なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
出エジプト20・7
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
1.自然的意義:御名そのものの濫用
2.霊的意義:空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いること
3.天的意義:御霊の冒涜は赦されない
4.マリア・ワルトルタ(ヴァルトルタ)
5.天界の秘義より
1.自然的意義:御名そのものの濫用
真の基督教297
「汝の神エホバの名を妄(みだり)に口にあぐべからず、エホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」
自然的な意義では、神エホバの名を妄に口にあぐることは、種々な方法によって、特に虚言を弄すること、不必要な誓言を為すこと、無罪を抗弁すること、魔術、呪文にその御名そのものを濫用することを意味する。
しかし戴冠式に、祭司職に就任する際に、あるいは責任の重大な地位に挙げられる際に、神とその聖さによって、あるいは聖言と福音によって誓うことは、その誓が後に破棄されない限り、神の名を妄に口に上ぐることではない。更に、神の名は聖それ自体である故、祈祷、讃美歌、説教、神学書に於けるように、絶えず礼拝に、教会の聖なる務めに於いて語られるに違いない。
何故なら、神は宗教に関わる凡ゆるものの中に在し、その御名によって厳かに呼び求められる時、臨在し、聞き給い、凡てこれらのものによって神の名は崇められるからである。
神エホバの名はそれ自身に於いて聖いものであるため、ユダヤ人は、その名が用いられた最初の時から、敢えて「エホバ」とは決して言わなかった。そして彼らのために福音書記者たちも、使徒たちもこれを記していない。彼らはエホバの代わりに新約聖書中に引用されている旧約聖書の種々の記事に見られ得るように(マタイ22・37、ルカ10・27、申命記6・5等と比較せよ)「主」と語ったのである。
イエスの名もまた聖いことは、その名に於いて天界と地上の凡ゆる者は跪くという使徒の宣言によって良く知られている。その聖さの故に、地獄の悪魔は一人としてそれを口にすることは出来ない。エホバ、神エホバ、万軍のエホバ、イスラエルの聖者、イエス・キリスト、聖霊の如く妄に口に上げられてはならない多くの神の名があるのである。
2.霊的意義:空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いること
真の基督教298
「霊的な意義では」神の名は、教会が聖言によって教え、主が由って以って呼び求められ、礼拝されるところの凡ての物を総括的に意味する。それ故、神の名を妄に口にあぐることは、その何れかを空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いることを意味する、何故ならこれもまた神を罵り、冒涜し、従って神の御名を罵り、冒涜することであるからである。神の名は聖言を意味し、それ故、その上に基礎づけられている全宗教を意味することは、以下の記事によって明白である。
「日の昇る所より我が名は呼び求めらるべし」(イザヤ41・25、26・8、13)。
「日の出る処より、入る処まで、列国の中に我が名は大ならん。また何処にても香を我が名に献げん。なんじらエホバの台は汚れたりと言いて、わが名をけがしたり、汝ら裂かれしもの、足の傷付いたもの、病めるものを携え来りて、これを嘲りたり」(マラキ1・11−13)。
「一切の民はみな各々その神の名によりて歩む、然れども我らは我らの神エホバの名によりて歩まん」(ミカ4・5)。
「彼らはエホバがその御名を置き給う一つの場所に」(申命記12・5、11、13、18、16・2、6、11、15、16)。
すなわち、神がその礼拝を定め給う場所に礼拝すべきであった。
「二三人わが名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」(マタイ18・20)。
「されど彼を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となるの権をあたえ給えり」(ヨハネ1・12)。
「信ぜぬ者は既に審かれたり、神の独り子の名を信ぜざりし故なり」(ヨハネ3・18)。
「われ御名を彼らに知らしめたり、またこれを知らしめん」(ヨハネ17・26)。
「信じて汝らは御名によりて生命を得ん」(ヨハネ20・31)。
「イエス言い給う、我は汝の御名を人々にあらわせり、われ御名を彼らに知らしめたり」(17・6、26)。
主は語り給うた、「サルデスに数名あり」(黙示録3・4及びその他)。
前述の凡ての記事における神の名は、神から発するところの、而してそれに従って神が礼拝されるところの神性を意味している。イエス・キリストの名は救いにかかわる凡ゆるものを意味し、即ちイエスは贖罪による救いにかかわる凡てのものを意味し、キリストはその教義による救いにかかわる凡てのものを意味している。
天界の秘義2009[2]
十戒に―
あなたはあなたの神の御名をみだりに[いたずらに]口に上げてはならない、エホバはその御名をみだりに口に上げる者を咎のない者とはされないからである(出エジプト記20・7、申命記5・11)。
ここに『神の御名をみだりに[いたずらに]口に上げる』ことは御名を意味しているのでなく、神から発しているものをことごとく全般的にもまた個別的にも意味しており、それで神礼拝に属しているあらゆるものを全般的にもまた個別的にも意味しており、そのいかようなものも軽蔑してはならないのであり、ましてや冒涜したり、汚れたもので不潔なものとしてはならないことを意味しているのである。主の祈りに―
あなたの御名がきよめられますように、あなたの王国[御国]が来ますように、あなたの御意志[みこころ]が、天におけるように、地にも行われますように(ルカ11・2)。
ここにもまた『御名』により御名が意味されているのではなく、愛と信仰とのあらゆる事柄が意味されているのである、なぜならこれらは神または主のものであって、主から発しており、そしてこれらのものは聖いものであるため、それらがそのようなものとして考えられるとき、主の王国は来て、その御意志は天界におけるように地にも行われるからである。
啓示による黙示録解説165
黙示録3・4。「あなたはサルデスに二、三名(の者)を持っている」は、彼らの間にはまたその礼拝に生命を持っている者もいくらかいることを意味している。『二、三名』により、今以下に記されているように、そうしたものである若干の者が意味されている。なぜなら『名』は人の性質を意味するからであるが、その理由は霊界では凡ての者はその性質に応じて名をつけられているということである(81番)。今取扱われている者たちの性質は、彼らはその礼拝に生命を持っているということである。
3.天的意義:御霊の冒涜は赦されない
真の基督教299
「天的な意義では」神の名を妄に口に上ぐることは、主がパリサイ人に語りたもうたこと、即ち、凡ゆる罪と冒瀆は人間に赦されるであろう、しかし御霊を冒瀆することは赦されないことを意味する(マタイ12・31)。
御霊の冒瀆は主の人間性の神性に対する、また聖言の聖に対する冒瀆を意味する。主の神的な人間性は、神エホバなる名の天的な、最高の意義により意味されていることは、以下の記事によって明白である、
イエスは語り給うた。「父よ、御名の栄光をあらわしたまえ。天より声いでて、言う、われ既に栄光をあらわしたり、またさらに栄光をあらわさん」(ヨハネ12・28)。
「汝ら何事にても我が名によりて願わば、我これを為さん。父子によりて栄光を受けたまわんためなり。汝ら我が名によりて我に願わば、我これを為すべし」(ヨハネ14・13,14)。
主の祈りの天的な意義では、汝の御名の崇められんことをという語によっては、それ以外のものは意味されず、また出エジプト記23・21、イザヤ書63・16の名によってもそれ以外のことは意味されない。御霊の冒瀆は主の言葉に従えば、決して赦されない(マタイ12・31)。
而して、この冒瀆がこの誡命の天的な意義の中に意味されているため、「エホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」の語が附加されているのである。
出エジプト記23・21
あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。
イザヤ63・16
あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず
イスラエルがわたしたちを認めなくても
主よ、あなたはわたしたちの父です。
「わたしたちの贖い主」
これは永遠の昔からあなたの御名です。
真の基督教300
霊界の名によって明白であるように、各人の名は、その名のみではなく、その全人格を意味している。彼処では何人もその洗礼名を、あるいはその家族名を保有することなく、その性格に応じて新しい名を与えられ、天使はその道徳的な、霊的な生活に応じて命名される。このこともまた、主の以下の語によって意味されている。
「我は良き牧者なり。羊はその声を聞き、彼は己の羊の名を呼びて、索き出す」(ヨハネ10・3、11)。
「サルデスにて衣を汚さぬもの数名あり。勝を得る者の上に我は新しきエルサレムなる都の名と、我が新しき名とを書き記さん」(黙示録3・42)。
ガブリエルとミカエルとは天界の二人の人物の名ではなく、天界で主にかかわる知恵を享受し、主を礼拝する凡ての者を意味する。聖言に記されている人物や場所の名もまた、人物や場所を意味しないで、教会の事柄を意味している。自然界でもまた名はその名を持つ人物の性格を意味しているのは、性格は名に連結しているからである。それ故普通の談話で、ある人間については彼は偉大な名を―それはその人間が技術、学問、徳あるいはある他の目覚しい性質のために傑出していることを意味する―持っていると語ることが普通である。人間の名を辱しめることは、彼の行動を辱しめることである。両者は極めて密接に結ばれており、共に害を受けなくてはならない。王、あるいはある偉大な人物の名を誹謗することは、彼らの尊厳と高貴とに汚辱を与え、侮蔑の語調で或る人間の名を口に出すことはその行為を貶すことである。それ故、人間の名を辱しめることを禁ずることは全国民の全般的な律法であるのは、それは彼の性格と名声とは必然的に損害を受けねばならぬからである。
神の摂理230
聖い物の冒涜は十誡の第二の誡命の『あなたはみだりにあなたの神の御名を語ってはならない』の語により意味され、冒涜してはならないことは、主の祈りの『あなたの御名が崇められますように』の言葉により意味されている。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P447/121・6
それから自分の席に戻り、話し始める。
「平和が皆さんと共にあり、平和と共にあなたたちに光と成聖がもたらされますように。
『わたしの名を妄(みだ)りに呼んではならない』と、言われています。
それを妄りに呼ぶのはいつですか? それを冒瀆するときだけですか? いいえ。神を称賛すること無くその名を呼ぶときもそうです。子は、『父さんを愛し、父さんを尊敬します』と、言うことが出来るだろうか、もし、そう言った後で、父が彼に熱望していることに悉(ことごと)く反対し、その逆のことを行うとすれば? 『父さん、父さん』と言わずとも父親を愛しなさい、『神様、神様』と言わずとも主を愛しなさい。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P447/121・7
イスラエルには、ここには、一昨日わたしが説明したように、人びとの心の奥まった所に多くの偶像が住んでおり、神への偽善的讃美もあり、その讃美に讃美者たちの行いが伴っていません。イスラエルにはある傾向もあります。現実に罪がある内面にそれを見つけ出したくないために、外面に多くの罪を見つけるという傾向です。イスラエルには、ある愚かな傲慢、ある反人間、反霊性の習慣があります。異教徒の唇に上るわたしたちの神の名を冒瀆だと判定し、真の神に近づくことを異教徒に禁ずるに至ります。
これは今までのことです。しかし今はもうあってはなりません。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P448/121・8
『それでは赤ん坊を除けば、誰も神を呼ぶことは出来ないだろう。人間はどこもかしこも不浄と罪だらけなのだから』という思いを一つ以上の心の中にわたしは読みます。いいえ。そう言ってはなりません。その名は罪人たちから呼び求められるべきです。サタンから絞め殺されそうになった者たち、罪や誘惑者から解き放たれたい者たちから呼び求められるべきです。彼らはそれを欲している。これこそ冒瀆を礼拝行為に変化させるのです。治癒することを欲すること。赦されるために、癒されるために、力ある御者を呼ぶことです。誘惑者を追い払うために、主を呼び求めることです。蛇は、主がエデンの園をそぞろ歩きなさらない時を狙ってエバを誘惑した、と創世記には書かれています。もし主がエデンにおられたならサタンはそこにいることは出来なかったでしょう。もしエバが神を呼んでいたらサタンは逃げたでしょう。あなたたちはこの思いを常に心に持ちなさい。また、誠実さをもって主を呼びなさい。あの名は救いです。
あなたたちの多くは清められるために川に下(お)りたいと思っています。しかし、愛を込めて、神という一言を心に書き記し、ひっきり無しに心を清めなさい。嘘つきの祈りはしてはならない。因襲的な勤行(ごんぎょう)はするな。だが、心を込めて、思惟(しい)をもって、行動をもって、あなたたち自身のすべてを挙げて、あの名を言いなさい、神よ、と。一人でいないためにそれを言いなさい。支えられるためにそれを言いなさい。赦されるためにそれを言いなさい。
シナイ山の神という一語の意味を理解しなさい。『妄りに』とは、『神よ』と言う時、善への変化が見られません。そしてその時、それは罪になります。心臓の血の鼓動のように、あなたたちの一日の毎分と、あなたたちのあらゆる誠実な行動、必要、誘惑、悲しみ苦しみが『我が神よ、来てください』という、子としての愛の言葉となる時、『妄りに』呼ぶのではありません。その時、まことにあなたたちは神の聖なる名を呼ぶことによって罪を犯しません。
行きなさい。平安はあなたたちと共に」。
5.天界の秘義より
「あなたはあなたの神エホバの名を徒らに呼んではならない」。これは信仰の真理と善を汚し、冒瀆することを意味していることは以下から明白である、『神の名』の意義は主を礼拝する手段となる凡ゆるものの総合体であり、かくて信仰の真理と善との凡てのものであり(2724、3006、6674番を参照)、『徒に呼ぶこと』の意義は汚し、冒瀆することである。『神の名を徒に呼ぶこと』により真理を悪に変えることが、即ち、それが真理であることを信じはするが、それにも拘らず悪に生きることが元来意味されており、それはまた善を誤謬に変えることを、即ち、聖く生きてはいるものの、信じはしないことを意味している。二つとも汚すことである(4601番)、なぜなら信じることは理解に属しており、生きることは意志に属しており、それで自分が生きているようには信じてはいない者らの中では、思考と意志とは分割されているからである。しかし意志は絶えず理解へ流れ入っているため―なぜなら理解は意志の形であり、即ち、意志はそれ自身を理解の光の中に明示するからであるが―それで人間の信じることと生きることとが異なっているときは、真理と悪とが、または善と誤謬とが連結するのであり、かくて人間のもとで天界のものが地獄に属したものと連結するのである。こうした連結は、引き離して、霊的な生命に属したものをすべて取り去らなくては解消されることは出来ないのであり、かくてその人間は癒やされることは出来ないのである、それでこうした人物は地獄でも最も痛ましい辺りへ送られて、そこで凄まじい拷問を受けるのである。
このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである―
凡ゆる罪と冒瀆とは人間に赦されるでしょう、しかし霊を冒瀆することは人間には赦されはしないのである。もしたれかが人の子に反抗して何か言葉を言っても、それは彼に赦されるでしょう、しかし聖霊に反抗したことを話す者は、それはこの代でも、来るべき代でも、かれに赦されはしないのである(マタイ12・31、32)。
またルカ伝の以下の言葉によっても意味されているのである―
汚れた霊が人間から出ると、彼は休息を求めて乾いた所を通って行く、が、休息を何ら得ないため、言う、わたしは自分の出て来たわたしの家へ帰ろう、と。そしてもし彼が来てそれが掃除をされ、飾られもしているのを見るなら、去って、自分自身よりも悪い他の七つの霊を連れて来て、彼らは中へ入り、そこに住むのである、で、その人間の最後の物は最初の物よりも悪くなる(ルカ11・24−26)。
天界の秘義8882[3]
これらの言葉により主から発している真理を汚すことが記されているのである。即ち『出て行く時の汚れた霊』により真理を承認し、信じることが意味され、『掃除をされた家』により真理に反した生活が意味され、『彼が他の七つの霊と共に帰って来ること』により汚す[冒瀆する]状態が意味されている。これらが『神の名を徒に呼ぶこと』により意味されているのである。人間のこうした状態は癒やされることは出来ない、かくて赦されることは出来ないこともまたすぐその後に記されている言葉、即ち『エホバはその名を徒らに呼ぶ者を罪がないとはされないであろう』により意味されており、それによりそれは赦されることは出来ないことが意味されているのである。(冒瀆の性質について、またたれがそれを犯すかについて更に知るには、593、1003、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426、3398、3399、3402、3489、6348、6595、6959、6963、6971、8394番を参照されたい)。
『神の名を徒に呼ぶこと』によりまた冒瀆が意味されており、それは聖言の、または信仰の教義のものであって、そこから聖いものである事柄が嘲笑され、卑しめられて不潔な地的な物とされ、かくて汚されるとき起こるのである(4050、5390番を参照)。しかし『神の名を徒に呼ぶこと』によっては、それが(『神の名』により意味されている)信仰の善と真理とを何ら承認しなかったイスラエル民族に関連して言われているときは、エホバの御名を、また彼らに命じられた戒めと法令とを、偶像礼拝に適用することが意味されているのであり、そのことは彼らが実際荒野で金の子牛を礼拝するにあたって行ったのであり、この子牛に彼らは燔祭と生贄とを捧げ、そのことによって清められた物を食べたのみでなく、それを祝う日を『エホバの祝宴』とも呼んだのである、例えば、モーゼの書に以下のように記されているのである―
アロンは金で鋳た子牛を作り、彼らは言った、ああイスラエルよ、これらを、あなたをエジプトの地から連れ出したあなたの神々としよう、と。アロンはそれを見ると、その前に祭壇を作り、布れて、言った、明日はエホバの祝宴である、と。それで彼らは翌日の朝起きて、燔祭を捧げ、聖餐の物を持ってきた(出エジプト32・4−6)。
天界の秘義8882[5]
このように神エホバの御名を徒に唱えた者らは赦されることは出来なかったことは―そのことは彼らが『罪がないとはされない』ことにより意味されているが―当時彼らについてモーセに言われたエホバの御言葉から明白である、即ち―
わたしに向かって罪を犯した者をわたしはわたしの書から消し去ってしまうであろう。それでも行って、この民をわたしがあなたに話した所へ導き入れなさい。しかしわたしは報復の日に彼らにその罪を報いよう(出エジプト32・33、34)。