最古代教会

 

アダムエバエデンの園黄金時代

洪水内なる呼吸外なる呼吸知識の木の蛇

呼吸

 

 

 

1.最古代教会

2.人間

3.エデンの園

4.生命の木

5.認識

6.最古代教会の子孫の堕落の原因

7.イブ

8.最古代教会の人々は内なる呼吸を持っていた

9.最古代教会では彼らはいかような獣の肉も鳥の肉も決して食べないで、ただ種子のみを食べた

10.最古代教会の者たちは我々の時代の人間よりはるかに賢明であった

11.人間は自分たちは古代人よりも賢明であると信じている

12.彼らは内なる人であったため、内なる物のみを喜んだ、外なる物は単に眼で眺めたに過ぎないで、そこに表象されているものを考えた

 

 

 

 

1.最古代教会

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義4448

 

 最古代教会は天的なものであったため、主に対する愛の善の中におり、そこから凡ゆる真理を認識した。なぜなら、その教会の人たちはほとんど天使たちに似ており、天使たちと交流し、そこから彼らの認識が生まれ、それで彼らは信仰のいかような真理についても決して議論はしないで、ただ「それはそうである」としか言わなかったからであるが、それは彼らは信仰を口にすることすら欲しないで、代わって仁慈を口にした程にも信仰の真理を天界から認識した。(202,337,2715,2718,3446)

 

 

 

天界の秘義4489

 

 最古代教会の人たちはこの外なるものを顧みなかったのである。(祭儀)

なぜなら、彼らは内なる人たちであり、主は内なる道により彼らのもとへ流れ入られて、彼らに善いことを教えられたからである。

 

 

 

 

2.人[人間]

 

 

天界の秘義49

 

創世記第1章26節。「神は言われた、わたしたちは人間をわたしたちの像[映像]に、わたしたちの姿に似せて作り、かれらに海の魚、天の鳥、獣、凡ての地、地を這う凡ての物を治めさせよう、と」。主は最古代教会ではその教会の人々と面と面を会わせて語られたが、その際、主は人間として現われ給うたのである。このことに就いては多くの事を語ることが出来るが、今はその時ではない。そうした理由から彼らは主御自身と主に属したものを除いては誰も『人間』と呼ばず、また彼ら自身さえも『人間』と呼ばないで、ただ彼らが主から得ていると認めたところの―愛の凡ての善と信仰の凡ての真理といった―彼ら自身の中に在るもののみを『人間』と呼んだのである。そうしたものを彼らはそれが主のものであるため、『人間[]のもの』と呼んだのである。

 

 

 

天界の秘義49 []

 

かくて予言者の書の中には、『人間』と『人の子』により、その最高の意義では主が意味され、内なる意義では、智慧と理知が意味され、かくて再生した者各々が意味されているのである。例えば―

 

わたしは地を見たが、見よ、うつろで空しかった、天を見たが、光はなかった。わたしは見た、見よ、人はおらず、天の鳥は凡て飛び去っていた(4・23,25)。

 

イザヤ書には、『人[人間]』により、その内なる意義では再生した人物が意味され、その最高の意義では主御自身がただ一人の人間として意味されている―

 

イスラエルの聖者、それを形作られた方、エホバがこのように言われた、わたしは地を作り、その上に人間を創造った。わたしはまことにわたしの手をもって諸天を延べ拡げ、その凡ての軍勢に命じた(45・11,12)。

 

 

 

天界の秘義287

 

創世記2・20「その人はその妻の名をエバと呼んだ、彼女は生きたものの凡ての母であったためである」。その『人間(homo)』によりここでは最古代教会の人がまたは天的な人が意味され、『妻』と『生きたものの凡ての母』により教会が意味されている。彼女は第一の教会として、『母』と呼ばれ、生命そのものであられる主に対する信仰を持っていた結果、『生きたもの』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義288

 

 『人[人間]』により最古代教会の人がまたは天的な人が意味されていることは前に示したが、同時にまた主のみが人間であられ、主から天的な人間はことごとく、主の形に似ているため、人間となっていることも示した。かくて教会の会員は、例外なしに、または区別なしに、人間と呼ばれ、遂にはこの名前は身体が人間として現れている者を凡て獣から区別するために、その者に適用されたのである。

 

 

 

 

3.エデンの園

 

 

天界の秘義98

 

創世記2・8「神エホバはエデンの東の方に(ab oriente)庭園を設けられ、その形作られた人をそこにおかれた」。

『庭園』により理知が、『エデン』により愛が、『東』により主が意味され、従って『東の方のエデンの園』により主から愛を通して流れ入ってくる天的な人の理知が意味されている。

 

 

 

4.生命の木

 

 

天界の秘義102

 

創世記2・9「神エホバは見るに好ましい、食べるのに良い諸々の木を土地から生やし、また庭園の真中に生命の木、善と悪を知る木をはやされた」。『木』は認識を、『見るに好ましい木』は真理の認識[真理を認識すること]を、『食べるのに良い木』は善の認識を、『生命の木』は愛と愛から由来した信仰を、『善と悪を知る木』は感覚的なものから、すなわち単なる記憶知から得られる信仰を意味している。

 

 

 

 

5.認識

 

 

天界の秘義104

 

今日認識とは何であるかは知られていない。それは何かが真で善であるか否かに就いて主のみから発している或る内的な感覚であり、最古代教会には非常に良く知られていたのである。この認識は天使達には完全であって、それにより彼らは真で善いものに気づき、それを知り、主から発しているものと自分自身から発しているものとを知り、また自分たちに近づいて来る者の性質を、単にその者が近づいて来ることのみからでも、またその者の考えていることの只一つの考えからでも知るのである。霊的な人には認識はなくて、良心がある。死んだ人は良心さえも持っていない。大多数の者は良心とは何であるかを知っておらず、まして認識とは何であるかは知っていない。

 

 

 

天界の秘義495

 

 最古代教会は如何にして衰退したかは、認識とは何であるかが知られない限り明らかになることは出来ない。なぜならそれは現今では存在しないような認識する教会であったからである。教会の認識はその教会員が天使のように善で真のものを主から認識する点に在るのである、即ち、市民社会の善と真理とは何であるかを認識するよりも、主に対する愛と信仰の善と真理とは何であるかを認識する点にあるのである。生活により確認された信仰の告白から、認識の性質とは何であるかが明白となり、また認識が存在しているか、否かも明白となるであろう。

 

 

 

天界の秘義503

 

 最古代教会の認識能力は善い真のものを認識することに在ったのみでなく、善を行うことから起ってくる幸福と歓喜にも在ったのであり、善いことを行うことにおけるこうした幸福と歓喜がなくては、認識能力には生命は無いが、しかしそれはこのような幸福と歓喜とにより生命を受けるのである。最古代教会が享受したような愛の生命とまた愛から派生してくる信仰の生命は用を遂行している間の生命であり、即ち用の善と真理の中に在る間の生命である、即ち、用から、用により、また用に応じて生命が主により与えられるが、無用なものには生命は在り得ないのである、なぜなら無用なものは凡て棄て去られるからである。此の点では最古代の人々は主に似た形であり、それで認識する能力においては主の映像となったのである。認識能力は善で真のものを、従って信仰に属したものを知ることに在る。即ち、愛にいる者は知ることを歓ばないで、善で真のことを行うことを歓ぶのであり、即ち、役立つことを[用を行うことを]歓ぶのである。

 

 

 

天界の秘義1121

 

 私は最古代教会の子孫により、その者たちの認識の状態について以下のように告げられたのである、彼らはその交流している天使たちと殆ど同じく信仰に属した凡ゆるものを認識したが、それは彼らの内的な人がまたは霊が、また内なる呼吸により天界と結合しており、主に対する愛と隣人に対する愛とにそれが伴っているという理由によっていたのである。なぜなら人間はこうした愛から成っている天使たちの生命そのものを通して天使たちとこのように連結しているからである。彼らは以下のように言った、自分たちは主に対する愛と隣人に対する愛の中にいたため、律法を自分の中に書き記されており、そうした場合には、律法の規定するものはことごとく自分たちの認識に一致しており、律法が禁じるものはことごとくそれに相反しているのである。彼らはまた律法は凡て、その神的なものも、人間的なものも、主に対する愛と隣人に対する愛に基礎づけられ、そうした愛をその根元的なものとして認めているということも疑わなかったのである。それ故彼らは己が中にこの根元的なものを主から持っていたため、そこから発したものをことごとく知らないわけにはいかなかったのである。これらはまた、現今世に生きて、主を愛し、隣人を愛している者もまたその者の中に律法を記されており、地上の至る所でも、他生で主から受け入れられる市民であるように、(主から)受け入れられる市民であると信じているのである。

 

 

 

天界の秘義1122

 

 私は更に以下のように告げられた、即ち最古代教会の人々は極めて楽しい夢をまた幻を見ると同時にその意味していることも彼らに伝えられたのである。そこから彼らの楽園の表象物やその他多くのものが生まれたのである。それで地的なものであり、世的なものである外なる感覚の対象は彼らには無価値であり、彼らはまたその中に歓びを何ら認めないで、ただそれが意味し、表象しているものにのみ歓びを認めたのである。それで彼らは地的な対象を眺めた時、それについては全く考えないで、ただそれが意味し、表象しているものについてのみ考えて、そうしたものが彼らには極めて歓ばしいものであったのである、なぜならそれらは天界に存在するようなものであり、そこから彼らは主御自身を見まつるからである。

 

 

 

天界の秘義1123

 

 私は最古代教会の第三の世代の者たちと語り合ったが、彼らは以下のように言ったのである。即ち、自分たちは世に生きていた時、全人類を救われる主を期待していたのであり、当時自分たちの間では女の裔の方が蛇の頭を打ち砕かれるであろうと一般に言われていたのである。彼らはその時以来自分たちの生活の最大の歓びは子孫を生むことであり、それで自分たちの極めて甘美な楽しさは子孫のために自分たちの配偶者(つれあい)を愛することであり、それを自分たちは極めて歓ばしい楽しみ、最も楽しい歓びと呼んだのであると言い、更に以下のように言い加えたのである、即ち、こうした歓喜と楽しさを認識することは、主が生まれ給うことになっていたため、天界から注がれる流入から発したのである、と。

 

 

 

 

6.最古代教会の子孫の堕落の原因

 

 

天界の秘義126

 

創世記2・17「しかし善と悪の知識の木はあなたはそれを食べてはならない。あなたはそれを食べる日には必ず死ななくてはならない」。この言葉は今し方説明したばかりの言葉と共になって、主から発した凡ての認識により真で善い物を知ることは許されているが、しかし自己と世からそれを知ることは許されていない、即ち、私たちは感覚と記憶の事柄により諸々の秘義を探求してはならないことを意味している。なぜならそうした場合信仰の天的なものは破壊されるからである。

 

 

 

天界の秘義127

 

感覚と記憶に属した事柄により信仰の諸々の秘義を探求しようとする欲望は、次章に取り扱われているように、最古代教会の子孫の堕落の原因であったのみでなく、また凡ゆる教会の堕落の原因である。なぜならそこから誤謬のみでなく、生命の諸々の悪が発生してくるからである。

 

 

 

 

7.イブ

 

 

天界の秘義138

 

創世記2・18「神エホバは言われた、人間が独りでいるのは善くない。わたしは彼に彼と共にいるような助けるものを作ろう」。『独り(でいるのは善くない・・・訳注)』により彼は主によって導かれることに満足しないで、自己と世とにより導かれることを欲したことが意味され、『彼と共にいるような助け』により人間自身のもの[人間の固有性]が意味され、それは後に『女に組み立てられた肋骨』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義139

 

古代天的な人間として主の導きの下にあった者たちは『独りで住んでいる』と言われたが、それはこのような者たちは最早悪または悪霊にとりつかれて悩まされはしなかったからである。このことはまたユダヤ教会の内で、彼らが諸々の国民を放逐した際、独り住まったことにより表象されたのである。

 

 

 

天界の秘義151

 

創世記2・22「神エホバはその人から取った肋骨を女に組み立て、彼女をその人のもとに連れてこられた」。『組み立てる』ことにより堕落したものを引き上げることが意味され、『肋骨』により、生かされていない人間自身のものが意味され、『女』により主により生かされた人間自身のものが意味され、『彼女をその人のもとへ連れてこられた』により、彼自身のものであるものが彼に与えられたことが意味されている。この教会の子孫はその父祖のように、天的な人になることを望まないで彼ら自身の自己指導の下に在ることを願い、かくて彼ら自身のものに傾いたため、それが彼らに与えられはしたが、しかしそれは依然主により生かされた自分自身のものであって、それでそれは『女』と呼ばれ、後には『妻』と呼ばれるのである。

 

 

 

天界の秘義152

 

たれでも多少でも注意しさえするなら、女は男の肋骨から組み立てられはしなかったことを認めることが出来、またここには、これ迄人の知らなかった深いアルカナが意味されていることは認めることが出来よう。『女』により人間自身のものが意味されていることは、欺かれたのは女であったという事実から知ることが出来よう。なぜなら人間自身のものを除いては、またはそれと同一の、自己と世への愛を除いては何ものも人間を欺きはしないからである。

 

 

 

 

8.最古代教会の人々は内なる呼吸を持っていた

 

 

天界の秘義607[2]

 

 しかし今も尚世には知られていないで、恐らく信じるに困難であることは、最古代教会の人々は内なる呼吸を持っていて、単に無音の外なる呼吸しか持っていなかったということである。かくて彼らはその後のように、また今日のように、言葉では余り多く語らないで、天使たちの観念[考え]によって語ったのである。この観念を彼らは眼つきと顔の、特に唇の無数の変化により表現することが出来たのである。唇には無数の連続した筋肉の繊維が在って、それらは現今は自由にされてはいないが、しかしかの時代の人々のもとでは自由になっていて、彼らは現在口で言う音声や言葉では言うのに一時間も要するものを一分間で表現することが出来る程にも、それらに[無数の唇の筋肉の繊維により]色々な考えを示したり、意味したり、表象したりすることが出来たのであり、しかもこのことを彼らは言葉により、または言葉を連続させて結合させることによって行うことが出来る以上にも完全に、また明白に行って、その場に居合わせている者たちに把握させ、理解させもしたのである。このことは恐らく信じ難いことのように見えるかもしれないが、それでもそれは真である。そしてそれと同じように語り、現在も語っている者が、この地球の者ではないが、他に多くいるのである。その者たちについては主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

天界の秘義607[3]

 

私はその内なる呼吸の性質とそれが時が経つに連れて如何ように変化したかを知ることが出来た。この最古代の人々は、彼らと同じ様に呼吸している天使達の持っているような呼吸を持っていたため、思考の深遠な観念の中にいて、記すことも出来ないような認識を持つことが出来たが、その認識をそれが真にあるがままに記すことが出来るにしても、それは把握することが出来ないため、信じられないであろう。しかし彼らの子孫の中にはこの内なる呼吸は徐々に終息し、恐るべき信念と幻想にとりつかれた者らのもとでは、それは彼らが思考のいかような観念もその最も下劣なものを除いては最早示すことが出来ない底のものとなり、その結果彼らは生き残ることが出来ないで、そのため凡ての者が絶滅してしまったのである。

 

 

 

天界の秘義608

 

 内なる呼吸が止んだ時殆ど現今の外なる呼吸に似た呼吸が徐々にそれに続いて起り、外なる呼吸と共に言葉の言語が起り、または思考の諸観念が決定づけられて生じたところの発音された音声の言葉が起ったのである。かくて人間の状態は全く変化し、最早人間は類似の認識も持つことが出来なくなって、認識の代わりに良心と呼ばれてもよい他の種類の指示を持つようなものとなったのである、なぜならそれは認識と現今の或る者に知られている良心との間の一種の中間的なもの[媒介的なもの]であったけれど良心に似ていたからである。そしてこのような思考の諸観念の決定が起った時、即ち、思考の諸観念がこのように話される言葉に決定づけられることが起こった時、彼らは最早最古代の人のように内なる人を通して教えられることが出来なくなり、外なる人を通して教えられたのである。それ故最古代教会の啓示の代りに、教義的な物が続いて起ったが、それは先ず外成る感覚により受け入れられることが出来て、そこから記憶の物質的な観念が形作られることが出来、その物質的な観念から思考の幾多の観念が形作られ、それによりまたそれに従って彼らは教えられたのである。ここから(最古代教会に)続いたこの教会は最古代教会の資質とは全く相違した資質を持ったのであるが、主がもし人類をこの資質に、またはこの状態に入れられなかったならば、何人も救われることが出来なかったのである。

 

 

 

 

9.最古代教会では彼らはいかような獣の肉も鳥の肉も決して食べないで、ただ種子のみを食べた

 

 

天界の秘義56

 

29節、「神は言われた、見よ、わたしはあなたに凡ての地の面に在る種子を生む凡ての草を、果実を持つ凡ての木を、種子を生む木を与えよう。それをあなたの食物としなくてはならない。」

 天的な人は天的な物のみを喜び、それは彼の生命に適合しているため、天的な食物と呼ばれている。霊的な人は霊的な物を喜び、これは彼の生命に適合しているため、霊的な食物と呼ばれている。自然的な人も同様に自然的な物を喜び、それは彼の生命に属していて、食物と呼ばれ、主として記憶知から成っている。ここでは霊的な人が取り扱われているため、その霊的な食物は表象的なものにより記されており、例えば『種子を生む草』により記され、また全般的に『種子を生む木』と呼ばれる『果実のなる木』により記されている。彼の自然的な食物は次の節に記されている。

 

 

 

天界の秘義1002

 

 動物の肉を食べることは、それがそれ自身において観察されるならば、汚れたことである。なぜなら最古代教会では彼らはいかような獣の肉も鳥の肉も決して食べないで、ただ種子のみを食べたからである。特に小麦から作られたパンを、また木の実を、野菜を、種々の牛乳を、そうしたものから作られたものを、例えば色々な牛酪を食べたからである。動物を殺して、その肉を食べることは彼らには邪悪なことであり、野獣に似ていたのである。彼らは創世記1・29、30から明らかなように、動物からは仕事と用[益]とを得たに過ぎなかったのである。しかし時の経過とともに、人間が野獣のように凶暴になり実に野獣よりも凶暴にさえもなり始めると、始めて動物を殺して、その肉を食べ始めたのである。人間の性質はこのようなものになったため、こうしたことをすることが人間に許されたのであって、現在にも依然許されているのである。人間がそれを良心から行っている限り、その良心は彼が真であり、かくて合法的なものであると考えている凡ゆるものから形作られているため、それは彼には合法的なものとなっている。それ故現在ではたれでも肉を食べたということで罪に定められてはいないのである。

 

 

 

 

10.最古代教会の者たちは我々の時代の人間よりはるかに賢明であった

 

天界の秘

義6876[2]

 

 古代教会のものであった神的なものは神的な人間的なものの方面の主であり、古代教会はそのことを最古代教会から得たのであり、またエホバは彼らから人間の形の中に見られ給うたという事実から得たのである。それで彼らはエホバを考えた時は、普遍的な実在を考えないで―そうした実在を彼らは全く考えることは出来なかったのである―神的な人間的なものを考え、そこに彼らの思考を限定することが出来たのである、なぜならこのようにして彼らはエホバを考えもし、また愛によりエホバと連結することも出来たからである。古代教会に属した者たちは、特に最古代教会の者たちは我々の時代の人間より遥かに賢明であったものの、エホバを、その人間的なものは神的なものである人間としてしか考えることは出来なかったのであり、またその時は、自然的な人から、その弱さと悪から得られた醜い考えも一つとして彼らの心へ流れ入りはしなかったのであり、主について流れ入ったものはことごとく聖いものであったのである。天使たち自身も、知恵では人間に遥かに優ってはいるものの、神的なものをそれ以外のものとして考えることは出来ないのである、なぜなら彼らは神的な人間的なものの中に主を見ているからである。彼らは、天使が―そのもとでは凡ゆる物は有限であるため―有限なものに似たものによらなくては、無限なものを何ら考えることが出来ないことを知っているのである。

 

 

 

 

11.人間は自分たちは古代人よりも賢明であると信じている

 

 

天界の秘義6876[3]

 

 古代では彼らはエホバを人間的な神的なものの下に崇拝したことは、アブラハムにより、またその後ではロトにより、同じくヨシュアにより、ギデオンにより、マノアにより人間の形の中に見られた天使たちから非常に明白であり、その天使たちは『エホバ』と呼ばれて、宇宙の神として崇拝されたのである。現今もしエホバが人間として万が一にも教会内に現れたもうとするなら、人間は躓いて、かれは人間として見られるから、決して宇宙の創造者、主では有り得ないと考え、さらにかれを普通の人間としてしか考えようとはしないであろう。そうしたことで彼らは自分たちは古代人よりも賢明であると信じて、そうしたことで彼らは知恵から全く遠ざけられていることを知りはしないのである。なぜなら思考の観念が全く把握することの出来ない普遍的な実在に向けられる時、その観念は無に落ち込んで、全く消滅してしまい、代って自然の観念が現れて、それに一切の物が帰せられてしまうからである。そこから自然崇拝が現今とくに基督教世界に甚だしく行われているのである。

 

 

 

 

12.彼らは内なる人であったため、内なる物のみを喜んだ、外なる物は単に眼で眺めたに過ぎないで、そこに表象されているものを考えた

 

 

天界の秘義54

 

「彼らを男と女とに創造られた。」『男と女』の文字の意義は最古代教会には良く知られていたが、しかし聖言の内なる意義が彼らの子孫の間に失われてしまった時、このアルカナもまた滅んでしまったのである。彼らの結婚は幸福と歓喜の主要な源泉であり、結婚に比較することの出来る物をことごとく彼らはそれに譬えたが、それはそのことにより、その浄福を認めるためであった。彼らはまた内なる人であったため、内なる物のみを喜んだのである。外なる物は単に眼で眺めたに過ぎないで、そこに表象されているものを考えたのである。かくて多少なりと彼らにその思いを内なる物に向けさせ、内なる物から天的な物に向けさせ、かくして彼らの凡てである主に向けさせ、従って天界の結婚に向けさせる手段となり得る物を除いては外的な物は彼らには無価値なものであったのである―彼らは自分たちの結婚の幸福は天界の結婚から発していると認めたのである。それで彼らは霊的な人における理解を男と呼び、意志を女と呼び、これらが一つのものとして活動する時、それを結婚と読んだのである。その教会から慣習的なものとなった言葉の形式が生まれてきて、そのことにより教会そのものはその善を求める情愛から―『シオンの処女』『エルサレムの処女』といった―『娘』『処女』と呼ばれ、また『妻』とも呼ばれたのである。しかしこれらの主題については次章の23節、3章15節を参照されたい