結婚愛
結婚/
1.天的な社会はことごとく婚姻愛[結婚愛]に基礎づけられており、その愛から善良な愛と情愛とが凡て発生しており、かくて彼らは無垢に基礎づけられている
2.凡ゆる用の中でも最大のものであるため、それはその中にそれが天界の幸福そのものとなっているほどの歓喜を持っている
結婚愛は善と真理との神的な結婚から発し、かくて主御自身から発している
3.結婚愛は決して分割されることはできない
4.結婚愛は善と真理との神的な結婚から発し、かくて主御自身から発している
5.真の結婚愛は現在極めてまれにしかないため、その性質は知られておらず、そのあることさえ殆ど知られていない
6.天界の祝福と幸福とはその愛の中にあり・・・天界の秘義より
7.基督教徒には妻とともに妾を得ることは、ユダヤ人に許されたようには、許されてはいない
8.愛はそれ自身において観察されるならば、連結を求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもなく、結婚愛は連結して一つのものになろうと求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもない
9.結婚愛もまた『離れない[密着する]こと』により表現されている
10.純粋な結婚愛は善と真理の中におり、かくて共に天界的結婚の中にいる者たちのもとにしか在りえない
11.婚姻愛の最初の媒介的な善
12.色情のみから妻と連結することは、霊的なものでない自然的なものであるが、しかし婚姻愛から妻と連結することは霊的な自然的なもの
13.霊界日記より
・結婚した配偶者を愛することは、主の眼前で善を行うこと
14.結婚愛の楽しさは天界へ進み、姦淫の楽しさは地獄へ進む
15.性愛は結婚愛から相違している
16.結婚愛は知られることが必要
17.新しいエルサレムである新しい教会へ主によって受け入れられる者以外たれ一人その愛を自分自身のものとはしない
18.結婚した夫婦の死後の状態について
19.古代の聖さに再び回復される希望がある
20.真の結婚愛について
21.説話
22.結婚愛に特有な感覚は触覚である
23.天界は主から流れ入っている善と真理との結合から結婚に譬えられて、結婚と呼ばれている
24.善と真理との結婚から発している結婚愛の起原について
25.只一人の異性に対するもの
1.天的な社会はことごとく婚姻愛[結婚愛]に基礎づけられており、その愛から善良な愛と情愛とが凡て発生しており、かくて彼らは無垢に基礎づけられている
霊界日記2705
「これらの者らについて私はその際霊たちと話し合い、以下のことを知らされた、即ち、こうした者らは他の霊たちの間では容赦はされないで、彼らの社会から糞尿のように斥けられてしまい、そのこともまた自然的なものと霊的なものと天的なものとの秩序の法則から確認されて流れ出ており、そのことについて彼らはまた私と話したのである、なぜなら天的な社会はことごとく婚姻愛[結婚愛]に基礎づけられており、その愛から善良な愛と情愛とが凡て発生しており、かくて彼らは無垢に基礎づけられているのである。こうした輩はその欲念をもって無垢の原理のみでなく、愛の原理をも破壊しようと躍起になるのである、なぜならこれらの者は婚姻愛の凡てに全く対立して、これを憎悪するのみでなく、また無垢にも対立して、それを殺すほどに害うからであり、更に彼らは婚姻愛に浸透することが出来る無垢な者たちを後には娼婦として生きるようにしむけてしまい、かくて彼らは内的な性質の殺人者である、なぜなら愛の最初の花は処女を婚姻愛へ導き入れて、夫と妻の心を連結させるものであるからである。霊たちはこうした事柄について私と話したのである。」
霊界日記2706
「さらに私は以下のことを話された、即ち、こうした欲情とこうした欲情を実際にやってのけることは聖霊に対する罪により理解されるものである、なぜなら天使たちの聖さは、すでに言ったように、婚姻愛に、また無垢に基礎づけられており、婚姻愛と無垢とは凡ゆる霊的な、また天的な愛と善の情愛との原理であり、こうした欲念[色情]は聖さの原理に反しているため、それでこうしたものが聖霊に対する罪により主として理解されるものである。」
2.凡ゆる用の中でも最大のものであるため、それはその中にそれが天界の幸福そのものとなっているほどの歓喜を持っている
天界の秘義997〔2〕
快楽の凡ても同様であり―その用が高貴なものであるに応じ、その歓喜も更に大きくなっている。例えば、結婚愛の歓喜(について考えてみよう)。この愛は人間社会の苗床であり、またそのことにより諸天界における主の王国の苗床であり、それは凡ゆる用の中でも最大のものであるため、それはその中にそれが天界の幸福そのものとなっているほどの歓喜を持っている。
天界の秘義1907
結婚愛は決して分割されることはできない。数人の者の間に分割された愛は結婚愛ではなくて、淫欲[好色]の愛である、この主題については、主の神的慈悲の下に後に述べよう。
4.結婚愛は善と真理との神的な結婚から発し、かくて主御自身から発している
天界の秘義2727−2759
結婚について、それが天界でいかように認められているかについて、また姦淫について
天界の秘義2727
純粋は結婚愛はいかようなものであるか、それはどこから発しているかを、今日では僅かな者しかその中にいないという理由から、僅かな者しか知っていない。殆どすべての者はそれは生来具わっており、それで、それは、彼らが言っているところでは、一種の自然的な本能から流れ出てくると信じていて、しかもそれは動物の間にもまた結婚のようなものが存在しているため、更に甚だしくなっているものの、人間の間の結婚愛と動物の間の結婚に属しているものとの間の相違は人間の状態と獣の状態との間の相違に似ているのである。
天界の秘義2728
そしてすでに言ったように、現今では僅かな者しか純粋な結婚愛とは何であるかを知っていないため、それを私に明らかにされたことから記してみよう。結婚愛は善と真理との神的な結婚から発し、かくて主御自身から発しているのである。結婚愛はそこから発していることは感覚には明らかではなくまた明らかに把握されもしないが、それでもそれは聖言のみでなく、流入からも、また相応からも認めることが出来よう。流入からは、天界は主から流れ入っている善と真理との結合から結婚に譬えられて、結婚と呼ばれているためであり、相応からは、真理に結合した善が低いスフィア[領域]の中へ流れ入る時、それは心の結合を形作り、さらに低いスフィア[領域]の中へ流れ入る時、結婚を形作り、それで主から真理に結合した善から心が結合することは結婚愛そのものであるためである。
5.真の結婚愛は現在極めてまれにしかないため、その性質は知られておらず、そのあることさえ殆ど知られていない
(1)真の結婚愛があるが、しかしそれは現在極めてまれにしかないため、その性質は知られておらず、そのあることさえ殆ど知られていない。
天界の秘義2732
現今の基督教国から来ている者はその極めて僅かな者しかそのようには暮らしてはいないのである。しかし結婚愛ではなくて、好色愛により結ばれて、結婚生活をした者たちは、好色は些かも天界では容認されないため、他生では引き離されてしまうのである、ましてや、互いにうとんじあって生活した者は引き離されてしまい、さらにまして互いに憎み合って生活した者は引き離されてしまうのである。二人の者が先ず他生に来ると、その大半は再び会うが、しかし非常な苦しみの後で引き離されてしまうのである。
天界の秘義3942
それで純粋な結婚愛は善と真理の中におり、かくて共に天界的結婚の中にいる者たちのもとにしか在りえないのである。
6.天界の祝福と幸福とはその愛の中にあり・・・天界の秘義より
結婚について、それが天界でいかように認められているかについて、また姦淫について。
天界の秘義2727−2759(静思社版第6巻P126―P142)
天界の秘義2729
純粋な結婚愛はそこから発していることは、以下の事実から認めることが出来よう。即ち、たれ一人主から真理の善と善の真理との中にいない限り、その結婚愛の中にいることは出来ないのであり、またそのことは以下の事実からも認めることが出来よう。即ち、天界の祝福と幸福とはその愛の中にあり、そしてその愛の中にいる者たちはことごとく天界の中へ、また天界の結婚の中へ入ってくるのである。またそれは以下の事実からも認めることが出来よう。即ち、天使たちが善と真理との結合について話し合っていると、その時低いスフィア[領域]の中にいる善良な霊たちの間には結婚を表象するものが示されるが、しかし悪霊の間には姦淫を表象するものが示されるのである。ここから聖言には善と真理との結合は『結婚』と呼ばれているが、しかし善の不善化と真理の誤謬化とは『姦淫』と『淫行』と呼ばれているのである(2466番参照)。
天界の秘義2730
この地球の上ではとりわけ最古代教会の人々は純粋な結婚愛の中に生きたのである、なぜなら彼らは天的なものであり、善から真理の中におり、天使たちとともに主の王国の中におり、その愛の中に天界を持っていたからである。しかし彼らの子孫のもとでは教会は衰えてしまって、彼らはその子供を愛しはしたが、その配偶者を愛しなくなり始めたのである。なぜなら子供は悪い者によっても愛せられることは出来るが、配偶者はただ善良な者によってのみ愛されることが出来るからである。
天界の秘義2732
私はこの相互性と交互性との性質について天使たちと語ったが、彼らは以下のように言ったのである。即ち、一方の者の像とその一方のものの形に似た形とが他方の者の心の中にもあり、かくては彼らは単に個々のものの中のみでなく、また生命の最も内なるものの中でも共になって住んでおり、このような一つのものの中へ主の愛と慈悲とが祝福と幸福とをもって流れ入ることが出来るのである。彼らはまた以下のように言った。即ち、身体の生命の中でこのような結婚愛の中に生きた者たちは天界では天使として、ときとしてはまたその子供たちとも一緒になって、共になり、また共に住んでいるが、しかし天的なものであった最古代教会から来ている者はすべてそのように生き、また霊的なものである古代教会から来ている多くの者もそのように生きてはいるものの、現今の基督教国から来ている者はその極めて僅かな者しかそのようには暮らしてはいないのである。しかし結婚愛ではなくて、好色愛により結ばれて、結婚生活をした者たちは、好色は些かも天界では容認されないため、他生では引き離されてしまうのである、ましてや、互いにうとんじあって生活した者は引き離されてしまい、さらにまして互いに憎み合って生活した者は引き離されてしまうのである。二人の者が先ず他生に来ると、その大半は再び会うが、しかし非常な苦しみの後で引き離されてしまうのである。
天界の秘義2734
身体の生命の中で純粋な結婚愛から結婚における幸福をもった者たちは他生にもまた幸福を得、かくて彼らのもとではその一方の生命の幸福は他方の生命の幸福へと続いて、そこでは心の結合となり、その結合の中に天界が存在するのである。私はそこから発してくる幾多の種類の天的な幸福と霊的な幸福は、単にその最も全般的なものですら、数えることも出来ないものであることを告げられたのである。
天界の秘義2735
純粋な結婚愛は天界の映像であり、それが他生の中で表象される時は、それは決して目では見られることが出来ない、心でも考えつくことが出来ないほどにも美しいものにより行われるのである。それは輝いた雲に取り囲まれた、言うに言われぬほどにも美しい処女により表象され、それでそれは美そのものの本質と形であると言うことが出来よう。他生における美はことごとく結婚愛から発していると言われているのである。結婚愛の幾多の情愛と思考とは謂わばルビーと紅玉にきらめき輝いている金剛石のような大気により表象され、これらのものには心の最も内なる部分をも感動させる歓喜が伴っているが、しかし何か好色が入ってくるとすぐにも、それは消滅してしまうのである。
天界の秘義2736
私は純粋な結婚愛は無垢それ自身であってそれは知恵の中に宿っていると告げられたのである。結婚愛に生きた者たちは天界では他の凡ての者にもまさって知恵の中にいるが、それでも彼らは他の者から観察される時、花と春の年頃の小さな子供のようにも見え、そのとき起ってくるものは何であれ彼らには楽しさと幸福である。彼らは無垢の天界と呼ばれている最も内なる天界にいるのである。この天界を通して主は結婚愛に流れ入られており、その天界から来ている天使たちはその愛の中にいる者たちのもとに現存しているのである。彼らはまた最も幼い年頃の小さな子供たちのもとにも現存しているのである。
天界の秘義2738
天界の中に在るような相互愛は結婚愛には似ていない。結婚愛はその一方の者の生命の中に一つのものとして在ることを欲することに在るのであるが、しかし相互愛は、子供に対する親の愛の場合のように、また自分自身のために善を行うことを愛するのでなく、それが自分に喜びであるために、善を行う愛の中に在る者たちの愛のように、自己よりも他の者に善かれと願うことに在るのである。このような天使的な愛は結婚愛から派生しており、子供が親から生まれるように、そこから生まれており、そうした理由からそれは子供たちに対し親のもとに存在している。この愛は、たとえ両親が結婚愛の中にいないにしても人類が死滅しないために、主により両親のもとに保存されているのである。
天界の秘義2742
結婚愛に似たようなものが若干の者のもとに見出されているが、しかし彼らが善と真理とを求める愛の中にいない限り、それはその結婚愛ではない。それは結婚愛のように見える愛ではあるが、しかしそれは世または自己への愛のためであり、すなわち、家で仕えられるためであり、あるいは安全にまたは気楽にいるためであり、あるいは病んだ時また年老いた時仕えてもらうためであり、あるいはその愛する子供たちの世話をしてもらうためである。ある者のもとではこの愛のように見えるものは配偶者を恐れる心から、または自分の名声のために、または不幸を恐れる気持ちから生まれており、ある者のもとでは好色的な愛から生まれている。これは最初の期間は恰も結婚愛であるかのように見えるのである。なぜならその時は彼らは一寸無垢のようなものをもって振舞い、小さな子供のように戯れ、天界から来ているものを認めるように、喜びも認めもするからであるが、しかし時が進むにつれて、彼らは結婚愛の中にいる者のように、益々密接に接合するようにはならないで、分離して行くのである。結婚愛もまた配偶者たちのもとでは異なっていて、その片方の者のもとでは他方の者のもとよりも多くあり、または少なくなっており、他方の者のもとでは少ししかないか、または全然無くなっているのである。こうした相違のために一方の者には天界が在りうるが、しかし他方の者には地獄が在りうるのである。情愛と受容とがこれを決定するのである。
天界の秘義2745
自分の夫を愛していないで、これを軽蔑し、遂にはこれを何ら顧みない女どもがいる。彼らの性質は、雄鶏、山猫、色の浅黒い虎により私に表象されたのである。このような者は初めはしゃべりまくるが、それから罵り、遂には虎の性質をつけると言われた。このような者でも依然自分の子供は愛していると言われたが、しかしこのような愛は人間的なものではなくて、それは同じように悪い者にも流れ入っており、いかような種類の動物であれ、その動物の中にすらも流れ入っていて、しかもそれがこれらのものもまた自分自身にも勝って自分の子供たちを愛している程にもなっていると答えられたのである。このような人物には結婚愛は些かも無いことが言い加えられたのである。
7.基督教徒には妻とともに妾を得ることは、ユダヤ人に許されたようには、許されてはいない
天界の秘義3246[4]
アブラハムとヤコブの場合のみでなく、またその子孫の場合でも、例えばギデオン(士師記8・31)サウロ(サム後3・7)ダビデ(サム後5・13、15・16)、ソロモン(列王記前11・3)の場合のように、かの古代人は妻の他に妾を得たことは、表象のために、すなわち、妻により天的な教会を、妾により霊的な教会を表象するために、許されたのである、こうしたことが許されたのは彼らは何ら結婚愛を持っていない底のものであり、彼らには結婚も結婚ではなくて、単に子孫を得るために、肉の結合に過ぎなかったためである。こうした者はそれを許されても、それは結婚愛を、従って、その契約を害いはしないのであるが、しかし善と真理との中にいて、内なる人であり、または内なる人になることが出来る者たちにはそれは決して許されはしないのである、なぜなら人間は善と真理との中におり、内なるものの中にいるとすぐに、そのようなことは止んでしまうからである。そうした理由から基督教徒には妻とともに妾を得ることは、ユダヤ人に許されたようには、許されてはいないのである、なぜならこれは姦淫であるからである。霊的な者は主の神的な人間的なものにより子とされたことはその同じ主題について前に述べもし、また示しもしたことから認めることができよう(2661、2716、2833、2834番)。
8.愛はそれ自身において観察されるならば、連結を求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもなく、結婚愛は連結して一つのものになろうと求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもない
結婚愛37
愛はそれ自身において観察されるならば、連結を求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもなく、結婚愛は連結して一つのものになろうと求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもない。
9.結婚愛もまた『離れない[密着する]こと』により表現されている
天界の秘義3875[7] レビ/
結婚愛もまた『離れない[密着する]こと』により表現されていることが以下の記事から明らかである―
それで男はその父と母とを離れて、その妻に密着しなくてはならない、彼らは一つの肉とならなくてはならない(創世記2・24)。
あなたたちの心が頑なであるためにモーセはこの誡命を書いた、が、創造の初めから神は彼らを男と女とに創造られたのである、それで男はその父と母を離れて、その妻に密着しなくてはならない、彼ら二人は一つの肉とならなくてはならない、それで神が共に結合されたものを人は分離してはならない(マルコ10・5−9、マタイ19・5)。シケムの魂はヤコブの娘デナを離れなかった、[デナに密着した]彼はその乙女を愛し、その乙女の心に語った(創世記34・3)。ソロモンは多くの他国の女を愛した、ソロモンは愛の中に彼らを離れなかった[彼らに密着した](列王記上11・1,2)
この凡てから今や『離れない[密着する]』ことは愛の言葉であり、古代教会により受け入れられて用いられたことが―その教会は表意的なものの中にいたのであるが―また内意ではそれは仁慈と愛であるところの霊的な連結以外の何ものをも意味していないことが明白である。
10.純粋な結婚愛は善と真理の中におり、かくて共に天界的結婚の中にいる者たちのもとにしか在りえない
天界の秘義3942
それで純粋な結婚愛は善と真理の中におり、かくて共に天界的結婚の中にいる者たちのもとにしか在りえないのである。
天界の秘義4145[3]
また一例として結婚愛を考えてみられよ、先行して、浸透してくる善は美であり、または作法の快さであり、または一方が他方に対し外的に(自らを)適応させることであり、または境遇が等しいことであり、または好ましい境遇である。これらの善が婚姻愛の最初の媒介的な善である。その後で心の連結が生まれるのであり、その中では一方は他方のように意志し、他方を喜ばすことを行なうことの中に歓喜を認めるのである。これは第二の状態であり、その時は前のものは、依然現存はしているものの、もはや顧みられはしないのである。最後に以下の点で天的な善で霊的な真理との方面で一方の者は他方の者のように同じ善に感動するのである。こうした状態が来ると、両方の者は共に善と真理との結婚である天界的結婚の中にいるのであり―なぜなら結婚愛はそれ以外のものではないからである―主はその時その両方の者の情愛の中へ一つの情愛の中へ流れ入られるように流れ入られるのである。これが直接に流れ入ってくる善であるが、しかし前の善は間接的に流れ入ったのであり、それを導入する手段として仕えたのである。
12.色情のみから妻と連結することは、霊的なものでない自然的なものであるが、しかし婚姻愛から妻と連結することは霊的な自然的なもの
天界の秘義4992
色情のみから妻と連結することは、霊的なものでない自然的なものであるが、しかし婚姻愛から妻と連結することは霊的な自然的なものであり、夫がその後色情のみから連結する時は、彼は、淫猥なことを為す者のように自分は罪を犯していると信じるのであり、それゆえ彼はそのことが仮にも彼のものとされることを最早願いはしないのである。
13.霊界日記より
霊界日記5830
或る一つの地獄から来ている者らが、そこから他の地獄へ移されるために、数百の数に至るまでも送り出され、その際その性質に従って行動することが彼らに許された。たちまち、彼らは、幻想により、高い所へ登り、そこから見下ろし、何処であれ、結婚愛が在る所で、その結婚愛を消滅させようと躍起になり、そのことをまた彼らは高い所で躍起になることから案出し、後に悪をやってのけようと試みた。
霊界日記5832
・結婚した配偶者を愛することは、主の眼前で善を行うこと
霊界日記6051(12)
それで結婚した配偶者を愛することは、主の眼前で善を行うことである、なぜならそれはかくて、貞潔から、主を愛することであるからである。そのことは諸天界と交流し、天使たちの霊魂を、信じることも出来ないほどにも、歓ばせるのである。
霊界日記6051(13)
一種の性交もまた在り、それは貞潔から発出している時は、かの愛の結果であるからには、天界を最高度に歓ばせるのである。それに反し、それが姦淫から発しているに応じ、彼らを苦しめるのである。
霊界日記6055
婚姻愛の中にいる人間たちは、その欲する度毎にその妻との性交を楽しむことが出来るという状態におり、その身体の凡ゆる部分はその愛の中に在るからには、その能力は決して衰えはしないのであり、性交の後では、彼らは楽しさを覚えて、決して気落ちすることは無く、そのことにより元気づけられはするが、しかしその反対のことが、姦淫を犯している者らのもとに起るのである。
夫の愛は妻の愛に依存しており、妻がそうしたことを愛するに応じて、その夫も愛するのである。婚姻的なものでない愛の中にはその逆のことが行われる。その理由は前の者は一人であって、内部の方面では連結しているためであり、そのことが彼らは二人ではなくて、一人の肉〔者〕であることにより意味されている。
霊界日記6055(3)
婚姻愛の中にいる者たちは好色が在るか、否かを確実に感じている、なぜなら好色はことごとく姦淫から生まれているが、婚姻愛の中にいる者たちのもとでは好色は何一つないからである。そのことをかれらは極めて完全に認めている。かの知覚は内部から発している。外部の行為もそれに似ているのである。姦淫を行う者らは外的なものであるものを除いては何一つ感じはしないし、内的なものは何一つ感じないが、霊的な歓喜はことごとく内部に在り、霊的なものではない者らには把握されることはできない。
霊界日記6055(4)
たれ一人、霊的な者でなくては、また主を承認しなくては、婚姻愛の中にいることは出来ない、なぜなら婚姻愛の究極の原因は主が天界とまた教会と結婚されていることから発しているからである。このことがその神的な霊的な起原である。
霊界日記6055(5)
女は真理と善とに対する情愛として生まれ、男は真理と善とを理解する者として生まれているからには、このことから、かれらは一人の者として連結し、婚姻愛はかれらを一人の者とし、かくてかれらは主の愛であり、また主の映像であることが明らかである。
霊界日記6055(6)
婚姻愛から生まれるものは驚嘆すべきものであり、その力を記して良いであろう。
霊界日記6055(7)
婚姻愛の中には好色は全く何一つ存在しない、それは外部では類似してはいるものの、内部では類似してはいない。
霊界日記6055(8)
わたしは姦淫について多くの極めて呪うべき事柄を記して良いであろう。
霊界日記6055(9)
ケルベス―地獄の番犬―は婚姻愛の歓喜を地獄へ流れ降らせまいとする警護の者を意味している。
霊界日記6055(10)
後で、わたしは姦淫について他の色々な事柄を述べて良いであろう。婚姻愛は、伝達[交流]により、天界の歓喜を生み出している。
霊界日記6055(11)
子供たちは父と母との幾多の情愛を身に着けており、そこから、その遺伝的な性質はそれほど邪悪ではない。結婚の愛は天界を開く。姦淫の愛は天界を閉じてしまうのである。
14.結婚愛の楽しさは天界へ進み、姦淫の楽しさは地獄へ進む
天界と地獄386
結婚愛の楽しさは天界へ進み、姦淫の楽しさは地獄へ進むことも私に示された。天界に向って結婚愛の楽しさが進むのは絶えず益々祝福と幸福との状態へ入って行くことであり、その楽しさは遂には無数の言語を絶したものとなり、遂には最も内なる天界の、または無垢の天界の祝福と幸福との状態そのものへすら進み、しかもそれが最も完全な自由を通して行われたのである。なぜなら自由は凡て愛から発し、かくて最も完全な自由は、天界の愛そのものである結婚愛から発しているからである。しかし姦淫は地獄に向って進み、徐々に、凄惨な戦慄すべきもの以外には何物もない最低の地獄にさえ進んだのである。こうした運命が姦通者をその世の生命の後に待っている。姦通者により姦通の中に楽しさを認めて、結婚に何ら楽しさを認めない者が意味されている。
性愛と結婚愛と言ったのは、性愛は結婚愛から相違しているためである。性愛は自然的な人間のもとにあって、結婚愛は霊的な人間のもとに存在している。自然的な人間は外的な連結のみを愛し、欲求し、そこから身体の快楽を愛し、欲求しているが、しかし霊的な人間は内的な連結を愛し、欲求し、そこから発してくる霊の幸福な状態を愛し、欲求している。そして彼は、こうしたものは自分が絶えず連結して一つのものとなることの出来る一人の妻のもとに与えられることを認めている。彼はこのように連結するに応じて益々その幸福な状態がたかまって、永遠に続いてい行くのを認めている。しかし自然的な人間はこれを何ら考えない。ここから地上で霊的なものとなる人々であるところの、天界に入る者たちのもとには、結婚愛が死後も存続すると言われている。
この後でかの天界の天使は手に羊皮紙の巻物をもって現れ、それを開いて、言った、『私はあなたが結婚愛について瞑想されておられるのを認めました。この羊皮紙の巻物の中にはその主題について現今まで世に知られていない知恵のアルカナ[秘義]が記されています。それらは、今はそれが必要であるため、示されたのです。私たちは愛と知恵との結婚の中にいますため、私たちの天界にはこうしたアルカナが他にもまさって多くあります。しかし私は新しいエルサレムである新しい教会へ主によって受け入れられる者以外たれ一人その愛を自分自身のものとはしないことを予告しておきます』。
17.新しいエルサレムである新しい教会へ主によって受け入れられる者以外たれ一人その愛を自分自身のものとはしない
結婚愛43
この後でかの天界の天使は手に羊皮紙の巻物をもって現れ、それを開いて、言った、『私はあなたが結婚愛について瞑想されておられるのを認めました。この羊皮紙の巻物の中にはその主題について現今まで世に知られていない知恵のアルカナ[秘義]が記されています。それらは、今はそれが必要であるため、示されたのです。私たちは愛と知恵との結婚の中にいますため、私たちの天界にはこうしたアルカナが他にもまさって多くあります。しかし私は新しいエルサレムである新しい教会へ主によって受け入れられる者以外たれ一人その愛を自分自身のものとはしないことを予告しておきます』。
諸天界に結婚のあることは前述した。今や世で結ばれた結婚の契約が死後も継続し、持続するか、否かを示さなくてはならない。これは判断の事柄ではなくて、経験の事柄であり、この経験は天使たちと霊たちと交わることを通して私に与えられたので、私から明らかにされることが出来るが、それでも理性もまた承認するような方法で明らかにされることが出来るのである。こうした知識を得ることはまた結婚した者たちの願い求めることの一つでもある、なぜなら妻を愛した夫、夫を愛した妻は、もしその何れか一方が死んだなら、それが自分たちに良いことなのか、自分たちは再び会うであろうか、否かを知ろうと願うからである。そして結婚した多くの者は、死後自分たちは離れるであろうか、またはともに生活するであろうか、否かを―精神的に互いに調和していない者は、自分たちは離れるであろうか、離れないであろうか、と、精神的に調和している者は、自分たちは共に生活するであろうか、しないであろうか、と、前もって知ろうと願うのである。以下の報告は、そうしたことが求められているため、以下の順序で与えられなくてはならない。
(1)死後も人間各々のもとに性愛が、それが世で、内的に、即ち、その人間の内的な意志と思考との中に持っていたような性質をもって存続している。
(2)結婚後も同じである。
(3)結婚した二人の夫婦は死後会い、互いに他を認め、再び交わり、しばらく共に交わり、しばらく共に生活することは極めて普通であり、それは第一の状態の中に、即ち、彼らが世にいたときのように、外なるものの中にいる間におきる。
(4)しかし徐々に彼らが外なるものを脱ぎ去って、その内なるものへ入るに応じ、彼らは互いに他に対し抱いていた愛と性向との性質を認め、かくて自分たちは共に生活することが出来るか、否かを認める。
(5)もし彼らは共に生活することが出来るならば、結婚した夫婦として止まるが、もしそれが出来ないなら、時には夫が妻から、時には妻が夫から、時には互いに他から離れて行く。
(6)それから男には適当な妻が与えられ、適当な夫が女に与えられる。
(7)結婚した夫婦は互いに世にいたときの交わりに似た交わりを、否、それよりも更に楽しい、祝福された、しかし子を生まない交わりを得、その子を生むことに対しては、またはそれに代って、愛と知恵の霊的な子供たちを生む。
(8)天界に入る者はこのようになるが、しかし地獄に入る者は異なっている。
結婚愛46(1)
「性愛は死後も人間各々のもとに、それが世で内的に、即ち、その人間の内的な意志と思考との中に持っていたような性質をもって存続している」。愛はすべて死後も人間について行く。なぜなら愛は人間の生命のエッセ[存在、本質]であるから。そして他の凡ての愛の頭首となっている支配的な愛[その人間を支配している愛]は永遠にその人間のもとに継続し、その愛とともにそれに従属している愛も継続している。それらが継続している理由は、愛は生来人間の霊に属しており、霊からその身体に属しており、そして人間は死後霊となり、かくてその愛を自分のもとに携えて行くということである。そして愛は人間の生命のエッセであるため、世における人間の生命の状態のままに、その人間の死後の運命がなって行くことは明らかである。
性愛については、それは凡ての愛の中で(最も)普遍的なものである、なぜならそれは人間全体の本質の源泉ともなっている人間の霊魂そのものに植え付けられていて、しかもそれは人類を繁殖させるためのものとなっているからである。この愛が特に存続していることは、男は死後も男であり、女は女であるからであり、霊魂、心、身体の中の凡ての物は男性にあっては男性的であり、女性にあっては女性的であって、しかもこの二人は連結を、実に、一人のものとなる底の連結を熱烈に追求しているためである。こうした刺激は結婚愛に先んじている性愛である。さて、この連結を求める傾向[性向]は凡ての物の上に男性と女性との個々の、また凡ての物の上にも印刻されているため、この傾向は身体とともに抹殺されて、死ぬことが出来ないことが生まれている。
結婚愛47(イ)
性愛はそれが世で持っていたような性質を死後も持ちつつ存続している理由は以下のようである、人間各々には内なるものと外なるものがあって、この二つのものは内なる人と外なる人ともまた呼ばれ、ここから内なる意志と思考と、外なる意志と思考とが存在している。人間は死ぬと、外なるものを残して、その内なるものを保留する、なぜなら外なるものは元来その身体に関わりを持ち、内なるものは元来その霊に関わりを持っているからである。さて、人間はその者自身の愛であり、その愛は彼の霊の中に宿っているため、その性愛も、それが彼の中に内的に止まっていた状態のままに死後も止まることが生まれている。例えば、もしその愛が内的に結婚愛であり、または貞潔であったなら、それは死後も結婚愛として、貞潔な愛として存続するが、もしそれが内的に姦通的なものであるなら、死後も同じくそのようなものとして存続するのである。しかし性愛は人各々のもとで同一のものでないことを知らなくてはならない。その相違は無限である。しかしそれでもそれはまたそれが人各々の霊の中にあるがままに止まるのである。
結婚愛48(2)
「同じく結婚愛も、それが世の人間のもとに、内的に、即ち、彼の内的な意志と思考との中に持っていた性質をもって存在している」。性愛と結婚愛とは互いに異なったものであるため、その二つの名をあげて、結婚愛もまた、それが人間が世で生きている間にその内なる人の中に持っていた性質を死後もその人間のもとに持って存続している」。性愛と結婚愛とは互いに異なったものであるため、その二つの名をあげて、結婚愛もまた、それが人間が世で生きている間にその内なる人の中に持っていた性質を死後もその人間のもとに持って存続していると述べたのである。しかし性愛と結婚愛との相違を知る者は僅かしかいないため、私はこの項目の冒頭でそのことについて若干あらかじめ記しておく。性愛は異性の多くの者に対する、また異性の多くの者との愛であるが、しかし結婚愛は異性の一人に対する、また異性の只一人の者との愛である。多くの者に対する、また多くの者との愛は自然的な愛である。なぜならそれは禽獣にも共存していて、これらは自然的なものであるからであるが、しかし結婚愛は霊的な愛であって、人間に特有なものである、それは人間は霊的なものとなるように創造られ、それで霊的なものとなるように生まれているためである。そうした理由から人間は霊的なものとなるに応じて、性愛を脱ぎ去って、結婚愛を着るのである。結婚のはじめには性愛は結婚愛に結合しているかのように現れているが、しかし時がたつに連れ、二つは分離し、かくて霊的な者のもとには性愛は根絶して、結婚愛が入ってくる。しかし自然的な者のもとにはその反対が生まれる。今述べたことから性愛は多くの者との愛であって、それ自身自然的なものであり、否、動物的なものであるため、それは不純であり、不貞であり、またそれは定まらない、制限を知らないものでもあるため、姦通的なものであるに反し、結婚愛は全くそれと相違したものであることが明らかである。結婚愛は霊的なものであり、元来人間的なものであることは以下に明らかに示されるであろう。
結婚愛47(ロ)(3)
「結婚した夫婦は普通死後再び会い、互いに他を認め、交わり、しばらく共に生活する。それは最初の状態の中に、即ち、彼らが世にいたときのように、外なるものの中にいる間に起きる」。人間が死後経過する二つの状態がある、即ち、外なる状態と内なる状態とがある。彼はまず外なる状態へ入り、後で内なる状態へ入って行く。外なる状態にいる間に、結婚した夫婦は、もし二人とも亡くなるならば、互いに他に会って、これを認め、そしてもし世で共に生活したなら、交わり、しばらく共に生活する。しかしこの状態にあっては彼らは互いに自分に対する相手の心の傾向を知らない、それはこの傾向は彼らの内なるものの中に隠れているためである。しかしその後彼らがその内なる状態へ入るに連れて、この傾向[性向]は明らかになってくる。もしそのときそれが調和して、同じ思いを抱いているならば、彼らは結婚生活を続けるが、もしそれが調和しないで、反撥するものであるなら、それを解消してしまう。もし男が数人の妻を得ているなら、彼は外なる状態の中で(相手の)愛の傾向をそのあるがままに認めると、一人を選ぶか、または凡てを棄てるか、してしまうのである。なぜなら霊界では、自然界と同じく、基督教徒は一人以上の妻を持つことは許されないからであるが、それはそうしたことは宗教を荒廃させて、冒瀆するためである。数人の夫を持っている女も同じである。しかし後の者は自分自身を(夫)に接合させはしないで、ただ自分自身を示すのみであるが、夫は彼女を自分自身に接合させるのである。夫はその妻にめったに気づきはしないが、妻はその夫に気づくことを知らなくてはならない。その理由は女は愛を内的に認識しているが、男はそれを外的に認識しているということである。
結婚愛48(ロ)(4)
「しかし徐々に彼らはその外なるものを脱ぎ去って、その内なるものへ入るに連れ、互いに他に対し抱いていた愛と傾向との性質を認め、共に生活することが出来るか、否かを認める」。このことは前項に述べられた事から生まれてくるため、更に説明する必要はない。ここでは単にいかようにして人間は死後外なるものを脱いで、内なるものを着るかを説明しよう。
人は各々死後霊たちの世界と呼ばれるかの世界に―それは天界と地獄との中間に在るが、そこへ―先ず入れられ、そこで善良な者は天界に向って、邪悪な者は地獄に向って備えをする。そこの準備は内なるものと外なるものとが和合し、一つのものとなって、互いに矛盾しないで、また二つのものとならないことをその目的としている。自然界ではそれらは二つのものであることは、奸知にたけた、狡猾な人間から、特に偽善者、へつらい、二心の者、嘘つきから明らかである。しかし霊界では人間はこのように分割した心を持つことは許されておらず、内なるものが悪かった者は外なるものもまた悪くならなくてはならない。なぜなら死後人各々は内的に持っていた性格を持つようになって、外的に持っていた性格を持たないようになるからである。こうした目的から人はその外なるものと内なるものへ交互に入れられる。そして人は各々外なるものの中にいる間は、実に悪い者ですら、賢明になり、即ち、自分が賢明なものであるように見せることを願ってはいるが、しかし悪い人間は内なるものの中では狂っているのである。こうした変化を通して彼は自分の狂っていることを認めて、これを悔いることが出来るようにされている。しかしもし彼が世でそれを悔いなかったなら、彼はその狂っていることを愛し、その中に止まることを願っており、それでその外なるものをも同じく狂気へ駆り立てるため、その後悔いることは出来ない。かくて彼の内なるものと外なるものとは一つのものとなり、そしてそのことが行われると、彼は地獄に向って備えをなしたのである。しかし善良な人間にあっては、それは正反対である。世で彼は神を見上げ、悔い改めたため、その外なるものにおいてよりもその内なるものにおいて、さらに賢明である。なぜなら彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである。それで、彼の外なるものもまた、すでに述べたように、賢明なその内なるものに順応するようにならねばならない。このことが行われると、彼は天界に対して備えがなったのである。このことが死後外なるものを脱ぎ去って、内なるものを着けることはいかようにして行われるかを説明している。
結婚愛49(5)
「もし彼らは共に生活することが出来るなら、結婚した夫婦として止まるが、しかしそれが出来ないなら、時として夫が妻から、時として妻が夫から、時として互いに他から離れ去って行く」。地上い結ばれた連結は愛を内的に認識することから結ばれることは稀れであって、その内なる認識を隠している外なる認識から結ばれているため、分離は死後起こっている。愛を外的に認識することは世と身体に対する愛に関係した物からその原因と起原とを得ている。富と莫大な財産は特に世に対する愛に属しており、高貴と名誉とは身体に対する愛に属している。そしてこれらの他に、美、擬装した作法上の端正さ、ときとしてはまた不貞といった、色々な誘惑がある。更に結婚は自分の生まれた、または住んでいる地域、町または村に行われ、そこでは選択は知っている家族に限定されており、こうした制限の内でさえ、地位が釣り合っている者に限定されているのである。世で結ばれる結婚の大半は外なるものであって、同時に内なるものではないのはこうした理由によっている。しかも霊魂の連結である内なる連結は結婚そのものを構成しているが、しかしこの連結は人間が死後その外なるものを脱いで、内なるものを着けるまでは認められない。そのときになって分離が行われ、その後で、類似した同質の者との新しい連結が、もしそれが地上で与えられなかったならば、行われるのである、例えば青年時代の初期から一人の者との正当な、愛すべき交わりを愛し、願い、これを主に求め、とりとめもない色情を忌まわしい悪臭として斥け、嫌忌した者たちの場合に、このことが行われるのである。
結婚愛50(6)
「かくて適当な妻が男に与えられ、適当な夫が女に与えられる」。この理由は、内的に結合しており、または結合することが出来て、一人のもののようになるところの、結合した夫婦以外の者は天界に受け入れられることは出来ず、そこに止まることは出来ないということである。なぜなら、こうした二人の結婚した夫婦は二人の天使とは呼ばれないで、一人の天使と呼ばれるからである。これは主の以下の御言葉の意味である―
彼らはもはや二人ではなくて、一人の人間である(マタイ19・6)。
それ以外の結婚した夫婦は天界に受け入れられないことは、それ以外の者はそこに共に生活することが、即ち、一つの家に、一つの室に、一つの寝床に共にいることが出来ないためである。なぜなら天界では凡ての者は愛が互いに似ていることと近いことに従って交わっており、またそれに従ってその住居を得ているからである。なぜなら霊界では空間はなくて、空間の外観があり、これは彼らの生命の状態に順応しており、生命の状態は愛の状態に順応しているからである。こうした理由からそこではたれ一人、その者の家以外の家には住むことは出来ないし、その家はその者の愛の性質に従って提供され、割当てられている。もし彼が他の所に宿るなら、彼は胸と呼吸とに苦痛を覚える。また二人は互いに類似していない限り、同じ家に共に生活することは出来ない、特に結婚した夫婦は互いに相手に引かれていない限り、同じ家に共に生活することは出来ない。もし彼らが外的なるものから引き寄せられて、それと同時に内なるものからも引き寄せられていないならば、家そのものが、または場所そのものが彼らを引き離し、斥け、放逐してしまうのである。これが、準備がなって天界へ迎え入れられる者たちのために、ある配偶者との―その配偶者の魂は相手の魂との連結を求め、かくて二人は二つの生命であることを願わないで、一つの生命になることを願っている、そうした配偶者との―結婚が供えられる理由である。こうした理由から分離の後で適当な妻が男に与えられ、同じく適当な夫が女に与えられるのである。
結婚愛51(7)
「結婚した夫婦は互いに世にいたときの交わりに似た交わりを、否、それよりも更に楽しい、祝福された、しかし子を生まない交わりを得、その子を生むことに対しては、またはそれに代って、愛と知恵の霊的な子供たちを生んでいる」。結婚した夫婦は世の交わりに似た交わりを楽しむ理由は、死後も男性は男性であり、女性は女性であって、両者の中には連結を求める傾向[性向]が創造によって内在しており、この人間の中にある傾向は、彼の霊のそれであり、引いては彼の身体のそれであり、それで死後人間が霊となったときも、同じ相互的な傾向が続いていて、これは同じような交わりがなくてはあり得ないということである。なぜなら人間は前と寸分違わぬ人間であるから。男性には如何ようなものも欠けてはいないし、女性にも如何ようなものも欠けてはいない。彼らは形では彼ら自身に似ており、同じく情愛と思考の方面でも彼ら自身に似ている。それで彼らは同じような交わりを持っているということ以外のことが生まれ得ようか。そして結婚愛は貞潔であり、純潔であり、聖いものであるため、その交わりもまた満ち足りたものである。しかしこの主題については44の説話を更に参照されよ。かくて交わりは更に歓ばしい、祝福されたものとなっている、なぜなら愛は霊の愛となるとき、更に内的なものに、更に純潔なものになり、それで更に認識されるものとなり、凡ゆる歓びは、それが認識されるに応じて増大して、その祝福さえもその歓びの中に認められることが出来るほどにもなるからである。
結婚愛52
天界の結婚は繁殖[子を生むこと]なしに存在しているが、しかしそれに代って霊的な繁殖がありそれは愛と知恵の繁殖である理由は以下のごとくである、即ち、自然的な度である第三の度が霊界にいる者たちには欠けていて、この度は霊的な度を容れる器であり、そして霊的な物はそれを容れる器がなくては、自然界に生まれる者たちのようには、固定性(コンスィスタンス)を持っておらず、また霊的な物はそれ自身において観察されるなら愛と知恵に関連しており、それで霊的な物が彼らの結婚から生まれるのである。結婚愛は天使を完全なものにするため、霊的な物が生まれると言ったのである。なぜなら結婚愛は彼をその配偶者に結合させ、そのことによって彼は益々人間となるからである。なぜなら前に述べたように、天界の結婚した夫婦は二人ではなくて、一人の天使であるから。それで彼らは結婚の合一により彼ら自身を人間的なもので満たすのである―人間的なものとは知恵を得ようとする、また知恵に属したものを愛する願望である。
結婚愛53(8)
「天界に入る者たちはこのようになっているが、しかし地獄に入る者らは異なっている」。死後適当な妻が男に与えられ、同じく妻には適当な夫が与えられること、彼らは歓びに満ちた、祝福された交わりを楽しむが、霊的な繁殖以外のものを持っていないことが、天界に迎え入れられて、天使となる者たちについて理解されねばならない―それは彼らは霊的なものであって、結婚それ自身は霊的なものであり、それで聖いものであるという理由によっている。しかしそれとは反対に地獄に行く者はすべて自然的なものであり、単に自然的な結婚は結婚ではなくて、不貞な色情から発した連結である。これらの連結の性質はいかようなものであるかは、今後貞潔な愛と不貞な愛とが取扱われ、更に姦通愛が取扱われる所に示されるであろう。
結婚した夫婦の死後の状態についてこれまで述べられたことに、以下のことを附加しなくてはならない。
[1]単に自然的なものである結婚した夫婦はすべて死後引き離される、それは結婚愛は彼らのもとに冷ややかになって、姦通愛が温かになるという理由からである。しかも離別後彼らは時として他の者を配偶者としてこれと交わる。しかししばらくたつと互いに別れる。このことが再三再四ひんぱんに繰り返され、遂に男はある娼婦に、女はある姦淫者に惑溺するようになる、このことは地獄の牢獄の中で行なわれるが、そこでは相手かまわぬ姦通は、男にも女にも、刑罰の下に禁じられている。この主題については「啓示された黙示録」の153(10)を参照されたい。
結婚愛54[2]
その一人は霊的なものであり、他の一人は自然的なものであるところの、結婚した夫婦もまた死後引き離され、霊的な者には霊的な配偶者が与えられるが、しかし自然的な者は淫欲の巣窟の中のその者に似た者のもとへ送られる。
結婚愛54[3]
しかし世で未婚のままに生活し、心を全く結婚から遠ざけてしまった者は、もしその者が霊的なものであるなら、ただ一人のままに止まるが、しかし自然的なものであるなら、娼婦漁りとなる。しかしその独身の状態で結婚を求めた者は異なっており、結婚を求めたが、それが成功しなかった者は更に異なっている、なぜならその時、もし彼らが霊的なものであるなら、祝福された結婚が与えられるからである―しかしそれは彼らが天界に入らない中は与えられない。
結婚愛54[4]
修道院にその生涯の終わりまで閉じ込められている者たちは、即ち、処女たちと男とは―それは死後もしばらくの間続きはするが―釈放されて、自由に振舞い、結婚生活に入ることを欲する、欲しないに拘らず、その願い求めている自由を得ることを許されている。もし彼らが結婚を願うなら、結婚をし、もし願わないなら、天界の脇で独身生活を送っている者たちのもとへ連れて行かれる。しかし禁じられた色情で燃えている者らは投げ落とされる。
結婚愛54[5]
独身者が天界のわきにいる理由は恒久的な独身状態のスフィアは天界のスフィアそのものである結婚愛のスフィアそのものを侵害するということである。結婚愛のスフィアは主と教会との天界的結婚から降っているため、天界のスフィアそのものである。
結婚愛にかかわっているこの六つの説話は―それは霊界から来ているが―その愛の性質は最も初期の時代には如何ようなものであったか、その時代以後では如何ようなものであったか、現在それは如何ようなものであるかを明らかにしている。それによってこの愛はその聖さと純潔から次第に堕落して、遂には姦通的なものとなったが、それにも拘らず、それが太初の、または古代の聖さに再び回復される希望のあることが明らかにされている。
結婚愛78
私たちはこうした事柄を聞き、その家とその都とを去った。そして私たちは道すがら諸天界で眺めたものから、結婚愛の迂回と進行とについて結論を得た。迂回については、それは東から南へ、南から西へ、西から北へ達していたのである。進行については、それは、それが迂回するに応じて減退していたのである。即ち、それは東では天的なものであり、南では霊的なものであり、西では自然的なものであり、北では感覚的なものであり、またそれは、神を愛する愛と神を拝する礼拝と同程度に衰退していたのである。ここからこの愛は最初の時代では黄金のようなものであり、第二の時代では銀のようなもの、第三の時代では真鍮のようなもの、第四の時代では鉄のようなものであって、ついにはそれが消滅してしまったという結論が生れてくる。
すると案内人でもあり、連れでもあった天使が言った、『それでも尚私はこの愛は天界の神によって再び生き返るという希望で慰められております、なぜならそれは生き返ることが出来るからです』。
結婚愛81
こうした賛美を聞き、理解して、私の心は歓喜に踊り、喜びながら家へ帰った。そしてそこで私は霊の状態から身体の状態へ帰り、その状態の中で見聞きしたことを書き記したのである。これに私は以下のことを付け加えよう、即ち、結婚愛は、それが古代人のもとにあったままに、新しく主によりその降臨後起されるであろう。なぜならその愛は主のみから発しており、そして主によって聖言を通して霊的なものとされた者のもとに存在するからである。
結婚愛57
結婚愛には無限の変化がある。結婚愛は人各々により異なっている。多くの者は同じような結婚愛を持っているかのように実際見えはするが、しかしそれは身体の判断の前でそのように見えるに過ぎず、身体の判断は粗雑で、明確を欠いたものであるため、それによって人間はこうしたものは僅かしか識別しない。身体の判断によっては外なる感覚から発した心の判断が意味されている。しかし霊の判断から見る者たちにはその相違が現れており、またそれはこの判断の視覚[目]を更に高く挙げることの出来る者たちの前にはーそれはその判断の目を感覚から引き出して、更に高い光の中へ挙げることによって行われるがー更に明らかに現れている。彼らは遂に理解によって確認し、かくて結婚愛は人各々によって異なっていることを認めることが出来る。しかもたれ一人先ずその愛の本質と完全性とは如何ようなものであるかを、即ち、その愛が生命と共に神により人間の中に植えつけられたとき、如何ようなものであったかを知らない限り、その愛の無限の変化を理解の如何ような光によってもーたとえそれが高揚されていてもー認めることは出来ないのである。最も完全であったこの状態が知られない限り、その相違は如何ように探求されても明らかにされることは出来ないのである、それは出発点[最初のもの]としての定められた一点がーそこから幾多の相違が引き出されることが出来、またそれを規準としてそれに幾多の相違が比較され、かくして真に、また誤りもなしにその相違が明らかにされることが出来るが、そうした一点がー存在していないためである。これが私たちがここにその愛の純粋な本質を記し、そしてその愛が生命とともに人間に神から注ぎ入れられたとき、それはその本質のままにあったため、その原始の状態を記そうとする理由である。そしてそれはその状態の中で真に結婚的なものであったため、本章を真の結婚愛についてと名付けたのである。これを以下の順で記そう。
(1)真の結婚愛があるが、しかしそれは現在極めてまれにしかないため、その性質は知られておらず、そのあることさえ殆ど知られていない。
(2)この愛の起原は善と真理との結婚から来ている。
(3)この愛は主と教会との結婚に相応している。
(4)この愛は、主から発して天界の天使と教会の人間のもとに在る如何ような愛にもまさって、その起原と相応とのため、天的なものであり、霊的なものであり、聖いものであり、純潔なものである。
(5)それはまた天的な、また霊的な愛の凡ての根元的な愛であり、かくて自然的な愛の凡ての根元的な愛である。
(6)凡ての楽しさと凡ての歓びとは、最初から最後までこの愛に集められている。
(7)主のもとへ来て、真理を愛し、教会の善を行う者を除いてたれ一人この愛に入ることは出来ないし、またその中にいることも出来ない。
(8)この愛は黄金時代、銀時代、銅時代に生きていた古代人における愛の中の愛であったが、しかしその後徐々に消滅した。
これらの主題を今以下に説明しよう。
結婚愛58(1)
「真の結婚愛があるが、しかしそれは現在まれにしかないため、その性質は知られておらず、そのあることさえ殆ど知られていない」。以下の頁に記されているようなこうした結婚愛があることは、その愛の最初の状態から実際承認することが出来よう、即ち、その状態にいるときは、それは年若い男と処女との心に徐々に入りつつあるのである、即ち、それは異性の中のただ一人の者を愛して、これを花嫁として求め初めている者たちのもとに承認することが出来るのであり、更に、時が長引いて、婚姻へ向って進んでいる婚約期間の間に承認することが出来、最後に、婚姻のとき、それに続いた最初の日々の間に承認することが出来るのである。そうしたとき誰が以下に示されていることを承認して、それに同意しないであろうか、即ち、この愛は凡ての愛の中でも根元的なものである。この愛の中に凡ての楽しさと歓びとが初めから終りまでも集められているのである。そしてまたたれがこの楽しい時の後でこの喜ばしい状態は次第に衰え、消え去り、遂に彼らはそれを殆ど感じなくなることを知らないであろうか。そのとき、前のように、この愛は凡ての愛の中でも根元的なものであって、この愛に凡ての楽しさと凡ての歓びとが集められていると彼らに言われると、彼らはそれに同意しないし、また認めもしないで、恐らくそれはたわ言であると言いもし、それは超越的な神秘であるとも言うことであろう。結婚の最も初期の愛は真の結婚愛を写し出しており、その一種の映像となって目に見えていることはこのことから明白である。それがそうであるのはそのとき不貞な性愛が斥けられ、それに代って真に結婚的な、貞潔な愛であるところの、異性の一人を愛する愛が植え付けられて、宿っているためである。そのときたれが他の女を愛を持たずに眺めないであろうか、また自分の只一人のものを愛をもって眺めないであろうか。
結婚愛59
真の結婚愛が極めてまれで、そのためその性質は知られておらず、そのあることも殆ど知られていない理由は、結婚以前の楽しい状態が結婚後冷淡な状態へ、それを感じなくなるため、変わって行くということである。この状態の変化の原因はここに挙げることは出来ないが、しかし後に冷淡、分離、離婚の原因が順次明らかにされるところで挙げられるであろうーそのことによって現在の大半の人間のもとには結婚愛に類似したものも抹消されており、またそれとともに結婚愛に関わる知識も抹消されていて、そのためその性質は知られておらず、そうした愛のあることも殆ど知られていないことが明らかとなるであろう。
人間は各々生まれたときは単に形体的なものであって、形体的なものから自然的なものになり、それが益々内的なものになり、かくして彼は合理的なものになり、最後に霊的なものになることは知られている。このことが漸進的に起こってくる理由は、形体的なものは土地のようなものであって、その中に自然的な物が、合理的な物が、霊的な物が順次植え付けられるということである。かくして人間は益々人間となって行くのである。殆どそれと同じことが彼が結婚に入るとき起こっており、そのとき人間は配偶者と結合し、これと共になって、一人の人間として活動するため、更に完全な人間となるのである。しかしその最初の状態ではこれはすでに述べた或る映像となって起っている。そのとき彼は同じように形体的なものから初めて、自然的なものへ進んで行くが、しかしそれは結婚生活の方面のことであり、引いては連結して一つのものとなる方面のことである。そのとき形体的な自然的な物を愛し、そうした物から合理的な物を愛するにすぎない者は、配偶者とは、外なる物の方面でしか、連結して一つのもののようになることは出来ず、外なる物が衰えると、冷淡なものが内なるものを侵し、かの愛の歓びを心から退けるように、身体からも退け後には身体から退けるように、心からも退け、遂には彼らの結婚の最初の状態の追憶も何一つ残らなくなり、従ってそれを認めることも全くなくなってしまうのである。さて、このことは現在の大半の人間に起こっているため、真に結婚的な愛の何であるかは知られていないし、そうした愛のあることも殆ど知られてはいない。が、霊的な者たちにあってはそうではない。彼らの最初の状態は不断の祝福の状態へ入れられることであり、それは何れか一方の心の霊的な合理的なものが他の一方の者のそれに連結し、結合し、そこからその一方の者の身体の感覚的自然的なものが他の一方の者のそれに連結し、結合するに従って、その度を増して行くのである。しかしこうした例は稀れにしかない。
結婚愛60
(2)「この愛の起源は善と真理との結婚から発している」。
宇宙の凡ゆる物は善と真理とに関連していることは理知的な人間の凡てから承認されている、なぜならそれは普遍的な真理であるから。また宇宙の一切の物の中には善は真理と連結し、真理は善に連結していることを承認しないわけにはいかない、なぜならこれもまたその今述べたものと結合している普遍的な真理であるから。宇宙の凡ゆる物は善と真理とに関連していて、善は真理に、真理は善に連続している理由は、その二つは主から発出し、しかも一つのものとして主から発出しているということである。主から発出している二つのものとは愛と知恵である、なぜならそれらは主御自身であり、それで主御自身から発出しており、愛に属した物は凡て善と呼ばれ、知恵に属した物は凡て真理と呼ばれるからであり、そしてこの二つのものは創造者としての主から発出しているため、この二つのものは創造された物の中に存在していることが生まれている。これは太陽から発出している熱と光によって説明することが出来よう。この熱と光から地上の凡ゆる物が発生している、なぜならその熱と光との現存に従って、またその熱と光の連結に従って、それは発芽しており、そして自然的な熱は愛である霊的熱に相応し、自然的な光は知恵である霊的光に相応しているからである。
結婚愛61
結婚愛は善と真理との結婚から発していることは以下の項に、または章に示そう。それをここに示したのは、ただこの愛は天的な、霊的な、聖い起原から発しているため、天的なものであり、霊的なものであり、聖いものであることが認められるためである。そして結婚愛の起原は善と真理との結婚から発していることが認められるためには、この主題についてここに少しく簡単に語っておくことが必要である。創造された一切の物の中には善と真理とが連続していることは今前述したところである。しかしその連結は相互的なものでない限り、連結はない、なぜなら一方の側にはあるが、それに応じて他方の側にはない連結は自ずから解消してしまうから。さて善と真理との連結があって、それが相互的なものであるため、善の真理または善から発している真理が在リ、真理の善、または真理から発している善の在ることが生まれている。次章に善の真理または善から発した真理は男性にあり、男性そのものであり、真理の善または真理から発した善は女性に在リ、女性そのものであって、この二人の者の間に結婚の結合のあることが認められるであろう。このことをここに記したのは、(読者が)そのことについて予備的な知識を得ておくためである。
(3)「この愛は主と教会との結婚に相応している」。
即ち、主は教会を愛され、教会は主を愛するのを求められるように、夫と妻は互いに他を愛している。それらの間には相応のあることは基督教世界に知られてはいるが、その性質の何であるかは未だ知られていない。それでこの相応は以下にまた記す特別の章で説明しよう。それをここに記したのは、結婚愛は主と教会との天的な、霊的な、聖い結婚に相応しているため、天的なものであり、霊的なものであり、聖いものであることが認められるためである。更にこの相応は善と真理との結婚から発している結婚愛の起原から発しているーそのことについては前項を参照されよーなぜなら善と真理との結婚は人間における教会であるから。なぜなら善は仁慈に、真理は信仰に属しているため、善と真理との結婚は仁慈と信仰との結婚と同じものであるからである。この結婚が教会を構成していることは認めないわけにはいかない。なぜならそれは普遍的な真理であって、普遍的真理は凡て、それが聞かれると同時に承認されるからであり、そのことは主から発している流入から来ていると同時に、天界による確認からも来ているのである。さて、教会は主から発している以上、主のものであるため、結婚愛は主と教会との結婚に相応しているため、この愛は主から発していることが生まれている。
結婚愛63
また前に言及した章で、いかにして教会が、また教会によって結婚愛が、主により二人の結婚した配偶者のもとに形成されるかを説明しよう。ここではただ以下のことを説明するにとどめよう、即ち、教会は主によって男のもとに形成され、そして男を通してその妻のもとに形成され、そしてそれが二人の中に形成された後は、完全な教会となるのである。なぜならそのとき善と真理との完全な連結があり、善と真理との連結は教会であるからである。結婚愛である連結する心の傾向は教会である善と真理との連結と同じ度を持っていることは、後に論証によって確立されるであろう。
結婚愛64
(4)「この愛はその起原とその相応のために、主から発して天界の天使たちと教会の人たちのもとにある凡ゆる愛にもまさって、天的なものであり、霊的なものであり、聖いものであり、純潔なものである」。
結婚愛は善と真理との結婚であるその起原のためにこうした性格を持っていることは、すぐ前に簡潔に、しかしそこでは単にあらかじめ確認したが、同じように、この愛は、それが主と教会との結婚に相応しているため、そうした性格を持っていることも確認した。この二つの結婚はーそこから結婚愛が側枝として降ってくるのであるがー神聖そのものである。それでもしその結婚愛が主であられるその作者から受け入れられるなら、聖いものが主からそれに従って来て、絶えずそれを清澄なものにし、純潔なものにする。それで男の意志の中にそれに到達しようとする願いと性向があるなら、この愛は日々絶えず純潔なものにされる。
結婚愛は天界の天使たちのもとに在るという理由から天的なもの、霊的なものと呼ばれている。それが最高の天界の天使たちのもとでは天的なものと呼ばれているのは、彼らは天的な天使と呼ばれているからであり、その天界の下にいる天使たちのもとでは霊的なものと呼ばれているのは、彼らは霊的な天使と呼ばれているからである。天使たちがそのように呼ばれるのは、天的なものとは愛とそこから発する知恵であり、霊的なものは知恵とそこから発する愛であるという理由によっている。彼らの結婚愛も同じである。さて、第一章の『天界の結婚について』と題した項目の中にも示されたように、結婚愛は高い天界の天使のもとにも、低い天界の天使のもとにも在るため、それは聖くて純潔なものであることは明白である。それはその本質を考察されるならば、その由来[起原]のため、天使と人間における凡ゆる愛にもまさって聖い、純潔なものであることが、この愛がいわば他の凡ての愛の頭となっている理由である。この卓越性については今以下に述べよう。
結婚愛65
(5)「それはまた天的な、霊的な愛のすべての根元的な愛であり、かくて自然的な愛のすべての根元的な愛である」。
結婚愛はその本質を考察されるなら、天界と教会の凡ゆる愛の根元的な愛である理由は、その起原は善と真理との結婚から発しており、その結婚から人間のもとに天界と教会とを作っている愛の凡てが発しているということである。かの結婚の善がその愛を構成し、かの結婚の真理がその知恵を構成しており、愛が知恵に近づき、または、それにそれ自身を連結するとき、それは実に愛となり、代って知恵が愛に近づき、またはそれにそれ自身を連結するとき、それは実に知恵となるのである。真の結婚愛は愛と知恵との連結以外の何物でもない。二人の結婚した配偶者の間に、またはその配偶者の中に同時にこの愛が存在するときは、彼らはその愛の肖像となり、形となり、そして天界ではーそこでは顔はその愛の情愛の純粋な型(タイプ)となっているがー凡ての者はその愛と知恵に似たものとなっている、なぜなら前に示したように、それは彼らの中に全般的に存在し、また個々の部分にも存在しているからである。さて、二人の結婚した配偶者はこの愛の肖像であり、形であるため、愛の形それ自身から発している愛の各々もそれに類似していることが生まれている。それでもし結婚愛が天的なものであり、霊的なものであるなら、そこから発している幾多の愛もまた天的なものであり、霊的なものである。それで結婚愛は両親のようなもの、他の幾多の愛は子供たちのようなものである。かくて諸天界の天使たちの結婚から愛と知恵、または善と真理の子供たちである霊的な子供たちが生まれてくるが、その出生については、前の51を参照されたい。
結婚愛66
このことは人類がこの愛へ向って創造されていることに現れており、またその後そこから人類が形作られることに現れている。男は賢明になることを求める愛から知恵となるために、女は男の知恵から、かくて男の知恵に従って男に対する愛となるために創造されたのである。このことから結婚した二人の配偶者は愛と知恵または善と真理との結婚の形であり、その肖像であることが明らかである。
善も真理もことごとく原質の中に、原質をその主体として存在していることを良く知っておかなくてはならない。抽象的な善と真理とは存在しない、なぜならそうしたものは宿る所を持たないために、何処にも存在しないから。否、それは束の間に消え去って行くものとしてさえ現れることも出来ない。なぜなら人間の観念[考え]のすべては、その最も崇高なものですら、原質的なものであり、即ち、原質に接合しているから。更に、いかような原質も、、それが形でない限り、存在しないことを知らなくてはならない。形を持たない原質は何物でもない、なぜなら何事もそれについて述べることは出来ないし、そしてそれについては何事も述べられない主体は同じく合理的な実体ではないから。こうした哲学的な考察を附言したのは、それによってまた、真の結婚愛にいる二人の配偶者は事実善と真理の、または愛と知恵の結婚の形であることが認められるためである。
結婚愛67
自然的な愛と知恵は霊的な愛から流れ出ており、霊的な愛は天的な愛から流れ出ているため、この理由から、結婚愛は天的な、霊的な愛のすべての根元的なものであり、かくて自然的な愛のすべての根元的なものであると言われている。自然的な愛は自己と世に対する愛に関係しているが、霊的な愛は隣人に対する愛に関係し、天的な愛は主に対する愛に関係している。そしてこれがこれらの愛の関係であるため、如何ような秩序をもってそれらは他に従っているか、また如何ような秩序をもってそれらが人間の中に存在しているかが明らかである。それらがそうした秩序をとって存在しているとき、自然的な愛は霊的な愛によって生き、霊的な愛は天的な愛によって生き、そしてすべてはその存在の源泉である主からそうした秩序をとって存在しているのである。
結婚愛68
(6)「そしてこの愛の中に凡ての楽しさと凡ての歓びとがその初めから終りまでも集められている」。
如何ようなものであれ、人間に感じられる歓びは凡て彼の愛に属している。それによって愛はそれ自身を明らかに示し、実に存在もし、生きもしている。愛が高められる度に応じて、またその愛に付随している幾多の情愛がそれらを支配している愛に更に近く触れるに応じて歓びも高められることが知られている。さて、すでに示されたように、結婚愛は凡ての善い愛の根元的なものであるため、またそれは人間の最小の物の中にすら印刻されているため、その歓びは凡ての愛の歓びにもまさっており、それが他の凡ての愛のもとに現存していると同時に、それらの愛と連結もしていることに応じて、それらの愛に歓びを与えていることが生まれている。なぜならそれは心の最も内なる物を拡張すると同時に、身体の最も内なる物を拡張するからである、それはその泉の甘美な流れがそれらの物を通って流れて、それらの物を開くためである。歓びのすべてが初めから終りまでもこの愛の中に集まっているのは、その用が他の凡ての用にもまさっているためである。その用とは人類の繁殖と人類から発する天使たちの天界の繁殖である、そしてこの用は創造の目的の目的であったため、創造者なる主から人類に与えられることの出来る祝福、満足、歓び、喜悦、快楽の凡ての状態がこの愛に集まっていることが生まれている。歓びが用に付随しており、人間のもとに用を愛する愛に従って現存していることは、五官ー視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の歓びから明白である。これらの各々はその特殊な用に応じて変化のあるその歓びを持っている。それで他の凡ての総計ともなっている用をもった結婚愛の感覚の歓びは如何ようなものであってはならないであろうか。
結婚愛69
楽しさの凡てと歓びの凡ては初めから終りまで結婚愛に集められていることを僅かな者しか認めていないことを私は知っている。それは前の58と59とに説明されもし、確認されもしたように、それらの歓びが集まっている真の結婚愛は現在極めてまれにしかないため、その性質の如何ようなものであるかは知られておらず、それが存在していることも殆ど知られていないという理由によっている。なぜならこれらの楽しさと歓びとは純粋な結婚愛以外のものには存在しないからである、そしてこれは地上に極めてまれにしかないため、その無上の幸福を天使たちの口以外のものによって記すことも出来ない。なぜなら天使たちがその中にいるからである。彼らは以下のように言っている、即ち、霊魂に属したその最も内なる歓びはーその中へ主から先ず愛と知恵または善と真理との結婚したものが流れ入っているがーそれらが完全の歓びであると同時に無垢の歓びであるため、認識することが出来ず、それで表現することも出来ないものであるが、しかしそれらが下降してくるに連れて、益々認識することの出来るものとなっている、即ち、心の高い領域では祝福の状態として、低い領域では幸福の状態として、胸の中では、そこから発する歓喜として認められるようになり、胸から身体の一切の部分へ拡がり、遂には最も外なるものの中では歓びの中に結合しているのである。更に天使たちはこれらの歓びについて驚嘆すべきことを語って、以下のように言った、配偶者たちの霊魂の中に在リ、そこから彼らの心の中に在リ、そこから彼らの胸の中に在るこれらの歓びの変化は無限であり、また永遠でもあり、その歓びは夫の知恵に応じて高められているが、これは彼らが永遠にその年令の花盛りの中に生きているからであり、また益々賢明なものとなることにまさって彼らに幸いなものはないからである、と。しかしこれらの歓びについて天使たちの口から言われた多くの事柄は説話の中に、特に以下の若干の章の終りに記されている説話の中に見ることが出来よう。
結婚愛70
(7)「しかし主のもとに来て、教会の真理を愛し、その善を行う者以外にはたれ一人この愛に入ることは出来ないし、またその中にいることも出来ない」。
主のもとに来る者以外にはたれ一人この愛に入らない理由は、一夫一妻の結婚は、即ち、一人の男と一人の妻との結婚は主と教会との結婚に相応しており、その起原は善と真理との結婚であるということである、そのことについては、前の60−62を参照されよ。真の結婚愛は主から発出しており、また主に直接近付く者たちのもとに在ることはこうした起原から、またこうした相応から来ていることは、以下の二つのアルカナ[秘義]が特別に取り扱われない限りーそれは以下の諸章に取り扱われるであろうー充分に確認されることは出来ない。そのアルカナの一つは善と真理との結婚から発している結婚愛の起原に関わるものであり、他の一つは主と教会との結婚とその相応とにかかわるものである。人間のもとにある結婚愛はその者の教会の状態に応じていることはそこから来ていることもその章に見られるであろう。
結婚愛71
真の結婚愛を主から受ける者、即ち、主のもとへ直接近づいて、主から教会生活を送る者以外にはたれ一人真の結婚愛にいることが出来ない理由は、前の64に示されたように、この愛は、その起原とその相応とから観察されるとき、それは天界の天使たちと教会の人間たちのもとに在る凡ゆる愛にもまさって天的なものであり、霊的なものであり、聖いものであり、純潔なものであり、またその属性となっているこうしたものも、主に連結して、主により天界の天使たちと交わっている者以外の者には与えられることが出来ないということである。なぜならこれらの者は霊魂の破滅と地獄の池から逃れるようにも、己が配偶者以外の者との連結であるところの、結婚の外側に在る愛から逃れ、そして配偶者たちがその意志の欲念とそこから発してくる意図の方面においてさえも、そうした連結から逃れるに応じて、愛は彼らの中に浄められ、継続的に、先ず彼らが地上で生きている間に、後には天界で、霊的なものになるからである。人間のもとでも、天使のもとでも、愛は決して純潔になることは出来ない、それでこの愛さえも純潔になることは出来ない。しかし主は意志に属している意図を主として顧みられるため、人間はこの意図の中にいて、その中に忍耐して止まっている限り、その純潔と聖いものへさえも入れられて、絶えずその中で進歩して行くのである。主からこうした性格を得る者以外にはたれ一人霊的な結婚愛にいることは出来ないのは、天界はその中にあるためである、そしてこの愛がその快楽を肉のみから得ている自然的な人間は天界に近づくことは出来ないし、また如何ような天使にも近付くことは出来ないし、また、こうした愛を持っている如何ような人間にも近づくことは出来ないのである。なぜならそれは、前の65−67に示されたように、凡ての天的な、霊的な愛の根元的な愛であるからである。それがそうであることは経験により私に確認されたのである。霊界で私は地獄に向って備えをしている魔鬼が、その配偶者と共に歓びの中にいた天使に近づくのを見た。彼らは近づくにつれ、遠方からでさえ、鬼女のようになって、洞窟と坑とを求め、その中に我が身を投げ込んで避難したのである。悪霊は、その情愛と同質のものを、それがいかに不潔なものであろうと、愛し、天界は純潔なものであるため、天界の霊たちを異質のものとして、それを嫌悪することは、10に前もって述べられた事柄から推し量ることが出来よう。
結婚愛72
教会の真理を愛し、その善を行う者がこの愛に入り、その中に止まることが出来る理由は、彼らのみが主によって受け入れられるということである、なぜなら彼は主と連結し、かくて主によりこの愛の中に維持されることが出来るからである。人間のもとに教会を構成し、それゆえ、天界を構成している二つのもの、信仰の真理と生活の善とがある。信仰の真理は主の現存を構成し、信仰の真理に従った生活の善は主との連結を生み、かくて教会と天界とを形成している。信仰の光は光に属しているため、主の現存を構成している。霊的な光はそれ以外の何ものでもない。生活の善は熱に属しているため、連結を生んでいる。霊的な熱はそれ以外の何ものでもない、なぜならそれは愛であり、生活の善は愛に属しているからである。そして光はすべて、冬のそれでさえも、現存をもたらし、光に結合した熱は連結を生むことは知られている、なぜなら果樹園と花園とは凡ゆる種類の光の中に現れているが、しかし熱が光と連結している時以外は花は開かず、果実は実らないからである。これらの事柄から教会の真理を単に知るに過ぎない者は、主から真の結婚愛を与えられはしないが、しかしその真理を知り、その善を行う者がそれを与えられるという結論が明らかとなっている。
結婚愛73
(8)「この愛は黄金時代、銀時代、銅時代に生きた古代人における愛の中の愛であった」。
結婚愛は、そのように名付けられた最初期の時代に生きていた最古代の人々と古代の人々における愛の愛であったことは、その文書は現在存在していないし、存在している記事もその時代の後の記者たちのものであるため、歴史からは知られることは出来ない。しかしこれらの者により彼らは名付けられ、その生活の純潔と清廉もまた記され、更に金から鉄へとその生活が次々に退廃して行ったことも記されているのである。しかしこれらの記者の時代に始まった最後の時代、または鉄の時代の性格は、ギリシャその他の、ソフィ[賢者]と呼ばれた王や、裁判官や、賢人たちの若干の者の生活の歴史から推測することが出来よう。しかしダニエル書2・43に、この時代は鉄がそれ自身によって存続するようには存続できないで、粘土に混じった鉄のようになって、その二つのものは密着しないと予言されている。さて、金、銀、銅に因んで名付けられた時代は、文字が用いられるようになった時代以前に過ぎ去って、彼らの結婚を地上では知ることが出来ないため、主は私を彼らの住居のある天界へ導かれて、それを私に霊的な方法で明らかにされることを良しとされたのである。それは彼らがその時代に生きていたとき、その間で結婚は如何ような性質を持っていたかを、彼ら自身の口から私がそこで学ぶためであった、なぜなら創造以来自然界から去った者は凡て霊界にいて、凡ての者はその愛の点では前に類似しており、また永遠に前に類似したままに止まるからである。こうした事柄は知られ、また述べられる価値があるため、またそれは結婚の神聖さを確認させもするため、私はそれらを、それらが私に霊の中で、私の目覚めているときに示されて、後に天使により記憶に呼び覚まされ、かくて記されたままに、公にしよう。そしてそれは、各章の終りに記されている他の説話のように、霊界から来ているので、私はそれらを時代の継続に従って、六つの説話に分けよう。
結婚愛74
結婚愛にかかわっているこの六つの説話は―それは霊界から来ているが―その愛の性質は最も初期の時代には如何ようなものであったか、その時代以後では如何ようなものであったか、現在それは如何ようなものであるかを明らかにしている。それによってこの愛はその聖さと純潔から次第に堕落して、遂には姦通的なものとなったが、それにも拘らず、それが太初の、または古代の聖さに再び回復される希望のあることが明らかにされている。
21.説話
説話79
天使は私に言った、『この地域では地から日々新しく人々がやってきて、前に住んでいる人々は次々と追われて、西の、遠方では火と硫黄との池のように見える深淵に投げ込まれます。その凡ての者は霊的な姦淫者でもあり、また自然的な姦淫者でもあります』。
結婚愛80
こうした言葉が言われたので、私は西の端を眺めてみた、と見よ! 火と硫黄との池のようなものが現れた。私は天使にたずねた、『そこの地獄はなぜあのように見えるのですか』。
彼は答えた、『それはその真理の誤謬化のため湖として見えます、それは水は霊的な意義では真理であるからです。またその悪の愛から、その周りに、その中に火のようなものが現れ、その誤ったものを愛する愛から硫黄のようなものが現れます。湖、火、硫黄のこの三つのものは、彼らの抱いている悪い愛に相応したものであるため、その外観でもあります。凡てこれらの者は永遠の作業場に閉じ込められて、そこで自分の糧、着物、寝床のために働いています。そして彼らは悪を行うと、苛烈な、悲惨な刑罰を課せられます』。
再び私はたずねた、『なぜあなたはそこにいる者は霊的な、また自然的な姦淫者であると言われたのです。なぜ悪を行う者、不敬虔な者と言われないのです』。
彼は答えた、『姦淫を取るに足らぬことと考える者は、即ち、それは罪ではないと確認して、それを計画的に行う者は凡て悪を行う者、心の不敬虔な者であるからです。なぜなら人間の結婚と宗教とは一足毎に共に連れ立って行くからです。宗教から宗教の中へ進み、歩み入ることは、基督教徒に属し、また基督教徒に特有なものであるところの、結婚的なものから結婚的なものの中へ進み、歩み入ることです』。
『その結婚的なものとは何です』と尋ねられて、彼は言った、『それは只一人の妻と生活しようとする願いです。そして基督教徒はその宗教に従って、そうした願いを持っています』。
その後で、私は古代ではかくも聖かった結婚がかくも痛ましく姦通に変わったことを霊の中で悲しんだのである。
天使は言った、『それは現在の宗教でも同じです。なぜなら主は以下のように言っていられるからです―
代の終わりにダニエルに言われた荒らす憎むべきものが起こるであろう。そして世のはじめからこれまでになかったような大きな苦しみが起こるであろう(マタイ24・15、21)。
「荒らす憎むべきもの」とは凡ゆる真理が誤謬化されることとそれが失われることを意味しています。「苦しみ」は悪と誤謬とにとりつかれて悩まされる教会の状態を意味し、こうしたことが言われている「代の終わり」は教会の最後の時、または終わりを意味しています。その終わりは今です。それは誤謬化されないで残っている真理は一つもないからです。そして真理を誤謬化することは霊的な姦通であって、それは自然的な姦通と一つのものとなって働きます、なぜならその二つは密着しているからです』。
結婚愛210
「結婚愛に特有な感覚は触覚である」。凡ての愛は感覚を持っている。理解の愛[理解しようとする愛]から発している見ることを求める愛は視覚を持っており、その快楽は均斉と美であり、聞いて服従しようとする愛から発している聞くことを求める愛は聴覚を持っており、その快楽はハーモニー[諧音]であり、認識しようとする愛から、空中に浮遊している物を知ろうとする愛は嗅覚をもっており、その快楽は芳香であり、善と真理とを自己に吸引しようとする愛から、自己を養おうとする愛は味覚を持ち、その歓喜は美味であり、辺りを見回して、自己を守ろうとする愛から、対象を知ろうとする愛は触覚を持ち、その快楽は摩擦[くすぐること]である。
善と真理とを結合しようとする愛から、自分の自己を自分の配偶者に連結しようとする愛が触覚を持っている理由は、この感覚は凡ての感覚に共通しており、かくてその凡てから寄与を得ているということである。この愛は前述の凡ての感覚を吸引してそれ自身に交じらせ(コミュニオン)、それらの快楽をそれ自身のものとしていることは良く知られている。触覚は結婚愛に専有され結婚愛自身の感覚であることはその凡ての遊戯から明らかであり、その精妙なものが無上の微妙なものへも高められることからも明らかである。しかしこれを更に探求することは愛人たちに委ねよう。
天界と地獄402
天界の楽しさは凡て用に連結し、用の中に存在している、なぜなら用は天使たちの抱いている愛と仁慈との善であり、それゆえ各々の者はその用に従って楽しさを持ち、同じく用に対するその情愛の度における楽しさを持っている。天界の楽しさはすべて用の楽しさであることは、人間の身体の五官と比較することにより明らかとなるであろう。各感覚にはその用に従って楽しさが与えられ、視覚、聴覚、嗅覚、触覚には各々それ自身の楽しさが与えられている、即ち、視覚には、美と形から、聴覚には調和のある音から、嗅覚には快い匂りから、味覚には美味から楽しさが与えられている。その五官各々が遂行する用はそれらを研究する者たちに知られており、相応に通じている者には更に完全に知られている。視覚がそうした楽しさを持っているのは、それが内なる視覚である理解に対して遂行する用から発しており、聴覚がそうした楽しさを持っているのは、それが聞くことによって理解と意志とに対して遂行する用から発しており、嗅覚がそうした楽しさを持っているのは、それが頭脳とまた肺臓とに対して遂行する用から発しており、味覚がそうした楽しさを持っているのは、それが胃に対して遂行する用と、そこから身体全体に栄養を与えることによって、その身体全体に対し遂行する用から発している。触覚の更に純粋で、更に精妙な楽しさである結婚の楽しさは、人類を生み出し、引いては天界の天使たちを生み出すその用のために、他の凡てのものにまさっている。こうした歓喜は天界の流入からその感覚器官に宿っており、天界では楽しさはすべて用から生まれ、用に従っているのである。
23.天界は主から流れ入っている善と真理との結合から結婚に譬えられて、結婚と呼ばれている
天界の秘義2728
そしてすでに言ったように、現今では僅かな者しか純粋な結婚愛とは何であるかを知っていないため、それを私に明らかにされたことから記してみよう。結婚愛は善と真理との神的な結婚から発し、かくて主御自身から発しているのである。結婚愛はそこから発していることは感覚には明らかではなくまた明らかに把握されもしないが、それでもそれは聖言のみでなく、流入からも、また相応からも認めることが出来よう。流入からは、天界は主から流れ入っている善と真理との結合から結婚に譬えられて、結婚と呼ばれているためであり、相応からは、真理に結合した善が低いスフィア[領域]の中へ流れ入る時、それは心の結合を形作り、さらに低いスフィア[領域]の中へ流れ入る時、結婚を形作り、それで主から真理に結合した善から心が結合することは結婚愛そのものであるためである。
結婚愛83
結婚愛には内なる起原と外なる起原とがあり、内なる起原は多く、外なる起原も同じく多い。しかし凡ての中でも最も内なる、または普遍的な起原は一つである。それは善と真理との結婚であることを今以下に記す事柄の中に示さなくてはならない。これまでたれ一人その愛の起原をそこから引き出さなかったのは、善と真理との間に何らかの結合が存在していることが知られていなかったためである。そしてこのことが知られなかった理由は、善は真理のように理解の光の中に現れておらず、それで善の知識はそれ自身を隠してしまって、研究されることが出来なかったということである。こうした原因から善は知られない事柄の一つであるため、たれも善と真理との如何ような結婚も考えなかったのである。否、更に、自然的な合理的な人間の目には善は、真理とは何の連結も持っていないほどにも、そこから隔たっているようにも見えるのである。それがそうであることは、普通の言葉から、善と真理のことが言われるとき、認めることが出来よう、例えば、『これは善である』と言われるとき、真理については何ら考えられておらず、『これは真である』と言われるときは、善は何ら考えられていないのである。それで現今多くの者から真理は絶対的に善以外のものであり、善は真理以外のものであると信じられている。そして多くの者はまた、人間はその考えたり、言ったり、書いたり、信じたりしている真理に従って理知的であり、賢明であり、かくて人間であると信じてはいるが、しかしそれは同時に善に従っては信じられてはいないのである。しかし真理がなくては善はなく、善がなくては真理もなく、従ってその二つのものの間には永遠の結婚があり、この結婚が結婚愛の起原であることを今説明しよう。これを以下の順序で説明しよう―
(1)善と真理とは創造の普遍的なものであり、かくてそれらは創造された物凡ての中に存在しているが、しかしそれらは創造された主体の中に各々の形に応じて存在している。
(2)真理から分離した善はなく、また善から分離した真理もなく、凡ての所でそれらは連結している。
(3)善の真理があり、またそこから真理の善があり、または善から発した真理とその真理から発した善があり、この二つのものの中にはそれ自身を連結して一つのものにしようとする傾向が創造から内在している。
(4)動物界の主体の中では善の真理、または善から発した真理は男性的なものであり、そこから発した真理の善、またはその真理から発した善は女性的なものである。
(5)主から発している善と真理との結婚の流入から性愛が存在し、結婚愛が存在している。
(6)性愛は外なる、または自然的な人の愛であり、かくてそれは凡ての動物に共通している。
(7)しかし結婚愛は内なる、または霊的な人の愛であり、それでそれは人間に特有なものである。
(8)人間にあっては、宝石が鉱石の中に隠れているように、結婚愛は性愛の中に隠れている。
(9)人間における性愛は結婚愛の起原ではなくて、それに先行しているものであり(*)、かくてそれはその中に内なる霊的なものが植えつけられる外なる自然的なものとして存在している。
(10)結婚愛が植えつけられている間に、性愛はそれ自身を逆転させて、貞潔な性愛となる。
(11)男性と女性とは善と真理との結婚の形そのものとなるように創造された。
(12)結婚した二人の配偶者は、その心の内部が開かれるに応じて、その最内部ではその結婚愛の形となり、かくてその最内部から由来している物においてもその形となっている。
*それに先行しているものであり・・・「性愛は結婚愛の最初のものであり」の意味。
結婚愛84
(1)「善と真理とは創造の普遍的なものであり、かくてそれらは創造された物の凡ての中に存在しているが、しかしそれらは創造された主体の中に各々の形に従って存在している」。善と真理は、その二つは創造者である神であられる主の中に存在していて、実に、主御自身であるため、創造の普遍的なものである。なぜなら主は神的善それ自身と神的真理それ自身であられるから。しかしこのことは、もし私たちが善の代りに愛と言い、真理の代りに知恵と言い、かくて創造者で神であられる主の中に神の愛と神の知恵が在り、その愛と知恵とが主御自身であり、即ち、主は愛それ自身と知恵それ自身であると言うなら、理解の認識に、引いては、思考の観念に更に明白に入って来るであろう。なぜならこの二つは善と真理と同一のものであるから。その理由は善は愛のものであり、真理は知恵のものであるということである。なぜなら、愛は善から、知恵は真理から成り立っているからである。この二つのものとかの二つのものとは同一であるため以下の頁には、時にはその一方の、時にはその他方の名をとってはいるが、その何れによっても同一の事柄が意味されるであろう。ここに前以てこのように説明しておくのは、今後その言葉が用いられる場合理解において何ら相違が認められないためである。
結婚愛85
それで創造者で神であられる主は愛それ自身、知恵それ自身であられ、宇宙は主によって創造された以上は―それでそれは主から発した業として存在しているが―創造された一切の物の中には主から発している何らかの善と何らかの真理とが存在せざるをえないのである。なぜならたれであれ、その者から為され、その者から発している物は、その者に類似したものを持つからである。理性もそれがそうであることを、宇宙の一切の物がよって以て創造された秩序から認めることが出来るのであり、その秩序とは一つの物は他の一つの物のために存在しており、それで一つの物は他の一つの物に鎖の環のように依存しているということである。なぜならそれらは凡て人類のために存在しており、人類から天使たちの天界が生まれ、その天使たちの天界を通して、創造[創造されたもの]がその創造の源泉であられる創造者御自身に帰るという目的の下に存在しているからである。ここから創造された宇宙はその創造者と連結し、連結を通して不斷に維持されているのである。善と真理とが宇宙の普遍的なものと言われているのはこのためである。それがそうであることは、そのことを理性から考察する者には凡て明らかである。彼は善に関わりのあるものと真理に関わりのあるものとを創造された凡ての物の中に見るのである。
結婚愛86
凡ゆる主体はその形に従って流入を受けているため、創造された主体における善と真理とは各々の形に順応している。全体を維持することは、神的善と神的真理とによって創造された形へ神的善と神的真理とが不斷に流入しているということ以外の何物でもない。なぜならそのことによって生存または維持は不断の存在または創造となっているからである。凡ゆる主体は形に従って流入を受けていることは種々の現象によって、例えば凡ゆる種類の植物へ流入している太陽の熱と光とによって説明することが出来よう。この各々はその形に従って、灌木は凡てその形に従って、牧草は凡て、薬草は凡て、その形に従ってそれを受けているのである。凡てのものに流入は同じように注がれているが、しかし、その受けることはその形に従っているため、その受けることによって、各品種はその同じように品種であることを続けている。そのことはまた凡ゆる種類の動物へその各々の形に従って注がれている流入によっても説明することが出来よう。流入は各々の物の形に従っていることは、無学な者でさえも、もし彼が色々な楽器に、パイプ、フルート、コルネット、太鼓、オルガンに注意さえするなら、すべてこうしたものはその形に従って、同じ息、または空気の流入から音を発するという事実によって、認めることが出来よう。
結婚愛87
(2)「孤立した[真理から分離した]善はなく、また孤立した[善から分離した]真理もなく、凡ゆる所でそれらは連結している」。善を、何らかの感覚から、考えようとする者は、その善を提供し、明示するものが付加されない限り、それを考えることは出来ない。それがないなら、善は名もない存在である。それを提供し、明示するものは真理に関連している。ただ善を語るのみで、同時にそれと共に存在しているこの物またはかの物を語らないなら、または何かそれに接合していて、それと関連しているものを除外して、抽象的にそれを定義づけるなら、諸君はそれが全く無意味なものであることを認められるが、しかしそれがそれに接合しているものとともになって、はじめて有意義なものとなることを認められるであろう。そしてもし諸君が理性の切っ先をそれにあてられるなら、諸君は善はそれに接合したものがなくては、それはそれについては何事も述べることの出来ない観念にすぎず、それでそれは何らの関係も、情愛も、状態も持っていない、約言すると、何らの性質も持っていないことを認められるであろう。真理についても、もしそれがそれに関連したものもなしに聞かれるなら、同じことである。磨かれた理性はそれは善に関連していることを認めることが出来よう。しかし善は無数であり、善は各々、その最大なものへ、またその最小のものへと、梯子の段によって上り下りするようにも、上り下りしているため、そしてそれはまたその名をその進行に従って、その性質に従って変えているため、善と真理の、幾多の対象に対する関連とその対象における善と真理との連結を認めることは賢明な者以外の者には困難である。しかも前項(84、85)に示されたように、宇宙における一切の物は善と真理とに関係していることが先ず認められさえするなら、真理がなくては善はなく、また善がなくては真理もないことが、一般の認識から、明らかである。孤立した善はなく、また孤立した真理もないことは種々の考察によって説明し、確認することが出来よう。例えば形がなくては本質はなく、本質がなくては形もなく、善は物の本質、または存在であり、真理はそれによってその本質が形成され、その存在が現存するようになるものである。更に、人間の中には意志と理解があり、善は意志のものであり、真理は理解のものである。しかし意志はそれ自身では[意志のみでは]何事も為さないし、理解を通して活動している。理解もまたそれ自身では何事も為さないし、意志から活動している。更に人間の中には身体の生命の二つの源泉である心臓と肺臓とが存在している。心臓は肺臓の呼吸がなくては、知覚し、運動する生命を生むことは出来ないし、肺臓もまた心臓がなくてはそれを生むことは出来ない。心臓は善に、肺臓の呼吸は真理に関連している。(そこには)相応もまた存在している。人間の心の一切の物と身体の一切の物も同じである。しかしここではこれ以上確認する余裕はない。しかしこれらの真理は「神的真理に関わる天使の知恵」(*)(3−26)の中に更に詳細に確認されているを見ることが出来よう、そこではそれらは以下の順で説明されている。
[1]宇宙はその創造された個々の凡ての物とともに神的知恵によって神的愛から存在しており、またはそれと同一のことではあるが、神的真理によって神的善から存在している。[2]神的善と神的真理とは一つのものとなって主から発している。[3]この一つのものは、一種の映像となって、凡ての創造された物の中に存在している。[4]善は真理に結合しない限り善ではない。そして真理も善と結合しない限り真理ではない。[5]主はいかような物も分割されることを許されない、それで人間は善の中にいると同時に真理の中にいなくてはならないか、または悪の中にいると同時に誤謬の中にいなくてはならない。その他多くのことが確認されているのである。
*「神の摂理」と題して邦訳、出版されている。
結婚愛88
(3)「善の真理と、そこから発している真理の善があり、または善から発している真理とその真理から発している善があり、この二つのものの中に、それら自身を一つに連結しようとする傾向が創造から内在している」。こうした事について何か明確な考えを得ておくことが必要であるが、それは結婚愛の本質的な起原を知ることがそのことにかかっているためである。なぜなら以下に説明されているように、善の真理、または善から発している真理は男性的なものであり、真理の善、またはかの真理から発している善は女性的なものであるから。しかしこれは、もし善の代わりに愛と言われ、真理の代わりに知恵と言われるなら、更に明らかに把握されることが出来よう、なぜならそれらは同一のものであることが前に見られているから(84)。知恵は賢明になることを求める愛によらなくては人間のもとに存在することは出来ない。もしこの愛が取り去られるなら、人間は全く賢明になることは出来ない。この愛から発した知恵が善の真理、または善から発した真理により意味されている。しかしその愛から、人間が知恵を得、そして自分自身の中に在るその知恵を愛し、またはその知恵のために自分自身を愛するとき、彼は知恵の愛である愛を形作るのであって、これは真理の善、またはかの真理から発した善によって意味されている。それで男の中にはこの二つの愛があって、その中の先在的な愛は賢明になることを求める愛であり、後に来る他の愛は知恵の愛[知恵と愛に対する愛]である。しかしもしこの愛が男の中に止まるならば、それは悪い愛であって、自負、または自分自身の理知の愛と呼ばれる。この愛が男を破壊しないために、それは男から取り去られて、女に書き写され、かくてそれが男を完全な状態へ回復させる結婚愛となるように創造によって定められたことが以下の頁に確立されるであろう。この二つの愛と後の愛が女の中に書き写されたことについては若干の記事が前の32、33と序言の20に見ることが出来よう。それで愛に対して善が、知恵に対して真理が理解されるなら、善の真理または善から発した真理が在リ、そこから真理の善、またはかの真理から発した善の在ることが、前に、また今述べた所から明らかである。
結婚愛89
この二つのものの中にそれら自身を一つに連結しようとする傾向が創造から内在しているのは、その一方は他方から形作られているためである。即ち、知恵は賢明になることを求める愛から形作られ、または真理は善から形作られ、知恵の愛はかの知恵から形作られ、または真理の善はかの真理から形作られるためである。それら自身を一つに再び結合させ、連結しようとする相互的な傾向が在ることはこうした形成から認めることが出来よう。しかしこの再結合は純粋な知恵の中に在る男とその夫のその知恵に対する愛の中に在る女のもとに、引いては真の結婚愛の中にいる男と女のもとに起きるのである。しかし男のもとにあって、妻から愛される知恵についてはまた後に述べなくてはならない。
結婚愛90
(4)「動物界の主体にあっては善の真理または善から発した真理は男性的なものであり、そこから発した真理の善、またはかの真理から発した善は女性的なものである」。愛と知恵との不断の結合、または善と真理の結婚は宇宙の創造者、維持者であられる神から流れ入り、創造された主体は各々その形に従ってこれを受けていることは前に示した(84−86)。しかしこの結婚またはこの結合から男性は知恵の真理を受け、これに愛の善が、それが受け入れられるに応じて主により連結されること、この受け入れることは理解の中に起ること、このことから男は知的なものになるように生れていることを、理性はそれ自身の光によって、男性における色々なものから、特に彼の情愛、彼の努力、彼の動作、彼の形から認めることが出来よう。即ち、男性の情愛からは、それが知ること、理解すること、賢明になることを求める情愛であり、少年期では知ることを求める情愛であり、青年期と初期の成人期では理解することを求める情愛であり、この成人期から老年期にさえ至るまでは賢明になることを求める情愛であることによって認めることが出来よう。そこから彼の性質または生来の気質は理解を形成することに傾いており、従って彼は知的なものになるように生まれていることが明らかである。しかしこのことは愛によらなくては遂行されることが出来ないため、主は彼に受け入れることに従って、即ち、彼が賢明になることを求める精神(スピリット)に従って、愛を接合されるのである。彼の努力からは、即ち、それは知的なものに、または理解に支配されているものに向けられ、その多くは実に戸外で行われ、公共の用を目指していることにより(認めることが出来よう)。かくて動作によって意味されている彼の生活活動は理性に順応しており―またはもしそれがそれに順応していないなら、彼はそれがそのように見えるのを欲しており、男性の合理性はその凡ての徳に著しく現れているのである。また彼の形からは、それは女性の形とは相違して、全く区別されていることによって(認めることが出来よう)。これについては前の33にまた若干の記事を見ることが出来よう。このことに生殖力が彼に在ることを付加されよ。それは理解以外の如何ような源泉からも発してはいない、なぜならそれはそこに在る善から真理によって発しているからである(*)。生殖力はこの源泉から発していることは以下に見られるであろう。
*「それはそこに在る善から真理により発している」は「生殖力は理解の中に在る善から発している真理から発している」の意味。
結婚愛91
他方女性は熱意的なもの[意志的なもの]になるように、しかし男性の知的なものから熱意的なものになるように生まれており、またはそれと同じことではあるが、彼女は彼の知恵を通して形作られたため、男性の知恵の愛[男性の知恵を愛する愛]とならねばならない。このことについては、前の88、89を参照されよ。これもまた女性の情愛、その努力、その形から明らかである。女性の情愛からは、それが知識、理知、知恵を愛する情愛であるが、しかもそれは彼女自身の中に在るそうした知識、理性、知恵に対するものではなくて、男子の中にあるそうしたものに対するものであり、かくて男性を愛する情愛であることによって明らかである。なぜなら男性は男として現れているという、単にその形のためにのみ愛されることは出来ないのであり、彼を男としているところの、彼の中の資質のために愛されることが出来るからである。彼女の努力からは、それは装飾に、その身体の装飾とその美を高めるうえに役立っている、編物、刺繍といった名で呼ばれている手仕事に向けられており、更に家事と呼ばれて、すでに述べたように、戸外の仕事と言われている男の義務に関連した色々な義務に向けられている。女たちは妻となり、かくてその夫と共になって一つのものとなるために、結婚を求める傾向[性向]からこうした用に携わっているのである、それはまた彼女の動作と形から現れていることも説明しなくとも明らかである。
結婚愛92
(5)「主から発している善と真理との結婚の流入から性愛と結婚愛が存在している」。善と真理とは創造の普遍的なものであり、かくてそれらは創造された主体[物]の凡ての中に在リ、各々の形に従ってその主体の中に在リ、善と真理とは主から二つのものとして発しはしないで、一つのものとして発していることは前の84−87に示したところである。ここから普遍的な結婚のスフィア[霊気]が主から発しており、宇宙にその最初のものからその最後のものに至るまでも、引いては天使から虫にさえ至るまでも浸透していることが生まれている。こうした善と真理との結婚のスフィアが主から発している理由は、それがまた繁殖させるスフィアであり、即ち、生み出し、実を結ばせるスフィアであるということであり、これは世代が継続することによって宇宙を維持する神の摂理と同じものである。さて、善と真理との結婚のスフィアであるこの普遍的なスフィアは主体にその各々の形に従って流れ入っているため、男性は知的な形として存在しているゆえ、その形に従って、即ち、その理解の中にそれを受け、女性は男の理知的なものから発した熱意的な形であるゆえ、その形に従って、それを受け、かくてその意志の中にそれを受けることが生まれている。そしてこのスフィアは生み出すスフィアであるため、そこから性愛が発していることも生まれている。
結婚愛93
結婚愛もまたここから発しているのは、かのスフィアは人間と天使における知恵の形に流れ入るためである。なぜなら人間は世におけるその生涯の終りまでも、後には天界で永遠に知恵において成長することが出来るからである。そして彼は知恵を増すにつれて彼の形は完成し、またこの形は性愛を受けないで、異性のただ一人を愛する愛を受けるのである。なぜならこの一人の者と彼は、天界がその浄福とともに宿っている最も内なるものにさえ至るまでも結合することが出来、そしてこの結合は結婚愛のそれであるからである。
結婚愛94
(6)「性愛は外なる、または自然的な人のものであり、かくてそれは凡ての動物に共通している」。人間は各々形体的に生まれており、益々内的に自然的なものとなり、それから理知を愛するに応じて、合理的なものになり、その後でもし知恵を愛するなら、霊的なものになる。人間を霊的なものとさせる知恵の何であるかは後に述べよう(130)。さて、人間は知識から理知へ進み、理知から知恵に進むように、その心もまたその形を変えている。なぜならそれは益々開かれて、それ自身を天界に更に密接に連結させ、天界を通して主に連結させ、かくて彼は更に真理を愛する者となり、更に生命の善を求める者となるからである。それでもし彼が知恵に至るその進歩の最初の入口で止まるならば、彼の心の形は自然的なものとして止まり、これは(善と真理との結婚のスフィアである)普遍的なスフィアの流入を、鳥獣と呼ばれる動物界の低級な主体のようにしか受けないのである。それらは単に自然的なものであるため、こうした人間もそれらのようになって、引いてはそれらと同じように異性を愛するのである。これが「性愛は外なる自然的な人のものであって、かくて凡ての動物に共通している」の意味である。
結婚愛95
(7)「しかしかの結婚愛は内なるまたは霊的な人のものであって、それで人間特有のものである」。結婚愛は内なる、または霊的な人のものである理由は、人間は理知的になり、また賢明になるに応じて益々内的に、または霊的になり、その心の形は益々完全になって、その形が結婚愛を受けるということである、なぜならその愛の中にそれは内的に幸福な霊的な歓喜を認めもし、感じもし、またそこから自然的な歓喜を―この歓喜はかの霊的な歓喜からその霊魂と生命と本質とを吸引しているのであるが、そうした自然的な歓喜を―認めもし、感じもしているからである。
結婚愛96
結婚愛は人間に特有なものである理由は人間のみが霊的なものになることが出来るということである。なぜなら彼はその理解をその自然的な愛の上に高揚させ、その高所から下に在るその自然的な愛を見、それがいかような性質を持っているかを判断し、それを匡正し、懲らしめ、遠ざけることが出来るからである。このことはいかような動物も行うことは出来ない、なぜならその愛はそれに生れながら具わっている知識と全く結合しており、それでこの知識は理知へ高揚されることは出来ず、まして知恵へ高揚されることは出来ないからである。そうした理由から動物は、盲人が犬に街路を引かれて行くように、その知識に植え付けられている愛に引かれて行くのである。これが結婚愛は人間特有なものである理由である。そしてそれはまた人間に先天的な、血縁的なものであるということが出来よう。なぜなら人間にはこの愛と一つのものとなっているところの、賢明になることの出来る能力があるからである。
結婚愛97
(8)「人間のもとでは、この愛は、宝石が鉱石の中に隠れているように、性愛の中に隠れている」。しかしこれは単に比較にすぎないため、この主題については今以下に記す項目の中で説明しよう。しかし、すぐ前に示したように(95)、性愛は外なる、または自然的な人のものであり、結婚愛は内なるまたは霊的な人のものであるという真理は、この比較によって説明されている。
結婚愛98
(9)「人間の性愛は結婚愛の起原ではなくて、その最初のものであり[それに先行しているものであり]、かくてそれは内なる霊的なものがその中に植えつけられている外なる自然的なものとして存在している」。ここに取り扱っている主題は真に結婚的な愛のことであって、結婚愛とも呼ばれはしているものの、人によっては制限された性愛以外の何ものでもない普通の愛のことではない。しかし真に結婚的な愛は熱心に知恵を求め、それで知恵に益々進んで行く者たちのもとにのみ存在している。主は彼らを予見されて、そのために結婚愛を供えられている。その愛は彼らのもとでは性愛から、またはむしろその愛を通して始まることは真であるが、しかもそれはそこから始まるのではない、なぜなら結婚愛は知恵が彼のもとで進んで光の中へ入ってくるに正比例して発生するからである。なぜなら知恵とこの愛とは分かつことの出来ない仲間であるから。結婚愛は性愛を通して始まることは、配偶者が見出されない中は、異性が全般的に愛され、優しい目で見られ、丁重な道徳性をもって遇せられるという事実から発している。なぜなら青年は選択しなければならないし、その時に、その心の最も内なる神殿に隠れているところの、一人の者との結婚を求める生来の傾向から、彼の外なるものの中には快い温かさが在るからである。そしてまたそれは以下の事実からも発している、即ち、結婚にかかわる決定は、色々な理由から成人期の中頃までさえも延ばされて、その間その愛の始まりは色情として存在しており、人によっては事実性愛へ外れて行くが、しかし彼らのもとでさえも、その抑制は健康に必要でない限り緩められはしないのである。しかしこうした事柄は、男性は実際胸を燃やす誘惑を感じるため、男性について言われたのであって、女性について言われたのではない。このことから性愛は真に結婚的な愛[真の結婚愛]の起原ではなくて、それは目的では最初のものではないが、時間の中では最初のものであることが明らかである。なぜなら目的において最初のものが主要なものであるため、それは心とその意図においても最初のものであるから。しかしこの最初のものには手段を通して継続的に達しない限り、達することは出来ないし、手段はそれ自身では最初のものではなく、それ自身において最初のものであるものに達するものにしかすぎないのである。
結婚愛99
(10)「結婚愛が植えつけられている間に、性愛はそれ自身を転倒させて、貞潔な性愛となる」。性愛はそれ自身を転倒させると言ったのは、結婚愛が心の内部に在るその起原に進みつつある間は、それは性愛をそれ自身の前に見ないで、その後に見、またはそれ自身の上に見ないで、それ自身の下に見、かくて過ぎ去って後に残されるものとして見るためである。それはたれかが勤めによって一つの役から他の一つの役を経て、遂にあるすぐれた顕職へ登り、その経てきた役を自分の後に、または自分の下に見下す時にも似ており、またはたれかが或る王の宮廷へ旅しようと企てて、そこに着いた後で、途中眺めた物を振り返って見るときにも似ている。性愛は真の結婚愛にいる者たちのもとに依然存続してはいるが、貞潔なものとなり、しかも以前よりは甘美なものとなることは、霊界にいる者たちが、44と45の、そこから得られた二つの説話の中に述べていることから見ることが出来よう。
結婚愛100
(11)「男と女とは善と真理との結婚の形そのものとなるように創造された」。その理由は男は真理の理解となり、かくて真理の形[形をとった真理]となるように創造され、女は善の意志となり、かくて善の形[形をとった善]となるように創造され、そして前の88に見ることが出来るように、連結して一つのものになろうとする傾向[性向]が両者に最内部から与えられたということである。かくて二人は善と真理との結婚的な形を模倣した一つの形となっている。それはこれを模倣していると言われるのは、それはそれと同じものではなくて、それに類似しているためである。なぜなら男性のもとで真理にそれ自身を連結させる善は主から直接に来ているが、しかし男性のもとで真理にそれ自身を連結させる妻の善は妻を経て主から間接的に発しているからである。それで一は内なる善であり、他は外なる善である二つの善が在って、その二つの善がそれ自身を夫における真理に連結しており、これらのものによって夫は真に結婚的な愛を通して絶えず真理を理解し、そこから知恵を得ているのである。しかしこの主題については今後更に述べよう。
結婚愛101
(12)「結婚した二人の配偶者はその心の内部が開かれるに応じて、その最内部ではかの形となり、かくてそこから由来している物の中でもかの形となっている」。人間各々を構成しており、また人間のもとで秩序をもって互いに他に続いている三つのもの、即ち、霊魂、心、身体が在る。彼の最内部は霊魂であり、彼の中間的なものは心であり、彼の最後のものは身体である。主から人間に流れ入っているものは凡て霊魂である彼の最内部へ流れ入り、そこから心である彼の中間的なものへ降り、それを通して身体である彼の最後のものへ降っている。かくて善と真理との結婚は主から人間へ、即ち、彼の霊魂へ直接流れ入り、そこから(霊魂)に続いている物へ進み、その物を経て究極のものに進んでおり、このように連結して、それらのものは結婚愛を作っている。この流入の概念から結婚した二人の配偶者もその最内部ではその形となり、かくてその最内部のものに続いている物の中でもまたその形となっていることが明らかである。
結婚愛102
結婚した配偶者がその心の内部が開かれるに従ってかの形となる理由は、心は幼少期から極度の老年期に至るまでも継続的に開かれるということである。なぜなら人間は形体的なものとして生れ、身体の真上に在る心が開かれるにつれて、合理的なものになるからである。そしてこの合理的なものが純潔なものにされるにつれ、また身体の感覚によって流れ入ってくる妄想と肉の誘惑から流れ入ってくる淫欲とを拭い去られるにつれ、その方法によって合理的なものが開かれるのであり、これは知恵のみによって行われる。そして合理的な心の内部が開かれると、人間は知恵の形となり、そしてこれが真の結婚愛の容器となる。
『この形を作って、この愛を受ける知恵は合理的な知恵であると同時に、道徳的な知恵である。合理的な知恵は人間の内部に現れる善と真理を己がものとしては認めないで、主から流れ入っているものとして認め、道徳的な知恵は悪と誤謬から、特に己が結婚愛を汚す淫欲の悪と誤謬から、これをらい病として逃れるのである』。
25.只一人の異性に対するもの
結婚愛38
性愛と結婚愛と言ったのは、性愛は結婚愛から相違しているためである。性愛は自然的な人間のもとにあって、結婚愛は霊的な人間のもとに存在している。自然的な人間は外的な連結のみを愛し、欲求し、そこから身体の快楽を愛し、欲求しているが、しかし霊的な人間は内的な連結を愛し、欲求し、そこから発してくる霊の幸福な状態を愛し、欲求している。そして彼は、こうしたものは自分が絶えず連結して一つのものとなることの出来る一人の妻のもとに与えられることを認めている。彼はこのように連結するに応じて益々その幸福な状態がたかまって、永遠に続いてい行くのを認めている。しかし自然的な人間はこれを何ら考えない。ここから地上で霊的なものとなる人々であるところの、天界に入る者たちのもとには、結婚愛が死後も存続すると言われている。
結婚愛44
『真に結婚的な愛は貞潔な愛であって、不貞な愛とは何ものも共有してはいません。それは只一人の異性に対するものであって、他の凡ての異性は遠ざけられています。なぜならそれは霊の愛であって、そこから身体の愛となっており、身体の愛であって、そこから霊の愛となっているのではないのです。即ち、それは霊を悩ます身体の愛ではないのです』。
結婚愛44
わたしはかれらが、「それは性への愛ではなく、異性の一人に対する愛です」と答えるのを知っています。