第8誡

なんじ、偽証するなかれ。

 

 

十戒(出エジプト20)

偽証偽り不正直詐欺狡猾不誠実

 

 

 

1.自然的意義:偽って証言をすること、凡ゆる種類の邪悪な虚言と偽善、誹謗、あるいは中傷裏切り、詐欺

2.霊的意義:信仰上間違ったことが真理であり、生活上の悪が善であり、また反対に信仰上正しいものが誤っており、生活上の善は悪であると、人々に説得すること

3.天的意義:主と聖言を冒涜し、かくして真理を教会から追放すること

4.マリア・ワルトルタ

5.公教要理

 

 

 

 

1.自然的意義:偽って証言をすること、凡ゆる種類の邪悪な虚言と偽善、誹謗、あるいは中傷裏切り、詐欺

 

 

真の基督教321

 

「汝その隣人に対して虚妄の証をたつるなかれ」

 

文字に最も近い自然的な意義に従えば、「隣人に対して虚妄の証をたてる」こと、すなわち偽って証言をすることは、何らかの悪事の故に訴えられた者に向かって、法廷でまたは法廷以外の場所で偽りの証言をなし、しかもこれを神の御名により、または他の何か神聖なものにより、または自分自身により、または己が名誉によって主張することを意味する。さらに広い意義では、この誡命は、凡ゆる種類の邪悪な虚言と偽善を禁じ、また隣人の全人格がその上に懸っている栄誉、名声、風評を毀損する凡ゆる誹謗、あるいは中傷を禁ずることである。最も広い意味では、それは敵意、憎悪、復讐、嫉妬、競争等から生まれる凡ゆる裏切り、詐欺、または予め計画された悪を禁ずることである。なぜなら凡てこのような悪には一種の偽りの証が含まれているからである。

 

 

 

 

2.霊的意義:信仰上間違ったことが真理であり、生活上の悪が善であり、また反対に信仰上正しいものが誤っており、生活上の善は悪であると、人々に説得すること

 

 

真の基督教322

「霊的な意義では」偽りの証を立てることは、信仰上間違ったことが真理であり、生活上の悪が善であり、また反対に信仰上正しいものが誤っており、生活上の善は悪であると、人々に説得することを意味し、しかもこのことを無智のためではなく、故意に為すことを、すなわち、真理も善も知らない間ではなく、これを知った後に為すことである。

 

なぜなら、主は以下の如く語り給うからである、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪残れり」(ヨハネ9・41)。

 

聖言では以下の記事に於けるようにこの種の虚偽は虚言と呼ばれ、その意図は詐欺と呼ばれている、

 

「我らは死と契約をたて、陰府とちぎりを結べり。我ら虚言をもて避所となし、詐欺をもて身を隠せり」(イザヤ28・10,5)。

「これは悖(もと)れる民、偽りを言う子等、エホバの律法を聞く事をせざる子らなり」(イザヤ30・9)。

「預言者より祭司に至るまで、皆虚言を語るなり」(エレミヤ8・10)。

「居民は虚言を言い、その舌は口の中にて欺くことをなす」(ミカ6・12)。

「なんじは虚言をいう者を滅ぼしたまう。詐欺をなす者はエホバ憎み給わん」(詩篇5・6)。

「彼らはその舌に虚言を語ることを教えたり。彼らの住居は詐欺の中にあり」(エレミヤ9・5,6)。

 

虚偽は虚言によって意味されている故、主は「悪魔は虚言を語る時は己れ自らより語るなり」(ヨハネ8・44)と語り給う。

虚言はまた以下の記事では虚偽と誤った言葉を意味している(エレミヤ23・14、32、エゼキエル13・6−9、21・29、ホセア7・1、12・1、ナオム3・1、詩篇120・2,3)。

 

 

 

 

3.天的意義:主と聖言を冒涜し、かくして真理を教会から追放すること

 

 

真の基督教323

 

「天的な意義では」偽りの証を立てることは、主と聖言を冒涜し、かくして真理を教会から追放することを意味する。なぜなら主は聖言にて在す如く、真理そのものにて在すからである。他方、この意義では、証を立てることは真理を語ることを意味し、証は真理それ自身を意味している。それ故十戒はまた証と呼ばれている(出エジプト25・16、21、22、31・7、18、32・15、40・20、レビ16・13、民数記17・4、10)。

主は真理そのものにて在し給う故、主は自らについては、自らが証をなし、自らが真理であると語り(ヨハネ14・6、黙示録3・7)、また自らが証をなし、自らが自らの証であると語り給うのである(ヨハネ3・11、8・13−19、15・26、18・37)。

 

 

 

真の基督教324

 

人を欺こうとして、または故意に虚偽を語り、しかもこれを霊的な情愛に似せた語調を以って語る者は、特にその虚偽に聖言から来る真理を混入させて、これを虚偽化するならば古代人達によって妖術者と呼ばれ(「黙示録の啓示」462番参照)、また時折怪蛇、善悪を知るの木の蛇と呼ばれた。このような虚偽を語り、また人を欺く者は丁重な親しい態度で敵と話しを交わしてはいるものの、背後に短剣をかくし、相手を突き刺して死に至らしめる者共に、あるいは剣に毒を塗って敵を攻撃する者に、あるいは水に毒人参を、菓子に毒を混ぜる者に譬えることが出来よう。彼らはまた悪性の病気に感染している美しい魅惑的な娼婦に、匂いを嗅ごうとする者を突き刺す植物に、風味を加えた毒に、また秋乾燥すると芳香を発する糞に譬えることが出来よう。聖言では彼らは豹と呼ばれている(「黙示録の啓示」572番参照)。

 

 

 

聖書[5]

 

 あなたは偽りの証を立ててはならない。『偽りの証を立てること』によって人間はまた虚言を弄し、名誉を傷つけることを理解している。霊的天使は、誤ったものが真であり、悪いものが善であり、またその反対に、真のものが誤っており、善いものが悪であると言いもし、説きつけもすることを理解している。そして天的天使は主と聖言とを冒瀆することを理解している。

 

 

 

黙示録講解1019[2]

 

十戒の第八の戒め、『あなたは偽りの証しを立ててはならない』を今説明しよう。『偽りの証を立てる』は、文字に最も近い意味においては、隣人について、彼を偽って訴えることにより虚言を弄することである。しかし内なる意味においてはそれは正しいものを正しくないと、正しくないものを正しいと呼び、そのことを誤謬により確認することを意味しており、最も内なる意味においては聖言の真理と善とを誤謬化することを意味し、他方では教義の誤謬を、妄想、外観、作り事、誤って適用した知識、詭弁といったものにより確認することにより真であると証明することを意味している。その確認そのものとそこから生まれる説得とは誤った証言である、なぜならそれらは誤った証言であるからである。このことから以下のことが認められよう、即ち、ここに意味されていることは裁判官の前に立つ誤った証人のみでなく、正しいことを歪めて、正しいものを不正なものに作り変え、不正なものを正しいものに作り変えさえする裁判官その者である、なぜならその裁判官はその証人その者と等しく偽証人の役割を果たすからである。同じことが、正しいものを曲がったものに見せかけ、曲がったものを正しいものに見せかける凡ゆる人間にも言われ、同じく聖言の真理を誤謬化し、聖言の善を歪めてしまう教会の指導者にも言われるのである。約言すると、悪い心から行なわれるところの、霊的な、道徳的な、公民的な真理の誤謬化はことごとく誤った証(偽証)である。

 

 

 

黙示録講解1020[2]

 

 人間が道徳的な霊的な意味において理解される誤った証を慎み、それを罪として避け、そこから遠ざかるとき、真理を愛する愛と公正を愛する愛とが主から天界を通して流れ入って来る。そしてその結果その人間が真理を愛し、公正を愛すとき、その者は主を愛すのである、なぜなら主は真理そのもの、公正そのものであられるからである。人間が真理と公正とを愛するとき、真理と公正とはその者を愛すると言うことが出来よう、なぜなら主はその者を愛されるためであり、その結果としてその者の発言は真理を発言するものとなり、その者の業は公正の業となるのである。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P550/130・5

130アックヮ・スペツィオーザでの説教。

『あなたは偽証してはならない』。小さなアスラエル。

 

 

「平和は皆さんと共に。

『あなたは偽証してはならない』と、言われています。

 嘘吐きほど人をむかつかせる者が他にいるでしょうか? 彼は正しくない言葉を遣って、残酷非道な行為を結集してはいないでしょうか? はい。ありえます。わたしは重大なことにおける嘘吐きについて話しているのですが、嘘吐きは残忍です。彼はその舌で一つの名声を殺します。したがって暗殺者と大して異なりません。わたしはむしろそれ以上だと言います。暗殺者は体だけを殺します。嘘吐きはある人の名の誉れと記憶を殺します。だから二度人を殺します。流血の惨事にはなりませんからほとんど罰せられることはありませんが、人の名誉と、中傷された者の一族の名誉を毀損します。また、宣誓をしながら偽証して他者を死に追いやる者の場合も、わたしは黙って見逃しはしません。その人の上にはすでにゲヘンナの炭が積み上げられている。しかしわたしは、嘘の言葉で、無辜の人に損害を与える疑惑を他人に抱かせ、認めさせる者について話しています。なぜそうするのでしょうか? 理由のない憎しみによるのかもしれません。他人の所有するものを自分も得たいという貪欲によるものかもしれません。それとも恐怖によるものかも。

 憎しみ。サタンの友である者だけが憎しみを抱きます。善人は人を憎みません。決して。どんなわけがあろうと。侮られ、蔑まれようと、大損害を蒙(こうむ)ろうとも赦します。決して憎みません。憎しみは、破滅した霊魂が自分自身に対して行う証言であり、無辜の人に与えられる最も素晴らしい証言です。憎しみは善に対抗する悪の反乱だからです。善良な人に対しては容赦はしません。

 貪欲。『あの人はわたしが持っていないものを持っている。わたしは彼が持っているものが欲しい。しかし彼の地位を手に入れるには、彼に関わる悪評をばらまくしかない。そしてわたしはそれをやる。嘘を吐くのか? それが何だというのか? 騙し取る? それが何だ 一家族を崩壊に至らせる? それがなぜ悪い? この狡猾な嘘吐きが投げかける自問の中に、彼は忘れたい一つの問いを忘れています。それは、『もしそれがばれたら?』という問いです。それをしないのは、高慢と貪欲に目が眩み、目が塞がれているからです。危険が見えません。酔い痴れた人のようです。悪魔の葡萄酒による酩酊者であり、サタンよりも遥かに強く、中傷された者に代って復讐されることを考えに入れていません。嘘吐きは嘘(サタン)に身を売り、愚かにもその保護に頼ります。

 恐怖。多くの場合、中傷は自己釈明するためになされます。嘘に最も共通する手法です。悪事がなされます。それがすっぱ抜かれ、わたしたちのやったこととして認識されるのを恐れます。その時、他の人たちのもとにまだある名声を利用したり乱用したりして出来事を逆転させ、わたしたちのした悪事を、ひとえに誠実さを尊重する他人におっかぶせます。さらにそうするのは、その他人は時として、たまたま知らずに、わたしたちのしでかした悪事の証人であるため、彼の証言から身を守ろうとします。そして彼が証言してもそれを誰も信じないように、彼を憎まれっ子にでっち上げます。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P552/130・6

 

 しかしあなたたちは良く振る舞いなさい! 正しく行動しなさい! そうすればこんな嘘を吐かないで済みます。あなたたちは嘘を吐く時、重い軛を自分に負わせることに思い至らないのですか? この軛は、悪魔に対する、偽りであるという証明の絶え間無き恐怖に対する、また、なされた事とその詳細と共に、矛盾に陥ること無く、幾年を経た後までも記憶する必要性に対する従属です。ガレー船の漕ぎ手並の重労働です。のためにそれが役立つなら! ところが地獄に場所を準備するためにしか用をなしません!

 あなたたちは率直で嘘の無い人でありなさい。嘘を吐くことを知らぬ人の口は何と美しいことか! 彼は貧しく、粗野で、無名であろうって? いや、まさしくそうだって? はい。しかし常に一人の王です。誠実だからです。そして誠実さは、金や王冠よりも王にふさわしく、王座よりも高く、民衆の上に彼を持ち上げ、一人の王が持つ以上の善人の大宮人に仕えられます。表裏の無い人と近づきになると、安全と慰めを得る。それに反し、不誠実な人との付き合いは迷惑で厄介で、傍にいるだけで居心地が悪い。嘘を吐く者は、絶えず疑惑を持たれた末に、多くの理由で、嘘がすぐにばれることに思い至らないのでしょうか? 彼の言うことを二度と信じることができるでしょうか? たとえ真実を言っても、それを聞いて信じようとしても、いつも心の奥に疑惑が残ります。『この人は今も嘘を吐いているのではないだろうか?』と。 あなたたちは、言うかもしれません。『だが偽証はどこにあるのだろうか?』と。あらゆる嘘は偽証です。法律上のそれだけではなく。

 神とこの坊やが単純であるように、あなたたちは単純でありなさい。あなたたちの人生の一刻々々、真実を述べなさい。あなたたちは評価される善人でありたいですか? 真実のうちに生きなさい。たとえある誹謗家があなたたちの陰口を聞こうとしても、百人の善人が言うだろう。『いいえ。それは本当ではありません。彼はいい人ですよ。彼の行いが代りに雄弁にそれを語っています』と。

 知恵の書にはこう言われています。『背教者は唇の上の冒涜の言葉で物事に取りかかる・・・彼の邪心は悪を準備し、どんな時にも不和を播き散らす・・・の憎まれるものに六つあり、七番目のものを呪われる。すなわち、驕り高ぶる目、嘘を吐く舌、罪無き者の血を流す手、悪巧みを企てる心、悪事を遂げようと急ぐ足、嘘を明言する偽証人、そして兄弟間に不和の種を播く者・・・舌で犯される罪のために破滅は悪人に迫る・・・嘘を吐く者は欺瞞の証人である。真実を語る唇は永久に変わらないが、欺瞞の言を準備する者は一瞬の証人である。ぐずぐず言う者の言葉は簡単なように思われるが、内蔵を貫く。裏切りの下心がある時、その話し方で敵はそれとわかる。低声(こごえ)で話す者には気を付けるがよい。心に七つの悪意を抱いているからである。彼は善を装いその憎しみを隠すが、彼の悪意はいずればれるだろう・・・堀を掘る者はそこに落ち、石はそれを転ばす者の上に落ちるだろう』と。

 嘘という罪は世界のように古くこれに関する賢人たちの思いは変わらない。嘘吐きに対する神の裁きが変わらないように。

 わたしは言う。『あなたたちは常に一つの言語だけを遣いなさい。はいは常にはいであり、否は常に否であるように。たとえ権力者たちや君主たちの面前でさえも。そうすれば、においてあなたたちは大いなる報いを受けるだろう』と。

 あなたたちに言う。『善良さしか求めず、いい人だと本能的に感じる者のところへ心の赴くままに行くこの坊やの自発性をもちなさい。この坊やはまた彼の善良さそのものが彼に考えさせることを、言い過ぎかな、とか叱られるかな、とか計算に入れずに言います』と。

 平安のうちに行きなさい。そして真理があなたたちの友になるように」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P554/130・7

 

 小さな頭を上げ、父鳥の囀りに耳を傾ける小鳥のように、イエズスの足下にずっと座っていたアスラエルは、体全体で優しさを表わす動きをする。その小さな顔をイエズスの両膝に擦り付け、そして言う。「ぼくとあなた、ぼくたちは友達だよね。だってあなたはいい人だし、ぼくはあなたが大好きなんだから。今、ぼくもそれを言うんだ」。そして広い大部屋一杯に響けとばかりその小さな声を振り絞り、見様見真似で覚えたイエズスのジェスチアを交えて言う。「みんな聞いてちょうだい。嘘を吐かず、ナザレのイエズスを好きな人たちがどこへ行くか、ぼくは知ってるよ。ヤコブの梯子段を踏んで、上へと上って行くんだ。上へ、上へ、上へとね・・・天使たちと一緒にだよ。そして、にお会いしたら上るのは御仕舞」と、小さな歯を全部見せて、楽しそうに笑う。

 イエズスは彼を愛撫し、人びとの中に下り立つ。坊やを母親のもとに連れて行く。「女よ、あなたのお子をわたしに任せてくれてありがとう」。

「ご迷惑おかけしたでしょう・・・」。

「いいえ。わたしに愛を恵んでくれましたよ。の子供です。は常にあなたと彼と共に在(ましま)すように。さらば」。

 すべては終わる。

 

 

 

 

5.公教要理

 

 

<第八のおきて、隣人に関して偽証してはならない>

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約521

 

人は真理に対してどのような義務をもっていますか。

 すべての人は行いにおいても、ことばにおいても誠実で正直であるよう招かれています。人は皆、真理を探求し、真理にとどまり、真理の要求に従って自分の全生活を規正する義務があります。イエス・キリストにおいて神に真理は完全に現れました。キリストは真理そのものです。キリストに従う者は、真理の霊のうちに生き、二心、偽装、偽善を避けます。

 

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約522

 

 真理のあかしはどのようにしてなされますか。

 キリスト者は公私にわたるすべての活動領域において、必要があれば自分の生命を犠牲にしてでも、福音の真理をあかししなければなりません。殉教は信仰の真理のためになされる最高のあかしです。

 

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約523

 

 第八のおきては何を禁じますか。

 第八のおきては次のことを禁じます。偽証、偽りの宣誓、うそ。うそがどのような重さの罪になるかについては、それがゆがめる真理、そのときの状況、うそをつく者の意向、うその犠牲となる人が被る損害の大きさによって量られます。

 軽率な判断、悪口、名誉毀損、中傷。これらは人が権利としてもつ、よい評判と名誉を落としたり、台無しにしたりします。

 おせじ、へつらい、愛想。とくにこれらが重大な罪や、不当な利益を上げることを意図したものである場合です。

 真理に反して犯された罪が他者に損害を与えた場合には、賠償の責任があります。