詐欺

 

第8戒:なんじ、偽証するなかれ

 

 

 

天界の秘義830

 

巧妙な詐欺により人間を欺く者らは、他の者の地獄よりは更に恐ろしい、実に殺人者の地獄よりも恐ろしい地獄に居る。彼らは蛇の間に住まっているように彼ら自身に思われ、その詐欺が悪質であるに比例して、更に恐ろしい、有毒な、また更に多くの蛇が現れ、それが彼らを取り巻いて、彼らを苦しめる。

 

 

 

天界の秘義949

 

 左手の前面に或る一つの部屋が在り、そこには光がなくて、暗黒のみが在り、そこから暗室と呼ばれている。その中には他人の財産を渇望し、絶えずそれを求め、また可能な時は常に最も非良心的な方法で、もっともらしい口実をもうけてそれらを手に入れた者らが居る。そこにはこの世界に生きていた時非情に高貴な地位にいたが、賢明なために与えられる尊敬を狡猾な振る舞いに基礎づけた者らがいる。その部屋で彼らは―ちょうど身体の中で生きていた時のように―他の人々を陥れる方法を協議している。そこの暗黒を彼らはおいしいものと呼んでいる。私はそこにいる詐欺を行った者らの顔つきを示された。私は彼らが遂には如何ようなものになるかを明るい日の光の中に見るように見たのである。彼らの顔は死人の顔よりも恐ろしく、屍のように蒼白であり、凄まじい凹みを斑点のようにつけているが、それは心労の拷問を受けて生きている結果である。

 

 

 

 

天界の秘義957

 

 身体の生命の中で言うことと考えることが異なった習慣を身につけた者どもは、特に友情の仮面の下に他人の所有物を切望した者どもはぶらつきまわって、そのやって来る所では何処でも自分達は貧しい者であると言って、そこに止まっても宜しいかと尋ね、受け入れられると、もって生まれた欲望からその見るものをことごとく渇望する。彼らの性格が摘発されるや否や、彼らは追い出されて、罰金を課せられ時としてはその身につけた詐欺の擬装の性質に応じて色々な方法で悲惨な拷問にかけられる。即ち、ある者はその全身に、ある者は足に、ある者は腰に、ある者は胸に、ある者は頭に、ある者はただ口のあたりにのみ拷問をかけられる。彼らは言うに言われぬ方法で前後に打ち倒され、部分、部分が激しくかち合わされ、かくて引きちぎられるため、彼らは自分自身が粉々に引き裂かれてしまったと信じるが、その苦痛を増大するため、抵抗が与えられている。このように引きちぎられる刑罰は非常な変化を以て起り、間を置いて再三再四くり返され、遂にはその責苦を受ける者は欺いてやろうとの意図から言った偽りの言葉に対する恐怖と戦慄とにつき通されてしまう。刑罰が加えられる毎に何かが取り去られる。引きちぎる者らは自分達には罰することが極めて愉快なのでたとえそれが永遠に続くとしても、止めたくはないと言った。

 

 

 

天界の秘義960

 

 身体の内に生活していた間その奸策を秘かに行ったある詐欺の霊どもがおり、そのある者は欺くために凶悪な術策により恰も天使であるかのように装ったのである。他生ではこれらの者は自然の更に精妙なまたは内的な領域の中へ自分自身を引き入れ、自分自身を他の者の目に触れないように突然隠してしまうことを学び、このようにして自分自身は凡ゆる刑罰から安全であると考える。しかしこの者らは丁度他の者のように、その詐欺の性質と邪悪とに応じ、引き裂かれる刑罰を受け、かてて加えてともに膠づけにされ、そしてこのことが起ると彼らは身を引き離そうと―即ち、互に他から身を引きちぎろうとすればする程益々しっかりと膠づけにされるのである。この刑罰に更に痛烈な拷問が伴っているが、それはそれらが彼らの(他の者よりも)更に隠れた欺瞞に応じているためである。

 

 

天界の秘義1395

 

 こうした種類の認識についてはわたしは経験から多くの事柄を学んだが、それをすべて述べることは退屈させるであろう。わたしはしばしば詐欺漢が語るのを聞いて、詐欺が潜んでいるのを認めたのみでなく、その詐欺はいかようなものであるかを、その中にはいかような特殊な邪悪が潜んでいるかをもまた認めたのである。その声の一つ一つの調子にも詐欺の映像のようなものがあったのである。私はまたその詐欺がその語っている人間に属しているかを、またはその者を通して語っている他の者に属しているかを認めることも出来たのである。憎悪を抱いている者らの場合も似ており、その憎悪の性質はすぐに認められ、またそのうちに人間が到底信じるようになることも出来ないほどの多くのものも認められるのである。その憎悪の対象となっている人物が示されると、嘆かわしい結果が起ってくる、なぜならその者らに対し考えられもし、また計画されもした事柄はことごとく眼前に現れてくるからである。

 

 

天界の秘義1861

 

 「見よ、煙の炉と火のたいまつを」。『煙の炉』は最も甚だしい誤謬を意味し、『火のたいまつ』は欲念の燃える熱を意味していることは、『煙の炉』の意義が甚だしい誤謬であり、『火のたいまつ』の意義が欲念の燃える熱であることから明白である。『煙の炉』と言われているのは、真理を知ってはいるが、それでもそれを承認はしていないで、心の中でそれを否定しており、実にその生活を真理に反した事柄の中に過ごしている人間は、とくにそうした教会の人間は煙の炉のようにしか見えないためである、すなわち、その人間自身は炉として、その憎悪から発している誤謬は煙としてしか見えないためである。誤謬が発してくる源泉である欲念はそのような炉から発している火のたいまつとして現れており、そのこともまた他生における表象的なものから明白である。(そのことは814、1528番に経験から記されているところである)。このようなものとして現われ、またこのようなものになるものは、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫の欲念であり、この欲念に詐欺が混合するときはそれはさらに甚だしくなるのである。

 

 

 

天界の秘義2426

 

主は悪が善に混入しないように絶えず配慮されておられるが、人間が悪の中にいるに正比例して、善から遠ざかるのである、なぜなら人間が悪の中にいると同時に善の中にいるよりは、全く悪の中にいる方が人間にはさらにまさっているからである。なぜならもし彼が悪の中にいると同時に善の中にいるならば、彼は必然的に永遠に地獄に落ちなくてはならないからである。こうした危険の中に最も陥っている者は教会にいる詐欺漢、偽善者である。

 

 

 

天界の秘義5128[5]

 

交流の道を閉じ込めるのみでなく、人間から合理的なものになる能力を剥奪してしまう二つのもの、すなわち詐欺と冒涜とが在る。詐欺は内部を知らぬ間に犯してしまう毒のようなものであり、冒涜は真理に誤謬を、善に悪を混入し、この二つのものを通して合理的なものは全く死滅してしまうのである。人間各々には幼少の頃から主から善と真理とが貯えられ、それが聖言では『残りのもの』と呼ばれ(468、530、560、561、661、1050、1738、1906、2284番を参照)、この残りのものは詐欺により犯され、冒涜により悪と誤謬を混入させられるのである(冒涜とは何であるかは前の593、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426、2398、3402、3489、3898、4289、4601番に見ることができよう)。これらのしるしからたれが合理的な人間であり、たれが感覚的な人間であるかを或る程度知ることができよう。

 

 

 

天界と地獄578

 

自己への愛から悪にいると同時に心の内部から詐欺を企んだ者は全ての者の中でも最悪の者である、なぜなら詐欺は思考と意図の中へさらに深く入って、人間の霊的生命の凡てを破壊するからである。これらの者の大半は地獄の背後にいて、魔鬼と呼ばれ、自分自身を他から見られぬようにして、妖怪のように他の者の周囲を飛びまわり、秘かに悪を注ぎこみ、それを蝮が毒を撒き散らすように、撒き散らすことを楽しんでいる。こうした者は他の者よりも更に凄まじい刑罰を受ける。しかし詐欺漢ではなく、また悪意をもった狡知にはそれほど満たされてはいないものの、自己への愛から生まれる悪にいる者らもまた地獄の方にはいるが、それは前のものほど奥深くはない。一方世への愛から悪にいる者らは地獄の前方にいて、[]霊と呼ばれている。これらの霊は自己への愛から悪にいる者らほど、悪の形をしていない。すなわち憎悪と復讐の形をしていない。従って彼らはまたそうした悪意と狡猾さを持っていない。それでその地獄は前のものよりは穏やかである。

 

 

「詐欺漢について」

 

霊界日記2848

 

欺く者らは、その毒がその者らから取り去られない限り、またはその者らがたれをも害うことが出来ないように、和らげられない限り、霊たちの世界にいることは許されはしないが、いわば、性質から、同じように、悪を犯し、実に詐欺を行いはするものの、生来の本能から行う多くの者らは除外されるのである。しかし前もって思いを巡らしてそうしたことを行い、その毒を隠し、かくして詐欺を働く者らは容赦はされはしない者らである。本能としての詐欺と前もって考えられた詐欺とは区別されるのである。1748年[60歳]8月17日。

 

 

 

 

霊界日記2845

これらの者らは容赦はされはしないで、蝮である。

 

 

<前以て詐欺を思い巡らし、そこから行動し、そうした性質を身に着けてしまった者らの地獄について>

霊界日記2855−

 

 

 

霊界日記2857

 

彼らの地獄については、それは他の者らの地獄よりは恐ろしく、憎悪から殺す者らの地獄よりも恐ろしく、また前もって詐欺を思い巡らすことなしに欺く者らの地獄よりも恐ろしい。それは境界の近くに、前面に在る。彼らはそこへ投げ込まれ―恐らく彼らは前にそこにいたのであるが―そこから出されると、その際以下のことが言われた、即ち、彼らは蛇の間に生きるのであり、その詐欺の毒が緻密であるに応じて、益々その蛇には毒があり、また鋭くもあり、彼らを取り巻いて、苦しめるその蛇の数も多くなり、それで、それを口にするのみでも恐怖心を掻き立てるのである。こうした地獄がこうした性格の者たちを待っており、こうしたものに彼らの詐欺は変化するのである。1748年[60歳]8月19日。

 

 

 

 

 

天界の秘義4533

 

詐欺漢は蛇、甚だしい詐欺漢は蝮のようであり、他の者もそれぞれ異なった風に現れるのである。しかし天使たちが彼らからその視線を外らすと、たちまち、彼らは彼自身の明るさの中で持っているような、彼ら自身の以前の形をもって現れるのである。天使たちは悪い者らが他の者に危害を加えようとしてその地獄から出て霊たちの世界に入ろうとしているのを認める毎に彼らを眺めるのであるが、そのことにより彼らは見破られて、再び元の所へ投げ込まれるのである。天使たちの視線の中にこのような威力がある理由は知的な視覚と目の視覚との間に相応が在るということであり、それで彼らの視線には鋭い視力が在り、その前には奈落の明るさを消滅して、悪霊らはその者らに属している形と性質の中に現れるのである。

 

 

天界の秘義9013

 

「毒」は詐欺を意味する。

 

「アスプ」(エジプトコブラ、クレオパトラが自殺に用いたと伝えられる)

「コカトリス」「まむし」といった毒蛇は欺く者らを意味している。

 

詐欺を伴って行われる悪は最悪のもの。

 

 

真の基督教380

 

 唇では主を贖罪者、救い主として尊敬するものの、心では彼を単なる人間として認めている者がいる。彼等は蜜を塗った唇をもっているが、その心は苦味に満ち、その言葉は砂糖であるが、その思いは毒であり、彼らは毒蛇が一杯入っている饅頭のようなものである。若し、彼等が祭司であるならば、平和な国民の旗を立てて航海して行くが平和な船が近づくと、黒い旗をかかげ、船を捕らえ、船員を奴隷にして売りとばす海賊のようなものである。彼等はまた善悪を知る木の蛇のようなものである。彼らは光りの天使のように装い、手にはその善悪を知る木から取ったものではあるが、生命の木の黄金の果実のように見える林檎を持ち、これを提供して言う「神汝らがこれを食らう日には汝等の目開け、汝等神の如くなりて善悪を知るに至るを知りたまうなり」(創世記3・5)。その犠牲はこれを食うや、蛇に従って地獄に行き、そこに彼と共に住む。近くには、アリウスとソツヌスの林檎を食った凡ゆるサタンがいる。これらは婚礼に出席したが式服を着けていなかったため、外の暗闇に投げ出された者によって意味されている(マタイ22・11,12,13)。

 婚礼の服とは神の子、天地の神、父と一なる者としての主に対する信仰である。唇をもって主を尊ぶが、しかし心では彼を単なる人間として認める者らが他の者達を説きつけて、自らが考えるように考えさせようとするならば、霊的殺人であり、その最悪な者は霊的食人種である。何故ならば、人間の生命は主に対する愛と主に対する信仰から発するが、若し主は神なる人であり、人なる神であるとの信仰と愛とのこの要素が取り去られるならば、彼の生命は死に変わるからである。かくして人間は羊が狼に食い尽くされるように殺されるのである。

 

 

天界と地獄579

 

こうした魔鬼は、その詐欺と狡知とを暴露されると、蝮のように見える。