射となるように。 そして与える全てを受け取り 我が誉れとなりなさい。 花よ、私の利益と栄光のためにだけ生きるように、与えるすべてを いつも喜んで受け入れなさい。

 

  病いや死をもたらし。

 

 

はい、わが主よ。そう努力しています。

 

私はどのような時でも現存している、覚えておくように、あなたを救いに来なかったなら、今私を そして私だけを望んでいたであろうか?

 

いいえ、主よ。

 

私のうちの真のいのちが何を意味するかを教えた。 しばしば祈り、毎日聖なるロザリオを唱えるように、この小さな鎖はサタンが鎖でつながれ 征服されるべき鎖だからだ! 平和を与える、決して疑わないように、「私たち」?

 

永遠に、アーメン。

聖書の中で「サタンは鎖でつながれるであろう」(黙示録20・2)とありますが、それは全人類がロザリオを唱える時だと思います。地球全体が。この日が来る時、サタンは征服されて、踏みつぶされるでしょう。ロザリオの「鎖」によって。

 

 私のほうからは、決して見捨てたり、なおざりにはしない、何一つ不足しないであろう

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P11

‘99・2・2

 

ああ、世代よ、あなたのあまりにみじめな時代にとって この本(*2)ほど利益をもたらすものを ほかには得られなかったであろう。 我が教会の刷新にとってこれ以上の贈物を受け取ることはあり得なかった、しかしこのたびも我が教会はこの意図を理解せず、私を裏切っている・・・・

 *2イエスは、「神のうちの真のいのち」の全巻を仰っています。

 

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P137

1900年7月9日

 

「まことに私のものとなった霊魂は、神のために生きるだけではなく、神の中に生きなければならない。あなたは私の中に生きるように努めなさい。私の中に、全ての徳の集合所を発見し、その中を散策しながらその香りから養分を取り、満ち足りるのである。その結果あなた自身からも、その天的光りと香りを発散するようになる。私の中に生きるということは、それこそまことの徳であって、しかも神の人格と同じ形を霊魂に与えることのできる徳を持つということである。彼女はそこに自分の住まいを定めて、そこから自分が養分を取る神の徳と同じものに変容されるまでに至るのである。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P138

1900年7月10日

 

今日も私が同じような混乱した気持ちでおりますと、イエスが姿をお見せになり、前日に彼がおっしゃったこと全てを私が書かなかったと言われました。すなわち霊魂は、神のために生きるだけであってはならないということについてです。

 よきイエスは、神のために生きることと、神のうちに生きること、この二つのあいだにある違いについて、次のような説明をくり返されました。

 

「神のためにのみ生きるとき、霊魂は不安、苦い思い、不安定な傾向、情熱の重荷を感じること、地上の物事に自分を巻き込ませる、などの傾向に傾きがちである。ところが神の中に生きる、ということはこれとは完全に異なるものである。一人の人が他の人の中に生きるということが言える場合にもっとも主要なことは、彼が完全に自己の考えを放棄し、他の人のそれを持つということである。それは自分のやり方、自分の好み、さらに相手の意志を自分の中に取り入れるために自分の意志を棄てる、ということである。

 このように、神のみ旨のうちに生き、その中に住むためには、霊魂は自分のものを全て放棄しなければならない。すなわちまったく自己を脱ぎ捨て、自分の情熱を捨てること、一言でいえば、全てを神のうちに見いだすために、全てを捨て去ることである。霊魂が裸になっただけでなく、よくよく自分を減少させたとき、そのときこそ、私の方法と私自身の生命をもって私のうちに生きるために、私の心の狭い門をくぐってそこに入ることができる。私の聖心には終わりも境界線もなく、それは非常に広いにもかかわらず、そこには全てを脱ぎ捨てた者だけが入ることができる。それには理由がある。つまり、私はもっとも聖なるものであるから、私の聖性と関係のない者には、決して私の中に生きることを許せないからである。だから娘よ、私のうちに生きるように努めなさい。そうすれば事前に天国を生きることになるであろう。」

 

 私はこの、神のうちに生きるということについて、なんとよく理解したことでしょうか! このあとイエスは消えられ、私はいつもの状態のうちに残りました。

 

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P48

 

「私の中に来なさい。そこにのみ、まことの平和と恒久的な喜びを見いだすだろう。私の内部には、平和と喜びに属さないものはなにも浸透することがないからである。私の中に住む者は、喜びのすべてをたたえた深い海の中を泳ぐ以外のことをすることがない。ところが、私の外に出るとき、たとえ霊魂が他のことに何も興味を抱くことがないとしても、人間が私に与える侮辱を見、私がそれによって心を痛めるのを見るだけで、彼女もその苦しみに参与し、心が乱される。ゆえにあなたは、時々全てを忘れて私の内に入り、私の平和と幸福を味わうために来なさい。それから外に出て、私の償いの霊魂としての役割を実行しなさい。」

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/P37

 

 わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P135

 

 わたしは真の生命である。わたしの愛する人たちよ、わたしのうちにとどまりなさい。そうするなら死を知らないだろう。

 

 

 

 

5.主の中にいる

 

 

天界の秘義2974

 

善はことごとく、また真理もことごとく主のものであり、かくて主のみから発していることは信仰の主要箇条である。たれでもこのことを内的に承認すればするほど、その者は益々内的に天界の中にいるのである、なぜなら天界ではそれがそうであることが認められており、そこにはそれがそうであるという認識のスフィアが在るからである、なぜなら彼らは主のみから発している善の中におり、このことが主の中にいることと呼ばれているものであるからである。この認識の度は(すぐ前に言われたように、2973番)、真中から周辺に至るまでさえも減少している。

 

 

 

天界と地獄7

 

天界にいる者たちは主の中にいると言われている。(注)

 

注:天界にいる者は主の中にいると言われている(3637、3638)