再生した人間

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.ヴァッスーラ

3.ルイザ・ピッカレータ

4.サンダー・シング

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

真の基督教597

 

試練は存在することが現今知られているが、何人もその起原と性質を、あるいはそれは如何なる善を為すかを殆ど知らない。その起原と性質とは上に示された。そしてその為す善もまた、すなわち、内なる人が勝利を獲得する時、外なる人は征服されることもまた示された。かくして、諸々の欲念は追放され、善と真理とに対する諸々の情愛がそれらに代って植えつけられ、排列され、かくして、その人間はその欲し考える善と真理とを熱心に行い、かつ語るのである。さらに彼はその外なる人に対する勝利によって霊的にされ、かくて主によって凡て霊的である天界の諸々の天使たちと結ばれる。

 現今一般的に試練について知られていないのは教会は真理を知らず、何人も主に直接近づき、古い信仰を斥け、新しい信仰を抱かない限り、真理を知ることは出来ないからである。ニケア会議以来、三人の神を信じた者は凡て、霊的な試練を受けることは許されていない。何故なら、彼はその場合直ちに屈服するであろうし、かくして地獄にさらに深く陥るからである。現今の信仰に先立つと言われる痛悔は試練ではない、私はこの点について多くの者に尋ねると、彼らはそれは無意義な言葉であるか、あるいは恐らく単純な人々が地獄の火を考える時、感ずる神経的な不安に言及するものであろうと語ったのである。

 

 

 

天界の秘義40

 

しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―

 

 

 

天界の秘義840

 

 「神は憶えられた。」これは試練の終りと革新の始めとを意味することは前後の記事から明らかである。『神は憶えられた』は、特に、神が慈悲深くあられることを意味している、なぜなら神が憶えられることは慈悲であるからであり、そしてこれが特に試練の後に述べられているのは、新しい光がその時輝き出るためである。試練が続いている限り、人間は主は在さないと想像するが、それはかれが魔鬼に激しく悩まされてしばしば絶望し、神が在すとはほとんど信じることはできないからである。しかし主はそのときかれが全く信じることもできない程に親しく臨在されているのである。しかし試練が止むと、その人間は慰安を受け、その時始めて主が臨在されていることを信じるのである。それ故現在わたしたちの前におかれた記事の中の、外観に応じて表現されている『神は憶えられた』という言葉は試練の終りと革新の始めとを意味している。『神』が憶えられたと言われて、『エホバ』とは言われていないのは、未だ人間は再生に先立つ状態にいたためであるが、しかしかれが再生すると、その時(本章の終りの20、21節のように)『エホバ』と言われるのである。その理由は信仰は未だ仁慈に連結していないということである、なぜなら人間は仁慈から行動するとき始めて再生したと言われるからである。仁慈の中にエホバはおられるが、仁慈に連結していない信仰の中にはそれ程おられはしないのである。仁慈こそ他生における人間の存在と生命そのものである、そしてエホバは存在と生命そのものであられるため、人間が存在し、生きていない中は、『エホバ』がかれとともにおられるとは言われないで、『神』が共におられると言われるのである。

 

 

 

天界の秘義842[4]

 

『風』は、とくに『東風』は諸々の誤謬と悪を、またはそれと同一の、諸々の悪霊と魔鬼を追い散らし、その後秩序をもって処理すること以外には何事も意味しないことは聖言から認めることができよう、例えば、イザヤ書には―

 

  あなたらが彼らをあおぐと、風は彼らを吹き去り、旋風が彼らを吹き散らすであろう、あなたはエホバを喜び、イスラエルの聖者を誇るであろ(41・16)。

 

ここには追い散らすことは『風』に、吹き散らすことは『旋風』にたとえられ、それ[風、旋風]はいくたの悪について述べられており、かくて再生した者はエホバを喜ぶのである。

 

 

 

天界の秘義904

 

「神はノアに語られた。」これはこの教会の人間のもとに主が現在[臨在]されたことを意味していることは聖言の内意から明らかである。主は人間各々のものと話されている、なぜなら人間が意志し[欲し]考える善い真のものはことごとく主から発しているからである。人間各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる。悪霊どもはかれのいくたの悪を刺激するが、天使たちは善い、真のものを吹き入れる。天使達により吹き込まれる善い、真のものはことごとく主のものであり、かくて主は絶えず人間のもとに語られているが、しかしそれは人間各々により全く異なっている。自分自身が悪霊どもにより導き去られるのに甘んじる者らのもとでは、主は恰も在したまわないかのように、または遠くから、語られるため、それで主は語られつつあるとはほとんど言われることはできないが、しかし主によって導かれつつある者たちのもとでは、さらに近く現存されているものとして語られるのであり、このことは何人も主から善い真のことを考えないかぎり、善い真のことは一つとして決して考えることはできないという事実から充分に明らかとなるであろう。

 

 

 

天界の秘義904[2]

 

主の臨在はその人間がその中におかれている隣人に対する愛と信仰の状態に応じてその人間について述べられる。主は善の凡ての中におられるため、隣人に対する愛の中に主は現存[臨在]されているが、しかし主は、愛のない、信仰と言われているものの中にはそれ程現存されてはいない。愛と仁慈のない信仰は分離した、または結合していないものである。連結の在る所には凡て連結させる媒介物がなくてはならないのであって、それは愛と仁慈以外の何ものでもない、このことは主はたれにも慈悲深くあられ、たれをも愛され、たれをも永遠に幸福にしようと欲しておられるという事実から凡ての者に明白であるにちがいない。それ故他の者に慈悲深くあり、その者を愛し、その者を幸福にしようと欲するといった愛を持っていない者は、主に似ていないし、また些かも主の映像を宿していないため、主に連結することはできない。かれらが言っているように、主を見上げて、しかもそれと同時に隣人を憎むことは単に遥か彼方に立つことであるのみでなく、自分自身と主との間に地獄の深淵を持つことであって、もしかれらが万が一にもさらに近づきでもするなら、その深淵に落込んでしまうであろう。なぜなら隣人に対する憎悪は間に介在する奈落の深淵であるからである。

 

 

 

天界の秘義904[3]

 

人間が隣人を愛する時始めてその者の許に主の現存[臨在]が可能となる。主は愛の中におられ、人間が愛の中にいるに比例して、主は現存[臨在]され、主が臨在されるに比例して主は人間のもとに語られるのである。人間は自分は自分自身から考えているとしか考えてはいないが、事実は人間は人間自身からは只一つの観念[考え]さえも得ておらず、一つの観念の最小のかけらさえも得ていないのであって、悪い誤ったものは地獄から悪霊等を通して得ており、主からは天使たちを通して善い、真のものを得ているのである。かくのごときが人間における流入であり、その流入からかれの生命が発し、かれの霊魂と身体との交流が発しているのである。これらの事から『神はノアに話された』という言葉の意義が明らかである。かれがたれかに『言われること』の意味と(例えば創世記1・29,3・13、14、17、4・6、9、15、6・13、7・1)かれが『話されること』との意義は異なっている。ここでは、かれがノアに話されたことは現存[臨在]を意味している、なぜなら仁慈を与えられた再生した人間が今主題となっているからである。

 

 

 

天界の秘義978

 

再生した者は善いものと真のものの性質を、また霊的な戦闘の性質を反省することにより、こうした生命の在ることを知ることが出来よう、なぜならそれは主が内なる人を通しその外なる人の中に仁慈の善と信仰の真理を作る出されるからには、人間の内に在る主の生命であるからである。(中略)

ここに内なる人について語られた事柄は大多数の者に理解されないことであるが、救いには必要ではない。ただ内なる人と外なる人とが在り、善と真理とはことごとく主から発していることを承認し、信じるのみで充分である。

 

 

 

天界の秘義984

 

 『地に再び満ちる』ことは外なる人の中に、を意味していることは『地』の意義が外なる人であることから明白であって、その意義についてはすでにいくども示しておいた。再生した人間の仁慈の諸善と信仰の諸真理とについてはそれらは良心の中に植えつけられるのであり、そしてそれらは信仰により、または聖言を聞くことにより植えつけられるため、それらは外なる人に属した記憶の中に最初存在していると言ってよいであろう。その人間が再生して、内なる人が活動する時、それと同じことが実を結ぶこととふえますことについても起り、すなわち、仁慈の諸善は外なる人の諸情愛の中にそれ自身を現わし、信仰の諸真理はその外なる人の記憶の中にそれ自身を現わし、その何れの場合も増大し、ふえますのである。このふえますことの性質は再生した人物の各々に知られることができよう、なぜなら確認させる事柄が絶えず聖言から、合理的な人から、知識から生まれて、そのことによりかれは益々確認することができるのであって、これは仁慈の結果であり、主のみが仁慈を通してその業を行われるからである。

 

 

 

天界の秘義986

 

 再生以前の人間の状態は外なる人に属していくたの欲念といくたの誤謬が絶えず支配していて、そこから争闘が生まれるが、しかし再生後は内なる人が外なる人を、すなわち、そのいくたの欲念といくたの誤謬とを支配し、かくてその人間は悪を恐れ、誤謬におののくのであり、その何れも良心に反していて、良心に反して行動することにかれは恐怖の念を覚えるのである。しかしながら悪を恐れ、誤謬におののくものは内なる人ではなくて、外なる人であり、それでここに『地の獣の凡てに、天の凡ての鳥』に、すなわち『獣』によりここに意味されている凡ゆる欲念に、また『天の鳥』によりここに意味されている凡ゆる誤謬に『あなたを恐れさせ、あなたにおののかせよ』と言われているのである。この『恐れ』と『おののき[戦慄]』はその人間自身のものであるかのように見えるが、しかしそれらは以下の原因から起っているのである。前に述べたように、人間各々のもとには少なくとも二人の天使がいて、その者たちを通してかれは天界と交流しており、また二人の悪霊がいて、その者らをとおしてかれは地獄と交流しているのである。再生した人間の場合のように天使たちが支配すると、そのときはかれにつき添っている悪霊は、拘束されているため、善い真のものに反したことは何であれ敢えて行おうとは試みない、なぜならかれらが何か悪いことを行い、また誤ったことを語ろうと試みるや否や、すなわちそれを刺激しようと試みるや否や、かれらは立ちどころに一種の奈落の恐怖と戦慄とに襲われるからである。この恐怖と戦慄とが人間の中に良心に反したものに対する恐怖と戦慄と認められるのでありそれでかれは良心に反したことを行ったり、または言ったりするとすぐに、試練の中へ、良心の呵責の中へ、すなわち一種の奈落の呵責の中へ入るのである。

 

 

 

天界の秘義989

 

 誤謬に対する主権[支配]については、それは悪に対する主権[支配]と同一である。即ち、人間は人間自身ではそれを些かも支配することは出来ないのである。ここでは欲念または『地の獣』に対する、まあ誤謬または『空の鳥』に対する再生した人間の支配が主題となっているため、何人も仁慈が自分の信仰の第一次的なものであることを承認し、信じない限り、また隣人に対する愛に動かされて、彼に慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことは出来ないのである。仁慈から彼の新しい意志は形作られるのである。仁慈を通し主は善を生み出され、またそれにより真理を生み出されるが、仁慈の無い信仰と通しては生み出されはしない。服従のみから、即ち、それがそのように主により命じられているため、仁慈の業を行いはするが、しかも再生していない者がいる。これらの者は、もしその業に義をおかないならば、他生で再生するのである。

 

 

 

天界の秘義1044

 

「そしてそれはわたしと地との間の契約の印となるであろう」。これは主が現存されているしるしを意味し、ここの地は人間の人間自身のものを意味していることはすでに言われたことから明白である。『地』は人間の人間自身のものを意味していることはまた内意から明白であり、それがここに用いられている関連からも明白である。なぜなら前には以下のように言われたからである。『これはわたしがわたしとあなたとあなたとともにいる生きた凡ての魂との間に立てる契約の印である』。このことにより何であれ再生したものがことごとく意味されたのである。しかしここでは異なった風に言われている。すなわち、『それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』。このことから、また『契約の印』という言葉がくり返されていることからも、ここには他の事柄が意味されており、事実『地』は人間の意志の部分の人間自身のものであるところの、再生しない、また再生することのできないものを意味していることが明らかである。

 

 

 

[2]なぜなら人間は再生した時はその知的な部分の方面では主のものであるが、しかしその意志の部分の方面では人間自身のものであって、霊的な人間の中ではこの二つの部分は対立しているからである。しかし人間の意志の部分は対立しているけれど、それでもそれは現存しないわけにはいかないのである。なぜならかれの理知的な部分における曖昧さはことごとく、またはかれの雲の濃厚さのことごとくはそこから発しているからである。それは絶えずそこから流れ入っており、そしてそれが流れ入って来るに応じて、かれの知的な部分の中の雲は厚くなるが、しかしそれが遠ざけられるに応じて、その雲は稀薄になるのである。かくて『地』によりここでは人間の人間自身のものが意味されている。(『地』により人間の形体的な部分が意味されまた他の多くの事柄も意味されていることは前に示しておいた。)

 

 

 

[3]意志と理解の間のこうした事柄の条件は最古代教会の人間における意志と理解のように、前には友情の契約により結合していた二人の者が―人間がその意志の部分を全く腐敗させてしまった時おこったように―その友情を破壊されてしまって敵意が起ってきたようなものであり、かくて契約が再び結ばれるとき、敵意を抱いた部分が契約がそれと結ばれるかのようにさし出されるが、しかしそれは全く対立して、相反したものであるため、契約はそれとは結ばれないで―既に言ったように―そこから流れ入って来るものと結ばれるようなものであり、すなわち理解の人間自身のものと結ばれるのである。契約の『象徴』または『印』は以下のようなものである。すなわち、理解の人間自身のものの中に主が現存されるに比例して意志の人間自身のものが遠ざけられるのである。この間の実情は天界と地獄との実情に性格に同一である。再生した人間の知的な部分は、主がその中に現存されている仁慈から、天界であり、かれの意志の部分は地獄である。主がこの天界の中に現存されているに応じ、それに比例してこの地獄は遠ざけられるのである。なぜなら人間は人間自身では地獄の中におり、主により、天界の中にいるからである。そして人間は絶えず地獄から天界へ挙げられつつあり、かれが挙げられるに応じて、それに正比例してかれの地獄は遠ざけられるのである。それゆえ主が現存されているという『印』は、またはそのことを指示するものは、人間の意志の部分が遠ざけられるということである。それが遠ざけられる可能性は試練により、また他の多くの再生の方法により行われるのである。

 

 

 

天界の秘義1690[2]

 

福音書における主の生命[生活]の聖言の中には、荒野における主の試練を除いては、最後の試練以外には何一つ記されてはいない。それ以上のものは弟子たちに明らかにされなかったのである。明らかにされた事柄は文字の意義ではほとんど言うに足りないものであるほどにも軽微なものに思われている、なぜなら主の試練はいかような人間にも決して把握されることも信じられることもできないほどに苛烈なものであったにも拘らず、そのように語り、また答えもすることは何ら試練ではないからである。何人も試練のいかようなものであるかをその中にあった者を除いては知ることはできないのである。マタイ伝4・1−11、マルコ伝1・12、13、ルカ伝4・1−13に述べられている試練は凡ゆる試練を要約して含んでいるのである、すなわち主は全人類に対する愛から地獄に満ちている自己と世への愛と戦われたのである。

 

 

 

天界の秘義1695

 

「そして彼らの食物をことごとく」。これは彼らが誤謬を考える力を剥奪されたことを意味していることは食物の意義から明白である。他生で享受される天的な、霊的な、自然的な食物のいかようなものであるかは、前に示しておいた(56−58、680、681番)。これらもまた身体の食物に相応しており、それで聖言では食物により表象され、また『食物』と呼ばれている。しかし悪い奈落の霊どもの食物は知恵と理知と真の知識に反したものであって、それはことごとく誤謬であり、しかも驚くべきは、悪霊どもはこうした食物により支えられているのである。それが彼らを支えている理由はそれが彼らの生命であるということである。真理を貶し、実にそれを冒涜さえもする手段が彼らに与えられない限り、彼らは生きることは出来ないのである。しかしそれでも彼らの悪から発した誤謬のみを考えて、それを話す気まま[許し]が彼らに与えられているが、彼らの悪に反したものを考えて、それを話すことは許されてはいないのである、なぜならそうしたことは詐欺であるからである、なぜなら彼らは彼らの悪から誤謬を話している限り、それは彼らの生命から発しているからである。それでそれは彼らに許されているが、それは彼らの性質はもしそうでないと彼らは生きることが出来ないといったものとなっているためである。

 

 

 

天界の秘義1695[2]

 

彼らが悪を行い、誤謬を考える力を剥奪されることについては、実情は以下の如くである、即ち、試練の争闘の中では悪霊どもはその人間の中にある悪と誤謬とをことごとく引き出し、その人間の悪と誤謬から戦うことを許されているが、しかし彼らは征服されてしまった時は、最早そのようなことを行うことは許されないのである、なぜなら彼らはその人間の中に、善と真理とが確認されてしまっていることを直ぐに認めるからである。霊は人間以上にこうした認識を賦与されているのであり、真理と善とを確認している人間のスフィアそのものから彼らは事態がいかようになっているか、いかような答を得るか、その他多くのことを直ぐに知るのである。これは霊的な再生した人間のもとで明白であり、彼らのもとにも悪霊は再生していない者のもとにいると等しくいるにはいるが、然し征服されてしまって、仕えているのである。このことが彼らが悪を行って、誤謬を考える力を奪われることにより意味されていることである。

 

 

 

天界の秘義1707[3]

 

人間各々における内なる人は主にのみぞくしている、なぜならそこに主は人間に幼児の頃から与えられる諸善と諸真理とを貯えておかれるからである。そこからこれらのものを通して主は内的なまたは合理的な人の中へ流れ入られ、この内的な、または合理的な人を通して外的な人へ流れ入られ、このようにしてその人間に考えて、人間になることが与えられているのである。しかし内なる人から内的なまたは中間の人へ注がれ、かくして外的な人へ注がれる流入は二重性を持っていて、それは天的なものか、または霊的なものか、その何れかによって行われており、またはそれと同一のことではあるが、善かまたは良心かその何れかを与えられている再生した者にのみ流れ入っており、かくてそれは認識かまたは良心により流れ入っているのであり、そうした理由から天的なものによる流入は主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ存在しているのである。しかし霊的なものまたは真理によっては、主は人間各々のもとに流入されており、この流入がないかぎり、人間は考えることができなくなり、それで語ることもできなくなるのである。人間が諸善と諸真理とを歪めてしまうといった者になると、また天的な霊的なものを何ら心にかけないときは、そのときは天的なものまたは善の流入はなくなってしまって、それらのものに対する道は閉ざされてしまうが、それでも霊的なものまたは真理の流入は存在しているのである、なぜならそうしたものに対する道は絶えず開かれているからである。ここから内的なまたは中間的なものの性質はすなわち合理的な人の性質はいかようなものであるかを認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義1717

 

 「そしてかれは凡ての財産をとりかえした」。これは内的な人が外なる人における凡てのものを(内的な人に)順応した状態に至らせたことを意味していることは、『凡ての財産をとりかえすこと』の意義から認めることができよう。ここの『財産』は前に記したことの中に話されたように、ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルと彼とともにいた王たちにより外的な人の諸善と諸真理とが意味されている。かれらがその敵から取り上げた財産はその敵が悪を行い、誤謬を考える力を奪われること以外の何ものでもなかったのであり、そのことが[その敵が悪を行い、誤謬を考える力が]ソドムとゴモラとの富により意味され、またかれらの取った凡ゆる食物によっても意味されたのである。(そのことは前の11節にとり扱われている)。

 

 

 

天界の秘義1717[2]

 

この事柄は僅かな言葉では示すことができないような性質をもっているが、しかしここに以下に記されていることによってそれについて若干知ることができよう。試練の争闘の中にいて、征服する者は、悪霊を支配する、または悪魔の一味を支配する力を益々自らに取得して、ついにはかれらは些かも敢えて試みようとはしなくなるのである。しかし勝利が得られる度毎に、主は争闘が行われた源泉である諸善と諸真理とを秩序づけられ、またかくてその度毎にそれらは浄められるのであり、そして浄められるに正比例して、愛の天的なものが外的な人の中へ徐々に注ぎ入れられて、相応が行われるのである。これらが凡ゆる財産をとりかえすことにより意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義1717[3]

 

外なる人がいくたの試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることができると想像する者は誤っている、なぜなら試練はいくたの悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人にぞくしたものを服従にいたらせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることができるのであり、すなわち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることができるからである。これらの事柄が試練により行われることはいくたの試練を通して再生している者以外には何人も知ることはできないのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえもほとんど記すことはできない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

 

天界の秘義2367

 

人間のもとでは、再生した時ですらも、善と真理の認識は極めて曖昧

 

 

 

天界の秘義3017

 

 「祝福される」ことは、それが人間について述べられるときは霊的な天的な善で富まされることであり(981、1096、1420、1422番を参照)、そしてかれは彼の中の幾多のものが主により霊的な天的な秩序に処理され、かくて神的な秩序の映像とその秩序に似た形に処理される時、その霊的な、天的な善をもって富まされるからであり(1475)、人間の再生はそれ以外のものではないのである。しかし凡ゆるものが主により主の人間的なものの中に神的秩序に処理されたと言われるとき意味されている事柄は本章の以下に記されていることから明白である、即ち、アブラハムにより表象されている事柄は本章の以下に記されている神的真理から生まれたところの、イサクにより表象されている主の合理的なものは、今や人間的なものそれ自身から神的諸真理がそれに連結されることが出来るような神的な秩序に処理されたのである。これらが本章の内意に含まれているアルカナであり、それについては天使たちは主から明るい光を得ているのである。なぜなら天界の光の中ではこれらの事柄は白日の中に在るようにも明らかであるに反し、人間がその中にいる世の光の中では、殆どいかようなものもそのようには明らかではなく、ただ多少のものが再生した者のもとにのみ曖昧に認められるに過ぎないのである。なぜなら再生した者もまた天界のいくらかの光の中にいるからである。

 

 

 

天界の秘義3122[2]

 

 しかし霊的な者たちはそれとは異なっており、これらの者は信仰の事柄について考えるのであって、かれらは改良され再生されつつあるときは信仰の事柄によって隣人に対する仁慈に導き入れられるのである。それで霊的な者がとり扱われているときは、『主から発している慈悲』により隣人に対する仁慈の流入が意味され、『真[真理]』により信仰の流入が意味されるのである。しかしそれでもこの信仰は霊的な者が再生したときは、仁慈となるのである、なぜならかれはそのとき仁慈から行動するからである、それ故仁慈から行動していない者は再生しておらず、仁慈から行動している者は再生しているのであり、この場合かれは信仰のまたは真理の事柄については意を介しないのである、なぜならかれは信仰の善から行動しており、もはやその真理からは行動しないからである、なぜなら真理は単に仁慈の形として現われる以外にはもはや現われなくなるほどにも、それはそれ自身を善と連結させてしまっているからである。

 

 

 

天界の秘義3295

 

「一方の民は他方の民に勝つであろう」。これは最初は真理が真理の善に勝るであろうということを意味していることは以下から明白である、すなわち、『民』の意義は真理であり(直ぐ前の3294番参照)、『勝つこと』の意義は勝ることである。最初に言及されている『民』は真理を意味しているが、しかし二番目に言及されている『民』は真理の善を意味しており、真理の善は真理から発生してくるかの善であり、それはそれが始めて発生してくるさいは真理であるが、しかし善として見えるため善と呼ばれているのである。そこから『民』によりこの善がまた意味されており、それはそれが始めて発生してくるさいは真理の善と呼ばれるのである。この善について或る観念を得るために、私たちは以下のことを知らなくてはならない、すなわち、人間は再生していない中は、真理から善を行っているが、しかし再生した後は、善から善を行うのである。それで理解から発している善はそれ自身では善ではなくて、真理であるが、それに反し、意志から発している善は善である。例えば、自分の両親を尊敬しないで、十誡の誡命からかれらを尊敬することを習う者は、初めてかれらを尊敬するときは、それを戒めから行っているのであって、この尊敬は誡命から発しているため、それはそれ自身では善ではないのである、なぜならそれは愛から発していないで、律法に対する服従か、または律法の恐怖か、その何れかから発生しているからである。それにも拘らずそれは真理の善と呼ばれているが、しかしそれが始めて発生してくるさいはそれは真理である、なぜならその時はその人間は善を行うのではなくて、真理を行うからである、それに反しその人間が愛からその両親を尊敬すると、そのときは善である。他の凡ての場合も同じである。

 

 

 

天界の秘義3318[4]

 

これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、即ち、新しくされる理由である、その後彼は他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。

 

 

 

天界の秘義3688[4]

仁慈

 

 しかしその後彼はさらに明るくされると、彼は彼が欠乏し困窮していると信じている凡ての者に善を為そうと欲しはするが、しかし未だこうした状態の中にいる敬虔な者と不敬虔な者とを殆ど区別しないのであり、凡ゆる者が同じ方面と同じ程度の自分の隣人であると信じている。しかし彼がこれらの事柄の中でさらに明るくされると、そのとき彼は区別をし、正しい善良な者にのみ援助を与えて、邪悪な者を助けることは、その与える利益と便宜とにより自分は邪悪な者に他の者を害する手段を提供しているからには、多くの者に危害を加えることであることを知るのである。ついに、彼が再生すると、彼はその時その善を行う相手の人物に感動しないで、その人物の中に在る善に感動するため、彼は善良で敬虔な者にのみ善を行うのであり、そして主は善い敬虔なものの中に現存されているため、彼はそのことにより善いことに対する情愛を通して主に対する彼の愛を証するのである。その人間が心からこの仁慈の中にいるとき、彼は再生しているのである。

 

 

 

天界の秘義4243

 

本章には、真理が善に服従するようにされつつあるとき存在する秩序における連結の経過が記され、かくて状態の転倒が記されているのである。人間が情愛から真理を学びつつあるものの、それに従ってさほど生きていないときは、真理は外観的には第一位に立っているのである。しかし人間が情愛から学んだ真理に従って生きるとき、善は第一位に立つのである、なぜならそのときその人間は真理に従って行うことは善であると信じているため、真理はそのとき善となるからである。再生した者たちはこの善の中におり、良心を持っている者たちもまた、すなわち、何かの事柄が真であるか否かとはもはや論じはしないで、それが真であるためにそれを行い、かくてそれを信仰の中にまた生命の中に自分自身に浸透させた者たちも、この善の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識は[善と真理を認識すること]全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。

 

 

 

天界の秘義4364[2]

 

 霊的な事柄の場合も、また信仰の事柄の場合も、そうした事柄が仁慈の善に連結しつつある時も同一である。人間は、善と真理とは天界から直接に流れ入り、かくて人間の中に媒介物がなくて流れ入ってくると信じているが、しかしそれは非常な誤りである。主は各々の者をその者のいくたの情愛により導かれるのであり、かくてかれを暗黙の摂理によりたわめられるのである、なぜなら主はかれを自由を通して導かれるからである(1937、1947番)。自由はことごとく情愛または愛のものであることは前に見ることができよう(2870、2873番)、ここから善が真理と連結することはことごとく自由の中に行われるが、強制の中には行われないのである(2875−2878、2881、3145、3146、3158、4031番)。それで人間が自由の中に善へ導かれていると、そのときは真理は受け入れられて、植付けられ、かれはその真理に感動しはじめ、かくて徐々に天界の自由で導き入れられるのである。再生した者(すなわち、隣人を愛し、さらに主を愛している者)がその過去の生活を反省するとき、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれてきたことを知るであろう。

 

 

 

天界の秘義8013〔2〕

 

『信仰と仁慈との教令に従った』と言われているのは(以下の)相違のためである、なぜなら再生以前では生活〔生命〕は信仰の教令に従っているが、しかし再生後では仁慈の教令に従っているからである。再生以前ではたれ一人仁慈の何であるかを情愛からは知ってはいないで、単に教義のみから知っており、その時はその人間は信仰の教令〔教え〕と呼ばれる教義の教令〔教え〕から生きているが、しかし再生以後では仁慈の何であるかを情愛から知るのである、なぜならその時彼はその隣人を愛し、心からその者に善を欲し、またその時は彼の上に記されている律法に従って生きるからである、なぜなら彼は仁慈の情愛から行動するからである。この状態はその前の状態からは全く異なっているのである。最初の状態の中にいる者たちは信仰の諸真理と諸善とについては明確ではないが、後の状態の中にいる者たちは相対的には明確である。後の者は〔天界の光〕に明るくされて、真理を認め、それを確認するが、前の者は(天界の光に)明るくされてそこから真理を認めはしないし、またそれを確認もしないのであり、それはただ教会の教えは真理であるという確信〔自己説得〕から発しているに過ぎないのである。そして彼らは(天界の光に)明るくされてそこからそれを認めていないため、誤謬を真理と同じように確認することも出来、そしてその誤謬が確認されると、それを正に真理そのものとして認めるのである。この凡てから信仰の教令に従って生きることにより意味されていることと仁慈の教令に従って生きることにより意味されていることを認めることが出来よう。

 

 

 

新エルサレムの教義182

 

 再生した人間は、その内なる人の方面では、天界にいて、そこで天使たちと共になっており、その天使たちの間に死後また入って来て、天界の生活を送り、主を愛し、隣人を愛し、真理を愛し、真理を理解し、善を楽しみ、そこから生まれてくる幸福を認めることが出来るのである。

 

 

 

新エルサレムの教義259

 

 再生した人間もまたその内なる人は霊的認識を与えられ開かれているため、事実として聖言の内なる意義にいるが、しかし彼はそのことを知らない(10400番)。しかしこの場合聖言の霊的なものは自然的な観念に流れ入りかくてそれは自然的に提供されている、なぜなら人間は世に生きている間は自然的なものの中で考えるから(5614番)。かくて明るくされている者のもとでは真理の光はその内なるものから、即ちその内なるものを通して主から発している(10691、10694番)。それと同じ方法で聖いものは聖言を聖いものとして尊んでいる者たちのもとへ流れ入っている(6789番)。再生した人間は事実として聖言の内なる意義の中に、その神聖な意義の中にいるため―彼はそのことを知ってはいないものの―死後彼はその内へ入って、もはや文字の意義の中にはいない(3226、3342、3343番)。

 

 

 

 

 

 

白馬10

 

再生した人間は、自分ではそれとは知らないけれど、事実聖言の内意におり、その聖いものにいる故、死後自ずからその中へ入って、もはや文字の意義にはいない(3226、3342、3343)。内なる人の観念は霊的である、しかし人間は世に於けるその生活の間はそれに注意しない、なぜならそれは彼の自然的な思考の中に在って、それにその合理的な能力を与えているからである(10236、10240、10550)。しかし人間は死後その自分の霊的な観念へ入って行く、また語りもするからである(2470、2478、2479、10568、10604)。かくて、すでに述べたように、再生した人間は、自らが聖言の霊的な意義の中にいて、そこから明るくされていることを知っていない。

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P119

‘00・8・5

 

あなた自身を見て、そして教えてほしい、我がヴァッスーラ、人が変容したという印は何か?

 

たくさんの印があると思います。

 

たくさんあるというのは正しい、しかし中でも 一番崇高な印とは?

 

聖パウロによれば、それは その人の中にある 神への愛でしょうか、その愛は その人の中であなたご自身の絶え間ない愛を注がれ、霊魂を変容させて霊的な深遠へと進ませ、愛において霊魂が育つよう導きます。こうして霊魂は神格化され、主に与って神となります。

あなたの愛が 神格化させ 悪にそまった私たちの肖りを 神なるあなたの肖りへと 変容させるのです・・・

 

そう! 聖書では「あなたの視線を ヤハウェに据えなさい そうするなら顔は輝こう」とあるが それは、「ヤハウェの似姿に変容する」という意味であって、自己(*)を神に差し出すなら、この最も明らかな変容の印が現れる。 つづけて ほかの印も現れる。 歓び、平安、いや増す愛徳の印が こうして、霊魂は 愛徳を通して 三位一体の神の知識を得られる。 変容した霊魂は 神への愛と 神を知り理解する知識によって 内も外も輝く明かりのようになろう。

 

この世とその闇から開放されて 幸せな霊魂は 私のもとに飛んで来て、我がふところの中(*1)にとどまっている。 愛に燃え、我が甘美に酔わされ、この霊魂は どうしたら三位一体のうちに いっそう深く分け入れるかを 熱心に探し求めよう。 そしてこの上なく優美な花婿なる 私は 我が心の愛の炎に ますます引き寄せ 私どものうちに憩わせて 共に治められるよう その霊魂を私どものうちに浸す。

 

そこで 私が差し出すものを 拒める霊魂がいようか? かつて言ったが 裁きの日には 地上にいたときの愛の程度によって 誰もが量られる。 何か 言うことがあるか?

 

  こう申し上げます:

 「あなたの御恵みは なんと大きいことでしょう。

  あなたは 畏れ敬う者のために 恵みをたくわえ

  たよる者に 人びとの前で それを授けます。」  詩篇31・20

 

そして この世にいまだ執着する人たちには こう言おう、心から、私を選んで、和解するつもりなら、私を呼び求め 私のもとに来て 祈るときは、その声に耳を傾ける。 私を探し求めるなら、見いだそう。私があなたに自らを見つけさせる、そして、あなたと会話し あなたも私と会話する 永えの愛をもって これまでもあなたを愛し、今もなおあなたへの忠実なる愛を保っているがゆえ。

 

だから来なさい、来て 私からあなたを分け隔てているヴェールを はぎ取りなさい。 永遠のいのちをあなたに与える 聖なる者を観想しなさい。

 *意志。  *1親密さをあらわす表現。

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P234

 

「我が娘よ、なぜ不安に心を騒がせて時間をつぶしているのか? あなたに関する出来事は何でもない。中傷、迫害、反対などのすべては人を義とし、ひとりで人間的な物事に依頼することなく、創造されたときのような神との一致にその人を戻すために、神の摂理が許すことなのである。なぜかというと、その人がどんなに善人で聖人であったとしても、いつも何かその内面に人間的な精神をもっているからである。

 また外面的にも、人は完全に自由ではない。常に希望し、人を信用し、人に頼り、そこから評判や尊敬を取り立てようとする人間的な何かを持っているものである。中傷、迫害、反対などの風が吹きすさぶやいなや、人間の精神は、なんと大きな雹の被害を受けることだろう! 事実人間は、自分が被造物から反対を受け、悪く解釈され、軽蔑されているとみると、もう人々のあいだに慰めを見いだせなくなり、同時に、彼への助け、支え、信頼、尊敬なども不足してくる。それで、最初はその人自ら被造物を捜し求めて行ったのに、その後は彼自身が、人々から逃げ出す。なぜなら、どこを向こうが、苦味ととげしか見つけることができないからだ。ゆえにこの人は、このような状態に成り下がって、独り取り残されてしまう。

 しかし人は、独りで居ることができない。彼は独りで居るために創られていないからだ。それでは、この可哀想な人は何をするだろうか? 彼は少しも躊躇することなく、彼の中心つまり神に全てを向ける。すると神はその全てを彼に与え、人も神を知るために自分の知性を、神と神から受けた恩恵を思い出すためにその記憶を、神を愛するために自分の意志を適用して、自分のすべてを神に与えるようになるのである。

 さあこれが、我が娘よ、霊魂が創造された目的、すなわち義とされ、聖化され、自分の霊魂の中で再び作り直されるということである。たとえその後、また被造物と接し、彼らが助け、支え、尊敬などを彼に与えたとしても、この人はもう、それがどんな値のものかを知っているので、無関心をもってそれらを受けるようになる。もしその人にこれらのことが役に立つと見ても、彼は常に神と共に独り留まりながら、ただそこに神の誉れと栄光を見るためにだけ、それを使用することだろう。」

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P203

 

5.また、わたしは、真摯な心でわたしを探し求める者たちに、わが言葉(聖書)をもって自らを現わしめている。わたしが人を救うために人の姿をとったように、霊であり命であるわが言葉もまた、人の言葉で書かれている。つまり、霊感的要素と人間的要素がそこで一つにされている。

 だが、人はわたしを理解しないのと同じく、わたしの言葉を理解していない。ヘブライ語とギリシャ語の知識でそれを理解することが必要なのではない。必要なのは、預言者と使徒たちにそれを書かしめた聖霊との交わりである。聖書の言葉は、疑いもなく霊的であり、世の批判に通じている者であれただの子供であれ、聖霊によって生まれた者のみが、よくそれを感得しうるのである。霊的言語は人の母国語でもあるため容易に理解できるはずなのだ。だが、この世の知恵しかもたないものは、聖霊を受けていないため、それを理解することはできない。