エデンの園

 

1.聖書

 

 

 

 

1.聖書

 

イザヤ51・3

 

主はシオンを慰め

そのすべての廃虚を慰め

荒れ野をエデンの園とし

荒れ地を主の園とされる。

そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

 

 

 

詩篇100・4

 

感謝の歌をうたって主の門に進み

賛美の歌をうたって主の庭に入れ。

感謝をささげ、御名をたたえよ。

 

 

 

雅歌4・12

 

わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。

閉ざされた園、封じられた泉。

 

 

エゼキエル28・11−12

 

「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。

主なる神はこう言われる。

お前はあるべき姿を印章としたものであり

知恵に満ち、美しさの極みである。

お前は神の園であるエデンにいた。

あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶

かんらん石、縞めのう、碧玉

サファイア、ざくろ石、エメラル ド。

それらは金で作られた留め金で

お前に着けられていた。

それらはお前が創造された日に整えられた。

 

 

 

天界の秘義1588

 

「エホバの園のようであった」。これはその外なる人の合理的なものを意味していることは『エホバの園』の意義から明白であり、それは理知であり(100番参照)、従って内なる人と外なる人との間の媒介物[媒体]である合理的なものである。合理的なものは外なる人の理知である。合理的なものが天的なものであるとき、すなわちそれが最古代教会のもとでは天的な起源から発していたように、天的な起源から発しているときは、『エホバの園』という表現が用いられるのであり、そのことについてはイザヤ書に―

 

  エホバはシオンを慰めされるであろう、エホバはその荒れた所を凡て慰め、その荒地をエデンのようにその砂漠をエホバの園のようにされるであろう、その中に楽しさと喜びとが見出されるであろう、告白と歌声とが(見出されるであろう)(イザヤ51・3)。

 

 しかし『神の園』という表現は合理的なものが霊的なものであるときに、すなわち、それが古代教会では霊的な起源から発していたように、霊的な起源から発しているときに用いられている、そのことはエゼキエル書に話されている―

 

  あなたは知恵に満ち、美しさは完全であって、神の園エデンの中にいた(エゼキエル28・12,13)。

 

 人間の合理的なものは天界に示される表象的なものから、『園』にたとえられている。天的な霊的なものが主から人間の合理的なものの中へ流れ入ると庭園として現れるのが人間の合理的なものであり、そこから楽園さえも視覚に示されていて、それは壮麗と美しさにおいては人間の想像のあらゆる観念[考え]をも凌駕しているが、それは(前の1042、1043番に話された)主から流入してくる天的な霊的な光の結果である。これらの楽園の快い美しいものがそれを見る者の心を動かすものではなく、それはその中に生きている天的な霊的なものである。

 

 

 

 

.生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になること

 

 

 

結婚愛353

 

そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。

 

 

 

真の基督教48

 

この後彼らは紙を取り上げ、生命の木、善悪を知るの木、その木の実を食うことによって何が意味されるかという第三の質問の主題を読んだ。而して、彼ら凡ては東方から来た人々にこの秘義を、それは深い洞察を要する故、説明することを求めた。何故なら、東方から来た人々は燃ゆる光の中に、即ち、愛の知恵の中に在り、この知恵はその二本の樹の植えられているエデンの園によって意味されているからである。彼らは答えた。「我々は我々の見解を述べましょう。しかし人間は自分自身によっては何ものをも得ることが出来ないで、凡てを神から得ています故、我々は自分で語るかのように語りましょう。」次いで彼らは以下のように語った。「木は人間を意味し、その果実は生活の善を意味します。それ故、生命の木により、神によって生きる人間が意味されています。而して、愛と知恵、仁慈と信仰、或は善と真理は人間の内なる神の生命を構成します故、生命の木は神から来るそれらのものを持ち、かくして永遠の生命を持つ人間を意味しています。これと同一の事が食うことを許されている生命の木によっても意味しています(黙示録2・7と22・2、14)。善悪を知るの木は、人間は自らによって生き、神によって生きない、従って愛と知恵、仁慈と信仰、或は善と真理は自らのものであって、神のものではないという人間の信念を意味します。彼は外観的には全く自分によって考え、欲し、語りかつ行動します故に、このことを信じます。而して、人間は自らが神であると確信します故、蛇は「汝かの木の実を食う日には、汝の目開け、汝は善悪を知りて神の如くになるを神知りたまえり」(創世記3・5)と語りました。その木の実を食うことは受容と専有を意味します。即ち、「生命の木の実を食う」ことは永遠の生命を受容することを意味し、善悪を知るの木の実を食うことは永遠の死を受けることを意味します。蛇は、悪魔の自己への愛と自分自身の理知の誇りを意味しています。即ち、自己への愛がその木の所有者であり、自己愛の誇りに在る人間は凡てこのような木であります。それ故、アダムはこの信仰の故に呪われたのですから、非常に誤っております。これは彼が善悪を知るの木の実を食べたことによって意味されています。これが自らは自らによって賢くて憐れみ深いのではなく、それは神によるものであると信じる完全の状態から、彼が堕落した理由でした。何故なら、生命の木の実を食うことによってこのことが意味されているからです。世に在し給うた時、主御一人のみが御自分によって賢明であり、憐れみを持ち給うた。何故なら、神的なものそのものが彼の中に在り、生来彼のものであったからであり、それ故、彼は彼自身の力によって贖罪者、救い主となられました。」かくて彼らは以下の最終の結論に到達した。「生命の木、善悪を知る木、及びその木の実を食うことは、人間の生命は人間の中に宿る神であり、人間はかくて天界と永遠の生命を持つことを意味するが、しかし、神が人間の生命ではなく、人間が人間自身の生命であるという信念は、地獄と永遠の死或は堕地獄罪をもたらす恐るべき所信である。」

 

 

 

 

 

[U]「エデンの園に置かれた二本の木、生命の木と、善悪を知るの木とは霊的な事柄に於ける自由意志が人間に与えられたことを意味する」。

 

真の基督教466

 

 アダムとエバは最初に創造された人間ではなかったと、多くの者によって信ぜられている。この信念は或る古代の民族の間に見出される年代記と推測とに基づいており、またアダムの最初の子であるカインのエホバに対する言葉に由っている。「我は地の上を彷徨う者、逃げ走る者となり、凡て我に遭う者は我を殺さん。この故にエホバ カインに遭う者の彼を殺さざるために印を彼に置き給えり」(創世記4・14、15)その後、彼は「エホバの前より出で行き」ノドの地に住み、町を建てた(16、17)。この事から、彼らは地にはアダム以前に人が住まっていたと論ずるのである。然し、アダムとその妻とはこの地上の最古の教会を意味することは「天的秘義(アルカナ・コエレスティア)」の中に豊かに証明されている。そして、同書にエデンの園はその教会の人々の智慧を意味し、生命の木は人間に於ける主を、また主に於ける人間を意味し、善悪を知るの木は主に於ける人間ではなく、己が自己性に於ける人間を、例えば自らは凡ゆる物を、善なるものをさえ、自らによって為すと信ずる時のような、己が自己性に於ける人間を意味し、その木の実を食べるとは悪を己がものとすることを意味することが示されている。

 

 

 

 

真の基督教467

 

聖言では、エデンの園は何か特殊の庭園を意味しないで、理知を意味し、木は何か特殊の木を意味しないで、人間を意味する。エデンの園は以下の記事により明白である如く、理知と知恵を意味する「汝の知恵と理知によりて汝富を得、汝神の園、エデンにありき、汝は全く整えたる者の印、智慧の充ち、美の極れる者なり、諸々の宝石は汝を覆えり」(エゼキエル28・4、12−14)。これはツロの君、王につき語られ、彼について智慧が語られているのは、ツロは聖言では智慧に到達する手段である善と真理とに関する知識の方面の教会を意味し、彼を覆うた宝石は善と真理とに関わる知識を意味するからである。何故ならツロの君、王は決してエデンの園にはいなかったからである。更にエゼキエル書には、「アッシリアはレバノンの香柏のごとし。神の園の香柏はこれを覆うことあたわず、神の園の樹の中その美しきことこれに如くものあらざりき。されば神の園のエデンの樹はみなこれを羨めり」(31・3、8、9)。(中略)庭園のこの霊的な意義はその原因を霊界に於ける諸々の表象に持っている。何故なら天使たちが理知と知恵とを持っている所には庭園があるからである。彼の主から受ける理知と知恵は、かかる物を彼らの周囲に現出させるのであり、これは霊界に存在する凡ゆる物は相応によって生ずるからである。

 

 

 

真の基督教468

 

木は人間を意味することは、聖言の以下の記事によって明白である、「野の樹はみな我エホバが高き樹を卑しくし、低き木を高くし、緑なる樹を枯しめ、枯れ木を発芽せしめしことを知らん」(エゼキエル17・24)。「律法を喜ぶ者は幸いなり、彼は水流のほとりに植えし樹の期にいたりて実を結ぶ如くならん」(詩篇1・1−3、エレミヤ17・8)。「実を結ぶ樹よ、エホバをほめたたえよ」(詩篇148・9)。「主の樹々は飽き足るべし」(詩篇104・16)。「斧は樹の根に置かる、凡て善き果を結ばぬ樹は伐らるべし」(マタイ3・10、7・16−20).(後略)

 

 

 

真の基督教469

 

 アダムとエバの物語は霊的な事柄を含むことは賢い人は認め、または少なくとも推測するであろう。而して、聖言の霊的な意義が示されない中は、これらは知られることが出来なかった。二本の樹に霊的な意義がない限り、エホバはこれを庭の中に、その一本を躓きのために置き給わない事は明らかである。アダムとその妻がその木の実を食ったために呪われたことも神の公正に一致しないし、その呪いが彼らの凡ての子孫につきまとい、かくて全人類が何らの肉の欲念やまた心の邪悪から生じたものでない過失のために、断罪されねばならぬことも神の公正に一致しない。先ず、何故にそこに在し給うたエホバは彼がその木の実を食うのを妨げ給わなかったのか。何故に、蛇が彼を説得する前にこれを地獄に投じ給わなかったのか。しかし、親愛なる読者よ、これは、人間を獣から区別する、その自由意志を取り去ることであったから、神はこれを為し給わなかったのである。一は生命の木であり、他は死の木であるその二本の木は、霊的な事柄に於ける人間の自由意志を表している。更に、遺伝悪は悪への己が傾向を子孫に伝える両親から発している。このことは子供たちの、実に共通の祖先から出ている全家族の作法、気質、容貌を注意深く観察する者に明らかであろう。にも拘らず一家族内の各々はその遺伝悪に屈するか、或はこれに抵抗するか、その何れを選ぶかは自由である。何故なら、各人は彼自身の自由意志に委ねられているからである。生命の木と善悪を知るの木の特殊の意義は、記憶すべき事柄(48番)に詳細に説明されている故、読者はそれを参照されたい。

 

 

 

真の基督教520

 

凡ゆる人間は悪の傾向をもって生まれる故に母の胎にいる時から、悪以外の何ものでもないことが教会内に良く知られている。何故なら、諸々の会議と種々の教会の管長たちは、アダムの罪はその凡ての子孫に伝えられており、この理由のみによって、その凡ゆる子孫は生来その最初の呪詛の中に含まれていると宣言してきたからである。更に、他の幾多の教義がその宣言の上に基礎づけられている。例えば、潔め即ち再生の洗礼はその罪を除去するために主によって定められた、これが主の降臨の原因であった、主の功績に対する信仰はそれを除去する手段である等の教義である。しかし、上述したように(466番以下)この起原からは何らの遺伝的な悪も生じて来なかったし、またアダムは人間の最初ではなかったのである。彼と彼の妻とはこの地上の最初の教会を意味し、エデンの園はその知恵を意味し、生命の木は、来たり給う主を見上げることを、善悪を知るの木は、主の代わりに自己を見ることを意味している。最古代の教会が創世記の最初の数章に象徴的に示されていることは「天界の秘義」の聖言から証明されている。凡てこの事はアダムの罪は人間の遺伝悪の起原であると想像することの誤謬を示している。自由意志に関する章に、生命の木と善悪を知るの木とは凡ゆる人間の中に在り、両者がエデンの園の中に在ったことは、主に向かうか、或はこれに背を向けるか、その何れかを為し得る人間の自由意志を意味することが示されている。

 

 

 

 

神の愛と知恵117

 

従ってアダムはアダム自身のものから賢明になり、愛しようと欲したとき、知恵と愛から落ち、楽園から追放されたからである。

 

 

 

神の摂理241

 

「人類の中最も賢明なアダムとその妻は自分自身が蛇に誘惑されるのを許したが、神はこれを神的摂理により妨げられなかった」。

 

 

 

 

 

 

神の摂理313

 

 自分自身の深慮を信じる者と自分のものでない深慮を信じ、それゆえ神的摂理を信じる者の性格は、一は生命の木であり、他は善悪を知る木の二本の木の在ったエデンの園のアダムとその妻イヴにより、また彼らがその後の木の実を食べたことにより、聖言に記されている。アダムとその妻イヴにより、その内的なまたは霊的な意義ではこの地上の主の最古代教会が意味され、また示されており、これはその後これにつづいて起った諸教会よりも高貴で、天的であったことは前に(241)見ることができよう。他の物の意義は以下のようである、エデンの園はその教会の人々の知恵を意味し、生命の木は主の神的摂理を意味し、知識の木は人間自身の深慮を意味し、蛇は人間の感覚的部分または自己性を意味し、それは本質的には自己への愛であり、自分自身の理知の誇りであり、それゆえ悪魔であり、悪鬼である。知識の木の実を食うことは善と真理とを主から発しないものとして、それゆえ主のものでないものとして、即ち人間から発し、人間のものとして自分のものとすることを意味している。そして善と真理とは人間の許に現存する神的なものであるため―なぜなら善は愛の凡ての物を、真理は知恵の凡ての物を意味するから―それ故もし人間はこれらのものを自分自身のものとして要求するならば、彼は自分が神のようなものであると信じざるを得ない。これが蛇が『あなたがこれを食べた日には、あなたの眼は開いて、善を知り、神のように生きるでしょう』と語った理由である(創世記3・5)。これは自己愛に、従って自分自身の理知の誇りに居て地獄に住む者らの信念である。蛇を罪に定めることは自分のものとして要求される愛と理知とを罪に定めることを意味し、イヴを罪に定めることは意志の自己性を罪に定めることを意味し、アダムを罪に定めることは理解の自己性を罪に定めることを意味する。地が彼のために生む茨と薊とは全き誤謬と悪とを意味し、楽園から追放されることは知恵の剥奪を意味している。生命の木に通じる道を警備することは聖言と教会の聖い物を冒涜させまいとする主の配慮を意味し、彼らがその裸身を隠すために用いた無花果の葉は彼らの愛と誇りとを隠した道徳的真理を意味し、彼らがその後身につけた皮衣はそれのみしか彼らの持たなかった真理の外観を意味している。これがそれらの物の霊的な意味である。字義に止まりたいと欲する者はそこに止まられよ、しかしそれは天界ではこのように理解されていることを知られよ。