「しかし、サルディスには、少数ながら

衣を汚さなかった者たちがいる」

黙示録3・4

 

 

社会的・道徳的

 

 

黙示録3・4

「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。

 

 

 

 

黙示録講解195イ

 

4節。「あなたはサルデスにおいてすら、その着物を汚してはいない若干の名を持っている」は、聖言から得た善と真理とにかかわる知識を生命[生活]に適用することにより、霊的な起原[原因]から道徳的な生活を送っている者たちを意味している。そのことは『名』の意義から明白であり、それは人間の生命の状態の性質であり(前の148番を参照)、それで、ここでは、『名』はそうしたものである人間である。それはまた『サルデスの教会』の意義から明白であり、それは、聖言から発生している真理と善との知識を殆ど顧慮しないため、道徳的な生活を送ってはいるが、霊的な生活を送りはしない者らであるが(前の、148、182番をまた参照されたい)、ここでは霊的な起原[原因]から道徳的な生活を送っている者たちである、なぜなら『その着物を汚していない』と言われているからである。それは『着物[上着]』の意義が自然的な人における知識と認知[認識]であることからも明白である。それで、『着物を汚さないこと』は自己と世とのために生きることを意味しないで―それは身体とその生命のためにのみ生きることであるが、そうしたことを意味しないで―主と天界とのために生きることを意味し、それは魂とその生命とのために生きることである。このことから以下のことが明らかである。即ち、『あなたはサルデスにすらその着物を汚してはいない若干の名を持っている』は、聖言から発した真理と善とにかかわる知識をその生命[生活]に適用することにより霊的な起原[原因]から道徳的な生活を送っているような者たちを意味しているのである。

 

 

 

黙示録講解195イ(2)

 

しかし霊的な起原から道徳的な生活を送ることはいかようなことであるかを、また聖言から得た真理と善とにかかわる知識をその生命[生活]の幾多の用に適用することはいかようなことであるかを僅少な者しか知ってはいないため、それを述べよう。人間は、宗教から道徳的な生活を送るとき、即ち、何か悪い、不誠実な、または不正な事柄が現れるとき、それは神的な律法[神の律法]に反しているため、そのことを行ってはならないと考えるとき、霊的な起原から道徳的な生活を送っているのである。人間は、神的な律法[神の律法]に対する服従[尊敬]からそうしたことを行うことを慎むとき、自らのために霊的な生命を得るのであり、その者の道徳的な生命[生活]は霊的な生命から発しているのである、なぜなら、そうした幾多の思いと信仰とにより人間は天界の天使たちと交流するのであり、天界と交流することによりその者の内なる霊的な人は開かれ―その内なる霊的な人の心は、天界の天使たちが持っているような高い心であり―そのことにより人間は天界の理知と知恵とに浸透するからである。このことから、霊的な起原から道徳的な生活を送ることは宗教から生きることであり、教会の中では、聖言から生きることであることを認めることが出来よう、なぜなら宗教からまた聖言から道徳的な生活を送る者たちはその自然的な人の上方へ高揚され、かくてその者自身のもの[proprium]の上方へ高揚されて、主により天界を通して導かれるからであり、従って彼らは信仰を、神を恐れる心を、良心を持っており、また真理に対する霊的な情愛を持っており、その情愛は聖言から発した真理と善とにかかわる知識に対する情愛である、なぜならこうした人間にはその知識は神の律法であり、それに従って彼らは生きるからである。異教徒の多くの者たちはそうした道徳的な生活を送っているのである、なぜなら彼らは、悪はその宗教に反しているため、それは行ってはならない、と考えるからであり、そのことが彼らの極めて多くの者が救われる理由である。