外なる束縛

良心

社会的・道徳的道徳神学

 

 

 

天界の秘義1835[2]

 

 為し得る限り主は絶えず幾多の悪と誤謬とを逃走させられているが、しかしそれは良心を通して行われているのである。良心が弛緩している時は、主が流れ入られることが出来る手段となる媒介は存在しないのである、なぜなら人間のもとに主が流入されるのは人間の良心の中へ仁慈により流入されることによっているからである。しかしこの仁慈に代って新しい媒介物が続いて起こり、形作られるが、それは外なるものである、即ち、それは法律を恐れる恐怖、生命に対する、名誉と富とそれらのものから発する名声に対する恐怖である。しかしこれらは良心に属してはいない、それらは単に、その人間は内的にはいかようなものであろうとも、その人間を他の者との交わりの中に生かし、友達として見させる外なる束縛に過ぎないのである。

 

 

天界の秘義1835[3]

 

しかしこの媒介は、またこれらの束縛は他生では無価値である、なぜならそこでは外なるものは取り除かれて、人は各々その者が内なるもののうちであるがままに止まるからである。道徳的な、公民的な生活を送り、何人も害ってはおらず、友情と儀礼に適った行為を行い、否、多くの者に善を為しはしたが、しかしそれは単に名誉と利得といったものを得ようとの目的から自己のために行ったに過ぎない極めて多くの者がいる。他生ではこれらの者は奈落の者らの間にいるのである、なぜなら彼らは内に善と真理を何ら持っていないで、単に悪と誤謬のみを持っているに過ぎず、否、憎悪と復讐と残酷と姦淫のみを持っているに過ぎないからであり、それらのものは人間の前には、即ち、今し方言及した、外なる束縛である恐怖が支配している限り現われはしないのである。

 

 

天界の秘義1944

 

「見よ、あなたは身篭っています」。これは合理的な人の生命を意味していることはそれが身篭ったことについて言われていることから、またイシマエルについて以下に言われていることから、即ち、彼により主における最初の合理的なものが意味されていることから明白である。全般的に合理的な人については以下のことを知っておかなくてはならない、すなわち、その人間が自分自身の中にある悪と誤謬とは真理と善とを否定し、それに対立しているものであることを考え始めるとき、合理的な人は生命を受け、胎内に宿り、生まれると言われるが、そのことはその人間がこの悪と誤謬とを遠ざけて、それを征服しようと欲する時は、尚更言われるのである。彼がそのことを認めて、知覚するようになることが出来ない限り、自分はその合理的なものを持っているといかほど想像するにしても、何らそれを持っていないのである。なぜなら合理的なものは内なる人を外なる人に結合させ、そのことによって外なる人を、その外なる人がその中に沈んでしまっているところの形体的な地的なものから引き上げて、その人間を人間であるようにさせ、また人間にその人間が生来そこに属している天界を見上げさせ、しかも単に彼が宿っているに過ぎない地を、専ら見させない、そこでは人間は単に一時の間の宿り人[滞在人]に過ぎない地のみを獣のように凝視させない、ましてや地獄を凝視させはしない媒介的なものであるからである。これらのものが合理的なものの任務であり、それで人間はこのように考えることが出来る者でない限り、合理的なものを持っているとは言われることは出来ない、そして合理的なものが存在するようになっているか否かは、その人間の用または任務におけるその人間の生命から知られるのである。

 

 

天界の秘義1944[2]

 

善と真理とが心で否定され、またその善と真理とがそれについて聞くことによって知られているに過ぎないのに、その善と真理とに反抗して論じることは、合理的なものを持っていることではない、なぜなら何らの抑制も無しに凡ゆる邪悪に向って公然と突入する多くの者でもそれを行うことが出来るからである。唯一の相違は、自分は合理的なものを持っていると想像はしているが、それを持っていない者らは、その談話の中に一種の礼儀を守っていて、尊さを装って行動はするが、しかし彼らは法律を恐れる恐怖、財産、名誉、名声、生命を失いはしないかとの恐怖といった、外なる束縛により、そうしたものの中に縛りつけられているということである。もし外なるものであるこれらの束縛が仮にも取り去られるとするなら、これらの人間のある者は、何の抑制も持たないで邪悪な行為に突入する者よりも更に狂ってたわ言をまき散らしており、それで単にその者が論じることが出来るということで合理的なものを持っているとは言われることは出来ないのである。事実は合理性を持たない者らは、それを持っている者たちよりもはるかに巧妙に感覚と記憶知の色々なものから普通論じているということである。

 

 

天界の秘義1944[3]

 

このことは他生における悪霊らから極めて明白である、彼らはその身体の中に生きていた間はひときわ合理的なものであるとして考えられたものの、他生ではすべての者に普通起ってくるように、彼らに端正に論じさせ、生命の尊さを偽装させた外なる束縛が取り去られると、彼らはこの世で明らかに狂っている者よりも更に狂うのである、なぜなら彼らは戦慄も恐怖も、恥辱も無しに凡ゆる邪悪へ突入するからである。この世に生きている間に合理的なものであった者たちはそうではない、なぜなら外なる束縛が彼らから除かれると、彼らは内なる束縛を―良心の束縛を―持っていて、その束縛により主は彼らの思考を彼らの合理的な原理であった真理と善との法則に結びつけられていたため、彼らはさらに健全なものとなるからである。