律法

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義6752[3]

 

 それほど広くない意味の『律法』は歴史的な聖言であることは以下の記事に明白である―

何であれ、あなたらが人からしてもらいたいものをことごとくあなたらも人にしなさい、これは律法であり、予言者であります(マタイ7・12)。

ここに聖言は律法と予言者とに区別されており、そして聖言は歴史的なものと予言的なものとに区別されているため、『律法』により歴史的な聖言が意味され、『予言者』により予言的な聖言が意味されていることが生まれている。

 

この二つの戒めに律法と予言者とがかかっています(マタイ22・40)。

律法と予言者とはヨハネまでであった。その時から神の国は宣べ伝えられています(ルカ16・16、マタイ11・13)。

 

 

 

天界の秘義7463[4]

 

『律法』は広い意味では聖言全体であり、それほど広くない意味では歴史的な聖言であり、さらにそれほど広くない意味ではモーセにより書かれた聖言であり、狭い意味では十戒の戒命であることについては、6752番を参照されたい。この凡てから今やモーセは律法の神的なものを、また真理の神的なものを表象していることを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義8972〔2〕

 

 主からイスラエルの子孫に定められ、命じられもした律法は、『戒め』、『審判〔掟〕』、『教令〔法令〕』に分けられた。生命〔生活〕に属したものは『戒め』と呼ばれ、法治国に属したものは『審判〔掟〕』と呼ばれ、礼拝に属したものは『教令〔法令〕』と呼ばれたのである。特に『審判』については、それは本章に、また本章以下の幾多の章に含まれているものである。それらは天界と教会とに属している内なるものが外なるものにより表象されている教会では律法として役立ったのである。しかしそれらは、基督教会内のように、内なる物が最早外なる物により表象されていない教会では律法としては役立たないのである。その理由はこの教会の人間には内なる物が啓示され、それで天界との交流が内なるものにより行われて、以前のように外なるものによっては行われはしないということである。これが基督教会の人は『審判〔掟〕』、と『教令〔法令〕』と呼ばれているものをその外なる形で守る必要はなくて、それをその内なる形で守らねばならない理由となっている。にも拘らずその中に聖いものが宿っていることは、生贄について聖言に命じられている一切の物と同じく、それがその内に聖い事柄を含んでいるためである。こうした物は廃止されてしまったものの、それでもそれはその中に在って、それにより表象されている神的なものにより聖言の聖いものとなっているのである。なぜならそれが基督教徒により読まれている時、その中に在って、表象された神的なものが諸天界で認められ、天使たちを聖いもので満たすと同時に、その天使たちから発する流れが、(それを)読んでいる人間を、特にその人間自身がその中に存在している神的なものを考えるなら、満たすからである。このことから旧約聖書の聖言さえも極めて極めて聖いものであることが明らかである。

 

 

 

真の基督教288

 

聖言には律法がしばしば記されている。我々は今やこれが厳密な意義において、また更に広い意義において、更に最も広い意義において何を意味しているかを述べてみよう。厳密な意義では、律法は十誡を、更に広い意義ではモーゼによってイスラエルの子らに与えられた教令を、最も広い意義では聖言の全部を意味しているのである。

厳密な意義では、律法は十誡を意味することは良く知られているが、しかし、更に広い意義ではモーゼによりイスラエルの子らに与えられた教令を意味していることは、レビ記の特殊の教令がそのように呼ばれていることによって明白である。

 

 

 

真の基督教288

 

実に、モーゼの全著作が律法と呼ばれている(申命記31・9、11、12、26)。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P12

 

 律法を守る者には何が約束されているか? 繁栄、豊かさ、平和、権力、すこやかな数多い子孫、敵に対する勝利だ、なぜなら主は、いと高き者の子供たちに向かって手を振り上げようとする人々に反対し、そのしもべたちの剣の上に乗っておられるだろうから。律法に背く者は何におびやかされるのか? 飢饉、窮乏、戦争、敗北、疫病、神から見放されること、敵の重圧であり、これによって、いと高き者の子らは、すでに迫害され、殺戮に定められたおびえる家畜の群に似たものになるだろう。

 あなたたちは生きている今を嘆いている。しかしあなたたちはそれを不当だと思っているのか? そのきびしさはあまりにも酷だと思うのか? いいや。それは正当であり、あなたたちに価するものよりも軽いものだ。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P41

 

「(前略)むしろ神は愛であると思い出しなさい。神は人間を見渡しておられるが、それは破滅させるためではない。太陽の光が自然界を眺めておられる。それは人間を照らすものであって、矢を射るように刺し通すものではありません。それにまた・・・愛は人に何を命じるでしょうか?覚えきれない法律の条項でしょうか?いやいや“十の掟”だけです。それは手綱がなければ、どこに駆け出すか分からない若馬のような、人間という動物を規制するためです。

 

しかし人間が救われ、聖寵が返り、神の国、つまり愛の国が到来するとき、神の子らに命じられることは、一つだけでしょう。しかもその命令には、すべてが含まれています。『ひたすらに神を愛し、隣人を自分のように愛せよ』愛である神が、くびきを軽く優しくすることが、できないと思っているのですか。愛だけが、神に仕えること、恐れではなく、愛してくださる神に仕えることを容易にします。愛そのものとして愛され、兄弟たちにおいて愛されている神。そうなれば、究極の律法はいとも簡単になります。

 

その単純さにおいて、完全である神と同じように。神をひたすら愛し、隣人を自分のように愛しなさい。このことを黙想しなさい。六百十三の重い掟、様々の祈りと祝福詞は、今、言ったことばにすべて含まれます。愛の掟は、神に対して奴隷となった人々の無益な理屈を拭い去ります。神を愛しているなら、確かに何時でも神を尊ぶだろうし、隣人を愛しているなら、隣人に対してつらく当るはずはありません。偽りも言わず、盗みもせず、殺したり傷つけたりもせず、姦通もしません」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P44

 

「そうだろうか。私を選ぶとは、どういうことか分かっているだろうか。それは人間としての魅力のためでもあろう。“私を選ぶことは、神の古の律法と似ていても、この新しい教えは、今の律法とは全く違う。新しい教えは、神の古の律法と同じであるが、長い世紀にわたって、人間が積み重ねた数知れぬ法律の集まりとは違う。

 

今の律法は神からのものは何一つ持っていない法典に過ぎない”イスラエルの庶民であるあなたたち、それに一部の義人も、律法学士とファリサイ人の形式ばかりの理屈、それにその頑迷さについて嘆き、かつ非難しているが・・・あなたたちが、それに全然染まっていないとは言えない。とはいえ、それはあなたたちの責任ではない。何世紀もの間、ヘブライ人は、神の超自然的な律法を勝手に操作する律法学士やファリサイ人と同じ、形式ばかりの理屈でがんじがらめにされた社会に深く影響されてきました。

 

知っての通り、何年もの長い間、自分の祖国を離れて他の国で生活すると、そこで生まれた子供たちは、そこに住んでいる人々と同じようになってしまう。元の国の人の外形さえも失ってしまうほど、その風土に慣れるが、同時に道徳的習慣、そして残念ながら、祖先の宗教も失う場合が多い。ほら、向こうから他の人たちがやって来ます。あの街道へ出ましょう」

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P26

 

 あらゆる過ちと、あらゆる嘲りは、に罰せられるだろう、は決して嘲笑を受けられず、より小さい人々を抑圧することは許されないゆえに、とは言われる。

 だが、マリアよ、一つのことに注意しなさい。より小さな人々の方からも律法に対する尊敬が必要です。守らねばならない。それはあなたたちがいつもと共にいるためだ。