第9誡:なんじ、人の妻を恋うるなかれ。

第10誡:なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

 

十戒(出エジプト20)

 

 

1.聖書

2.自然的意義:この二つの誡命は凡て前の誡命に関連しており、悪は為してはならぬし、また欲求してもならないことを教え、且つ命じている

3.霊的意義:霊と教会の霊的な事柄に相反し、特に信仰と仁慈に相反する欲情を禁じている

4.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト記20・17

 

隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

 

 

 

2.自然的意義:この二つの誡命は凡て前の誡命に関連しており、悪は為してはならぬし、また欲求してもならないことを教え、且つ命じている

 

真の基督教325

 

「汝その隣人の家を貪るなかれ、また汝の隣人の妻およびその僕、婢、牛、ろ馬、ならびに凡て汝の隣人の所有を貪るなかれ」

 

現今使用されている祈祷書には、上述の記事は二つの誡命に分割され、一は「汝その隣人の家を貪るなかれ」という第九の誡命となり、他は「汝は汝の隣人の妻およびその僕、婢、牛、ろ馬、ならびに汝の隣人の所有を貪るなかれ」という第十誡となっている。

 

この二つの誡命は一つの誡命をなし、出エジプト記20・17及び申命記5・21では同一の節の中に含まれている故、私はこれを一つにして取り扱ったのであるが、誡命が十の言(出エジプト34・28、申命記4・13、14)と呼ばれている事実によって暗示されるように、実際は二つの誡命である。

 

 

 

真の基督教326

 

この二つの誡命は凡て前の誡命に関連しており、悪は為してはならぬし、また欲求してもならないことを教え、且つ命じている。それ故、それは単に外的なもののみではなく、内的なものにまで言及している。なぜなら悪を行うことを慎んではいるが、これを欲求する者は、実際はこれを行うものであるからである。なぜなら主は「他人の妻に色情を抱く者は、既に心の中に姦淫したるなり」(マタイ5・28)と語り給い、しかして外なる人は、欲情が除き去られない限りは、決して内なる人とならないし、また内なる人と一つのものとして行動しないからである。このことをまた主は以下のように教え給う「禍害なるかな、学者、パリサイ人らよ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、然れど内は貪欲と放縦とにて満つるなり。盲目なるパリサイ人よ、汝先ず酒杯と皿の内を潔めよ、然らば外も潔まるべし」(マタイ23・25、26)。

しかして主はこれと同一のことをその章にくまなく教え給う。パリサイ的である内なる内容は、第一、第二、第五、第六、第七、第八誡に禁ぜられているものを求める欲情である。主は世に在し給うた時に、教会の内的なものを擁護され、内的なものは諸々の悪を欲求しないことに在ることはよく知られている。彼はこれを教え給うたのは、内なる人と外なる人とが一つになるためであった。これは再び生まれることであった(主がニコデモに語り給うたことを参照されよヨハネ三章)、しかして何人も主に由らなくては、新しく生まれ、再生し、かくして内なるものになり得ないのである。二つの誡命がこれに先立っている誡命に含まれた禁止事項を再び確認するために、先ず家、次に妻、後に僕、婢、牛、ろ馬、最後に隣人の持つ凡ての物が記されたのである。何故なら家なる語は夫、妻、僕、婢、牛、ろ馬、を含むものとして、その後に来る凡てのものを包含するからである。次に記された「妻」なる語も亦その後に来るものを凡て包含している、なぜなら彼女はその家では、夫が主人であるように、女主人であり、僕と婢は主人と女主人の下に在り、牛とろ馬は僕達の下に在るからである。最後に下にあり、または外にあって、隣人の持つ凡ての物として呼ばれる凡ゆる物が来る。かく凡て前述の誡命は、この二つの誡命の中に、一般的に、また個別的に、広義と狭義に於いて、再び確認されているのである。

 

 

 

3.霊的意義:霊と教会の霊的な事柄に相反し、特に信仰と仁慈に相反する欲情を禁じている

 

真の基督教327

 

「霊的意義では」この誡命は霊と教会の霊的な事柄に相反し、特に信仰と仁慈に相反する欲情を禁じている。なぜなら、欲情が征服されない限り、肉は自発的に凡ゆる種類の邪悪に向かって突進するからである。なぜならパウロは「肉の望む所は御霊にさからい、御霊の望む所は肉にさからう」と語り(ガラテア5・17)、ヤコブ書に「人は皆己の欲によりて誘われ、惑わさるるなり。欲孕みて罪を生み、罪成りて死を生む」(1・14、15)とあり、ペテロ書に「主は正しからぬ者を審判の日まで看守して、これを罰し、別けて肉に随いて汚れたる情欲の中に歩む者を罰し給う」(後書2・9,10)と言われているからである。約言すれば、この二つの誡命はその霊的な意義では、前の誡命の霊的な意義に含まれている禁止事項を再び確認しており、これはその天的な意義についても同様であって、ここでこれを繰り返すことは不必要である。

 

 

 

真の基督教328

 

 肉、眼および他の感覚の欲情は、霊の情愛、欲求、歓喜から切り離される時、獣の欲情に正確に似ている。それ故、そのものは、それ自体獣的なものである。しかし霊の情愛は天使のそれに似、それ故真に人間的なものと呼ばれることが出来よう。それ故、人は肉の欲情に耽溺する限り、獣であり、野獣であるが、しかし霊の諸情愛を楽しむ限り、人間であり、天使である。肉の欲情は乾燥しきって萎縮した葡萄に、また野葡萄に譬えることが出来ようが、霊の諸情は液汁の豊かな美味な葡萄に、またそれから造られた葡萄酒の味に譬えることが出来よう。肉の欲情はろ馬、山羊、豚の居る厩に譬えることが出来ようが、霊の諸情愛は充分に発育した馬や羊や子羊のいる厩に譬えることが出来る。両者はろ馬が馬と、山羊が羊と、あるいは豚が子羊と相違しているように相違し、全般的に鉄屑が金と、石灰石が銀と、珊瑚が紅玉と相違しているように相違している。欲情と行為は血と肉のように、あるいは焔と油のように密着している。なぜなら、欲情は行為の中に、丁度息が言葉の中に、あるいは風が船の帆の中に、あるいは水が機械を動かす水車の中に在るように在るからである。

 

 

 

天界の秘義8909

 

14節。「あなたはあなたの隣人の家を貪ってはならない、あなたはあなたの隣人の妻をその僕を、その婢を、その牛を、そのろばを、なんであれ、あなたの隣人のものを貪ってはならない」は、自己と世への愛を警戒しなくてはならない、かくて前の戒めに含まれているいくたの悪が意志のものとなって、現れてこないように警戒しなくてはならないことを意味している。

 

 

 

天界の秘義8910

 

「あなたはあなたの隣人の家を貪ってはならない、あなたはあなたの隣人の妻を、その僕を、その婢を、その牛を、そのろばを、なんであれ、あなたの隣人のものを貪ってはならない」。これは自己と世への愛を警戒しなくてはならない、かくて前の戒めに含まれている悪が意志のものとなって、現れて出ないように警戒しなくてはならないことを意味していることは、『貪ること(concupiscere)』の意義から明白であり、それは悪い愛から意志する[欲する]ことである。『貪ること』にこの意義があることは、欲念はすべて何らかの愛から生まれているためである、なぜなら何一つもしそれが愛されない限りむさぼられないのであり、それで欲念(または『貪ること』)は愛から『連続しているもの』であり、この場合、自己または世への愛から連続しているものであり、その呼吸している生命のようなものであるからである。なぜなら悪い愛が呼吸しているものは『欲念』と呼ばれるが、善い愛が呼吸しているものは、『願望』と呼ばれるからである。愛そのものは意志と呼ばれている心の他の部分に属している、なぜなら何であれ人はその愛しているものを意志もする[欲しもする]からである、しかし欲念は、それは元来理解の中にある意志のものではあるが、意志にも理解にも属している。この凡てから『あなたはあなたの隣人のものを貪ってはならない』により、人間はそうしたものが意志のものとならないように警戒しなくてはならないことが意味されていることが何処から発してくるかが明白である、なぜなら意志は人間そのものであるため、意志のものとなるものはその人間のものとなるからである。

 

 

 

天界の秘義8910[2]

 

思考[考え]が人間であると世では信じられているが、しかし人間の生命を構成している二つのもの、理解と意志が存在しているのである。理解に思考が、意志には愛から生まれる情愛が属している。愛から生まれている情愛を欠いた思考は人間のもとに何ら生命を作ってはいないが、愛から生まれた情愛から発した思考が、かくて意志から発した思考が生命を作るのである。この二つは互いに他から明確に区別されていることは、以下の事実から、(そのことを)反省する者にはすべて明らかである、すなわち、人間はその意志している[欲している]ことが悪であり、また意志している、または意志していないことが善であることを理解もし、認めも出来るのであり、そのことから意志は人間そのものであるが、しかし思考は、その中へ何かが意志から発して、入っていない限り、人間そのものではないことが明らかである。ここから人間の思考の中へ入りはするが、思考を経て意志の中へ入らないものは人間を汚さないのであり、思考を経て意志の中へ入るものが人間を汚すのである。この後のものが、それがそのとき人間に所有されて、人間のものとなるため、人間を汚すのである、なぜなら前に言ったように、意志が人間そのものであるからである。意志のものとなるものはその心の中へ入って、そこから現れてくると言われているに反し、思考のみに属しているものは―マタイ伝の主の御言葉によると―口の中へ入りはするが、腹を通って厠へ落ちると言われている―

 

 口の中へ入るものが人間を汚すのではなく、口から出てくるもの、それが人間を汚すのである。何であれ口へ入るものは腹の中へ入り、厠へ棄てられるのである。しかし口から出てくるものは心から出てきて、それが人間を汚すのである。なぜなら心から悪い思いが、殺人が、姦淫が、私通が、窃盗が、偽証が、涜神[冒涜]が現れてくるからである(15・11、17、19)。

 

 

 

天界の秘義8910[3]

 

主の御言葉はいかような性質のものであったかは、これらの言葉から、他の凡てのその御言葉からも明らかになるように明らかになるのである、すなわち、内なる霊的な事柄が意味されていたのであるが、しかしそれは外なる、または自然的な事柄により表現されたのであり、しかもそれは相応に従っていたのである、なぜなら口は思考に相応しており、同じくまた唇、舌、喉といった口に属したものもすべて思考に相応しており、心[心臓]は愛から生まれる情愛に相応し、かくて意志に相応しているからである(心がこれらのものに相応していることについては、2930、3313、3883−3896、7542番を参照)。従って『口に入ること』は思考に入ることを意味し、『心から出てくること』は、意志から発してくることを意味し、『腹に入って、厠(または便所)へ落ちること』は地獄へ投げ込まれることである、なぜなら腹は地獄に至る道に相応し、厠または便所は地獄に相応しているからであり、地獄は聖言ではまたそのように呼ばれているものである。

 

このことから『何であれ口に入るものは凡て腹に入って、厠へ捨てられる』により意味されていることが明らかであり、すなわち、悪と誤謬とは地獄から人間の思考の中へ注ぎ込まれるが、しかし再びそこへ送り返されることが明らかである。これらのものは送り返されるため、人間を汚すことは出来ない、なぜなら人間は悪を考えることは避けることは出来ないが、しかしそれを行うことは避けることが出来るからである。しかし彼が悪を思考から意志の中へ受けるとすぐに、それはそのときは彼から出て行きはしないで、彼の中へ入るのであり、そのことが『心から出てくること』と呼ばれているのである。そこから出てくるものが彼を汚すことは、人間が意志する[欲する]ものは、法律に対する恐れ、名声、名誉、利得、生命を失いはしないかとの恐れという外なる拘束物で抑えられない限り、言葉となり、行為ともなるためである。この凡てから『あなたは貪ぼってはならない』により人は悪が意志のものとなって、現れてこないように警戒しなくてはならないことが意味されていることが今や明白である。

 

 

 

天界の秘義8910[4]

 

欲念(または『貪ること』)が意志に属しし、かくて心に属していることもまたマタイ伝の主の以下の御言葉から明白である―

 

 あなたは姦淫を行ってはならない、と昔の者たちが言われたことをあなたらは聞いているが、しかしわたしはあなたらに言う、もしたれかが自分のものでない女を眺めて、これに色情を抱くなら、心ですでにその女と姦淫を行ったのである(5・27,28)。

 

『色情を抱くこと』によりここでは意志する[欲する]ことが意味され、(外なる拘束物である)恐怖により抑制されない限り、行うことが意味されている、ここから『女を眺めて、これに色情を抱く者は心でその女と姦淫を犯している』と言われている。

 

 

 

天界の秘義8910[5]

 

マタイ伝の主の御言葉の中にもまた悪の欲念が『躓かせる右の目』により意味され、誤謬の欲念が『躓かせる右の手』により意味されているのである。

 

もしあなたの右の目があなたを躓かせるなら、それをくじり出して、投げ捨てなさい、あなたの肢体の一つが滅んで、全身がゲヘナに投げ込まれない方があなたにはまさっているからである。もし右の手があなたを躓かせるなら、それを切り取り、投げ捨てなさい。あなたの肢体の一つが滅んで、全身がゲヘナに投げ込まれない方があなたにはまさっているからである(5・29,30)

 

 これらの言葉から主はいかように話されたかが、すなわち、聖言の他の凡ゆる所と同じく、神的なものから話されたことが再び明白であり、かくて主は内なる天界的な事柄を相応に従って外なる、または自然的な物により表現されたのであり、ここでは悪の情愛または悪の欲念を『躓かせる右の目』により、誤謬の情愛または誤謬の欲念を『躓かせる右の手』により表現されたのである、なぜなら目は信仰に、左の目は信仰の真理に、右の目は信仰の善に相応し、その対立した意義では信仰から生まれた悪に相応しており、かくて『躓かせる右の目』はその欲念に相応しているからである(4403−4421、4523−4534)。しかし手は真理に属した力に、右の手は善から発した真理の力に相応し、その対立した意義では悪から発した誤謬の力に相応し、かくて『躓かせる右の手』はその欲念に相応しているのである(3091、3563、4931−4937、8281番)。

 

『ゲヘナ』は欲念の地獄を意味している。たれでもこの記事には『右の目』により右の目が意味されてはおらず、目をくじり出すことも意味されておらず、また『右の手』により右の手が意味されてはおらず、それを切り取らなくてはならないことも意味されてはいないで、他の何かが意味されており、その何かは『目』により、特に『右の目』により意味されていることが知られない限り、また『手』により、特に『右の手』により意味されていることが、同じく『躓きを与えること』により意味されていることが知られない限り知られることは出来きないのであり、これらの表現により意味されていることは内意によらなくては知られることも出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義8910[6]

 

欲念は悪い意志から発し、かくて悪い心から発し、また意志からは、マタイ伝15・19の主の御言葉に従って、殺人、姦淫、私通、窃盗、偽証が発し、かくて十戒の前の戒めに含まれているようなものが発してくるため、それで『隣人のものであるそれらの物を貪らないこと』により、前の戒めに含まれている悪が意志のものとなって、現れてこないように警戒しなくてはならないことが意味されていると言ったのである。『隣人のものであるそれらの物を貪らないこと』により自己と世を求める愛を警戒しなくてはならないことが意味されていることは欲念の悪は凡てこれらの悪からそれをその源泉として発生しているためである(2045、7178、7255、7366−7377、7488、8318、8678番を参照)。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P523

128アックヮ・スペツィオーザでの説教。

『他人の女を欲してはならない』。若き好色の男の治癒。

1945年3月12日

 

 イエズスは、四方八方から彼を呼ぶ、本当に小さな民の中を通過する。自分が負った傷を見せる者、自分の受けいている災禍を数え上げる者、『わたしを憐れんでください』とだけ繰り返す者、祝福を受けるために我が子を差し出す者。風も無く、よく晴れた日とあって、多くの実に多くの人びとが繰り出した。

 イエズスが彼の席に着こうとしていた時、川へと行く小道から哀れを誘う呻き声が聞こえる。「ダビデのよ、不幸(ふしあわせ)な子を憐れんでください」。

 イエズスはその声のする方を振り向き、と共に民と弟子たちも振り向く。だが固まって生い茂る黄楊(つげ)の立ち木が、嘆願する者を隠している。

「あなたは誰ですか? 出て来なさい」。

「できません。わたしは保菌者です。この世から追放されるために、祭司の所に行かねばなりません。わたしは罪を犯し、癩はわたしの体に吹き出しました。あなたに望みをかけています!」。

「癩者だ! 癩者だ! 呪われよ! 彼を石殺しにしよう! 」。群集は騒ぎ立てる。

イエズスは沈黙と不動を命じる仕草をする。「彼は罪のうちにある者よりも保菌者ではありません。の目には、悔悟しない罪人は悔悟した癩者よりも汚れています。信じることのできる人はわたしと一緒に来なさい」。

 弟子たちのみならず、好奇心に動かされた者たちはイエズスの後に付いて行く。その他の者たちは首を長く伸ばしはするが、今いる場所から動こうとはしない。

 イエズスは家のもっと先へと進み、黄楊(つげ)の木立ちへと向かう。しかしその後でふと立ち止り、命令する。「姿を見せなさい!」。

 うっすらと髭を顎鬚を生やした、まだ美しい生気のある顔立ちの、青年期を漸く脱したばかりの若者が、泣いて赤くなった目をして出て来る。

 もうすでにイエズスが家の中庭を通り過ぎるしなに、泣いていた、体をすっぽり覆った女たちのグループの中から大衆の強迫を受けて、一際激しく泣く一人の女がイエズスに挨拶の叫びを上げる。「わたしの息子が!」と、その女は身内か友達かわたしにはわからない別の女の腕の中に頽(くずお)れる。

 イエズスは逆境にある男の方へ一人進む。「あなたはとても若い。どうして癩者なのですか?」

 青年は目を伏せ、火のように赤くなり口ごもるが、ただそれだけ。イエズスはその問いを繰り返す。青年はもっとはきり何かを言う。だがただ単語しか摑めない。「・・・父は・・・わたしは行きました・・・そしてわたしたちは罪を犯し・・・わたしだけでなく・・・」。

「あそこには、希望し、泣いているあなたの母上がおられる。天上には知っておられるが在(ましま)す。ここには知っているわたしがいます。だがあなたを憐れむには、あなたがこの屈辱を味わう必要があるのです。話なさい」。

「子よ、話しなさい。お前を生んだ胎を哀れと思いなさい」と、イエズスのもとまで身を引き摺り、今はその前に跪き、気づかずに片手でイエズスの服の裾を握り、もう一方の手を息子の方へ差し延べ、涙で皺くちゃになった哀れな顔を見せて母親は苦悶する。

 イエズスは彼女の頭上に手を置く。「話しなさい」と、繰り返す。

「わたしは長男で、父の商売を手伝っています。父は顧客と交渉するために幾度もわたしをエリコに行かせました。そして・・・その顧客の一人には・・・若く美しい妻がいて・・・彼女はわたしを・・・わたしを好きになりました・・・そうすべきではなかったのに、わたしは以前よりも頻繁にエリコに行くようになりました・・・彼女を好きになり・・・わたしたちは互いを求め合い、そして・・・彼女の夫が家を留守にした時、わたしたちは罪を犯しました・・・彼女は健康でしたからどうして癩者になったのかわかりません。そうです。わたしだけが健康であって彼女を欲したのではなく・・・彼女は健康であってわたしを欲したのです。もしかして彼女が・・・わたし以外の男たちを欲して彼らから感染したのかどうかわかりませんが・・・彼女がまもなく発病し、今は生きながら死ぬために墓地をさ迷っていることは知っています。・・・そしてわたしは・・・そしてわたしは・・・マンマ! あなたはそれを見た。大したことではないのに、人びとは癩だと言っています・・・そしてわたしはこの病気で死ぬでしょう。いつ? もっと人生を・・・もっと家を・・・もっとマンマを・・・おお! あなたを見ながらあなたに接吻もできないなんて!・・・きょう、わたしの服の縫い目を解き、家から・・・町から・・・わたしを追い出しに人がやって来るでしょう・・・わたしより死者のほうがまだましです。わたしの亡骸に流されるマンマの涙もないなんて・・・」。

 青年は泣く。母親は風に激しく揺さぶられる草木のようにしゃくりあげて泣く。人びとは全く逆の感情の中で見解を言い合う。

 イエズスは打ち沈んでいる。話す。「あなたは罪を犯している時、母を思わなかったのですか? 地球上に一人の母が、天上には唯一のがおられるのを思い出さぬほど、あなたは人に恋い焦がれたのですか? また、もし発病しなければ、あなたはと隣人に背いたことを思い出したろうか? あなたの霊魂に対してあなたは何をしたのですか? あなたの青春に対しては?」

「わたしは誘惑されたのです・・・」

「あなたはあの果実が呪いであったことを知らないほど子供(ねんね)ですか? 同情されずに死んで当然でしょうに」。

「おお! 憐れんでください! それができるのはあなただけです・・・」。

わたしではない。だけです。もしここでもう二度と罪を犯さないと誓うなら」。

「それを誓います。それを誓います。よ、わたしを救ってください。最後の判決が下るまでにわたしには僅かな時間しかありません。マンマ! ・・・マンマ! あなたの涙でわたしを助けて! おお! マンマ!」。

 女はもはや声さえも出せない。イエズスの両脚にただしがみつき、苦悩で腫れ上がった瞼をした顔を上げる。これこそ彼を支え、彼を救うことのできる最後の支柱であると知り、無理強いする者の悲壮な顔である。

 イエズスは彼女を見つめる。彼女への慈悲の微笑を浮かべる。「母よ、立ちなさい。あなたの息子は治りました。でもあなたのために。彼のためではなく」。

 女はまだ信じない。彼から離れているので女には彼は治されえないと思えたらしく、泣きじゃくりながら拒否の合図をする。

「男よ、胸からチュニカを脱ぎなさい。そこには汚(し)みがありました。あなたの母さんは慰められるように」。

 青年はゆっくりと服を下ろし、衆人監視の下で、裸になる。接合した一つの滑らかな頑健な若々しい皮膚しかない。

「母よ、見てみなさい」と、イエズスは言い、女を立ち上がらせようと腰を屈める。その動作は、母性愛と奇跡の光景を見たことで、清められたかどうかを待たずに息子に向かって疾駆しようとする彼女を引き留めるためにも役立つ。母性愛が彼女を急き立てるあの場所に行くことが出来ないと感じると、彼女はイエズスの胸に身を投げ、狂喜して、彼に接吻する。泣き、笑い、接吻し、祝福する・・・そしてイエズスは彼女を哀れと思いその頭を撫でてやる。その後若者に言う、「祭司のところに行きなさい。また、はあなたが将来義人となるように、あなたの母のためにあなたを治癒されたことを思い出しなさい。行きなさい」。

 青年は救い主に感謝の祝福を捧げて去り、間隔を置いてその母と、ずっと彼女と一緒にいた女たちがついて行く。群集は歓声を上げる。

 イエズスは自分の席に戻る。

「彼もまた品行の方正を命じておられるが在(ましま)すことを忘れていました。でもない諸々の神になることは禁じられているのを忘れていました。わたしが教えたように安息日を聖化することを忘れていました。母に対する愛深き尊敬の念を忘れていました。不倫をしてはならない、盗むな、嘘を吐くな、他人の女を欲しがるな、自分自身と自分の霊魂を殺すな、姦淫をするな、ということを忘れていました。何もかも忘れていました。どのように彼が打撃を受けたかを見なさい。

『他人の女を欲しがってはならない』は、『姦淫してはならない』と結合します。なぜなら欲望はいつも行為に先んずるからです。人は欲望を遂げるに至ることなく欲望しうるには、あまりにも弱いのです。途轍もなく悲しいのは、人は正当な欲望において同様にするすべてを知らないということです。悪において欲望し、そして罪を犯します。善において欲望し、そして引き下がらないとしても、そこに留まっています。

 欲望の罪は、自ずからはびこる浜麦のように伝播するので、わたしは彼に言ったことをあなたたち皆に言います。あなたたちは、あの誘惑が有毒であり、それを避けるべきだということを知らないねんねなのですか? 『誘惑されました』。言い古された言葉です! しかしそれは古来、見せしめでもあるから人はその結果を想起し、『否』と言えなければなりません。わたしたちの歴史には、すべての性的誘惑と乱暴者たちの威しにもめげず貞潔を守り抜いた人たちの模範に事欠きません。

 誘惑は悪ですか? そうではありません。悪魔の仕業です。しかしそれに対して勝利すれば、栄光に変わります。

 他の愛人たちに走る夫は、妻の、子らの、自分自身の殺人者になります。姦淫するために他人の住まいに入る者は盗人であり、最も卑劣です。身銭を切らずに他の鳥の巣を恣(ほしいまま)にする郭公(かっこう)にも等しい。男友達の信頼を掠め取る者は、実際には抱いてもいない友情を証明しているのだから嘘吐きです。このように振る舞う者は自分自身と両親の面目を失わせます。ならばどうしてを味方につけられようか?

 わたしは、あの哀れな母親のために奇跡を行いました。しかしそれによって諌止(れんし)された色欲に、わたしは吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えます。あなたたちは癩病に恐れわななき叫び声を上げました。わたしは色欲に対する戦慄のために魂の叫びを上げました。すべての悲惨はわたしの四方にあり、わたしはそのすべての救い主です。それでも、色欲に溺れた者に近寄るよりも、正直だったその肉体と共にすでに腐敗した義人の遺体に触れることを好みます。わたしは救い主ですが、無辜(むこ)です。ここに来る人たち、あるいは彼らの憎しみの要因をわたしの人格に与えてわたしについて語る者たちは皆これを覚えておくように。

 あなたたちがわたしから他のことを望んでいることは理解しています。しかしわたしにはできません。やっと形成され、淫蕩によって台無しにされた青春の崩壊は、に触れたよりもわたしを撹乱しました。病人たちの所へ行きましょう。吐き気が喉につかえて、言葉にならないので、わたしに希望する者の健康となりましょう。

 平安はあなたたちと共に」。

 実際、イエズスは病人のように顔面蒼白である。病める子供たちや担架上の病人の上に屈み込む時以外は、微笑はその顔に戻って来ない。その時、に戻るのだ。特に、ほぼ十歳くらいの口が利けない一人の男の子の口に、その一本の指を入れて、彼に「イエズス」と、それから「マンマ」と言わせた時がそうである。

 人びとは少しずつ立ち去る。

 イエズスはイスカリオテが彼のもとへやって来るまで、麦打ち場に溢れる陽光を浴びて散策している。「先生、わたしは安心していられません・・・」。

「ユダ、なぜですか?」。

「エルサレムのあの連中のことです・・・わたしは彼らを知っています。何日か、わたしをあそこに行かせてください。一人でとは申しません。むしろそうでないことをお願いします。シモンとヨハネを付けてください。ユダヤでもの最初の旅でも彼らはわたしにとてもよくしてうれました。一人はわたしの行き過ぎにブレーキをかけてくれ、別の一人はわたしの思いまでも清めてくれます。わたしにとってヨハネが何であるか、あなたには信じてもらえないでしょう! わたしの激情を鎮める一滴の露であり、わたしの騒ぐ心の水面(みずも)に落ちる一滴の油です・・・それを信じてください」。

「わかっています。だからわたしが彼をいたく愛したからとてあなたは何も驚くことはないはずです。わたしの平和です。しかし、あなたも常に善良な人であるなら、わたしの慰めになるでしょう。あなたが豊かに持っている神の賜物を、数日前からしているように、善行に用いるなら、真の使徒になるでしょう」。

「そして、あなたはわたしをヨハネのように愛してくださいますか?」。

「ユダ、わたしは同様に愛しています。ただ、気苦労や悩み無く、あなたを愛するでしょう」。

「おお! わたしの先生、あなたは何ていいお方でしょう!」。

「エルサレムへ行って来なさい。何の役にも立たないでしょうが。しかし、わたしのために役立ちたいと熱く望んでいるあなたをがっかりさせたくはありません。今すぐシモンとヨハネにそれを言いましょう。行きましょう。ある種の罪のために、あなたのイエズスがどれほど苦しむかを見ましたか? まるで途方も無く重い荷物を担ぎ上げた人のようです。決してこの苦しみをわたしにさせないでくれ。もう二度と・・・」。

「断じて、先生、断じて。あなたを愛しています。それを御存じです・・・でもわたしは弱い者です」。

「愛は強めます」。

 二人は家に入り、すべては終わる。

 わたしは精神的にひどく苦しんでいるので、ここで終わってよかった。神父様、あなたはその原因を御存じです。肉体的には、なぜか―受難節であるからか、あまり書き取りに没頭し過ぎたからか、正確にはなぜかわからないけれども―高熱に襲われ、肺と脊柱と腹部の激痛に苦しんでいるからです。任務はわたしの内部で果たされ続けているのだと思います。この愛する町の多湿と日照の欠如を忍ぶことで罪を償っています。