主は聖言の中に現存される

 

主は聖言を通して語られる

連結臨在現存

 

 

 

1.聖言の凡ゆる事柄は主から発し、主に関わるものであるため、主は聖言の中に現存されておられる

2.主が聖言の中に来られて、現存された

3.主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言による

 

 

 

 

 

 

1.聖言の凡ゆる事柄は主から発し、主に関わるものであるため、主は聖言の中に現存されておられる

 

 

天界の秘義4060〔5〕

 

「その時人の子のしるしが天に現れるであろう」

 

は、その時神的真理〔神の真理〕が現れることを意味し、『しるし』は現れることを、『人の子』は神的真理の方面の主を意味している(

2803、2813、3704番を参照)。

 

(中略)

なぜならすでに再三示されたところから認めることが出来るように、聖言の凡ゆる事柄は主から発し、主に関わるものであるため、主は聖言の中に現存されておられるからである。この後のことが『人の子のしるし』によりここに意味されている出現であり、そのことがこの節に記されているのである。

 

 

 

 

2.主が聖言の中に来られて、現存された

 

 

天界の秘義9405

 

「彼らはイスラエルの神を見た。」 これは主が聖言の中に来られて、現存されたことを意味していることは『見ること』の意義から明白であり、見られ給うたのが主である時は、それは主が来られて、現存〔臨在〕されることである(4198、6893番)。『イスラエルの神』が主を意味していることは、かれが『イスラエルの聖者』、『イスラエルの神』と呼ばれ給うている聖言の凡ての記事から明白である(7091番)。『イスラエルの神』が霊的な教会の神を意味していることは、『イスラエル』によりこの教会が意味されるためである(そのことについては前の9404番を参照)。『彼らがイスラエルの神を見た』により意味されていることは主が聖言の中に来られて、現存されることであることは、シナイ山から布告された律法により広い意義では神的真理の凡てが意味され、かくて聖言の各々の、また凡ての事柄の方面が意味していることは、聖言は主から発出している神的真理であり、主から発出しているものは主御自身であるためである。それで聖言を読むと同時に主を仰ぎ、真理はことごとく、また善もことごとく主から発していて、何一つ自分自身からは発してはいないことを承認している者たちは、聖言から明るくされて、真理を見、善を認めるのである。この明るくされることは天界の光から発しており、その光は主から発出している神的真理そのものである、なぜならこれは天界の天使たちの前には光として現れているからである(2776、3195、3339、3636、3643、3862、3993、4302、4413、4415、5400、6032、6313、6608番)。

 

 

 

 

3.主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言による

 

 

聖書78

 

 さらに、主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言によるのである。なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間といわば話されるからである。主はまた、聖言も同じく神的真理そのものであるように、神的真理そのものであられる。このことから、人間が聖言を理解するのに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である。なぜならその人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。主は実に人間のもとに聖言を読むことを通して現存されてはいるが、しかし聖言から真理を理解することを通して、またその理解に従って人間と連結されるのであり、そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。

教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会をもった幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかとたずねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17・21)

ここでは「神の国」は主を意味し、主から教会を意味している。