主の中にいる
ヨハネ1・1・2・3−6
わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P34
なぜなら彼は天界へ入る時、主の中に入るからである。(黙示録講解956)
天界と地獄8
天界にいる者たちは主の中にいると言われている。
天界と地獄11
天界に、また教会にいる者たちは主の中におり、主は彼らの中におられることを、主は以下のように言われて、教えられている、「わたしの中に宿りなさい。さすればわたしはあなたたちの中に宿るでしょう。枝はぶどうの木の中に宿らなくてはそれ自身では果を結ぶことが出来ないように、あなたらもわたしの中に宿らなくては、果を結ぶことは出来ない。わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの中に宿り、わたしもその中に宿っている者、その者が多くの果を結ぶのである。なぜならわたしなしではあなたたちは何事も為すことは出来ないからである」(ヨハネ15・4、5)。
天界と地獄81
天界は全体としても、部分としても、主の神的な人間的なものから、人間を表象しているため、天使たちは、自分たちは主の中にいると言っており、また或る者は、自分たちは主の身体の中にいると言っており、そのことによって、彼らは主の愛と善の中にいることを理解している、実に主御自身そのことを教えて、言われている、「わたしの中に止まりなさい、さすればわたしはあなたたちの中に止まるであろう、枝はぶどうの木に止まらないならば、それ自身では実を結ぶことが出来ないように、あなたらも、わたしの中に止まらないならば、〔実を結ぶことは〕出来ない。(後略)」(ヨハネ15・4−10)。
真の基督教354
「人間はこの世の職業の故に、信仰の真理を僅かしか得ることが出来ないが、若し、彼が主に近づき、主のみを礼拝するならば、凡ゆる真理を知る力を得るのである。かくして、主を真に礼拝する者は凡て、以前知らなかった信仰の真理を聞くや、直ちに之を悟り、認め、受入れるのである。何故なら主は彼の内にあり、彼は主の中にあるからである。従って、真理の光は彼の中にあり、彼は真理の光の中にあるのである。何故なら上述したように、主は光そのもの、真理そのものにて在(いま)すから。」
天界の秘義1735[2]
愛を除いては何ものにも存在が属性づけられることは出来ない。凡ゆる生命の存在そのものが、即ち生命そのものがこの愛から―それが愛の中に、または愛そのものに属しているため―発している。そしてエホバのみが愛であられるため、彼のみが生命の存在であられまたは生命そのものであられるため、一切のものはことごとくそこからその存在と生命とを得ているのであり、また何人もエホバのみによらなくては、即ち主のみによらなくては、自分自身からは存在することも、生きることも出来ないのである、そして何人も主のみによらなくては自分自身からは存在し、生きることは出来ないため、人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である。天使たちは主の愛の中に生きているため、主の生命の存在そのものの中に生きているからには、彼らは自分たちが自分たち自身から生きているのではなくて、主から生きていることを明らかに認識しているのである。しかしそれでも彼らには彼ら自身から生きているという外観が言い尽くし難い幸福と共に他の凡ての者にもまさって与えられているのである。それでこれが主の中に生きることであって、それは私たちが主の愛の中に、即ち、隣人に対する仁慈の中に生きない限り、決して在り得ないのである。
天界の秘義2996
以下のことは他生では各々の霊には何ものにもまさって良く知られてはいるものの、この世では大いなる秘密である、即ち、人間の身体における凡ゆる物は天界における凡ゆる物に相応しており、実に身体の最小の部分であっても、それに霊的なまた天的なものの何かが相応しており、またはそれと同一のことではあるが、それに天界の社会が相応しているのである、なぜならこれらの天界の社会は霊的な天的なものの凡ゆる種族と種類とに従って存在しており、しかもそれはそれらの天界の社会が共に合して一人の人間を、その人間の凡ゆる部分の方面を、全般的にもまた個別的にも、その内部のみでなくその外部をも表象しているといった秩序をとっているからである。そこから天界全体はまた巨大人と呼ばれており、またそこからこれこれの社会は身体のこれこれの領域に属しているとしばしば言われているのである。その理由は主はただ一人の人間であられて、天界は主を表象しているということであり、主から発している神的な善と真理とは天界を構成するものであり、天使たちはその中にいるため、彼らは主の中にいると言われている。しかし地獄にいる者らはこの巨大人の外側にいて、不潔な物に、また身体の腐敗した部分に相応しているのである。
天界の秘義3796[4]
目的が情愛の性質を、即ち、それが純粋なものであるか、似而非なるものであるか、または誤ったものであるかを決定することは、人間の目的が彼の生命そのものであるためである、なぜなら人間は自分の生命に、またはそれと同一のものではあるが、自分の愛に属しているものをその目的とするからである。隣人の善が、全般的な善が、教会と主の王国の善が目的である時、その人間はその霊魂の方面では主の王国の中におり、かくて主の中にいるのである、なぜなら主の王国は人類の善を求める目的と用の王国以外の何ものでもないからである(3645番)。人間のもとにいる天使たち自身が専らその人間の目的の中にいるのである。人間が主の王国がその中に存在している目的のような目的の中に存在しているに応じて、益々天使たちはその者を歓び、その者に自分自身を兄弟に連結させるように連結させるが、しかし人間が自己の目的の中に存在しているに応じ、益々天使たちは退いてしまい、地獄から悪霊らが近づいてくるのである、なぜならそれ以外のいかような目的も地獄を支配してはいないからである、この凡てから私たちは情愛がいかような起原から発しているかを探り、またそれを知ることがいかに重要なことであるかを認めることが出来るのであり、そしてそのことは専ら目的のみから知られることが出来るのである。
神の愛と知恵431
これに私は以下の注目すべき経験を附加しよう。天界では、用に対する情愛から用を行う者は凡て、その中に住んでいる交わりのために、他の者よりも賢く、幸福である、彼らにあっては用を行うことは各々に特有な仕事に誠実に、正直に、公正に、忠実に行動することである。これを彼らは仁慈と呼び、礼拝に属する儀式を仁慈のしるしと呼び、他のことを義務、恩恵と呼び、以下のように言っている、即ち人がその職業の義務を誠実に、正直に、公正に、忠実に行うとき、共同体の善は維持され、永続され、そしてこれが『主の中にいる』ことである、なぜなら主から流れ入る一切は用であり、それは部分から共同体の中へ流れ入り、また共同体から部分へ流れ入っているからである。そこの部分とは天使であり、共同体とは天使たちの社会である、と。