洪水

 

 

ノアノアの箱舟

最古代教会内なる呼吸外なる呼吸

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.聖母から司祭へ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ54・10−15

 

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。

しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず

わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと

あなたを憐れむ主は言われる。

苦しめられ、嵐にもてあそばれ

慰める者もない都よ

見よ、わたしはアンチモンを使って

あなたの石を積む。

サファイアであなたの基を固め

赤めのうであなたの塔を

エメラルドであなたの門を飾り

地境に沿って美しい石を連ねる。

あなたの子らは皆、主について教えを受け

あなたの子らには平和が豊かにある。

あなたは恵みの業によって堅く立てられる。

虐げる者から遠く離れよ

もはや恐れることはない。

破壊する者から遠く離れよ

もはやそれがあなたに近づくことはない。

見よ、攻め寄せる者があっても

わたしによらずには何もなしえない。

攻め寄せる者はあなたの前に倒れる。

 

 

 

詩篇66・10―12

 

神よ、あなたは我らを試みられた。

銀を火で練るように我らを試された。

あなたは我らを網に追い込み

我らの腰に枷をはめ
人が我らを駆り立てることを許された。

我らは火の中、水の中を通ったが

あなたは我らを導き出して

豊かな所に置かれた。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義563

 

 このような信念が人間を占領すると、それは若しそうした信念に人間がとりつかれないならば残りのものとなる諸々の善と諸々の真理をねばねばする糊の中に抱き込んでしまう膠のようなものになり、その結果残りのものは最早貯えられることができなくなり、貯えられたものも用に立つことができなくなり、それでこれらの人々はそのような信念の絶頂に達した時、自分自身から進んで死滅してしまったのであり、洪水に似ていなくはない(悪と誤謬の)氾濫により窒息してしまったのである、それ故かれらの死滅は『洪水』にたとえられ、また最古代の人々の慣に従い、洪水として記されているのである。

 

 

 

天界の秘義586

 

「その心の思いの想像はことごとく日々悪であった」ことは、前に語り示しもしたように、以下の理由から、真理と善を何ら認識できなかったことを意味している、すなわち、かれらは信仰の諸々の教義的な物を己が汚れた諸々の欲念に浸してしまったが、そうしたことが起ると、凡ゆる認識は失われてしまってそれに代って恐るべき信念が続いておこり、すなわち、極めて根深い、恐るべき幻想がおこってそれがかれらの絶滅と窒息との原因となったのである。

 

 

 

天界の秘義607[2]

 

 しかし今も尚世には知られていないで、恐らく信じるに困難であることは、最古代教会の人々は内なる呼吸を持っていて、単に無音の外なる呼吸しか持っていなかったということである。かくて彼らはその後のように、また今日のように、言葉では余り多く語らないで、天使たちの観念[考え]によって語ったのである。この観念を彼らは眼つきと顔の、特に唇の無数の変化により表現することが出来たのである。唇には無数の連続した筋肉の繊維が在って、それらは現今は自由にされてはいないが、しかしかの時代の人々のもとでは自由になっていて、彼らは現在口で言う音声や言葉では言うのに一時間も要するものを一分間で表現することが出来る程にも、それらに[無数の唇の筋肉の繊維により]色々な考えを示したり、意味したり、表象したりすることが出来たのであり、しかもこのことを彼らは言葉により、または言葉を連続させて結合させることによって行うことが出来る以上にも完全に、また明白に行って、その場に居合わせている者たちに把握させ、理解させもしたのである。このことは恐らく信じ難いことのように見えるかもしれないが、それでもそれは真である。そしてそれと同じように語り、現在も語っている者が、この地球の者ではないが、他に多くいるのである。その者たちについては主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

天界の秘義607[3]

 

私はその内なる呼吸の性質とそれが時が経つに連れて如何ように変化したかを知ることが出来た。この最古代の人々は、彼らと同じ様に呼吸している天使達の持っているような呼吸を持っていたため、思考の深遠な観念の中にいて、記すことも出来ないような認識を持つことが出来たが、その認識をそれが真にあるがままに記すことが出来るにしても、それは把握することが出来ないため、信じられないであろう。しかし彼らの子孫の中にはこの内なる呼吸は徐々に終息し、恐るべき信念と幻想にとりつかれた者らのもとでは、それは彼らが思考のいかような観念もその最も下劣なものを除いては最早示すことが出来ない底のものとなり、その結果彼らは生き残ることが出来ないで、そのため凡ての者が絶滅してしまったのである。

 

 

 

天界の秘義608

 

 内なる呼吸が止んだ時ほとんど現今の外なる呼吸に似た呼吸が徐々にそれにつづいておこり、外なる呼吸とともに言葉の言語が起り、または思考の諸観念が決定づけられて生じたところの発音された音声の言葉が起ったのである。かくて人間の状態は全く変化し、もはや人間は類似の認識も持つことができなくなって、認識の代わりに良心と呼ばれてもよい他の種類の指示を持つようなものとなったのである、なぜならそれは認識と現今の或る者に知られている良心との間の一種の中間的なもの[媒介的なもの]であったけれど良心に似ていたからである。そしてこのような思考の諸観念の決定がおこった時、すなわち、思考の諸観念がこのように話される言葉に決定づけられることが起こった時、かれらは最早最古代の人のように内なる人を通して教えられることができなくなり、外なる人を通して教えられたのである。それ故最古代教会の啓示の代りに、教義的な物がつづいて起ったが、それは先ず外成る感覚により受け入れられることができて、そこから記憶の物質的な観念が形作られることができ、その物質的な観念から思考のいくたの観念が形作られ、それによりまたそれに従ってかれらは教えられたのである。ここから(最古代教会に)続いたこの教会は最古代教会の資質とは全く相違した資質を持ったのであるが、主がもし人類をこの資質に、またはこの状態に入れられなかったならば、何人も救われることができなかったのである。

 

 

 

天界の秘義660

 

『洪水』により悪と誤謬の氾濫が意味されていることは前に最古代教会の子孫について述べられていることから明らかである、すなわち彼らは醜悪な幾多の欲念に取り憑かれ、信仰の幾多の教義的なものをその中に浸してしまい、その結果真理と善を尽く消滅させる誤った信念を持つと同時に、残りのものに対する道を閉じてしまい、それが働きかけることも出来なくなってしまったため、彼らは彼ら自身を滅ぼさないわけにはいかなくなったのである。残りのものに対する道が閉ざされる時は、人間は最早人間ではなくなってしまうが、それは彼はもはや天使により守られることは出来なくなって、人間を破壊することのみを究め、欲求している悪霊らに全く取り憑かれてしまうためである。ここから洪水以前の人々の死が生まれたのであって、それが洪水により、または全的な氾濫により記されているのである。悪霊から流入する諸々の幻想と欲念とは洪水に似ていなくはなく、それでそれは聖言の色々な所に洪水または氾濫と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義662

 

 「地にある物はことごとく死滅するであろう。」これはかの教会に属して、このような性質になった者らを意味している。『地』は全世界を意味しないで、単に教会に属した者のみを意味していることは前に示した。かくてここには洪水が意味されてはおらず、まして全般的な洪水が意味されてはいないで、そこに生存した者らが残りのものから分離され、かくて真理に属した理解の諸々のものと善に属した意志の諸々のものとから分離され、それ故諸天界から分離された時、その者らは息が絶えてしまったことが、窒息してしまったことが意味されているのである。『地』は教会のある地域を意味し、それでそこに住んでいる者たちを意味していることは、既に引用した聖言の記事に加えて更に以下の記事からも確認することができよう。

 

 

 

天界の秘義705

 

ここに特に取扱われている主題は洪水であり、それにより『ノア』と呼ばれた教会の人間が再生することが出来る以前に受けねばならなかった試練のみでなく、再生することが出来なかった者の荒涼[荒れすさぶこと]が意味されている。試練と荒涼とは聖言では『洪水』または『氾濫』に譬えられて、そのように呼ばれている。イザヤ書には試練が意味されている―

 

 わたしはしばらくの間あなたを棄て去ったが、しかし大いなる憐れみをもってあなたを再び集めよう。怒りの氾濫の中に[怒りが溢れみなぎって]しばらくの間わたしはわが顔をあなたから隠したが、しかし永遠の慈悲をもってあなたを憐れもう、とあなたの贖い主エホバは言われる。これはわたしにはノアの洪水であり、彼に向ってわたしはノアの水を重ねて地の上に遍く流れさせはしないと誓った、それでわたしはあなたを怒り、あなたを咎めはしないと誓った。ああ苦しめられ、嵐に翻弄されて、慰められない者よ(イザヤ54・7−9、11)。

 

 これは再生することの出来る教会について、また『ノアの洪水』と呼ばれているその幾多の試練について言われている。

 

 

 

天界の秘義705[2]

 

主御自身も亦ルカ伝に試練を『大水[氾濫]』と呼ばれている―

 

 イエスは言われた、わたしのもとへ来て、わたしの言葉を聞き、それを行う者はたれでも、家を建てるにあたって(土を)堀り、深く掘り、岩の上に基礎を据えた人に似ている。氾濫[大水]が来た時、その流れがその家を打った。しかしそれを揺るがすことは出来なかった。その土台[基礎]は岩の上に置かれていたからである(ルカ6・47、48)

 

 試練がここに『氾濫[大水]』により意味されていることは何人にも明白であるに相違ない。荒涼も亦イザヤ書に示されている―

 

 主は強い多くの川の水を、アッシル[アッシリヤ]の王とその栄光の凡てを彼らの上にもたらされる。彼はその水路の凡ての上に立ち上がり、その岸の凡てを越えるであろう。彼はユダを通り過ぎるであろう。彼は氾濫し[溢れ流れて]通り過ぎるであろう。彼は首にまでも達するであろう(イザヤ8・7、8)。

 

 ここの『アッシリヤの王』は人間を荒れすさばせるところの、また、洪水以前の人々を荒れすさばせたところの幻想と誤謬の原理とそこから派生してくる理論とを表している。

 

 

 

天界の秘義705[3]

 

エレミヤ記には―

 

かくエホバは言われた。見よ、水が北から起って、氾濫する[溢れみなぎる]流れとなり、地とそれに満ちるものに、都とその中に住んでいる者の上に氾濫する[溢れみなぎる]であろう(エレミヤ47・2、3)。

 

 これはペリシテ人について語られ、ペリシテ人は誤った原理を取って、そこから霊的な事柄について論じる者を表しており、その論議は洪水以前の者らに氾濫したように、人間に氾濫するのである。聖言には試練と荒涼とが『洪水』または水の『氾濫』に譬えられて、そのように呼ばれている理由はその事情が類似しているということであって、その抱いている幾多の信念と誤った原理とをもって流れ入り、人間の中にそうしたものを掻き立てるのは悪霊であるのである。再生しつつある人間のもとでは、これらは試練であるが、しかし再生していない人間にあっては荒涼[荒れすさぶこと]である。

 

 

 

天界の秘義4423[2]

 

 そのときその古い教会のものであって、天界から遠ざかっている者たちはその内部の方面では一種の洪水の中におり、事実彼らはその頭も浸されている洪水の中にいるのである。この洪水は、その人間自身は身体の中に生きている間は認めはしないが、死後その中へ入って行くのである。他生ではこの洪水は明らかに密雲のように現れ、彼らはその雲に取り囲まれて、天界から引き離されているのである。この密雲の中にいる者らの状態は彼らが信仰の真理の何であるかを到底認めることは出来ないということであり、ましてやその善の何であるかを認めることは出来ないということである。なぜならその中に理知と知恵とが存在している天界の光はこの雲の中へ射し込むことは出来ないからである。これが剥奪された教会の状態である。

 

 

 

真の基督教567

 

彼らがかく呑み込まれ、水に浸された時、私は彼らの奈落に於ける運命を知ろうと願った。と、天界からの声が「貴方に見せ、また聞かせよう」と語った。と、彼らを蔽っていた水は消え去った。何故なら、霊界の水は相応であり、虚偽の中に在る者共を呑み尽くす様に見えるからである。

 

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1986.7.30

 

 それで、わたしは、わたしに奉献された愛する子らであるあなたたちに、世間から、毎日の心配から、また、被造物と、あなたたち自身への不純な愛着、そして中途半端な生活となまぬるさ、日毎に広がっていく無味乾燥から高く離れるようにと、招きます。

 天の母が、あなたたちの救いのために準備してあげた避難所にのがれなさい。それは、すでに襲いかかっている大嵐の恐ろしい日々を、わたしの汚れなき心の中で安全に過ごすことができるためです。

 わたしは、新約の箱舟ですから、わたしの中に非難するのは今です。

 ノアの時代、大洪水がはじまる前、この恐ろしい天罰をのりこえて生き長らえるように神が定めていた人々が箱舟に入りました。

 今のこの時代にも、わたしは、汚れなきこの心の中に作りあげた新約の箱舟に入るようにと、すべてのわたしの子らを招きます。それは、主の日の到来に先だって、わたしの子らが大きな試練の血まみれの重荷を耐えしのぶように、わたしの助けを受けられるためです。

 よそを見ないでください。昔の大洪水のあのときと同じようなことが今おこっているのです。それは、人々が待ちかまえているこの恐ろしい天罰のことを誰も考えないことです。

 だれもが、自分のことだけに、自分の世間的利益のことだけに、楽しみに、どんな方法を使っても自分の不純な邪欲を満足させることだけを考えるのに忙しいからです。