契約連結洪水

 

 

 

創世記9・12−17

 

更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 

 

 

天界の秘義868

 

 「水が地から乾ききるまで。」これは幾多の誤謬が明らかに消散したことを意味することは人間が再生しつつある間のその状態から明白である。現今だれでも幾多の悪と誤謬とは再生の間に全く分離されて廃棄され、かくて人間は再生すると、悪も誤謬も何ら止まっていないで、水に洗われ清められた者のように清潔になり、義しいものになると信じている。しかしながらこの考えは全く誤っている、なぜなら悪はまたは誤謬は一つとして廃棄される程に振り落とされることは出来ないで、幼い頃から遺伝的に取得されて、行為と業により獲得されたものは何であれことごとく残っており、かくて人間は再生しているにもかかわらず―死後の霊魂たちにありのままに示されているように―悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことの真理は以下のことを考察することから充分に明白となるであろう、すなわち主から発しなくては人間の中には善は何一つ無く、真理も何一つ無く、悪と誤謬はことごとく人間自身のものから発して人間のものであり、人間は、霊は、また天使でさえも、もし些かでもその者自身に委ねられるならば、自分自身から地獄へ突入してしまい、それ故また聖言には天界も純潔でないと言われているのである。このことは天使たちによっても承認されており、それを承認しない者は天使たちの間にいることは出来ない。彼らを地獄から解放し、彼らを地獄から引き出しさえもし、彼らを彼ら自身からそこに突入させないものは主の慈悲のみである。彼らは主により地獄へ突入しないように止められていることは天使たちにより明白に認められており、ある程度良い霊たちによってすら認められている。しかしながら悪霊らは、人間のように、そのことを信じていないが、しかしそのことはしばしば彼らに示されているのである。このことについては今後経験から主の神的慈悲の下に述べよう。

 

 

 

天界の秘義868[2]

 

それ故人間に固有な生命は悪と誤謬とが廃棄される程に決して振り落とされることはできない底のものであるからには、主は人間を再生させられつつも、神的慈悲から、試練を通して人間の幾多の悪と誤謬とを征服され、かくてそれらのものは死んではいないけれど、死んでいるかのように見えるが、しかしそれらは主から発している善と真理とに反抗して戦うことが出来ない程に征服されているに過ぎないのである。主はまた同時に試練を通して人間に、幾多の善と真理とを受ける新しい能力を与えられるが、それは彼に善と真理の幾多の観念とまた善と真理とを求める情愛とを与えられてそれに悪と誤謬とがたわめられることにより行われるのであり、また彼の全般的なものの中に(この全般的なものについては前を参照されたい)個別的なものを挿入し、その個別的なものの中に単一的なものを挿入されることにより為されるのである、これらのものは人間の中に貯えられるが、人間はそれらのもについては何事も知っていないのである、なぜならそれらのものは人間に把握され、認識される領域の内部の深い所に存在しているからである。これらのものは容器または器として役立つ性質のものであり、かくて仁慈は主によりそれらのものの中へ植えつけられることが出来、また仁慈の中へ無垢が植えつけられることが出来るのである。それらのものが人間と霊と天使とのもとで驚くべき方法で調合されていることにより一種の虹が表わされることが出来るのであって、こうした理由から虹は契約のしるしとなされたのである(9章12節から17節まで)、このことについては主の神的慈悲の下にその章の下で話すことにしよう。人間がこのようにして形作られたとき、彼は再生したと言われる、彼の幾多の悪と誤謬とは依然残ってはいるもののそれでも同時に彼の幾多の善と真理はことごとく保存されているのである。悪い人間のもとでは、その凡ての悪と誤謬とは、丁度その者がそれらのものを身体の生命の中で持っていたままに、他生でも帰ってきて、奈落の幻想と刑罰とに変化するのである。しかし善い人間のもとでは、友情の、仁慈の、また無垢の状態といった彼の善と真理の状態はことごとく他生で思い出され、その状態の歓喜と幸福とともに合して、そこに無限に拡大し、増大するのである。それ故これらの事が水が乾くことにより意味されており、それは幾多の誤謬が明らかに消散することである。

 

 

 

天界の秘義1042

 

 「わたしはわたしの虹を雲の中においた」(創世記9・13)。これは再生した霊的な人間の状態を意味しており、その状態は虹に似ているのである。虹は雨滴の中に日光の光線が変化して、そこから生まれる外観[現象]以外の何ものでもなく、かくて自然的な物に過ぎないで前に言ったばかりの教会における契約の他のしるしには似ていない以上、『雲の中の虹』が、または虹が聖言では契約の印として考えられることにはたれしも奇異の感を覚えられるであろう。そして『雲の中の虹』は再生を表象しており、再生した霊的な人間の状態を意味していることは、その実情のいかようなものであるかを認め、そこからそのことを知ることを許されない限りは、たれにも知られることは出来ないのである。霊的な天使たちは、彼らは凡て霊的な教会の再生した人間であるが、他生でそうした者として目に示されるときは、頭に虹のようなものを着けて現れるのである。しかしその目に見えるその虹は彼らの状態に一致しており、かくてその虹から彼らの性質は天界と霊たちの世界に知られるのである。虹の外観が見られるという理由は彼らの霊的なものに相応した彼らの自然的なものはそのような外観を示すということである。それは主から発した霊的な光が彼らの自然的なものの中に変化したものである。この天使たちは『水と霊』で再生すると言われる者であるが、天的な天使たちは『火で』再生すると言われている。

 

 

 

天界の秘義1042[2]

 

自然的な色彩については、色彩が存在するためには何かくらい、また明るいものが、または黒い、白いものが必要である。太陽の光線がその上に落ちると、その暗いものと明るいものに、または黒色と白色とにより色々と和らげられるに応じ、その流れ入ってくる光線が変化することから、色彩が生まれ、そのあるものは暗色と黒色とを多く、あるものはそれを少なく、あるものは明るい色と白色とを多く、あるものはそれを少なく帯びて、そこから色彩の多様性が生まれているのである。それに比較して言うと、霊的なものでも同一である。その場合暗いもの[暗色]は人間の知的な部分の人間自身のものであり、または誤謬であり、黒いもの[黒色]は人間の意志の部分の人間自身のものであり、または悪であり、それらは光線を吸収し、消滅させてしまうのである。しかしその明るいものと白いものとはその人間が自分自身で行ったのであると想像している真理と善であって、そうした真理と善とはそれ自身からその光線を反射し、送りかえすのである。これらのものの上に落ちて、いわばそれらを修正する光線は主から、知恵と理知の太陽から発しているものとして発している、なぜなら霊的な光線はそれ以外のなにものでもなく、またそれ以外の源泉からは発していないからである。再生した霊的な人間にかかわるものが他生で目に示されるとき、それが雲の中の虹のように現れるのは、自然的なものが霊的なものに相応しているためであって、この虹は彼の霊的なものの中に表象しているものである。再生した霊的な人間には理解の人間自身のものが在り、この中へ主は無垢と仁慈と慈悲を徐々に注ぎ込まれる。これらの賜物をその人間が受ける度に応じて、その者の虹の外観も、それが目に示されるとき、変化しており、その者の意志のその者自身のものが遠ざけられ、征服され、服従する度に比例して美しくなっているのである。

 

 

 

天界の秘義1043

 

 『雲』は、霊的な人が天的な人に比較されたさい、その人がその中におかれている明確でない[うすぐらい]光を意味していることは『虹』について今し方言われたことから明白である。なぜなら虹は、または虹の色彩は雲の中でないかぎり、何処にも存在しないからである。前に言ったように、色彩に変化するものは、太陽の光線がさし通る雲の暗さ[暗い色]であり、かくて色彩は光線の輝きにより触れられる暗さ[暗いもの]に応じている。霊的な人間の場合も同一である。彼にあっては、ここに『雲』と呼ばれている暗さ[暗いもの]はその者の理解のその者自身のものと同一である誤謬である。主によりこの自分自身のものの中へ無垢、仁慈、慈悲が徐々に注ぎ込まれると、そのときはこの雲はもはや誤謬としては現れないで、主から発した真理とともになって、真理の外観として現れるのである。ここから色彩を持った虹に似たものが発してくるのである。そこには一種の霊的な修正が行われるが、それは決して説明することの出来ないものであり、それが色彩とその起原により人間から認められない限り、どのようにしてそれを人間に理解できるように説明することができるかを私は知らないのである。

 

 

 

天界の秘義1043[2]

 

再生した人間におけるこの『雲』の性質は再生以前の彼の状態から見ることが出来よう。人間はその者が信仰の諸真理であると考えるものを通して再生するのである。人間各々は自分の教義が真であると考え、そこから良心を得ており、そうした理由から彼が良心を得た後は、信仰の諸真理として、彼に印刻されたものに反して行動することは彼には良心に反したことになる。再生した人間はことごとくそうしたものである。なぜなら多くの者は主により凡ゆる教義の中に再生するのであって、彼らは再生すると、何ら直接的な啓示を受けないで、単に聖言と聖言の宣教とを通して彼らに徐々に注ぎ込まれるもののみを受けるからである。しかし彼らは仁慈を受けるため、主は仁慈を通して彼らの雲の上に働きかけられ、そこから光が発生するのであって、それは太陽が雲に射し込むと、雲はそのときさらに明るくなって、多様な色彩を帯びるのに似ているのである。かくてまたその雲の中に虹に似たものが現れてくるのである。雲が稀薄であればある程、すなわち、それを構成しているところの信仰の諸真理の入りまじったものが多数であればあるほど、その虹は益々美しくなるのである。しかしその雲が濃厚であればあるほど、すなわち、それを構成している信仰の諸真理が少なければ少ないほど、その虹は益々美しくなくなるのである。無垢はその美を非常に増大させ、その色彩にいわば生きた光輝のようなものを与えている。

 

 

 

天界の秘義1043[3]

 

真理の外観はことごとく雲であり、人間は聖言の文字の意義の中にいるときは、その中にいるのである。しかし彼が単純に聖言を信じ、仁慈を持っているときは、その者はたとえ外観の中に止まっているにしてもこの雲は比較的稀薄である。教会の内にいる人間のもとで、良心が主により形作られるのはこの雲の中である。真理の無知[真理を知らないこと]もまたことごとく雲であり、その雲の中に人間は信仰の真理の何であるかを知らないとき、おかれており、全般的には、聖言の何であるかを知らないとき、おかれており、まして主について聞いたことのない時はさらにその中におかれているのである。この雲の中に良心が教会の外にいる人間のもとにも主により形作られるのである。なぜならその者の無知そのものの中にさえも無垢が在り、かくて仁慈が在りうるからである。凡ゆる誤謬もまた雲である。しかしこれらの雲は暗黒であってそれは―他の所で記したところの―誤った良心を持った者たちか、何ら良心を持っていない者か、その何れかの者のもとに在るのである。これらが、全般的に、雲の性質である。その雲の大きさについては、もし人間がそれを知ったなら、光線が主からさし通すことができて、人間が再生することができるということを怪しむほどにも大きな、またあつい雲が人間のもとに在るのである。自分自身には雲はほとんどないと考えている者が時としては非常に大きな雲を持っており、自分には非常に多くの雲があると信じている者には雲が少ないのである。

 

 

 

天界の秘義1043[4]

 

霊的な人間にはこのような雲が在るが、天的な人間にはそれ程大きい雲は存在していない、それは彼はその意志の部分の中に主に対する愛を植えつけられており、それで彼は主から霊的な人間が受けるような良心を受けないで、善の認識を受け、またそこから真理の認識を受けているためである。人間の意志の部分が天的な焔の熱線を受けることができるようなものである時、彼の理知的な部分はそれにより明るくされ、かくて彼は愛から信仰の諸真理である事柄をことごとく知り、認めるのである。かくて彼の意志の部分は小さな太陽に似ており、そこから熱線がかれの理知的な部分に輝き入るのである。かくのごときが最古代教会の人であった。しかし人間の意志の部分が全的に腐敗し、奈落的なものとなり、それゆえ良心である新しい意志が彼の理知的な部分に形成されたとき(古代教会の再生した人間各々の場合がそうであったが)その者の雲は厚いのである。なぜなら彼は善い、真のものを学ばなくてはならず、それがそうしたものであるか否かを何ら認識していないからである。その時はまた(雲の暗黒であるところ)誤謬が絶えず彼の黒い意志の部分から、すなわち、それを通して地獄から流れ入ってくるのである。これが霊的な人間の中では理知的な部分が、天的な人間の中に明るくされるようには決して明るくされることが出来ない理由となっている。ここからここの『雲』は霊的な人間が天的な人に比較してその中に宿っている明確でない光を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義1048

 

「虹が雲の中に見られるであろう」。これは、それでも人間は再生することができるようなものであるとき、を意味していることは『雲の中の虹』の意義から明白であって、それは前に言ったように、再生のしるしであり、または再生を指示するものである。『雲の中の虹』についてはその実相はさらに以下のようである。人間の性質は、または身体の死後の霊魂の性質は直ちに知られている、すなわちそれは主により永遠から知られており、またそれが永遠に如何ようなものになるかも知られている。かれの性質は天使たちによりかれが近づくその瞬間に知られている。或るスフィア[霊気]がかれの性質からまたはかれの中の凡ゆる物から―いわば―発散しており、このスフィアは、驚嘆すべきことには、そこからその人間が如何ような信仰にまた如何ような仁慈にいるかを認められることができるといったものである。主がよしとされるとき、虹として見られるのはこのスフィアである。(このスフィアについては、主の神的慈悲の下に今後述べよう)。ここから雲の中に見られるときの虹によりここに意味されていることが明白である。すなわち、人間が再生できるとき、が意味されているのである。