ノア

1.休息

2.古代教会

3.残りのもの

4.そして酔ってしまった

 

1. 休息

 

天界の秘義531

 

 『慰める』ことは『息子』またはノアに言及しており、これにより再生が意味されており、かくて古代教会である新しい教会が意味されている。それで丁度最古代教会について、それは第七日であり、その日にエホバは休まれたと言われているように、この教会により、または『ノア』により同じく休息が、休息から生まれる楽しさが意味されているのである。

 

 

天界の秘義851

 

 

「箱舟は止まった」は再生を意味していることは、前に充分に示したように、『箱舟』に入れられていた物はことごとくその教会の人間の中に在った凡てのものを意味しているという事実から明白である。それで箱舟が『止まった』と言われるときは、それはこの人間が再生しつつあったことを意味するのである。文字の意義の関連からでは、箱舟が『止まること』により(前節に語られた)試練の後に続いておこる動揺が終わったことが意味されているように実際見えるからもしれないが、以下の記事から明らかとなるゆに、真で善いものについて抱かれる疑惑と不明なものとはそのようには停止しないで、長い間執拗に持続するのである。ここから内意では事柄は異なって連続していることが明らかであり、それらはアルカナ[秘義]であるため、それらを明らかにすることがここに許されている、それらは以下のようなものである、すなわち霊的な人も、天的な人のように、試練を受けた後は、同じく、主が『休まれること』となり、さらに同じように第七の月になるということである(天的な人のように第七日になるのではなくて、第七の月になるという事である)。(天的な人は主の休息[主雅休まれること]であり、または安息日であり、第七日であることについては、前の84−88番を参照されたい)。しかしながら天的な人と霊的な人との間に相違が在るため、前の者の『休息』は原語では安息日を意味している言葉により表現され、後の者の『休息』は他の言葉により表現されていて、そこからかれは『ノア』と名づけられているが、ノアは元来『休息』を意味しているのである。

 

 

 

2.古代教会

 

天界の秘義597

 

『ノア』により新しい教会が意味されているが、その教会は洪水以前に存在した最古代教会と洪水以後に存在したものとを区別されるため、古代教会と呼ばれなくてはならないのである。この二つの教会の状態は全く異なっていた。最古代教会の状態は善と真理とを主から認識するようなものであった。古代教会の、または『ノア』の状態は善と真理の良心を持つようなものとなったのである。認識を持つことと良心を持つことの相違が最古代教会と古代教会の相違であった。認識は良心ではない、天的な者は認識を持っているが、霊的な者は良心を持っている。最古代教会は天的なものであった。古代教会は霊的なものであったのである。

 

[2]最古代教会は霊たちと天使たちと交わることにより、また幻と夢により主から直接に啓示を受け、かくしてかれらは善で真のものを全般的に知ることができたのであり、それを全般的に知ることができた後は[全般的な知識を得た後は]この全般的な指導原理が―全般的な知識はそのように呼ばれてもよいであろう―認識により、無数のものにより確認されたのであり、そしてこの無数のものはそのものが関連している全般的な原理の細目または個々のものであったのである。かくて全般的な指導原理は日々確証され、その全般的な原理に一致しないものを凡てかれらはそのようなものでないと認め、それに一致したものを凡てそのようなものと認めたのである。かくの如きがまた天的な天使たちの状態である。

 

 

天界の秘義605

 

今取り扱われている主題は『ノア』と呼ばれた新しい教会の形成であり、その形成は凡ゆる種類の生きた物が中へ入れられた箱舟により記されているのである。しかしいつものように新しい教会が起こり得る以前には、教会の人が多くの試練を受けることが必要であったのであり、その試練が箱舟を上げることとそれが洪水の水の上にただよって、遅くまでそこにいたことにより記されているのである。最後にかれが真の霊的な人となって、自由にされたことが、水が引いてしまったこととその後に続いて起こった多くの事柄により記されているのである。

 

 

天界の秘義609

 

『ノア』と呼ばれたこの教会の人の状態は最古代教会の人のそれから全く変化したため、かれはもはや―前に言ったように―最古代の人と同じ方法で教えられ、明るくされることができなかったのである。なぜならかれの内なるものは閉じられてしまい、かくてかれは天界との交流[連なり]を、無意識的なものを除いては、もはやもつことができなくなってしまったからである。また同じ理由からかれは、前に言ったように、感覚または諸感覚の外なる方法によらなくては教えられることもできなかったのである。

 

そのため、主の摂理の下に、信仰の諸々の教義的な事柄が、最古代に与えられた諸々の啓示の若干のものとともに、この子孫に用いられるために保存されたのである。この教義的な物は先ず『カイン』により集められて、失われないように貯えられたのであり、それ故カインについては『たれもかれを殺さないように、しるしがかれにおかれた』と言われている(このことについてはその所に言われたことを参照されたい、4章15節)。

 

この教義的な事柄はその後『エノク』により教義にされたが、しかしこの教義は当時たれにも用いられないで、子孫のためのものであったため、『神はかれをとり去られた』と、言われている(5章24節参照)。信仰のこの教義的な事柄はこの子孫または教会に用いられるため主により保存されたものである。なぜなら認識が失われてしまうことが主により予見され、そのためこの教義的な物が残るように定められたからである。

 

 

天界の秘義612

 

「ノアはその世代の者の中では義しい完全なものであった。」このことはかれが仁慈を与えられることができるような者であったことを意味していることは『ただしい、完全な』の意義から明らかであり―『ただしい』(または義しい)は仁慈の善に、『完全な』は仁慈の真理に関わりをもっている―またその教会の本質的のものが仁慈であることからも明らかである。

 

義しい者はわたしの父の国で陽のように輝くであろう(マタイ13・43)。

 

『義しい者』は仁慈を与えられている者を意味しており代の終結について主は言われた―

 

天使は出て行って、悪い者を義しい者の間から切りはなすであろう(5・49)

 

 

天界の秘義640

 

『ゴファの木』により欲念が意味され、『館』により意志と理解であるこの人間の二つの部分が意味されていることは、たれもこれまで知ってはいない。たれ一人また先ずかの教会の実情を告げられない限り、どうしてこれらのことが意味されているかを知ることもできないのである。最古代教会は、しばしば言ったように、信仰に属したものを尽く愛から知っていたのである、または同じことではあるが、善の意志から真理の理解を得ていたのである。しかしかれらの子孫は遺伝により以下のことを受けついだのである、すなわち、意志に属したいくたの欲念がかれらを支配したのであって、その欲念の中にかれらは信仰の教義的な物を浸し、かくて『ネピリム』となったのである。それ故主は若し人間がこのような性質を持ち続けるならば、人間は永遠に滅んでしまうことを予見されたとき、主は意志が理解から分離するように定められ、人間は前のように善の意志によって形作られるのではなくて、真理の理解[真理を理解すること]を通して、仁慈を与えられ、その仁慈が善の意志のように見えるように定められたのである。『ノア』と呼ばれるこの新しい教会はこのようなものとなったのであり、かくてそれは最古代教会とは全く相違した性質のものになったのである。この教会の他にもまた当時他の諸教会が在ったのであり、例えば『エノス』と呼ばれているもの(426節)や、また今はそれについてはこうした記録が残されていない他の教会も在ったのである。『ノア』というこの教会のみがここに記されているのは、それは最古代教会とは性質が別種のもんで、それとは全く異なっていたためである。

 

 

 

天界の秘義736

 

 ノアまたはこの新しい教会の人間については、かれはその最古代教会から得たものを単純に信じたような性格のものであったのであり、その最古代教会から得たものとは教義の事柄であって、それは『エノク』と呼ばれた者たちにより集められて、教義的な形のものとされていたものであった。そしてかれは『ネプリム』と呼ばれた、死滅してしまった洪水以前の者らとは全く異なった資質をもっていたのであり、この洪水以前の者らは、信仰の教義的な事柄を醜悪な欲念の中に浸してしまい、かくして恐るべき信念を考案し、他の者からいか程教えられ、その確信の誤謬を示されても、そこから退こうとはしなかったのである。現今にもまた資質または性質を異にした人間がいるのである。一方の資質または性質の人々は容易に再生するが、他方の資質または性質の人々にはそれは容易ではないのである。

 

 

天界の秘義765

 

 これまで『ノア』と呼ばれた教会の人間の試練がとり扱われてきた、すなわち、先ず信仰の真理である理解の事柄の方面のかれの試練がとり扱われた(11、12節)。試練の目的または目標は、最古代教会が滅んでしまったからには、教会がその試練を手段として再び生まれるためであった。『ノア』と呼ばれたこの教会は前に言ったように最古代教会の性格とは異なっていたのである、すなわち人間が信仰の教義的な事柄により再び生まれるのであり、その教義的なものが植えつけられた後、その人間が信仰の真理と善とに反して行動しないように良心がかれに植えつけられ、かくしてかれは仁慈を与えられ、その仁慈がこのように良心を支配し、その良心からかれはこのように行動し始めるのである。このことから霊的な人間とはいかようなものであるかが明らかである、すなわち、かれは仁慈の無い信仰が救うものであると信じる者ではなく、仁慈を信仰の本質的なものとして、そこから行動する者である。こうした人間が、またこうした教会が起ることが意図された目的であり、それ故今やその教会そのものがとり扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義788

 

 『ノア』は古代教会そのものではなく、前に言ったように、その教会の両親、または種子のようなものであった。『ノア』は『セム、ハム、ヤペテ』とともになって古代教会を構成し、それが最古代教会のすぐ後につづいたのである。『ノア』と呼ばれた教会の人間はことごとく最古代教会の子孫であって、それで、遺伝悪については、死滅したその子孫の他の者らの状態とほとんど同じ状態にいたのであり、こうした状態にいた者は、遺伝によりこのような特質を受けなかった者のようには再生し、霊的なものにされることはできなかったのである。かれらの遺伝的な性質のいかようなものであったかは、前に述べられたところである(310番)。

 

[2]例えば(その事がさらに明らかに理解されるために)ユダヤ人のように、ヤコブの子孫に属した者らは異邦人が再生することができる程には良く再生することはできないのである、なぜならかれらは幼少の頃から吸収し、後になって確認した原理からのみでなく、また遺伝的な性向[気質]からも、信仰に対し先天的な[内在的な]反感[対立]を持っているからである。これもまた遺伝的な性向から内在していることは、かれらが他の人々とは異なった資質を持ち、異なった作法を持ち、また異なった容ぼうを持ち、それにより他の者から区別され、こうした特徴を遺伝から持っていることから或る程度明らかとなるであろう。内的な性質も同様である、なぜなら作法と容貌は内部の象徴であるからである。それ故回心したユダヤ人は他の者にもまして真理と誤謬の間を動揺している。『ノア』と呼ばれた古代教会の最初の人々も最古代教会の種族と子孫とに属していたため、同様であった。これらがここに、また以下の記事に記されている動揺である、すなわちノアは農夫であり、ぶどう畠を作り、ぶどう酒を飲み、酔って、裸になって天幕の中に臥していたのである(9・20、21)。かれらが僅かしかいなかったことは、かの教会の人間が霊たちの世界で、間取りの小さな部屋の中に、白い着物を着た、丈の高いほっそりとした人間として表象されたという事実から明らかにされたのである。しかも信仰の教義的な事柄を己が間に維持し、持っていたものはかれらであったのである。

 

 

天界の秘義789

 

 わたしたちは箱舟が地から高く上げられて、水の面を漂ったという記事により意味されていることを記すに止めよう。たれ一人これが人間がいかようにして悪と誤謬から遠ざけられるかを教えられない限り知ることができないため、またこれは隠れた事柄であるため、それを簡単に説明しよう。全般的に言って、人間はことごとく、再生した者ですらも、若し主がその者を諸々の悪と誤謬から遠ざけられないなら、かれは自らを地獄に真逆様に投げ込むといったものである。かれは遠ざけられないなら、すぐさまその中へ真逆様に突入するのである。このことは経験によりわたしに明らかにされたのであり、また(前の187、188番に記されたように)馬により表象されもしたのである。こうした悪と誤謬から遠ざけることが実際もち上げられることであって、かくて悪と誤謬とは下に認められ、その人間は上になるのである。このように高揚されることについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。『箱舟が地から上げられ、地の面の上に漂った』ことにより意味されているものはこの高揚である。

 

 

天界の秘義915

前に言ったように、ノアは古代教会を構成したのでなく、かれの息子たちのセム、ハム、ヤペテがそれを構成したのである。なぜならいわば三つの教会がこの古代教会を形成したのであり、そのことについては今後主の神的慈悲の下に記すことにしよう。そしてこれらの教会は『ノア』と呼ばれる教会の子供達として生まれたのであり、それでここに『あなたとあなたの息子たち』と言われ、また『あなたの妻とあなたの息子たちの妻たち』と言われているのである。

 

3.残りのもの

 

天界の秘義407

 

教会の状態は全般的に以下のような経過を取っている。時が経つとそれは真の信仰から離れ去ってついには全く信仰を欠くようになり、その時『荒廃してしまった』と言われている。是がカイン族と呼ばれた者らの間の最古代教会の実情であり、また洪水以後の古代教会及びユダヤ教会の実情であったのである。

 

主の降臨の頃この最後の教会は主については何事も知っておらず、主はかれらの救いのために世に来られることを知っておらず、まして主に対する信仰については何事も知っていないといった荒廃の状態にあったのである。原始基督教会の場合も、または主の降臨以後に存在した基督教会の場合も同じであって、それは現今その中には一つの信仰も残存していない程にも完全に荒廃しているのである。

 

しかし教会の何らかの核は残っているのであり―この核は信仰が荒廃している者らには認められてはいないが―最古代教会の場合も同じであって、その教会の残りのものは洪水の時迄も存続し、その事件後も存続したのである。この教会の残りのものは『ノア』と呼ばれているのである。

 

 

天界の秘義468

 前章に述べられ、また示されたことから名により異端と教義が意味されることが明らかである。ここから本章の名によっても人物が意味されないで、事物が意味されており、現在の場合最古代教会から実にノアに至るまでもこうむった数々の変化にも拘らず尚保存された教義または教会が意味されていることを認めることができよう。しかし教会は時の経過と共に衰退して、ついには少数の者の間にしか存続しないということが教会各々の実情であって、洪水の時にその教会がそのもとに存続していた少数の者が『ノア』と呼ばれたのである。

                                                      

[]真の教会は衰退してしまって、少数の者の許にしか存続しなくなることはそのように衰退して行った他の諸教会から明らかである。残された者は聖書に『残りの者』『残った者』と呼ばれ、『地の真中に』または『真中に』いると言われている。そしてこのことは全般的なものにあてはまると同じく個別的なものにもあてはまり、または教会にあてはまると同じく、各個人にもあてはまっている。なぜなら霊的な天的な生命が残りのものの中に在る以上、その残りのものが人間各々の中に主により保存されないなら、かれは永遠に滅びなくてはならないからである。全般的なもの、または普遍的なものも同じであって、教会または真の信仰がそのもとに存続している若干の者が常に存在しなくては、人類は滅んでしまうのである。なぜなら一般に知られているように、一つの都が、否、一つの国全体が少数の者のために救われるからである。この点では教会も人間の身体も同じである。心臓は健全である限り、その近くの内臓に対し生命は可能となるが、心臓が衰弱するとき、身体の他の部分は栄養の吸収が不可能となって、人間は死んでしまうのである。最後の残りの者は『ノア』により意味される者である。なぜなら

(次章の12節のみでなく他の箇所からも明らかなように)全地は腐敗してしまったからである。

 

 

4.そして酔ってしまった

 

天界の秘義1072

 

「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。

 

これはかれがそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。

 

そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。

 

それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

[2]

霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能なかぎりそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理がかれらから認められない、何か明確でないものがかれらの道に現れるや否や、それをわきにおいて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握できるものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気のさたであると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。

 

しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみねがい、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることはできないと言うのである。このことのみからでもかれらは何ら信仰を持っていないことがすぐさま知られるのであり、かれらは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べはじめ、たとえそれが永遠につづいても決して黙従しようとはしないということがかれらの不信仰のしるしとなっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤をつみ重ねるのである。

 

[5]『酔うこと』は信仰の諸真理にかかわる狂気を意味したため、それはまた表象的なものとなって、以下のように、アロンとその息子たちには禁じられたのである―

 

  あなたらが集会の天幕に入る時、死なないため、あなたはぶどう酒をのんではならない、また強い酒ものんではならない、あなたとともにいるあなたの息子たちものんではならない、あなたらが聖いものと汚れたものとを、不潔なものと潔いものとを区別するためである(レビ記10・8,9)。

 

 感覚と記憶との事柄により把握するものを除いては何ごとをも信じない者はまた『(酒を)飲むに英雄[つわもの]』と呼ばれている。イザヤ書に―

 

  禍いなるかな自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知のある者よ、禍いなるかな、ぶどう酒を飲むにはつわもの[英雄]である者よ、強い酒を混ぜ合わすのに力ある人間よ(5・21,22)。

 

 信仰の諸真理に反抗して論じる者らは自分自身が他の者よりも賢明なものであると考えているため、かれらは『自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知ある者』と呼ばれている。

 

 

天界の秘義1073

 

 「そしてかれはその天幕の真中で何も着ていなかった」。これはそのために歪曲された事柄を意味することは『何も着ていなかった』すなわち裸かであったことの意義から明白である。なぜなら信仰の諸真理を宿していない者は『酒に酔って、何も着ていない、裸である』と呼ばれ、ましてその諸真理が歪曲されている者はさらにそのようなものとして呼ばれているからである。信仰の諸真理そのものは仁慈の諸善をまたは仁慈そのものをおおっている着物[上着]にたとえられている。なぜなら仁慈は身体そのものであり、それで真理はその着物であり、またはそれと同じことではあるが、仁慈は霊魂そのものであって、信仰の諸真理は霊魂の着物である身体のようなものであるからである。信仰の諸真理もまた聖言では『上着』『着物』と呼ばれ、それ故23節にはセムとヤペテは上着を取って、その父の裸かをおおったと言われている。霊的なものは天的なものに対しては霊魂をおおう身体のようなものであり、または身体をおおう上着のようなものであり、天界ではそれは上着により表象されているのである。この節には、かれは何にも着ないで臥していたと言われているため、かれは信仰の諸真理を感覚の事物により、またそこから理論により探求しようと欲したことにより、その信仰の諸真理を自分自身から脱ぎ棄ててしまったことが意味されているのである。これに似たことが聖言の中に酒に酔い裸になって臥すことにより意味されている、例えばエレミヤ記には―

  ああウズの地に住むエドムの娘よ、楽しみ喜べよ、杯はまたおまえにもめぐってくるであろう、おまえは酔って、自分自身を裸にするであろう(哀歌4・21)。

 

 またハバクク書には―

 

  禍いなるかな、自分の仲間の裸かを見るために、その者に飲ませ、その者を酔わす者よ(2・15)。