臨在

 

 

現存

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.主御自身はそのとき試練におかれている者たちのもとに直接に現存[臨在]されているのみでなく、また天使たちにより間接的にも現存され

3.トマス・ア・ケンピス

4.サンダー・シング

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義739

 

 あなたが水の中をすぎる時もわたしはあなたと共にいよう。川の中をすぎるときも、それはあなたの上に溢れはしないであろう。あなたが火の中を通って行く時も燃やされはしないであろう。焔はあなたの上に燃えはしない(イザヤ43・2)

 

 

天界の秘義840

 

 「神は憶えられた。」これは試練の終りと革新の始めとを意味することは前後の記事から明らかである。『神は憶えられた』は、特に、神が慈悲深くあられることを意味している、なぜなら神が憶えられることは慈悲であるからであり、そしてこれが特に試練の後に述べられているのは、新しい光がその時輝き出るためである。試練が続いている限り、人間は主は在さないと想像するが、それは彼が魔鬼に激しく悩まされてしばしば絶望し、神が在すとは殆ど信じることは出来ないからである。しかし主はそのとき彼が全く信じることも出来ない程に親しく臨在されているのである。しかし試練が止むと、その人間は慰安を受け、その時始めて主が臨在されていることを信じるのである。それ故現在わたしたちの前におかれた記事の中の、外観に応じて表現されている『神は憶えられた』という言葉は試練の終りと革新の始めとを意味している。『神』が憶えられたと言われて、『エホバ』とは言われていないのは、未だ人間は再生に先立つ状態にいたためであるが、しかし彼が再生すると、その時(本章の終りの20、21節のように)『エホバ』と言われるのである。その理由は信仰は未だ仁慈に連結していないということである、なぜなら人間は仁慈から行動するとき始めて再生したと言われるからである。仁慈の中にエホバはおられるが、仁慈に連結していない信仰の中にはそれ程おられはしないのである。仁慈こそ他生における人間の存在と生命そのものである、そしてエホバは存在と生命そのものであられるため、人間が存在し、生きていない中は、『エホバ』が彼とともにおられるとは言われないで、『神』が共におられると言われるのである。

 

 

 

天界の秘義904

 

「神はノアに語られた。」これはこの教会の人間のもとに主が現在[臨在]されたことを意味していることは聖言の内意から明らかである。主は人間各々のものと話されている、なぜなら人間が意志し[欲し]考える善い真のものはことごとく主から発しているからである。人間各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる。悪霊どもは彼の幾多の悪を刺激するが、天使たちは善い、真のものを吹き入れる。天使達により吹き込まれる善い、真のものはことごとく主のものであり、かくて主は絶えず人間のもとに語られているが、しかしそれは人間各々により全く異なっている。自分自身が悪霊どもにより導き去られるのに甘んじる者らのもとでは、主は恰も在したまわないかのように、または遠くから、語られるため、それで主は語られつつあるとは殆ど言われることは出来ないが、しかし主によって導かれつつある者たちのもとでは、更に近く現存されているものとして語られるのであり、このことは何人も主から善い真のことを考えない限り、善い真のことは一つとして決して考えることは出来ないという事実から充分に明らかとなるであろう。

 

 

天界の秘義904[2]

 

主の臨在はその人間がその中におかれている隣人に対する愛と信仰の状態に応じてその人間について述べられる。主は善の凡ての中におられるため、隣人に対する愛の中に主は現存[臨在]されているが、しかし主は、愛のない、信仰と言われているものの中にはそれ程現存されてはいない。愛と仁慈のない信仰は分離した、または結合していないものである。連結の在る所には凡て連結させる媒介物がなくてはならないのであって、それは愛と仁慈以外の何ものでもない、このことは主はたれにも慈悲深くあられ、たれをも愛され、たれをも永遠に幸福にしようと欲しておられるという事実から凡ての者に明白であるに違いない。それ故他の者に慈悲深くあり、その者を愛し、その者を幸福にしようと欲するといった愛を持っていない者は、主に似ていないし、また些かも主の映像を宿していないため、主に連結することは出来ない。彼らが言っているように、主を見上げて、しかもそれと同時に隣人を憎むことは単に遥か彼方に立つことであるのみでなく、自分自身と主との間に地獄の深淵を持つことであって、もし彼らが万が一にも更に近づきでもするなら、その深淵に落込んでしまうであろう。なぜなら隣人に対する憎悪は間に介在する奈落の深淵であるからである。

 

 

 

天界の秘義904[3]

 

人間が隣人を愛する時始めてその者の許に主の現存[臨在]が可能となる。主は愛の中におられ、人間が愛の中にいるに比例して、主は現存[臨在]され、主が臨在されるに比例して主は人間のもとに語られるのである。人間は自分は自分自身から考えているとしか考えてはいないが、事実は人間は人間自身からは只一つの観念[考え]さえも得ておらず、一つの観念の最小のかけらさえも得ていないのであって、悪い誤ったものは地獄から悪霊等を通して得ており、主からは天使たちを通して善い、真のものを得ているのである。かくのごときが人間における流入であり、その流入からかれの生命が発し、かれの霊魂と身体との交流が発しているのである。これらの事から『神はノアに話された』という言葉の意義が明らかである。かれがたれかに『言われること』の意味と(例えば創世記1・29,3・13、14、17、4・6、9、15、6・13、7・1)かれが『話されること』との意義は異なっている。ここでは、かれがノアに話されたことは現存[臨在]を意味している、なぜなら仁慈を与えられた再生した人間が今主題となっているからである。

 

 

 

天界の秘義905

 

「箱舟から出なさい。」(創世記8・16)

 

これは自由を意味していることは前に言われたことから、また文の前後の関連そのものから明らかである。ノアは箱舟の中にいて、洪水に取りかこまれている限り、その意味は彼は捕らわれていたということであり、すなわち、いくたの悪と誤謬とにより、またはそれと同一の、悪霊らにより翻弄されていたということであった。ここから『箱舟を出る』ことは自由を意味するということが生まれてくる。

 

主の臨在は自由を含んでおり、その一方は他方に続いて起っている。主が臨在されるに比例して益々人間は自由となるのである、すなわち人間は善と真理との愛の中に止まるに比例して益々自由に行動するのである。かくのごときが天使たちを通して注がれる主の流入である。しかし他方悪霊らを通して注がれる流入は強制的であり、性急であり、威圧しようと力闘する、なぜならこうした霊どもは人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいないからであり、そしてその霊どもが一切のものとなった時、人間はその悪霊どもの中の一人となり、否それですらなくなるのである。なぜならかれらの眼前にはかれは全く何ものでもないからである。それ故主がその人間を彼らの主権[支配]と軛から解放されつつある時、争闘が生まれるのである。

 

しかしその人間が解放されたときは、すなわち再生したときは、彼は主により天使たちから仕えられて、軛または主権のいかようなものも何一つないほどにもおだやかに導かれるのである。なぜなら彼は彼の歓喜と彼の幸福とにより導かれ、また愛され尊重もされるからである。これが主がマタイ伝に教えられるところであり―

 

 わたしの軛は易く、わたしの荷は軽い(11・30)、

 

そしてこれは悪霊の軛の下におかれている時の人間の状態とは正反対のものである。なぜなら彼らは、今述べたように、その人間を無価値なものとして考え、得べくば、各瞬間毎にかれを責め苛もうとしているからである。このことを多くの経験によりわたしは知ることができたのであって、そのことについては主の神的慈悲により後に述べよう。

 

 

 

天界の秘義981

 

 『神は祝福された』が主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]を意味することは『祝福する』の意義から明白である。『祝福する』は、聖言では、その外なる意義では、―古代の、また現代のユダヤ人のように、また特に現今の基督教徒のように―外なる意義に止まっている者らにより与えられている聖言の説明に従って、凡ゆる地上的なまた形体的な善をもって富ませることを意味しており、それ故かれらは神の祝福を富から、凡ゆる物が豊富であることから、また自己の栄光から成立させたのである。しかし内意では『祝福すること』は凡ゆる霊的な天的な善を以って豊かにすることであり、その祝福は主によらなくては存在しないし、また決して在り得ないのであり、そのためそれは主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]とを意味しており、その現存と恵みとが必然的にこうした霊的な天的な善をもたらすのである。現存と言われているのは、主はひとえに仁慈の中におられ、ここにとり扱われている主題は仁慈から行動する再生した霊的な人であるためである。実に主は人間各々のもとに現存[臨在]されているが、しかし人間が仁慈から遠ざかるに比例して、主の現存[臨在]は―いわば―欠如してしまい、すなわち主は遠ざかりたもうのである。恵み[恩ちょう]と言われて、慈悲と言われていない理由は―わたしの推測するところでは、今まで知られなかったところの―以下の理由によっているのである。すなわち、天的な人間は恵み[恩ちょう]のことを語らないで、慈悲のことを語るに反し、霊的な人間は慈悲のことを語らないで、恵み[恩ちょう]のことを語るのである。こうした言い方は以下の事情に根ざしているのである。すなわち天的な者たちは人類を汚れたもの以外の何ものでもなく、それ自身においては排泄物のようなものであり、奈落のものであるとして承認しており、それでかれらは主の慈悲をねぎまつるのである。なぜなら慈悲はこのような事態に述べられるからである。しかしながら霊的な者たちは人類はこのような性質のものであることは知ってはいるものの、それでもかれらはかれら自身のものの中に止まっていて、そのかれら自身のものを愛しているため、それを承認してはいないのであり、それで慈悲のことを語るには困難ではあるが、恵み[恩ちょう]のことは容易に語るのである。言語上のこうした相違は卑下の相違から発しているのである。人間はたれでも自分自身を愛し、自分自身で善を行い、かくて救いに価することができると考えるに比例して、主の慈悲をねぎまつることはできない。若干の者が恵み[恩ちょう]をねぎまつることができる理由は、それが習慣的な言葉の形式となってしまって、その中には主のものはほとんど存在していないで、自己のものが多く存在しているということであり、このことはたれでも自分自身の中に、主の恵みを口にしている間に、発見することができよう。

 

 

 

 

2.主御自身はそのとき試練におかれている者たちのもとに直接に現存[臨在]されているのみでなく、また天使たちにより間接的にも現存され

 

 

天界の秘義6574

 

他生では主は奈落の霊どもが善良な者を試練に引き入れることを許され、従って悪と誤謬とを注ぎ入れることを許されているが、悪霊らはまたそのことを力を尽くして行っているのである、なぜなら彼らはそれを行っているときは、その生命と歓喜の中にいるからである。しかし主御自身はそのとき試練におかれている者たちのもとに直接に現存[臨在]されているのみでなく、また天使たちにより間接的にも現存され、奈落の霊らの誤謬を反駁することにより、その悪を消散させることにより、かくて活気と希望と勝利を与えられることによって抵抗されるのである。かくて善の諸真理の中にいる者たちのもとには、信仰の諸真理と仁慈の諸善とはさらに内的に植え付けられ、またさらに強く確認されるのである。これが霊的な生命を与えられる手段である。

 

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・30・3

 

あなたが自分でわたしから遠く離れていると思っている時、かえってわたしのあなたに近づいていることが往々ある。

 あなたがほとんどすべてを失ったと思う時、いっそう大きい利益の近づいていることが往々ある。

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

 祈りの人が祈りの裡に感じとる名状しがたい平和は、想像や思考の産物ではなく、その人の霊魂に神が臨まれた結果である。池から立ち昇る程度の水蒸気では、巨大な雲を形成して雨を降らせることは到底できない。乾ききった大地を潤し肥沃にするほど大量の雨を含む巨雲は、大海からしか湧き起こらない。同様にして、われわれに平和がくるのも、小さな潜在意識からではなく、絶えず祈りの中で触れる神の愛という無限の大海から来る。

 

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P181

 

わたしがどのような状況におかれていようとも、主の臨在は、あらゆる理解を超越した平和をわたしに与えてくれる。迫害の最中にあっても、わたしは平和と歓喜、幸福を見る。わが救い主から得たものは、誰にも奪うことはできない。家に入れば、主はそこにいる。獄舎に入っても、主はそこにいる。主によって、牢獄は天と化し、十字架は祝福の本源となった。主に従い十字架を負うことは、あまりに甘美で尊いがため、天に行って負う十字架がなければ、わたしは必要とあらば地獄にでも、使節として送られることを主にお願いする。少なくとも、十字架を負う機会がそこで見つかるように。主の臨在は、地獄さえも天に変えしめる。ものいえぬ人が蜜の甘みを言葉に表せないように、救われた罪人も、心に感じる主の臨在の甘美さを表現することはできない。この天的平和を十分に表現できるのは、天上の言語のみである。この世の危険、誘惑、罪、悲しみの真只中にいても、生命を与えてくださった主を通してわたしたちは救われる。海は塩分に満ちているが、魚はその中でも元気に生きている。彼らは塩化しない。それは、生命を持っているからである。そのように、われわれが主から生命を受けていれば、この世にあってもこの世のものではない。この世ばかりか、天においてもわれわれは主の中に自分を見る。

今のわたしは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は、心(ハート)を明け渡すときのみ主を見出す。心(ハート)はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P192

 

教会がキリストの体と呼ばれているのは、キリストとクリスチャンが主人と使用人の関係にあるからではない。それ以上の関係である。クリスチャンはキリストの各部である。彼らはキリストの仲間であるばかりか、キリストご自身を形作っているのだ。主は彼らを通して呼吸されている。

キリストは常に教会に現存するが、目には見えない。人が心の内に崇敬の念を感じ取れば、それは主の臨在をかすかに認めていることである。もっとも、主は自由意志に干渉してまで、無理にその臨在を感じさせようとはなさらない。われわれがその能力に応じて感得することを許されている。実際、主はどんな場合にも強制はなさらず、ただ引き寄せるだけである。

目薬は目の前におかれているときのみ目に見える。それが目に入り、目に清涼感を与え癒しているときには、見ることはできない。同じように、われわれの心を清め、その臨在感で歓びを与えてくださっている主を、見ることはできない。

キリスト者は永遠の生命を持っている。それは、彼の結ばれている神が永遠だからである。