契約

 

連結

 

 

1.「契約を立てる」ことは彼が再生するであろうということを意味していることは、主と人間との間には愛と信仰による連結以外の如何ような契約もあり得ないのであり、それ故契約は連結を意味しているという事実から極めて明白

2.虹

3.新しい契約について私の民に伝えなさい(ヴァッスーラ)

 

 

 

 

 

1.「契約を立てる」ことは彼が再生するであろうということを意味していることは、主と人間との間には愛と信仰による連結以外の如何ような契約もあり得ないのであり、それ故契約は連結を意味しているという事実から極めて明白

 

 

天界の秘義663

 

 「しかしわたしはあなたと契約を立てよう、あなたは箱舟の中へ入らなくてはならない、あなたとあなたの息子たちとあなたの妻とあなたの息子たちの妻らとはあなたとともに箱舟の中へ入らなくてはならない。」

「契約を立てる」ことは彼が再生するであろうということを意味し、「彼と彼の息子と彼の息子たちの妻が箱舟に入らねばならない」ことは彼が救われるであろうということを意味している。「息子たち」は諸真理であり、「妻ら」は諸善である。

 

 

 

天界の秘義665

 

 「契約を立てる」ことは彼が再生するであろうということを意味していることは、主と人間との間には愛と信仰による連結以外の如何ような契約もあり得ないのであり、それ故契約は連結を意味しているという事実から極めて明白である。なぜなら真の契約そのものであるものは天界的結婚であり、天界的結婚または天界的契約は再生しつつある者以外の何人のもとにも存在しておらず、それで最も広い意味では再生それ自身が「契約」により意味されているのである。主は人間を再生させ給うとき、人間と契約を結ばれるのであって、それで古代人の間には契約はそれ以外のものを表象しなかったのである。アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた契約は、また何度も彼らの子孫との間に結ばれた契約は彼らに個人的に関連したものであったという以外には何事も文字の意義からは推測することは出来ないが、彼らは再生することが出来ない底のものであったのである。なぜなら彼らは礼拝を外なる物から成立させ、礼拝の外なるものが聖いものであると考えて、内なるものが何らそれには接合されてはいなかったのである。それ故彼らとの契約は単に再生を表象するものに過ぎなかったのである。

 

 

 

天界の秘義1038

 

 「これは契約のしるしである。」

これは主が仁慈の中に現存されている事を指示するものを意味していることは『契約』と『契約のしるし』の意義から明白である。『契約』は主が仁慈の中に現存[臨在]されている事を意味していることは前(618節と前の本章9節)に示されたところである。契約は主が愛と仁慈の中に現存されることであることは契約の性質から明白である。契約はことごとく連結のためのものであり、すなわち、相互的な友情または愛に生きるためのものである。結婚もまたこうした理由から契約と呼ばれている。主は人間とは愛と仁慈の中に[愛と仁慈によって]連結されなくては連結されない、なぜなら主は愛と仁慈そのものであられるからである。主は人間各々を救おうと願われ、大いなる力をもって、天界へ、すなわち主御自身へ引き寄せようと願われている。このことからたれでも以下のことを知り、また以下のように結論することが出来よう。すなわちたれ一人主御自身であるところのものによらなくては、すなわち、主のようにならなくては、または主と一つのものにならなくては、決して主と連結することは出来ないのである。換言すると、主をその愛に応えて愛し、隣人を自分自身のように愛することにより主と連結することができるのである。そのことによってのみ連結が行われるのである。これが契約の本質そのものである。このことから連結が生まれると、そのとき主が現存されることが明らかに続いて起ってくる。実際主は各々のもとに臨在[現存]されてはいるが、しかしその臨在は愛に接近しているか、または愛から遠ざかっているかに正確に応じて近くもなり、遠ざかりもしているのである。

 

 

 

天界の秘義1038[2]

 

『契約』は主が愛により人間と連結されることであり、または、それと同一のことではあるが、愛と仁慈の中に主が人間のもとに現存されることであるためそれは聖言では『平安の契約』と呼ばれている、なぜなら『平安』は主の王国を意味し、主の王国は相互愛から成り、その相互愛の中にのみ平安が在るからである。例えばイザヤ書には―

 

 山々は離れ去り、岡々は移されるであろう、しかしわたしの慈悲はあなたから去りはしない、またわたしの平安の契約も移されはしない、とあなたを憐れまれるエホバは言われる(54・10)。

 

 ここに愛に属した慈悲は『平安の契約』と呼ばれている。エゼキエル書には―

 

  わたしは、彼らを治める一人の羊飼いをおこそう。かれはまことにわたしの僕ダビデは彼らを養うであろう。かれは彼らを養い、彼らの羊飼いとなるであろう、わたしは彼らと平安の契約を立てよう(34・23、25)。

 

 ここに『ダビデ』により明らかに主が意味されており、主が再生した人間のもとに現在されていることがかれが彼らを養われることにより記されている。

 

 

 

天界の秘義1038[3]

 

さらに―

 

  わたしの僕ダビデは彼らを治める王となり、彼ら凡ての者に一人の羊飼いがいるであろう、わたしは彼らと平安の契約を結ぼう、それは彼らとの永遠の契約となるであろう。わたしは彼らを据え、彼らを増やし、その最中にとこしえにわたしの聖所を置き、彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう(37・24、26、27)。

 

 ここにも同じく『ダビデ』により主が意味され、愛が『彼らの最中に在る聖所』により意味され、愛の中に主が臨在され、連結されることが、かれが『彼らの神となり、彼らがかれの民となること』により意味され、そのことが『平安の契約』、『永遠の契約』と呼ばれている。マラキ書には―

 

  わたしの契約がレビ人のもとに在るために、わたしがこの戒めをあなたらに与えたことをあなたらは知るであろう、と万軍のエホバは言われる、生命と平安のわたしの契約はかれとむすばれた、わたしはかれにそれらを恐れの中に与えた、かれはわたしを恐れるであろう(2・4、5)。

 

 『レビ』はその最高の意義では主であり、ここから愛と仁慈とを持った人間であり、それゆえレビと結ばれた生命と平安の契約は愛と仁慈の中に在るのである。

 

 

 

天界の秘義1038 []

 

モーセの書には、ピネハスについて以下のように話されている―

 

  見よ、わたしはかれに、わたしの平安の契約を与える、それはかれに、またかれの後のかれの裔にとこしえの祭司職の契約となるであろう(民数記25・12、13)。

 

 ここにはピネハスによりピネハスが意味されていないで、かれにより表象された祭司職が意味されており、それは愛と愛に属するものを意味しており、同じくその教会の祭司職はすべてそのことを意味しているのである。たれでもピネハスは永遠の祭司職を持たなかったことは知っているのである。さらに―

 

  あなたの神エホバ、かれは神であられ、誠実な神であられる、かれはかれを愛し、かれの戒めを守る者たちとは千代までも契約と慈悲を守られる(申命記7・9、12)。

 

 ここには主が愛の中に[愛により]人間のもとに現存されることが契約であることが明らかである。なぜならかれはかれを愛してその戒めを守る者たちとそれを守られると言われているからである。

 

 

 

天界の秘義1038[5]

 

『契約』が愛により主が人間と連結されることであるからには、それはまた愛に属し、信仰の諸真理であり、教令と呼ばれている凡ゆるものによってもまた行われることが生まれている。なぜなら凡ゆる教令は、実に律法と予言者たちとは主の御言葉から明白であるように(マタイ22・34−40、マルコ12・28−34)主を何物にも勝って愛し、隣人を自分自身のように愛するという一つの律法に基礎づけられているからである。それゆえその十戒が記されていた板石は『契約の板石』と呼ばれている。契約はまたは連結は愛の律法または教令を通して行われるからには、ユダヤ教会の中に主により与えられて、『証』と呼ばれている社会の律法を通しても行われ、主により命じられて、『法令』と呼ばれている教会の儀式を通してもまた行われたのである。この凡てのものは愛と仁慈とに関わりをもっているため、『契約』に属したものと言われており、例えばヨシュア王については以下のように記されているのである―

 

 王はその柱のわきに立って、エホバに従って歩み、その戒めとその証と法令とを、心を尽くし、魂を尽くして守り、この契約の言葉を確立する契約をエホバの前に立てた(列王記下23・3)。

 

 

 

天界の秘義1038 []

 

これらの事から『契約』とは何であるかが明白であり、またそれは内なるものであることが明白である。なぜなら主の人間との連結は内なるものにより起り、内なるものから分離した外なるものによっては決して起らないからである。人間の行動はその思考と意志とを表象している模型であるように、また仁慈の業は内部の心情と心との中にある仁慈を表象している模型であるように、外なる物は内なる物の模型でありまたそれを表象するものに過ぎないのである。そのようにユダヤ教会の儀式の凡ては主を表象し、従って愛と仁慈とを表象し、愛と仁慈から発した凡てのものを表象した模型であたのである。それゆえ契約と連結とは全く人間の内なるものを通して行われるのであり、外なるものはその契約のしるしにすぎないのであって、事実されはそのように呼ばれているのである。契約と連結とは内なるものを通して行われることは極めて明白である。例えばエレミヤ記には―

 

  見よ、日が来る、とエホバは言われる、そのときわたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約をたてるであろうこの契約はわたしがかれらの父祖とたてた契約のようなものではない、かれらはわたしの契約を空しいものにしてしまったからである、しかしこの日の後わたしがイスラエルの家と立てる契約はこれである、とエホバは言われる、すなわち、わたしはわが律法をかれらの内部におき、それをかれらの心に記そう(31・31−33)。

 

 ここには新しい教会がとり扱われている。真の契約そのものは内なるものを通して行われ、実に律法を印刻されている良心の内に存在しており、律法の凡ては、すでに述べたように、愛に属していることが明白に述べられているのである。

 

 

 

天界の秘義1038「7」

 

外なる物は、内なる物がそれに接合され、かくて結合により同一の原因として働かない限り『契約』ではなくて、単に主が表象的な模型により記憶に留められておくように、記憶に留められておく手段となる契約のしるしにすぎないことは、安息日と割礼とが契約のしるしにすぎないことは、安息日と割礼とが契約の『しるし』と呼ばれているという事実から明白である。安息日がそのように呼ばれていることをわれわれはモーセの書に読むのである―

 

  イスラエルの子孫は安息日を守りその世代にわたって遍く永遠の契約として安息日を遵守しなくてはならない。それはとこしえにわたしとイスラエルの子孫との間の契約のしるしである(出エジプト記31・16、17)。

 

そして割礼もまた同書にそのように呼ばれているのである―

 

  これはあなたらがわたしとあなたらとあなたの後のあなたの裔との間に守らなくてはならない契約である。すなわち、男はことごとくあなたらに向って割礼を受けなくてはならない、あなたらはあなたらの陽の皮の肉に割礼をほどこさなくてはならない、それをわたしとあなたらのとの間の契約のしるしとしなくてはならない(創世記17・10、11)。

 

 ここからまた地は『契約の血』と呼ばれている。(出エジプト記24・7、8)。

 

 

 

天界の秘義1038 []

 

外なる祭儀が『契約のしるし』と呼ばれているのは、主として内的なものがその外なる儀式により心に留められ、すなわち、その儀式により意味されているものが心に留められるようにとの理由によっているのである。ユダヤ教会の祭儀はすべてそれ以外の何物でもなかったのである。こうした理由からそれらはまた『印』と呼ばれたが、それはその人々がそうしたものにより内的なものを思い出すためであったのである。例えば、モーセの書におけるような、手と額とに主要な戒めを結びつけておくといったものである―

 

  あなたはあなたの神エホバを心をつくし、魂をつくし、力をつくして愛さなくてはならない。これの言葉をあなたはあなたの手に印として結びつけなくてはならない。それをあなたの目の間において護符[魔よけ]としなくてはならない(申命記6・5、8、11・13、18)。

 

 ここに手はそれが力を意味しているため、意志を意味している、なぜなら力は意志に属しているからである。『眼の間におかれた護符[魔よけ]』は理解を意味しており、かくて『しるし』は、その主要な戒めが、または律法の総計が絶えず意志と理解の中に存在するように、すなわち、主が、また愛が意志そのものの中に、また思考そのものの中に現存されているように、それを[その主要な戒め]を思い出すことを意味しているのである。主は、また主から発した相互愛はこのように天使たちのもとに現存されているが、それが不断に存在していることについては今後主の神的慈悲の下にさらに後に記すことにしよう。同じく、この節に、『これがわたしとあなたたちとの間に立てる契約の印である。すなわち、わたしはわたしの虹を雲の中に置いた、それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』と言われていることは、主が仁慈の中に現存されていることを示す印以外にはいかような印も意味していないのであり、かくて人間の中におられる主を追憶することを意味しているのである。しかしそこから、または雲の中の虹からいかようにして印と追憶することが生まれるかは主の神的慈悲の下に以下の記事に告げよう。

 

 

 

天界の秘義1049

 

 「そしてわたしはわたしとあなたとの間にある契約を覚えよう」。

 

これが再生した者と再生することのできる者に特に注がれる主の慈悲を意味していることもまた生まれてくる、なぜなら主にあっては『記憶する[覚える]』ことは慈悲を持つことであるから。記憶する[憶える]ことは主について述べることはできない。なぜなら永遠から主は凡ゆる物を全般的にもまた個別的にも知られているからである、しかし慈悲を持つことは主について述べられるのである、なぜなら主はそのようなものが人間の性格であることを知られているからである、すなわち、前に言ったように、人間自身のものは奈落的なものであり、それが彼の地獄そのものであることを知られているからである。なぜなら人間はその意志の人間自身のものにより、地獄と交流し[連なり]、この人間自身のものは地獄からは、またその人間のものそのものからは、そのもの自身を地獄に向かって投げ込むほどには甚だしくまた強く何ごとも欲してはおらず、またそれはそのことにも満足しないで、宇宙の凡ゆるものを投げ込もうとさえ欲しているからである。人間は人間自身ではこのような悪魔であって、主はこのことを知られているからには、主が契約を憶えられることは人間に慈悲を抱かれて神的な手段により彼を再生させ、彼がそのことを可能にするようなものである限り、彼を強力な力により天界へ引かれるということ以外には何ごとも意味していないことが生まれてくる。

 

 

 

天界の秘義2842[2]

 

『誓う』ことは、それがエホバについて述べられる時、このような性質を持っている者のもとでは確認することを意味していることは、聖言の他の多くの記事から認めることができよう、例えばダビデの書には―

 

 エホバは永遠にその契約を、かれが一千の世代の者に命じられた言葉を憶えられた。かれはそれをアブラハムと結ばれた。イサクに対するその誓いを(憶えられた)(詩篇105・8、9)。

 

契約の場合も誓いの場合と同一である、すなわち、エホバまたは主は人間と契約を立てられはしないが、愛と仁慈による連結がとり扱われるときこれは行為では契約としてまた示されるのである(1864番参照)。

 

 

 

天界の秘義3654〔8〕

 

 さらに―

 

 見よ、その日は来る、とエホバは言われる、その時わたしはイスラエルの家とユダの家とに人の種と獣の種とをまくであろう。わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を立てるであろう。これがわたしがその日の後イスラエルの家と立てる契約である、すなわち、わたしはわたしの律法をかれらの真中におき、それをかれらの心に記すであろう(エレミア31・27、31、33)。

 

 ここにはイスラエルまたはイスラエルの家が意味されていないことは極めて明白である、なぜならかれらは異邦人たちの間に散らされて、決して捕われた状態から連れ戻されなかったからであり、従ってユダもユダの家も意味されてはいないで、それにより、その内意では、主の霊的な、天的な王国にぞくしている者たちが意味されているのである。これらの者と新しい契約が結ばれ、その心に律法が記されたのであり、『新しい契約』は善によって主と連結することを意味し(665、666、1023、1038、1864、1996、2003、2021、2037番を参照)、『その心に記された律法』はその結果生まれてくるところの善と真理の認識を、また良心を意味している。

 

 

 

天界の秘義6804〔3〕

 

神的な人間的なもの〔神の人間性〕が『契約』であり、即ち、連結そのものであることは聖言の多くの記事から認めることが出来るのである、例えば―

 

 わたしはあなたを民の契約として、諸々の国民の光として与えよう(イザヤ42・6)。

 

わたしは地を回復し、荒廃した嗣業を分け与えるため、民の契約としてあなたを与えた(イザヤ49・8)。

 

あなたらの耳を傾け、わたしのもとへ来なさい、聞きなさい、その時はあなたらの魂は生きるでしょう、かくてわたしはあなたたちと永遠の契約を結び、実にダビデの確かな慈悲をすら結びましょう。見なさい、わたしは彼を諸々の民の証、諸々の国民の君、立法者として与えました(イザヤ55・3、4)。

 

あなたらの尋ねる主は不意にその神殿に来られるでしょう、あなたの求める契約の天使は、見なさい、彼は来られる(マラキ3・1)。

 

かれはわたしのために永遠の契約を立てられた、これは凡ての者のために処理されて、守らねばならないものである(サムエル記後23・5)。

 

 

 

天界の秘義6804〔4〕

 

 これらの記事には主が明らかに取扱われており、また人類が主の神的な人間的なものを通して主の神的なもの〔神性〕それ自身と連結することが取扱われているのである。主はその神的な人間的なものの方面で調停者であられ、そしてたれ一人御子、即ち、神的な人間的なものを通さなくては、主の中に在って、御父と呼ばれている神的なもの〔神性〕それ自身のもとへ来ることは出来ないことは教会に知られている。かくて主はその神的な人間的なものの方面でその連結となられているのである。たれかいかような思考を働かせて神的なものそれ自身を把握することが出来ようか。しかしたれでも神的な人間的なもの〔神の人間性〕を思考の中で把握して、愛の中に「それ」と連結することが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義6804〔5〕

 

『契約』は連結を意味していることは、王国の間に結ばれる契約から、即ち、その契約により王国は共に結合され、そしてその連結が破られないために、各々の側に、守らなくてはならない規定があることから認めることが出来よう。これらの規定または約定もまた『契約』と呼ばれている。聖言で『契約』と呼ばれている規定または約定は、人間の側では、狭い意味では、十の戒め、または十戒であり、広い意味では、主がシナイ山からモーセを通して命じられた凡ゆる法令、戒め、律法、証言、教訓であり、更に広い意味では、モーセの書であって、その内容はイスラエルの子孫の側で守らねばならなかったのである。主の側ではその『契約』は慈悲と選択である。

 

 

 

天界の秘義6804〔6〕

 

「十の戒め、または十戒は『契約』であること」は以下の記事から明白である―

 

 

 

天界の秘義6804〔7〕

 

「主がモーセを通してイスラエルの民に命じられた凡ゆる掟と法令とは、モーセの書そのものと同じく、『契約』と呼ばれたこと」は以下の記事から明白である―

 

 

 

天界の秘義6804〔8〕

 

「『契約』は愛と信仰とを通して連結することを意味していること」は以下の記事から明白である―

 

 

 

天界の秘義6804〔9〕

 

エゼキエル書には、

 

 

 

天界の秘義6804〔10〕

 

「主の側の契約の約定は慈悲と選択であること」は以下の記事に明白である―

 

 

 

天界の秘義6804〔11〕

 

「契約のしるしもまた表象的な教会の中に存在したのであり」、連結を思い出させるものであった。割礼はそうしたしるしであったのである(創世記17・11)。なぜなら『割礼』は汚れた愛から清められることを意味し、それが除かれると、天界的な愛が徐々に注がれて、その愛を通して連結が生れるからである。安息日もまた『永遠の契約』と呼ばれているのである(出エジプト記31・16)。供えのパンをイスラエルの子孫は永遠の契約としなくてはならない(レビ24・8)とも言われ、特に以下の記事から明白なように、『血』もその契約としなくてはならないとも言われているのである―

 

 モーセは契約の書を取って、民の耳に聞える辺りで読んだ、民は言った、エホバが語られたことは凡て私たちは為し、また聞きましょう、と。次にモーセは平安の生贄の血を取り、民に振り掛けて、言った、見なさい、エホバがこの凡ての言葉についてあなたらと結ばれた契約の血を(出エジプト記24・7、8)。

 

 あなたの契約の血によりわたしは水の無い坑から囚われた者を解き放ちましょう(ゼカリア9・11)。

 

血は契約であり、また契約のしるしであった、なぜならそれは霊的な愛を通して、即ち、隣人に対する仁慈を通して連結することを意味したからである、それで主は聖餐を制定された時、その血を『新しい契約の血』と呼ばれたのである(マタイ26・28)。この凡てから聖言の『契約』によりその内意に意味されていることを今や認めることが出来よう。

 

 

 

2.虹

 

天界の秘義868[2]

 

それ故人間に固有な生命は悪と誤謬とが廃棄される程に決して振り落とされることはできない底のものであるからには、主は人間を再生させられつつも、神的慈悲から、試練を通して人間の幾多の悪と誤謬とを征服され、かくてそれらのものは死んではいないけれど、死んでいるかのように見えるが、しかしそれらは主から発している善と真理とに反抗して戦うことが出来ない程に征服されているに過ぎないのである。主はまた同時に試練を通して人間に、幾多の善と真理とを受ける新しい能力を与えられるが、それは彼に善と真理の幾多の観念とまた善と真理とを求める情愛とを与えられてそれに悪と誤謬とがたわめられることにより行われるのであり、また彼の全般的なものの中に(この全般的なものについては前を参照されたい)個別的なものを挿入し、その個別的なものの中に単一的なものを挿入されることにより為されるのである、これらのものは人間の中に貯えられるが、人間はそれらのもについては何事も知っていないのである、なぜならそれらのものは人間に把握され、認識される領域の内部の深い所に存在しているからである。これらのものは容器または器として役立つ性質のものであり、かくて仁慈は主によりそれらのものの中へ植えつけられることが出来、また仁慈の中へ無垢が植えつけられることが出来るのである。それらのものが人間と霊と天使とのもとで驚くべき方法で調合されていることにより一種の虹が表わされることが出来るのであって、こうした理由から虹は契約のしるしとなされたのである(9章12節から17節まで)、このことについては主の神的慈悲の下にその章の下で話すことにしよう。人間がこのようにして形作られたとき、彼は再生したと言われる、彼の幾多の悪と誤謬とは依然残ってはいるもののそれでも同時に彼の幾多の善と真理はことごとく保存されているのである。悪い人間のもとでは、その凡ての悪と誤謬とは、丁度その者がそれらのものを身体の生命の中で持っていたままに、他生でも帰ってきて、奈落の幻想と刑罰とに変化するのである。しかし善い人間のもとでは、友情の、仁慈の、また無垢の状態といった彼の善と真理の状態はことごとく他生で思い出され、その状態の歓喜と幸福とともに合して、そこに無限に拡大し、増大するのである。それ故これらの事が水が乾くことにより意味されており、それは幾多の誤謬が明らかに消散することである。

 

 

 

天界の秘義1042

 

 「わたしはわたしの虹を雲の中においた」(創世記9・13)。これは再生した霊的な人間の状態を意味しており、その状態は虹に似ているのである。虹は雨滴の中に日光の光線が変化して、そこから生まれる外観[現象]以外の何ものでもなく、かくて自然的な物に過ぎないで前に言ったばかりの教会における契約の他のしるしには似ていない以上、『雲の中の虹』が、または虹が聖言では契約の印として考えられることにはたれしも奇異の感を覚えられるであろう。そして『雲の中の虹』は再生を表象しており、再生した霊的な人間の状態を意味していることは、その実情のいかようなものであるかを認め、そこからそのことを知ることを許されない限りは、たれにも知られることは出来ないのである。霊的な天使たちは、彼らは凡て霊的な教会の再生した人間であるが、他生でそうした者として目に示されるときは、頭に虹のようなものを着けて現れるのである。しかしその目に見えるその虹は彼らの状態に一致しており、かくてその虹から彼らの性質は天界と霊たちの世界に知られるのである。虹の外観が見られるという理由は彼らの霊的なものに相応した彼らの自然的なものはそのような外観を示すということである。それは主から発した霊的な光が彼らの自然的なものの中に変化したものである。この天使たちは『水と霊』で再生すると言われる者であるが、天的な天使たちは『火で』再生すると言われている。

 

 

 

 

3.新しい契約について私の民に伝えなさい(ヴァッスーラ)

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P160

 

 ああ・・・ヴァッスーラ、どれほどこの時代を深くうれいているか。 荒野にいる彼らに手を伸ばし、そのしおれた霊魂を生き返らせようと やって来た、だが私の救いの手が 全く見えないようだ・・・来なさい、心やさしい娘よ、私の名によって預言し 新しい契約について私の民に伝えなさい、私ども二つの心が槍でつらぬかれる日が再び来ると。 敵は我が聖所、祭壇と聖櫃を荒らし 彼らの死にいたる忌むべきものを打ち立てよう。 国ぐにが存在しはじめて以来 比類ないほど大きな悲嘆の時代が来る。 彼らは力と陰謀によって我が家を襲う。 反逆はすでに進行しているが、おもて立ってはいない、そして反逆者が おおやけに我が聖所を冒涜するには、それを抑えている人をまず取り除くしかない。 ああ 反逆者のおだてに乗って なんと多くの人が倒れよう!しかし私自身の者たちは足場をゆずらず、むしろ、私のためにいのちを投げ出す。目に涙して、言っておく:「あなた方は、我が民よ、火によってこの侵入者に試されよう・・・」彼の包囲網はすでに世界を包囲しかかっている。

 

 ライオンはねぐらを離れた・・・このたびは聴いて理解しなさい:侵入者は学者、この学者たちは野獣につき従い 私の神性、復活と我が伝統を否定する。 彼らは聖書でこう言われている者たち:「お前の心は高慢になり、そして言った。<私は神だ。私は海のまん中にある神々の住み家に住まう>と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ自分が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ・・・」(エゼキエル書28・1−2)今日、娘よ、私は封印されていたこれらの秘密を 書きおろすことのできる心、二心ない心を見いだした、その秘密は今や必ず成就するがゆえ。