第2誡

 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

 

 

十戒(出エジプト20)

“霊”に対する冒涜は赦されない(マタイ12・31)

 

 

 

 

 

出エジプト20・7

 

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 

 

 

1.自然的意義:御名そのものの濫用

2.霊的意義:空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いること

3.天的意義:御霊の冒涜は赦されない

4.マリア・ワルトルタ(ヴァルトルタ)

 

 

 

 

 

1.自然的意義:御名そのものの濫用

 

 

真の基督教297

 

「汝の神エホバの名を妄に口にあぐべからず、エホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」

 

自然的な意義では、神エホバの名を妄に口にあぐることは、種々な方法によって、特に虚言を弄すること、不必要な誓言を為すこと、無罪を抗弁すること、魔術、呪文にその御名そのものを濫用することを意味する。

 

しかし戴冠式に、祭司職に就任する際に、あるいは責任の重大な地位に挙げられる際に、神とその聖さによって、あるいは聖言と福音によって誓うことは、その誓が後に破棄されない限り、神の名を妄に口に上ぐることではない。更に、神の名は聖それ自体である故、祈祷、讃美歌、説教、神学書に於けるように、絶えず礼拝に、教会の聖なる務めに於いて語られるに違いない。

 

何故なら、神は宗教に関わる凡ゆるものの中に在し、その御名によって厳かに呼び求められる時、臨在し、聞き給い、凡てこれらのものによって神の名は崇められるからである。

 

神エホバの名はそれ自身に於いて聖いものであるため、ユダヤ人は、その名が用いられた最初の時から、敢えて「エホバ」とは決して言わなかった。そして彼らのために福音書記者たちも、使徒たちもこれを記していない。彼らはエホバの代わりに新約聖書中に引用されている旧約聖書の種々の記事に見られ得るように(マタイ22・37、ルカ10・27、申命記6・5等と比較せよ)「主」と語ったのである。

 

イエスの名もまた聖いことは、その名に於いて天界と地上の凡ゆる者は跪くという使徒の宣言によって良く知られている。その聖さの故に、地獄の悪魔は一人としてそれを口にすることは出来ない。エホバ、神エホバ、万軍のエホバ、イスラエルの聖者、イエス・キリスト、聖霊の如く妄に口に上げられてはならない多くの神の名があるのである。

 

 

 

 

2.霊的意義:空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いること

 

 

真の基督教298

 

「霊的な意義では」神の名は、教会が聖言によって教え、主が由って以って呼び求められ、礼拝されるところの凡ての物を総括的に意味する。それ故、神の名を妄に口にあぐることは、その何れかを空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いることを意味する、何故ならこれもまた神を罵り、冒涜し、従って神の御名を罵り、冒涜することであるからである。神の名は聖言を意味し、それ故、その上に基礎づけられている全宗教を意味することは、以下の記事によって明白である。

 

「日の昇る所より我が名は呼び求めらるべし」(イザヤ41・25、26・8、13)。

 

「日の出る処より、入る処まで、列国の中に我が名は大ならん。また何処にても香を我が名に献げん。なんじらエホバの台は汚れたりと言いて、わが名をけがしたり、汝ら裂かれしもの、足の傷付いたもの、病めるものを携え来りて、これを嘲りたり」(マラキ1・11−13)。

 

「いっさいの民はみな各々その神の名によりて歩む、然れども我らは我らの神エホバの名によりて歩まん」(ミカ4・5)。

 

「彼らはエホバがその御名を置き給う一つの場所に」(申命記12・5、11、13、18、16・2、6、11、15、16)。

 

すなわち、神がその礼拝を定め給う場所に礼拝すべきであった。

 

「二三人わが名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」(マタイ18・20)。

 

「されど彼を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となるの権をあたえ給えり」(ヨハネ1・12)。

 

「信ぜぬ者は既に審かれたり、神の独り子の名を信ぜざりし故なり」(ヨハネ3・18)。

 

「われ御名を彼らに知らしめたり、またこれを知らしめん」(17・26)。

 

「信じて汝らは御名によりて生命を得ん」(20・31)。

 

「イエス言い給う、我は汝の御名を人々にあらわせり、われ御名を彼らに知らしめたり」(17・6、26)。

 

主は語り給うた、「サルデスに数名あり」(黙示録3・4及びその他)。

 

前述の凡ての記事における神の名は、神から発するところの、しかしてそれに従って神が礼拝されるところの神性を意味している。イエス・キリストの名は救いにかかわる凡ゆるものを意味し、即ちイエスは贖罪による救いにかかわる凡てのものを意味し、キリストはその教義による救いにかかわる凡てのものを意味している。

 

 

 

天界の秘義2009[]

 

 十戒に―

 

  あなたはあなたの神の御名をみだりに[いたずらに]口に上げてはならない、エホバはその御名をみだりに口に上げる者を咎のない者とはされないからである(出エジプト記20・7、申命記5・11)。

 

 ここに『神の御名をみだりに[いたずらに]口に上げる』ことは御名を意味しているのでなく、神から発しているものをことごとく全般的にもまた個別的にも意味しており、それで神礼拝に属しているあらゆるものを全般的にもまた個別的にも意味しており、そのいかようなものも軽蔑してはならないのであり、ましてや冒涜したり、汚れたもので不潔なものとしてはならないことを意味しているのである。主の祈りに―

  

  あなたの御名がきよめられますように、あなたの王国[御国]が来ますように、あなたの御意志[みこころ]が、天におけるように、地にも行われますように(ルカ11・2)。

 

 ここにもまた『御名』により御名が意味されているのではなく、愛と信仰とのあらゆる事柄が意味されているのである、なぜならこれらは神または主のものであって、主から発しており、そしてこれらのものは聖いものであるため、それらがそのようなものとして考えられるとき、主の王国は来て、その御意志は天界におけるように地にも行われるからである。

 

 

 

 

3.天的意義:御霊の冒涜は赦されない

 

 

真の基督教299

 

「天的な意義では」神の名を妄に口に上ぐることは、主がパリサイ人に語りたもうたこと、即ち、凡ゆる罪と冒涜は人間に赦されるであろう、しかし御霊を冒涜することは赦されないことを意味する(マタイ12・31)。

 

御霊の冒涜は主の人間性の神性に対する、また聖言の聖に対する冒涜を意味する。主の神的な人間性は、神エホバなる名の天的な、最高の意義により意味されていることは、以下の記事によって明白である、

 

イエスは語り給うた。「父よ、御名の栄光をあらわしたまえ。天より声いでて、言う、われ既に栄光をあらわしたり、またさらに栄光をあらわさん」(ヨハネ12・28)。

 

「汝ら何事にても我が名によりて願わば、我これを為さん。父子によりて栄光を受けたまわんためなり。汝ら我が名によりて我に願わば、我これを為すべし」(14・13,14)。

 

主の祈りの天的な意義では、汝の御名の崇められんことをという語によっては、それ以外のものは意味されず、また出エジプト記23・21、イザヤ書63・16の名によってもそれ以外のことは意味されない。御霊の冒涜は主の言葉に従えば、決して赦されない(マタイ12・31)。

 

而して、この冒涜がこの誡命の天的な意義の中に意味されているため、「エホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」の語が附加されているのである。

 

 

 

真の基督教300

 

 霊界の名によって明白であるように、各人の名は、その名のみではなく、その全人格を意味している。彼処では何人もその洗礼名を、あるいはその家族名を保有することなく、その性格に応じて新しい名を与えられ、天使はその道徳的な、霊的な生活に応じて命名される。このこともまた、主の以下の語によって意味されている。

 

「我は良き牧者なり。羊はその声を聞き、彼は己の羊の名を呼びて、索き出す」(ヨハネ10・3、11)。

 

「サルデスにて衣を汚さぬもの数名あり。勝を得る者の上に我は新しきエルサレムなる都の名と、我が新しき名とを書き記さん」(黙示録3・42)。

 

ガブリエルとミカエルとは天界の二人の人物の名ではなく、天界で主にかかわる知恵を享受し、主を礼拝する凡ての者を意味する。聖言に記されている人物や場所の名もまた、人物や場所を意味しないで、教会の事柄を意味している。自然界でもまた名はその名を持つ人物の性格を意味しているのは、性格は名に連結しているからである。それ故普通の談話で、ある人間については彼は偉大な名を―それはその人間が技術、学問、徳あるいはある他の目覚しい性質のために傑出していることを意味する―持っていると語ることが普通である。人間の名を辱しめることは、彼の行動を辱しめることである。両者は極めて密接に結ばれており、共に害を受けなくてはならない。王、あるいはある偉大な人物の名を誹謗することは、彼らの尊厳と高貴とに汚辱を与え、侮蔑の語調で或る人間の名を口に出すことはその行為を貶すことである。それ故、人間の名を辱しめることを禁ずることは全国民の全般的な律法であるのは、それは彼の性格と名声とは必然的に損害を受けねばならぬからである。

 

 

 

神の摂理230

 

 聖い物の冒涜は十誡の第二の誡命の『あなたはみだりにあなたの神の御名を語ってはならない』の語により意味され、冒涜してはならないことは、主の祈りの『あなたの御名が崇められますように』の言葉により意味されている。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ(ヴァルトルタ)

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P447/121・6

 

それから自分の席に戻り、話し始める。

「平和が皆さんと共にあり、平和と共にあなたたちに光と成聖がもたらされますように。

『わたしの名を妄(みだ)りに呼んではならない』と、言われています。

 それを妄りに呼ぶのはいつですか? それを冒瀆するときだけですか? いいえ。を称賛すること無くその名を呼ぶときもそうです。子は、『父さんを愛し、父さんを尊敬します』と、言うことが出来るだろうか、もし、そう言った後で、父が彼に熱望していることに悉(ことごと)く反対し、その逆のことを行うとすれば? 『父さん、父さん』と言わずとも父親を愛しなさい、『神様神様』と言わずとも主を愛しなさい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P447/121・7

 

イスラエルには、ここには、一昨日わたしが説明したように、人びとの心の奥まった所に多くの偶像が住んでおり、への偽善的讃美もあり、その讃美に讃美者たちの行いが伴っていません。イスラエルにはある傾向もあります。現実に罪がある内面にそれを見つけ出したくないために、外面に多くの罪を見つけるという傾向です。イスラエルには、ある愚かな傲慢、ある反人間、反霊性の習慣があります。異教徒の唇に上るわたしたちのを冒瀆だと判定し、真のに近づくことを異教徒に禁ずるに至ります。

 これは今までのことです。しかし今はもうあってはなりません。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P448/121・8

 

『それでは赤ん坊を除けば、誰もを呼ぶことは出来ないだろう。人間はどこもかしこも不浄と罪だらけなのだから』という思いを一つ以上の心の中にわたしは読みます。いいえ。そう言ってはなりません。そのは罪人たちから呼び求められるべきです。サタンから絞め殺されそうになった者たち、罪や誘惑者から解き放たれたい者たちから呼び求められるべきです。彼らはそれを欲している。これこそ冒瀆を礼拝行為に変化させるのです。治癒することを欲すること。赦されるために、癒されるために、ある御者を呼ぶことです。誘惑者を追い払うために、を呼び求めることです。蛇は、がエデンの園をそぞろ歩きなさらない時を狙ってエバを誘惑した、と創世記には書かれています。もし主がエデンにおられたならサタンはそこにいることは出来なかったでしょう。もしエバがを呼んでいたらサタンは逃げたでしょう。あなたたちはこの思いを常に心に持ちなさい。また、誠実さをもってを呼びなさい。あのは救いです。

 あなたたちの多くは清められるために川に下(お)りたいと思っています。しかし、愛を込めて、という一言を心に書き記し、ひっきり無しに心を清めなさい。嘘つきの祈りはしてはならない。因襲的な勤行(ごんぎょう)はするな。だが、心を込めて、思惟(しい)をもって、行動をもって、あなたたち自身のすべてを挙げて、あのを言いなさい、よ、と。一人でいないためにそれを言いなさい。支えられるためにそれを言いなさい。赦されるためにそれを言いなさい。

 シナイ山のという一語の意味を理解しなさい。『妄りに』とは、『よ』と言う時、善への変化が見られません。そしてその時、それは罪になります。心臓の血の鼓動のように、あなたたちの一日の毎分と、あなたたちのあらゆる誠実な行動、必要、誘惑、悲しみ苦しみが『我がよ、来てください』という、子としての愛の言葉となる時、『妄りに』呼ぶのではありません。その時、まことにあなたたちはの聖なるを呼ぶことによって罪を犯しません。

 行きなさい。平安はあなたたちと共に」。