内なる呼吸
天界の秘義607[2]
しかし今も尚世には知られていないで、恐らく信じるに困難であることは、最古代教会の人々は内なる呼吸を持っていて、単に無音の外なる呼吸しか持っていなかったということである。かくてかれらはその後のように、また今日のように、言葉では余り多く語らないで、天使たちの観念[考え]によって語ったのである。この観念をかれらは眼つきと顔の、とくに唇の無数の変化により表現することができたのである。唇には無数の連続した筋肉の繊維が在って、それらは現今は自由にされてはいないが、しかしかの時代の人々のもとでは自由になっていて、かれらは現在口で言う音声や言葉では言うのに一時間も要するものを一分間で表現することができるほどにも、それらに[無数の唇の筋肉の繊維により]色々な考えを示したり、意味したり、表象したりすることができたのであり、しかもこのことをかれらは言葉により、または言葉を連続させて結合させることによって行うことができる以上にも完全に、また明白に行って、その場に居合わせている者たちに把握させ、理解させもしたのである。このことは恐らく信じ難いことのように見えるかもしれないが、それでもそれは真である。そしてそれと同じように語り、現在も語っている者が、この地球の者ではないが、他に多くいるのだる。その者たちについては主の神的慈悲の下に今後述べよう。
[3]私はその内なる呼吸の性質とそれが時がたつにつれて如何ように変化したかを知ることができた。この最古代の人々は、かれらと同じ様に呼吸している天使達の持っているような呼吸を持っていたため、思考の深遠な観念の中にいて、記すこともできないような認識を持つことができたが、その認識をそれが真にあるがままに記すことができるにしても、それは把握することができないため、信じられないであろう。しかしかれらの子孫の中にはこのうちなる呼吸は徐々に終息し、恐るべき信念と幻想にとりつかれた者らのもとでは、それはかれらが思考のいかような観念もその最も下劣なものを除いてはもはや示すことができない底のものとなり、その結果かれらは生き残ることができないで、そのため凡ての者が絶滅してしまったのである。
天界の秘義608
内なる呼吸が止んだ時ほとんど現今の外なる呼吸に似た呼吸が徐々にそれにつづいておこり、外なる呼吸とともに言葉の言語が起り、または思考の諸観念が決定づけられて生じたところの発音された音声の言葉が起ったのである。かくて人間の状態は全く変化し、もはや人間は類似の認識も持つことができなくなって、認識の代わりに良心と呼ばれてもよい他の種類の指示を持つようなものとなったのである、なぜならそれは認識と現今の或る者に知られている良心との間の一種の中間的なもの[媒介的なもの]であったけれど良心に似ていたからである。そしてこのような思考の諸観念の決定がおこった時、すなわち、思考の諸観念がこのように話される言葉に決定づけられることが起こった時、かれらは最早最古代の人のように内なる人を通して教えられることができなくなり、外なる人を通して教えられたのである。それ故最古代教会の啓示の代りに、教義的な物がつづいて起ったが、それは先ず外成る感覚により受け入れられることができて、そこから記憶の物質的な観念が形作られることができ、その物質的な観念から思考のいくたの観念が形作られ、それによりまたそれに従ってかれらは教えられたのである。ここから(最古代教会に)続いたこの教会は最古代教会の資質とは全く相違した資質を持ったのであるが、主がもし人類をこの資質に、またはこの状態に入れられなかったならば、何人も救われることができなかったのである。
天界の秘義1118
かれらがこの世に生きていた時のその言葉の性質は如何ようなものであったかが、すなわち、それは我々の時代の口で語る言葉のように発音されるものではなくて、発音されないものであり、外なる呼吸によって発しられないで、内なる呼吸により発しられたことが、わたしには表現することもできない流入によりわたしに示されたのである。またわたしはかれらの内なる呼吸の性質を認めることが許されたのである、すなわち、それは音を立てないでへその方から心臓の方へ進み、かくて唇を通って進んだのであり、外なる方法により他の者の耳に入って鼓膜と呼ばれるものを打つのではなく、口の中の或る方法により、事実今エウスタキー管と呼ばれているそこの通路によりそこに入ったのである。そしてかれらは心の情緒と思考の諸観念とを発音された音声または口で話す言葉によって表現するよりも、このような言葉により更に完全に表現することができたことがわたしに示されたのである―発音された音声、または口で話す言葉も同じく呼吸により行われるが、しかしそれは外なる呼吸によって行われている。なぜならいかような言葉の中にも呼吸を用いないで発せられるものは何一つ存在しないからである。しかしかれらのもとではこれは内なる呼吸により行われたため、遥かに完全に行われたのである。内なる呼吸はそれが内的なものであるという事実から更に遥かに完全であり、また思考の観念そのものに更に応じ、また順応もしているのである。さらに、かれらはまた唇を微かに微かに動かすことにより、またそれに応じて顔を変化させることによって語り合ったのである、なぜならかれらは天的な人間であったため、その考えたものはことごとくかれらの顔と目から輝き出て、顔と目とはそれに応じて変化したからである。かれらはその思考と一致した表情とは異なった表情は決して作ることはできなかったのである。たばかることは、ましてや欺くことは、かれらには奇怪な不法であったのである。
天界の秘義1119
最古代人の内なる呼吸がいかようにして一種の外なる呼吸へ静かに流れ入り、かくて無声の言葉へ流れ入り、その言葉が他の者の内的な人により認められるかが、そのありのままにわたしに示された。かれらはこの呼吸は主に対する自分たちの愛と信仰との状態に応じて、自分たちのもとでは変化していると言った。かれらはまたその理由として以下のように言ったのである、それは自分たちは天界と交流しているため、それ以外のものはありえないのである、なぜなら自分たちは自分たちの交わっている天使たちと共に呼吸しているからである、と。天使たちは内なる呼吸に相応している呼吸をもっており、それも同じようにかれらのもとでは変化しているのである。なぜなら主に対する愛と信仰とに相反したものが何かかれらにおこるとかれらの呼吸は抑えられるが、しかしかれらが愛と信仰の幸福の中にいる時は、その呼吸が自由で満ち足りているからである。人間各々の者にもまたこれに似たものが在るが、しかしそれはかれの形体的な世的な愛にまたかれの主義に順応している。何かがこうしたものに対立するとき、呼吸は抑えつけられるが、そうしたものが支持されると、呼吸は自由で満ち足りるのである。しかしながらこれらは外なる呼吸の変化である。しかし天使たちの呼吸については主の神的慈悲の下に今後述べよう。
天界の秘義1120
へそから胸の内的領域に向って行われていたところの最古代教会の人間の内なる呼吸は、時の経過につれ、またはかれらの子孫になると、変化し、更に背後の領域の方へまた腹部の方へ後退し、かくて外の方へ、また下の方へと更に後退し、ついには洪水の直前に存在したところの、その教会の最後の子孫になると、内なる呼吸は何一つ殆ど残らなくなったのである。そしてついにそれが胸の中に全く残らなくなった時、かれらはおのずから窒息してしまったが、しかし若干の者の中には、その時外なる呼吸が始まり、その呼吸とともに発音される音声が、すなわち話される言葉の言語が始まったのである。かくて洪水以前の人間のもとでは呼吸はその者らの愛と信仰の状態に順応したが、ついに愛がなくなり、信仰がなくなって誤謬の信念のみが生じた時、内なる呼吸は停止し、それとともに、天使との直接的な交流と認識も停止したのである。
天界の秘義9281[2]
人間は外なる呼吸と内なる呼吸とをもっている。外なる呼吸は世から発しているが、内なる呼吸は天界から発している。人間は死ぬと、外なる呼吸は止むが、しかし内なる呼吸は―それは人間が世で生きている間は無音であり、知覚されはしないが―継続しているのである。この呼吸は全く真理に対する情愛に順応しており、かくてその信仰の生命に順応している。しかし地獄にいる者らのように、何ら信仰の中にいない者らは内から呼吸しないで、外から呼吸し、かくて反対の方法で呼吸しており、それでかれらは内から呼吸している天使たちの社会へ近づくと、窒息し初めて、死の像のようになってしまうのである(3894番)。