狡猾

 

 

 

天界の秘義6655

 

「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)

 

これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものを彼らは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。

悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、彼らの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。

このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。即ち、彼らは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、彼らの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜなら彼らはその隣人に対しては善以外には何ごとも願ってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それを赦すからである。悪にいる者らはそうではない。彼らはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜなら彼らは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜなら彼らは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、隠れた力を持っていることを知っているからである。

 

 

 

天界の秘義6666[]

 

こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、とくに教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議をさしはさむ者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終りがないなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊りにしみこみ、かくて遂に凡てのものにしみこむように、伝染し、しみこむからである。