黄金時代

 

 

表象相応の持つ力内意呼吸最古代教会

 

 

 

 

 

天界の秘義5658[2]

 

『銀』が真理を意味していることは古代に非常に良く知られていた。ここから古代人は世界の幾多の時代をその最初からその最後までも黄金、銀、銅、鉄の各時代に分け、またそれに土の時代も加えたのである。かれらは無垢と健全さとが在って、各々の者が善から善いことを、公正から公正なことを行った時代を黄金の時代と呼んだ。彼らは、もはや無垢は存在しなかったが、しかし依然善から善を為すことから成立はしないものの、真理から真理を為すことから成った一種の健全さの存在した時代を銀の時代と呼び、さらにそれよりも低い時代に銅、鉄の名を与えたのである。

 

 

 

天界の秘義5658[3]

 

 彼らがこれらの時代をそのように名づけたのは、譬えから発したのではなく、相応から発したのである、なぜなら古代人は銀は真理に、善は金に相応していることを知っていたのであり、しかもそうしたことは霊たちと天使たちと交流していたことによったからである。なぜなら高い天界で善について語られると、その下の第一の、または最低の天界にいる者たちの間に金が現れるのであり、真理が語られると、銀が現れ、そのため時としては、彼らの住んでいる部屋の壁は金と銀で閃くのみでなく、大気そのものもまたそれで閃くからである。また金のテーブルも、黄金の燈台も、その他多くのものが、善から善の中にいる第一の、または最端の天界の天使たちのもとに現れるが、真理から真理の中にいる者たちにはこうした物は銀製のものとなって現れるのである。それでも現今ではたれが古代人がこれらを黄金の時代、銀の時代と呼んだのはその相応から発していたことを知っていようか。実際現今ではたれが相応について何ごとかを知っていようか。それでこのことを知らない者は、ましてやそれはそうであるか、そうではないかと論争することを楽しみ、またそれを知恵と考えている者は相応に属している無数のもののその最小のもののその最小のものをさえ知ることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義10355[2]

 

最古代では人間は、天界の事柄または永遠の生命に属した事柄については、天界の天使たちと直接に交わることにより知らされたのである、なぜならそのとき天界は教会の人間とは一つのものとなって活動したからである、なぜなら天界は彼らの内なる人を通してその外なる人の中へ流れ入り、そこから彼らは明るくされ、認識したのみでなく、また天使たちと話しもしたからである。人間はそのとき主に対する愛の全の中にいたため、この時代は黄金時代と呼ばれたのである、なぜなら『金』はこの善を意味しているからである。

 

 

 

天界と地獄114

 

 相応の知識と、その用とについて今若干述べておかなくてはならない。天界である霊界は相応[した物]によって自然界に連結しており、かくて相応[した物]によって人間は天界と連なる(コミュニケイト)ことが出来ることは前に述べた。なぜなら天界の天使たちは、人間のように、自然的な物からは考えないからである。従って、人間は相応を知るとき、彼はその心の思考の方面で天使たちと交わることが出来、かくしてその霊的な、または内なる人の方面で彼らに連結することができるのである。天界が人間と連結するために、聖言は全く相応[した物]により記され、聖言の中の一切の物は相応しているのである。かくてもし人間が相応した物を知るならば、彼は聖言の霊的意義を知り、そこから文字の意義では何一つ認められないアルカナ[秘義]を知ることが出来るであろう。なぜなら聖言には文字的な意義と霊的な意義とがあるから。文字的な意義は世に在るような物から成っているが、しかし霊的な意義は天界に在るような物から成っており、そして天界は世と相応[した物]により連結しているため、凡ゆる物が、一つの点にいたるまでも、それに相応したものを持っている聖言が与えられたのである。

 

 

 

天界と地獄115

 

私は天界から以下のよう教えられた。即ち、天的な人たちであった我々の地球上の最古代の人々は相応そのものから考え、彼らの眼前にある世の自然的な物は彼のそうした考えに役立ったのみであり、彼らは、そうしたものであったため、天使たちと交わり、また彼らと語ったのである。かくして彼らを通して天界は世と連結したのであり、そこからその時代は黄金時代と呼ばれ、その時代については、古代の著者たちは、天に住む人々が人間と共に住み、友が友と交わるように、人間と交わったと言っているのである。しかしその時代の後、相応そのものから考えないで、相応についての知識から考えた者たちが続いたが、そのときも、また、天界は人間と連結していたのである、が、それは以前ほど密接なものではなかった。彼らの時代は銀時代と呼ばれるものである。その後、自然的な善にはいたが、前の者のように、霊的な善にはいなかったため、実際相応のことは知ってはいるものの、その知識から考えなかった者が彼らに続いた。彼らの時代は銅時代と呼ばれた。その後人間は続いて外なるものとなり、遂には形体的なものとなり、かくて相応の知識は全く失われ、それとともに天界と天界の多くの物を知ることも失われた。これらの時代が金、銀、銅に因んで名付けられたこともまた相応から発していたのである、なぜなら相応から金は最古代の人々が抱いていた天的善を意味し、銀はその後に続いた古代の人々が抱いていた霊的善を意味し、銅は彼らの次の子孫が抱いていた自然的善を意味するからである。しかし最後の時代の名となっている鉄は善のない無情な真理を意味している。

 

 

 

天界の秘義10355[3]

 

その後天界の事柄と永遠の生命の事柄については相応したものと表象しているものとにより教えられたが、その相応したものと表象しているものの知識は天界の天使たちと直接に交わっていた最古代の人間から得られたのである。この相応したものと表象しているもとの中へ天界はそのとき人間のもとに流れ入って、かれらを明るくしたのである。なぜなら相応しているものと表象しているものとは天界の事柄の外なる物であり、人間が当時愛の、また仁慈の善の中にいる度に応じて明るくされたからである。なぜなら天界から発する神的な流入はことごとく人間における善へ注がれ、善を通して諸真理へ注がれるからであり、当時教会の人間は霊的な善の中にいて、その善はその本質では真理であるため、それでその時代は銀時代と呼ばれたのである、なぜなら『銀』はそうした善を意味しているからである。

 

 

 

天界の秘義10355[4]

 

しかし相応しているものと表象しているものとの科学が魔法に変わったとき、その教会は死滅し、第三の教会がそれに続いて起り、その教会では実際礼拝はほとんど凡て同じような行事により守られはしたが、しかしなおその行事の意味することは知られはしなかった。この教会はイスラエルとユダ民族のもとに設立されたのである。しかし天界の事柄、または永遠の生命の事柄については、この教会の人間にその内部に流入し、かくて明るくすることにより、教えることは不可能であったため、それで天界から天使たちがかれらの中の或る者と生きた声をもって語り、かれらに外なる事柄について教えはしたが、しかし内なる事柄については、殆ど教えはしなかったのである、それはかれらはその内なる事柄を把握することができなかったためである。自然的な善の中にいた者たちはその者たちに教えられた事柄を恭々しく受け入れたのであり、その者たちに因んでこの時代は銅[真ちゅう]時代と呼ばれたのである、なぜなら『銅[真ちゅう]』はそうした善を意味しているからである。

 

 

 

天界の秘義10355[5]

 

しかし自然的な善さえもその教会の人間のもとに残らなくなった時、主は世に来られて、諸天界と諸々の地獄の凡ゆるものを秩序づけられたが、そのことは、人間が主から天界を経て流入を受け、明るくされ、地獄が妨害し、暗闇を注ぎ入れることが出来なくなるようにとの目的のためであった。かくて基督教会と呼ばれる第四の教会が始まったのである。この教会では天界の事柄については、または永遠の生命の事柄については、彼らはもっぱら聖言により教えられたのである。聖言により人間は流入を受け、明るくされるのである、なぜなら聖言は天界の事柄を意味しているところの相応したものそのものにより、また表象しているものそのものにより記されているからである。この相応しているものと表象しているものの中へ天界の天使たちは教会の人間が聖言を読んでいるとき入って来るのであり、従って聖言を通して天界と教会とが連結し、または天界の天使たちが教会の人間と連結するが、しかし愛の、また仁慈の善の中にいる教会内の者たちとのみ連結するのである。しかしこの教会の人間もまたこの善を消滅させてしまったため、それで彼もまたいかような流入によっても流入から明るくされることによっては、若干の真理を除いては、いかような真理についても教えられることは出来ないのであり、その教えられる若干の真理さえも善とも密着はしてはいないのである。それゆえこの時代は鉄と呼ばれるものである、なぜなら『鉄』は秩序の究極的なものにおける真理を意味しているからである。しかし真理がこうした性質のものとなると、その時はそれはダニエル書に記されている底のものとなるのである―

 

あなたが鉄の泥のねば土と混ざっているのを見たように、それらは人間の種[精]により自らを混合するであろう、しかし鉄がねば土と混合しないように、それらは互いに密着はしないであろう(ダニエル2・43)。

 

 

 

 

天界と地獄252

 

 この地球上の最古代の人々は天界の天使たちとこのように連結していたため、その時代は黄金時代と呼ばれたのである。これらの人々は、神的なもの〔神〕を人間の形の下に承認し、かくて主を承認したため、友と話すように天界の天使たちと話し、天界の天使たちも同じくその友と話すように彼らと話したのであり、彼らの中には天界と世とは一つのものとなっていたのである。しかしその時代以後人間は、主よりも自分自身を愛し、天界よりも世を更に愛することによって、自分自身を天界から絶えず引き離し、従って天界の歓喜から分離した自己と世への愛の歓喜を感じはじめ、遂にはそれ以外の歓喜を何ら知らない程にもなった。かくて天界に向って開いていたその内部は閉じられ、その外部は世に向って開かれたのである。こうしたことが起ると、人間は世の凡ゆる物については光の中にいるが、天界の凡ゆる物については暗闇に包まれるのである。

 

 

 

天界と地獄253

 

 その時代以後何人も稀にしか天界の天使たちとは話さなくなったが、天界にいない霊と話す者は若干いたのである。