道徳神学
新しいエルサレムとその天界の教義256
現在諸教会には信仰の教義が教えられて、仁慈の教義は教えられていない、後者は道徳神学と呼ばれる科学に引き下げられている(2417番)。
黙示録講解902[6]
更に考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中に置かれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座が置かれたか。それらの戒めが置かれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生贄と香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、彼は倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。彼らの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。
天界の秘義987
再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することが出来ると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪にすぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。すなわち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、即ち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復讐、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験により私に示されたのである。