社会的・道徳的

 

 

道徳神学外なる束縛連結・結合

しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる(黙3・4)/

カン

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

3.ベルナルド

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義916[2]

 

教会はそれが仁慈からまたは仁慈の善から行動する時霊的なものと呼ばれ、それはそれが仁慈の無い信仰を持っているという時は決して霊的なものと呼ばれはしないのである。なぜならその時それは教会でさえもないからである。なぜなら信仰の教義は仁慈の教義でなくて何であろう。そして信仰の教義は人間はその教えることを為さなくてはならないということを除いては何を目的とするであろうか。それはその教えることを単に知りまた考えることで有り得る筈はなく、その教えることは為さなくてはならないということのみである筈である。それ故霊的教会はそれが信仰の教義そのものである仁慈から行動する時始めて教会と呼ばれるのである。または、それと同一事ではあるが、教会の人間はその時始めて教会となるのである。丁度それと同じように、戒めは何のためにあるのであるか、それは人間がそれを知るためではなく、その戒めに従って生きるためではないか。なぜならその時彼は、主の王国はもっぱら相互愛とその幸福とに在るからには、彼自身の中に主の王国を持つからである。

 

 

 

天界の秘義916[3]

 

仁慈から信仰を分離し、救いを仁慈の善い業の無い信仰に在るとする者は、その兄弟のアベルを、すなわち仁慈を殺すカインの輩である。そして彼らは死骸の回りを飛びまわっている鳥のような者である。なぜならこうした信仰は鳥であり、仁慈の無い人間は死骸であるからである。かくて彼らは基督教世界に良く知られているように、悪魔のように生活し、隣人を憎悪し、迫害し、その生涯を姦通に費やし、しかも救われるために、彼ら自身のためにまた似而非良心を形作るのである。人間は野獣のような生活をしていても、救われることが出来るということを聞いて、それを納得するに勝って快適なことが彼に有り得ようか。異教徒すらそれは誤っていることを認めており、その多くの者は基督教徒の生活を見ているため、基督教徒の教義を忌み嫌っているのである。こうした信仰の真の性質は、基督教世界における生活以上に忌まわしい生活はどこにも見出されないという事実からもまた明白である。

 

 

 

天界の秘義987

 

 再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することが出来ると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪にすぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。すなわち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、即ち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復讐、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験により私に示されたのである。

 

 

 

天界の秘義2831[4]

 

しかしながら市民生活における正当なまた公平なものを認める認識については、世の合理的な人々はそれを持っており、また道徳生活における尊いものを認める認識も持っているのである。この二つの認識は人間を互いに他から区別しているが、しかし決してこのような人間はそうした理由から信仰の善と真理とを認識はしないのである、なぜならその認識は更に高いもの、または更に内なるものであって、合理的なものの最も内なるものを通して主から流れ入るからである。

 

 

 

天界の秘義3690[3]

 

 これらの歴史的な事柄は神的な教義的な事柄からはいかほど遠ざかっているかはそこから取った以下の例から認めることができよう。たれかがまず、神がシナイ山に降られて、モーセに石板を与えられた、その上には十戒が記されていた、モーセはこの石板を割ってしまったが、神は他の石版に同じような戒めを書かれたということを知ることに過ぎないとき、単にこの歴史をのみ歓んでいる間は、彼は神的な教義的なものから遠ざかった外なる真理の生命の中にいるのであるが、しかしその後その中に含まれている戒めまたは教令そのものを歓び、それに感動しはじめ、それに従って生きると、そのときは彼は真理の生命の中にいるが、それでも依然神的な教義的なものそれ自身からは隔たっているのである。なぜなら戒めに従った生命は単に道徳的な生活に過ぎないのであり、その教えは、例えば、神を拝さなくてはならない、両親を敬わねばならない、殺人、姦淫、盗みは犯してはならないといった教えは人間社会に住んでいる者には凡て公民生活そのものとその法律から知られているからである。

 

 

 

天界の秘義3793[3]

 

人間がその自然的なものの方面で再生することについては、その実情はヤコブとラバンの二人の娘ラケルとレアとの場合と全く同じであり、それでたれでもここの聖言をその内意に応じて認め、また把握することの出来る者は、彼に明らかにされているこのアルカナを認めるのである。しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考えが示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

神の摂理322

 

社会的な人間とは自分の国の法律を知り、それに従って生きる者であり、道徳的な人間はこれらの法律を道徳的な原理、徳として採用し、それに従い合理的に生きる者である。如何にして社会的な道徳的な生活が霊的な生活を受ける器であるかを私は説明しよう。この法律に単に社会的な道徳的な法律としてのみでなく、また神的な法律として服従されよ、さすれば諸君は霊的な人間となられるだろう。殺人、他人の妻との姦淫、窃盗、偽証、掠奪を禁じる法律を持たないほど野蛮な民族は殆ど存在しない。社会的な道徳的な人間は良い社会人となりまたそのように見られたいために、これらの法律を守るが、しかし彼がこれらの法律を神的なものとして認めないなら、彼は単に社会的な道徳的な自然的な人間に過ぎない。他方もし彼がその法律をまた神的なものとして認めるならば、彼は社会的な道徳的な霊的な人間になる。その相違は後者は地上の王国の善良な社会人であるのみでなく、また天界の王国の善良な社会人であるに反し、前者は単に地上の王国の善良な社会人であって、天界の王国の善良な社会人ではないということである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/神の摂理/326(イ)

 

 <神を承認することにより神の人間との結合と人間の神との結合が生まれ、神を否定することにより分離が生まれる>

神を承認しない者も、道徳的な生活をするなら、神を真に承認する者と同じように救われることが出来ると考える者がいるかもしれない。彼らは言う「この承認から何が生まれるのか。それは単に観念に過ぎぬのではないか。神は存在することを確実に私は知った時に、私は容易に神を承認しないであろうか。私は神については聞いているが、神は見ていない。神を私に示しなさい、そうすれば私は信じるであろう。」これが神を否定する多くの者が神を承認する者と自由に議論することが出来る時の言葉である。しかし神を承認することは結合を生み、神を否定することは分離を生むことは、今、私が霊界で得た経験から説明しよう。

 

霊界ではもし誰かが他の者のことを考えて、その者と話したいと欲するなら、その者は直ぐに現れてくる。これは霊界の普遍的な法則であって、決して犯されない。その理由は霊界には自然界のような距離は無く、単に距離の外観が在るに過ぎないということである。他の特質は他の者についての或る知識と結合した思考によりその者が現れてくるように、他の者に対する或る情愛と結合した愛により結合が生まれるということである。この結合の結果彼らは共になり、親しく語り合い、同じ家または共同体に住み、しばしば会い、互いに親切を尽くすのである。その反対もまた起こっている。例えば、もし誰かが他の者を愛さないならば、さらに彼らを嫌忌するならば、彼は彼を見もせず、また彼に会いもせず、彼らは互いに感じ合う冷淡または憎悪に比例して互いに遠ざかっている。実際、もし誰かが他の者と共にいて、その心に嫌忌が生まれるなら、彼はその者の視野から消えて行くのである。

 

 この僅かな事柄から、霊界の現存と結合の如何ようなものであるか、即ち、他の者を思い出して、それと共にその者に会おうとの願いが生まれる時、その者は眼前に現れてくるのであり、また愛の情愛から結合が生まれることが明白になったに相違ない。人間の心の中の凡ての物も同じである。それは無数の物を含み、その個々の物は一つの物の他の物に対する情愛または愛に従って連なり、結合している。この結合は霊的なものであり、全般的にも個別的にも類似した性質を持っている。それは主が霊界と自然界に全般的にも個別的にも結合されていることから起こっている。それ故誰でも主を知り、それにより主を考えるに応じて主は現れ給い、誰でも愛の情愛から主を承認するに応じて、主はその者と結合されるが、他方、誰でも主を知らない限り主はおられず、主を否定する限り、主から引き離されることが明白である。この結合の結果は主は人間を御自身に向けさせ、かくて彼を導かれるということであり、分離の結果は地獄が人間を地獄自身に向けさせて導くということである。これが天界の凡ての天使は太陽としての主に面を向け、地獄の凡ての霊は主に面を背ける理由である。これらの考察から神を承認する結果と神を否定する結果は明白である。更に世で神を否定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58

 

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことに懸かっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

黙示録講解107(3)

 

真理と善との知識の中にはいるが、その知識に順応して、生命の善の中にいない者は凡て、知識の中におり、知識を通して生命の善の中にいる者たちと等しく道徳的な生活を送るであろうが、それでもその道徳的な生活[生命]は霊的なものではなくて、自然的なものである、なぜなら彼らはその生活においては宗教から誠実に、公正に、善良に生きはしないからである、宗教から善良に生きはしない者らは天界と連結することは出来ない、なぜなら人間を霊的なものとして、その者を天使たちに―天使たちは純粋に霊的なものであるが、その天使たちに―連結させるものは宗教であるからである。宗教から善良に生きることは、そのことが聖言にそのように命じられているために、また主がそのことを命じられたために、考え、意志し、行うことである、しかし宗教から生きないことは社会の、また道徳の法律のみを顧慮してそこから考え、意志し、行うことである。こうした者らは、そうした法律のみを顧慮している以上、世のみに自分自身を連結するのである、なぜならそうした法律は世のために存在しているからである。しかし前の者たちは主を顧慮し、そのことにより自分自身を主に連結させているのである。異教徒たちは専ら以下のことにより、救われている、即ち、彼らはその生活において宗教を顧慮し、自分たちはそのように行って、それ以外のことは行ってはならない、なぜならそれ以外のことを行うことは自分たちの宗教の律法に反しており、かくて神的なものに反しているからである、と考えもし、言いもするからであり、彼らがこのように考え、それに従って行動するときは、霊的な生命を与えられるのであり、その生命は彼らのもとでは、後に、霊界で、かのキリスト教徒よりも―その行うことにおいては、聖言を、または聖言から発している教会の教義を何ら考えはしない、かのキリスト教徒よりも―さらにすすんで諸真理を受け入れるといった性質を持っているのである。

 

 

 

黙示録講解107(4)

 

宗教から考えはしない者らは良心を持ってはいない、なぜなら彼らは霊的なものではなく、従って、彼らの外なる拘束するものが―それは法律と名声に対する恐怖であるが、それが―彼らのもとで弛められるなら、彼らは凡ゆる邪悪へ突入するからであるが、これに反し他方では、もし法律と世評にかかわる恐怖であるところの、外なる拘束するものが、宗教から考える者たちから仮にも取り去られるにしても、彼らは依然誠実に、公正に、善良に行動するのである、なぜなら彼らは神を恐れ、主から―その主に彼らは連結しているため、その主から―天界を通して服従と仁慈との生命[生活]の中に留めおかれているからである。

 

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らと共に従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、即ち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物をむさぼってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行うとき、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

黙示録講解902[2]

 

なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中におかれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―

 

 たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。

 

 

 

黙示録講解902[3]

 

しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、彼は自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動する時、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動する時、彼は同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもし彼が悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくて彼は身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることが出来ることを明らかにしている。

 

 

 

黙示録講解902[4]

 

これが真であることの証明を私は第三の、または最も内なる天界の天使たちから得ているのであり、彼らは最大の知恵と幸福の中にいるのである。いかようにしてあなたたちはそうした天使になられたのか、と尋ねられると、彼らは以下のように言ったのである、即ち、私たちは世に生きている間に汚れた考えを忌まわしいこととして認めたのであり、その汚れた考えは私たちには姦淫であったのであり、詐欺と不当な利得をも同様に見なしたのであり、そうしたものは私たちには窃盗であったのであり、また憎悪と復讐とを同様に考え、それらは私たちには殺人であったのであり、また虚偽と涜神とも同様に考え、それらは私たちには偽証であったのであり、他の事柄も同様であったのである、と。あなたは善い業を行われたか否か、と再び尋ねられると、私たちは貞潔を愛したのであり、その貞潔の中に私たちがいたのは、私たちは姦淫を忌まわしいこととして認めたためであり、私たちは誠実と公正とを愛したのであり、その中に私たちがいたのは、私たちは詐欺と不法な利得とを忌まわしいこととして認めたためであり、隣人を愛したのは、憎悪と復讐とを忌まわしいこととして認めたためであり、真実を愛したのは、虚偽と涜神とを忌まわしいこととして認めたためである、などと言ったのである、更に彼らは言った、私たちはこれらの悪が取り除かれ、私たちが貞潔、誠実、公正、仁慈、真実から行動した時、それは私たち自身から行われたのではなく、主から行われたのであり、かくて何であれ私たちがそうしたものから行った凡ゆるものは、恰も私たち自身から行ったかのように私たちが行ったものの、善い業である事を認めたのであり、そうした理由の為私たちは主により死後第三の天界へ挙げられたのである、と言ったのである。かくて天界の天使たちの生命であるところの霊的な生命はいかようにして得られるかが明らかにされたのである。

 

 

 

黙示録講解902[5]

 

その生命が現今の信仰によりいかようにして破壊されるかを今述べよう。この時代の信仰は以下のものである、即ち、父なる神はその御子を遣わされた、御子は私たちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、律法を成就することにより律法の断罪を取り去られたことが信じられなくてはならない、この信仰は善い業もなしに凡ゆる者をことごとく、死の最後の時間においてすら救うのである。子供時代から注ぎ込まれ、後に説教により確認されたこの信仰により、たれ一人宗教から悪を避けず、単に民法と道徳律からのみ避けるのであり、かくてそれらが罪であるために避けられるのではなく、それらは損害を与えるために避けられるのである。主は私たちの罪のために苦しまれた、主は律法が私たちを罪に定めることを取り去られた、これらの事柄を単に信じることが、または善い業も無しにこれらの事柄を信仰することが救うのであると人間が考える時、そのことは十戒の凡ての戒めを、聖言に規定されているような宗教の凡ゆる生命を、更に仁慈を教えている凡ゆる真理を、無価値なものとして見なすことではないか、否かを考察されたい。それゆえこれらのものを分離し、人間からそれらのものを取り去られよ、人間の中に何らかの宗教が残されるか。なぜなら宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在るからであり、意志すること[欲すること]と行うことが考えることから分離されるとき、宗教は存在しないのである。このことから現今の信仰は、天界の天使たちの生命であり、キリスト教徒の生命[生活]そのものである霊的生命[霊的な生活]を破壊してしまうことが必然的に生まれてくるのである。

 

 

 

黙示録講解902[6]

 

さらに考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中におかれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座が置かれたか。それらの戒めが置かれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生贄と香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、彼は倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。彼らの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。

 

 

 

黙示録講解902[7]

 

さて現今の信仰はこの凡ての戒めを抹殺してしまわないか、否か、を尋ねてみられよ、その信仰は、主は私たちの罪のために苦しまれた、主は律法を成就することにより律法の断罪を取り去られた、人間は善い業無しにこの信仰により義とされ、救われる、ということである。あたりを見まわして、現今キリスト教界にこの信仰に従って生きていない幾人の者がいるかを知られよ。彼らは私らは弱くて不完全な人間であり、罪の中に生まれている、といったことを答えることを私は知っている。しかしたれが宗教から考えることが出来ないか。そのことを主は人間各々の者に与えており、宗教からこれらの事を考える者のもとに、その者が考えるに応じ、凡ゆる事を行われるのである。そして以下のことを知られよ、すなわち、宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者は―わたしは断言するが―それらの事柄を信じはしないのである。

 

 

 

生命9

 

 もし彼がそれらを神から為しているならば、それらは善であり、もし自己から為しているなら、善ではない。事実偽善的な善といった、この上もなく悪い、そうした種類の自己から為される善があり、その目的とするところは欺瞞であり、詐欺である。

 

 

 

生命13

 

 霊的善を持っている人間はまた道徳的な人間であり、公民的[社会的]な人間であるが、しかし霊的善を持っていない人間は道徳的な公民的な人間であるように見えるかもしれないが、それでもそうしたものではない。霊的善を持っている人間はまた道徳的な公民的な人間である理由は、霊的善はその中に善の本質を持っており、道徳的な、公民的な善はこの本質を霊的善から持っているということである。善の本質は善そのものであるかれ以外のいかような源泉からも発することは出来ないのである。その事を凡ゆる観点から考えて、善が善であるのは何から発しているかを発見しようと試みられよ、さすればそれはその最も内なる存在(エッセ)からそうしたものとなっており、その中に善のエッセをもっているものが善であり、従って善そのものから、引いては神から発しているものが善であり、それで神から発しないで、人間から発している善は善ではないことを認められるであろう。

 

 

 

黙示録講解187イ

 

(黙示録3章)2節「目を覚ましていなさい」は彼らは自らのために生命を得なくてはならないことを意味している。このことは『目を覚ましていること』の意義から明白であり、それは霊的な生命[生活]の中にいることであるが、しかしここでは、その生命[生活]は道徳的ではあるが、未だ霊的ではない者らがとり扱われているからには、『目を覚ましていなさい』は彼らは自らのために霊的な生命を得なくてはならないということである。この生命が『目を覚ましていること』と『目覚めていること』により意味されているのは、霊的な生命は、霊的な生命から分離している道徳的な生命に対しては、目覚めていることが眠りに対する、または真昼時の光が夕に、実に暗黒に対する関係に置かれているためである。しかしそれがそうであることは、自然的な生命の中にのみいる者らによっては知られも、または認められもしないし、霊的な生命から分離した道徳的な生命の中にいる者らによっても認められはしないのである、なぜならこの生命もまた自然的な生命であるからである。

 

彼らがそのことを知りはしないし、または認めはしないのは、彼らは自然的な光(ルーメン)の中にのみいて、この光は霊的な生命に比較すると、夕の暗黒が真昼時の光に対する関係に等しいためである。更に、そうした者らには暗黒は光のように見えるのである、なぜなら彼らの内的な視覚は―それはその思考の視覚であるが、それは―その暗黒に適応していて、そのことは丁度ふくろ、こうもり、夜間飛びまわる他の鳥の視覚が暗がりに適応していることに全く似かよっているからである。

 

従って、彼らは、論じることが出来るため、自ら光の中にいると信じてはいるものの、暗黒の中にいるのである。それがそうであることは、こうした者らが霊となる死後のそうした者らの状態から明らかである。その時彼らは、その仲間と共になるときは、その周囲に在る全ての事柄を見るのみでなく、また何であれいかような事柄についても考え、話すことが出来るため、自らは光の中にいる、と信じはするものの、その光は、天界の光が彼らのもとへ流れ入ってくると、暗黒に変わってしまい、彼らはその理解の方面では全く考えることは出来ないほどにも盲目になってしまうのである。更に、諸天界にいる天使たちがそうした光の中にいる者らを見下ろすと、彼らは単なる暗黒以外には何一つそこには見はしないのである。

 

霊的な生命は霊的な生命から分離した道徳的生命に比較されると、それは目覚めている状態が、眠りに比較されるようなものであることは、更に以下のことから認めることが出来よう、即ち、霊的な光の中にいる者たちは天使の持つ知恵と理知の中におり、その知恵と理知とは自然的な光の中にのみいる者らには把握出来ないもの、言語に絶したものといったものであり、しかもそのことは人間のもとに、その者が世に生きている間にも起るのであり、またその人間が死後霊となるときも、その者のもとに起るのであり、そのときは理知と知恵とが目を覚ましている状態を構成しているのである。このことから、ここの『目を覚ましていなさい』は、彼らが彼ら自身のために霊的な生命を得なくてはならないことを意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

真の基督教384(2)

 

基督教国にあっても主と聖言を斥ける者は、たとえ道徳的な生活を送り、信仰に就いてさえ合理的に語り、教え、また書くにしても、何等信仰を持たない。

 これは前に述べた凡てから推論される。何故なら、真の唯一の信仰は主に対する、また主から発する信仰であり、若し、そうでないならば、それは霊的な信仰ではなく、自然的な信仰であり、而して単に自然的な信仰は信仰の本質を欠如していることが示されたからである。更に、信仰は聖言から由来し、他の如何なる起源をも持つことは出来ない。何故なら、聖言は主から来り、主は聖言の中にいまし、それ故、主は自らは聖言である(ヨハネ1・1、2)と語り給うからである。かくて、主と聖言とは一である故、聖言を斥ける者は主をもまた斥け、更に主か或は聖言かその何れかを斥ける者は、主からその聖言によって存在する教会をも斥け、更に教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される者は呪われた者の間にあり、何等信仰を持たないことが推論される。

 

 

 

真の基督教574

 

自然的な人は、その意志の方面では獣以外の何ものでもないが、その理解の方面では、獣とは相違している。何故ならこれは意志の諸々の欲念を発見し、これを抑制するために、その欲念の上に挙げられることが出来るからである。これが人間は考え、かつ語ることが出来るが、獣にはそれが出来ない理由である。人間の性質は生来如何なるものであるが、それは人間が再生しない限り如何なるものになるかは、凡ゆる種類の野生の動物の中に見られ得よう。彼は虎、あめりか虎、豹、野猪、さそり、ふくろ蜘蛛、蝮、鰐等になるであろう。それ故、彼は再生によって羊に改変されない限りは、地獄の悪魔達の間の一人の悪魔以外の何ものであろうか。それ故人間は法律によって抑制されないならば、彼らはその生来の凶暴性に駆られ互いに他に襲いかかり、これを殺し、あるいはこれから掠奪しないであろうか。人間は生来、サチルスであり、妖怪であり、蛇であり、再生がなければ、猿となるであろう。彼らは内なる心を隠そうとして、外的な道徳性を採用するに過ぎないのである。

 

 

 

神学論文集P72

 

質問「なぜ私は哲学者であることから選ばれたのですか。」

 

答え。このことの原因は以下のことであったのです。即ち、現今啓示されつつある霊的な事柄は自然的に、また合理的に教えられ、理解されることが出来るのであります、なぜなら霊的な真理は自然的な真理と相応しているものを持っているからですが、そのことは霊的な真理は自然的な真理の中に終結しており、自然的な真理の上に基礎づけられている為であります。人間の凡ゆる物に、同じく地の凡ゆるものに、凡ゆる霊的なものが相応していることは「天界と地獄」(87−102及び103−115番)に見ることが出来ましょう。そうした理由のため、私は主により先ず幾多の自然科学へ導き入れられ、かくて準備されたのであり、実に、1710年から1744年に至るまで準備されたのであり、1744年に至って天界が私に開かれたのです。人間はことごとくまた自然的なものにより霊的なものへ導かれます。なぜなら人間は自然的なものとして生まれ、教育により道徳的なものとされ、後に、主から再生することにより霊的なものとなるからです。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P161

 

先進国の生活方式の外側ばかりを真似て、発展へと導く基本原則をわきまえずにいれば、身の破滅を呼ぶだろう。

 この世の諸政府は、神が王である天上の政府の影にすぎない。あらゆる善と秩序の本源である神が政治家と国民、支配する者とされる者の心の中にいなければ、この世の諸政府はいつか滅びるのである。神なしに道徳生活を送ろうと欲する者もいるが、このような人々は、神が存在しなければどのような道徳も空虚で死んだに等しいものであることを忘れている。

 

 

 

 

3.ベルナルド

 

 

ベルナルド/雅歌について/第二巻P56

 

イエズス・キリストこそ神の善徳だということを知らない者が、どうして世のいわゆる徳と関わり合いを持つことができるのでしょうか。枢要徳である本当の“賢徳”は、イエズス・キリストの教えの中にこそあるのです。本当の“義徳”は、イエズス・キリストのあわれみの中にこそあるのです。本当の“節制”は、イエズス・キリストの生活の中にこそあるのです。本当の“勇気”は、イエズス・キリストの受難の中にこそあるのです。

 そんな訳で、キリストの教えに精通している者だけが、賢者と呼ばれる資格があるのです。キリストのあわれみによって、自分の罪の赦しをいただいた者だけが、義人と呼ばれる資格があるのです。キリストの生き方をまねようと努力している者だけが、禁欲者と呼ばれる資格があるのです。逆境にあってキリストの忍耐のひな型をいつも実行している者だけが、勇者と呼ばれる資格があるのです。だから、善徳の主キリスト以外の所に善徳があると信じて、主キリスト以外の所に善徳を探し求めている者は、無駄な努力をしているのです。なぜなら、キリストの教えこそ、賢徳の源だからです。キリストのあわれみこそ、義徳の泉だからです。キリストの生活こそ、節制の鏡だからです。キリストの死こそ、あらゆる勇気の手本だからです。このキリストにこそ誉れと栄光が世々にありますように。アーメン。

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P7

 

 魂のいのちは神です。霊魂は信仰を持っているので、他の全ての徳を自分のうちに接ぎ木します。信仰は心の中の王様であり、他の徳はその周りで家臣のように仕えます。信仰なしには、他の徳はいのちを保てません。