第6誡

なんじ、姦淫するなかれ。

 

 

十戒(出エジプト20)姦淫

不潔同性愛誤謬化された真理

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである(マタイ15・11)

 

 

 

 

1.自然的意義:姦淫を為すこと、意志と行為の淫猥、従って思考と言葉の不潔、色情を抱くこと

2.霊的意義:聖言の諸善を汚し、その真理を虚偽化すること

3.天的意義:聖言の聖さを否定し、これを汚すこと

4.黙示録講解

5.生命

6.マリア・ワルトルタ

7.聖母から司祭へ

8.ヴァッスーラより

 

 

 

 

1.自然的意義:姦淫を為すこと、意志と行為の淫猥、従って思考と言葉の不潔、色情を抱くこと

 

マタイ5・27−30

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 

 

マタイ15・16−20

 

イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

 

真の基督教313

 

「汝姦淫するなかれ」

 

「自然的意義では、」この誡命は単に姦淫を為すことを意味するのみではなく、意志と行為の淫猥を意味し、従って思考と言葉の不潔を意味する。単に心に色情を抱くことさえ姦淫をなすことであるということは、主の以下の言によって明白である。

 

「古の人に姦淫するなかれと云えることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を抱きて女を見るものは既に心のうちに姦淫したるなり」(マタイ5・27、28)。

 

これは色情が意志の中に入るとき、行為となるからである。なぜなら誘惑は理解へ入るのみであるが、意図は意志へ入り、色情の意図は行為であるからである。しかし、この主題に関してはさらに多くの事柄が「結婚愛と姦通愛」と題された著述に見られるであろう。そこには以下の主題が取り扱われている。結婚愛と姦通愛との対立(423−443番)。密通(440−460番)。姦淫の幾多の種類と度(478−499番)。処女を犯す色情(501−505番)多様のものに耽溺する色情(506−510番)。凌辱の色情(511、512番)。無垢な者を誘惑する色情(513、514番)。姦通愛と結婚愛の転嫁(523−531番)。

凡てのこの事柄はこの誡命の自然的な意義に意味されている。

 

 

2.霊的意義:聖言の諸善を汚し、その真理を虚偽化すること

 

真の基督教314

 

 「霊的な意義では」姦淫を為すことは聖言の諸善を汚し、その真理を虚偽化することを意味する。「姦淫を犯すこと」はこのことを意味することは、現今に至る迄知られなかったのは、聖言の霊的な意味は隠されていたからである。しかし、これは聖言に姦淫、密通、売淫をなすことにより意味されていることは、以下の記事によって明らかである。

 

「汝等エルサレムの邑(まち・・文語訳聖書ふりがな)を彼方此方に駆けめぐりて、公義を行い、真理を求むる者の在るや否やとたずねよ。我は彼らをその満ち足るる程に養い育てしに、彼らは姦淫を犯したり」(エレミヤ5・1、7)。「我エルサレムの預言者の中にて恐るべき頑なさを見たり、彼等は姦淫をなし、詐偽をおこなう」(エレミヤ23・14)。「彼らイスラエルの中に悪を為し、姦淫をなし、わが言を偽りて語れり」(29・23)。「かれらは淫行をなせり、これエホバを棄て去りし為なり」(ホセア4・10)。「くちよせと魔法使いをたのみ、これに従いて淫行を為す者を我はその民の中より絶つべし」(レビ20・6)。「その地の居民と契約を結ぶべからず、その神々に従いて淫行をなすことのなからんためなり」(出エジプト34・15)。バビロンは他の凡てに勝って聖言を汚し、これを虚偽化する故、大淫婦と呼ばれ、これについては黙示録に、かれは凡ゆる国民にその淫行の怒りの葡萄酒を飲ませたと言われている(黙示録14・8)。

 

御使いはヨハネに語った。「われ大淫婦の審判を汝に示さん、地の王達はこれと淫を行いたり」(17・1,2)。「彼は己が淫行をもて地を汚したる大淫婦を審判き給えり」(19・2)。ユダヤ民族は聖言を虚偽化したため、主によって「不義なる代」(マタイ12・39、16・4、マルコ8・38)と呼ばれ「淫人(たわむれびと)の裔」(イザヤ57・3)と呼ばれた。(エレミヤ3・6,8、13・27、エゼキエル16・15、16、26、28、29、32、33、23・2、3、5,7,11、16、17、ホセア5・3、6、10、ナホム書3・4)の如く姦淫と淫行によって聖言を汚し、これを虚偽化することが意味されている記事を他に記す必要は無い。

 

 

3.天的意義:聖言の聖さを否定し、これを汚すこと

 

真の基督教315

 

「天的意義では」姦淫を為すことは聖言の聖さを否定し、これを汚すことである。これは聖言の諸善を汚し、その真理を誤謬化するというその霊的な意義から生まれる。基督教世界では聖言に基礎づけられている教会と宗教を、心で軽蔑する者等は、聖言の神聖を否定し、これを汚すものである。

 

 

真の基督教316

 

自らは全く不貞な人間であるにも拘らず、他の者に対してのみでなく、自らに対しても貞淑な者であるように見えるのには種々の理由がある。なぜなら彼は意志の内なる色情は行為と相等しいものであり、それは主によってのみ悔改めの後に除かれることが出来ることを知らないからである。行為を慎むことによって人間は貞潔になるのではなく、その行為が可能である場合にもこれを欲しないことによって貞淑になるのである。

 

しかし、もし人間がただ単に法律とその刑罰を恐れ、名声と尊敬が失われることを恐れ、病気に感染することを恐れ、妻との家庭内の争いとそこから生まれる不穏な生活を恐れ、夫や近親の復讐を恐れ、召使によって打たれることを恐れることによって、また貪欲によって、病気、濫用、老齢から生ずる衰弱によって、あるいはその他の何らかの無能の原因によって、姦淫と密通を慎むならば、否、さらに霊的な律法の故によってこれを慎むのではなく、自然的な、あるいは道徳的な何らかの律法によって慎むに過ぎないならば、彼は内的には姦淫を犯す者であり、また密通者である。

 

なぜなら、彼は依然として、姦淫と密通は罪ではないと信じており、それ故、それを神の眼前に不法なものとして認めず、かくて彼はたとえこれを行為に現さないにしても、霊に於いて行う者であり、それ故彼は死後霊となる時、公然とこれを弁護するのである。さらに、姦淫者は契約を破棄する者に比較され、また「何処に我々は処女を、婚約をした娘達を、既婚の女を見出し、これを弄ぶことが出来るか」と叫びながら、森を彷徨った古代のサチルス神とプリアピイ神に比較することが出来よう。姦淫者は、霊界では実際サチルスやプリアピイのような姿で現れるのである。彼らは、更に、悪臭を放つ山羊に譬えられ、また街々を駆けめぐって、己が欲望を満足させる相手を探し求めてこれを嗅ぎつけまわる犬に譬えることが出来よう。彼らは夫になると、その生殖力は、二三週間で花片を落として、枯れゆく春のチューリップに譬えることが出来よう。

 

 

 

聖書[3]

 

 あなたは姦淫を犯してはならない。『姦淫を犯すこと』により人間は姦淫、私通を犯し、わいせつな事を行い、みだらな言葉を話し、汚らわしい思いを抱くことを理解している。霊的天使は聖言の諸善を不善化し、その諸真理を誤謬化することを理解している。そして天的天使は主の神性を否定し、聖言を冒瀆することを理解している。

 

 

 

 

4.黙示録講解 

 

黙示録講解1010[4]

 

これまで姦淫のことが考察されたが、今は姦淫とは何であるかを述べよう。姦淫は婚姻愛を破壊する淫行である。夫が他の者の妻と、または、やもめであれ、処女であれ、または娼婦であれ、女と犯す淫行は結婚に対する嫌悪または反感から行なわれるときは、姦淫であり、同様に妻が結婚した男と、または同じような理由から独身の男と犯す淫行も姦淫である。更に、結婚していない男が他の者の妻と犯す淫行と、結婚していない女が他の者の夫と犯す淫行とは、彼らの心を結婚から姦淫へ向けることにより婚姻へ向けることにより婚姻を破壊するため、姦淫である。色々な女との歓喜は―たとえ娼婦相手の歓喜であっても―姦淫の歓喜である。なぜなら多様な者を歓ぶ歓喜は結婚の歓喜を破壊するからである。同様に、また、結婚の意図も無しに処女を汚す歓喜も姦淫の歓喜である、なぜならその歓喜の中にいる者らは後には単に処女凌辱のためにのみ結婚を欲し、そのことが行なわれると、結婚を嫌悪するからである。約言すると、婚姻的なものを破壊し、その愛を消滅してしまう淫行は凡て姦淫であり、または姦淫に属しているが、他方婚姻的なものを破壊しない、婚姻愛を消滅してしまいはしない淫行は、結婚を求める性質の或る一種の本能から発生する淫行であり、それには色々な理由から未だ取扱うことは出来ない。

 

 

 

 

5.生命

 

 

生命74

 

第六の(または普通第七のと呼ばれている)戒めに記されている『姦淫を行う』ことは、その自然的な意義では、淫行を行うことのみではなく、淫猥なことを行い、みだらなことを話し、また汚らわしいことを考えることを意味している。しかし霊的な意義では『姦淫を行う』ことは聖言の善を不善化し、その真理を誤謬化することを意味している。その最高の意義では『姦淫を行う』ことは主の神性を否定し、聖言を冒瀆することを意味している。これらが『凡ゆる種類の姦淫』である。自然的な人は、『姦淫を行う』ことは淫猥なことを為すこと、淫らなことを話すこと、汚らわしいことを考えることをその意味に含んでいることを合理的な光から知ることは出来るが、姦淫を犯すことはまた聖言の善を不善化し、その真理を誤謬化することを意味していることは知らないし、ましてそれは主の神性を否定することを、聖言を冒瀆することを意味していることは知らない。従って彼はまた姦淫はそれが悪魔性そのものとも呼ばれても良いほどにも大きな悪であることを知らない、なぜなら自然的な姦淫を犯しているからである。それがそうであることは『結婚について』と題された特別の小著に示されるであろう。しかし己が信仰と生活から姦淫を罪として認めていない者らは同時に凡ゆる種類の姦淫を犯しているのである。

 

 

 

生命77

 

 この凡てから私たちは、ある人間が基督教徒であるか、否かを、実にある人間が何らかの宗教を持っているか、否かを、明確に結論もし、また認めることが出来るのである。もしある人間がその信仰から、またその生活から姦淫を罪として認めないなら、そのときはその者は基督教徒ではないし、また宗教も何ら持ってはいないのである。他方、もし人が姦淫を罪として避けるなら、特にそうした理由からそれに反感を覚えるなら、更に特にそうした理由からそれを忌み嫌うならば、そのときはその者は宗教を持っており、もしその者が基督教会にいるならばその者は基督教徒なのである。(しかしこのことについては『結婚について』と題された小著に更に多くのことを参照することが出来よう、それまではこのことについて『天界と地獄』を取扱った著作に言われたことを参照されよ、366−368)。

 

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P185

 

「きょうは“姦通をするな”について話します。この姦通者とはだれであるか、自分の周りに探ってはならない。お互いに愛を持ちなさい。他人があなたの顔に淫乱を読んだとしたらどうしますか。それなら隣りの人の困惑している目、赤面して目を伏せるその顔を読もうとしてはならない。

 それから・・・特におまえたち男に言うが、おまえたちの中で、かつて灰とくずのパンを一度もかじっていない人がいますか。淫蕩とは淫売婦の腕を一時間枕にすることだけを指すのではなく、妻との絆を汚して、単なる性の快楽を求めるもの、避妊もそうです。婚姻は出産を意味し、性交は受胎を意味します。これがなければ行為は不道徳なものとなり、床は淫行の場となります。結婚が出産によって聖別されなければ、淫乱で汚されるだけです。大地は種子を拒まず、迎えて木にします。種子は蒔かれて後は土から逃げることがなく、やがて根を出して成長し、土くれと種子との絆によって植物が誕生するのです。男は種子で、女は大地、穂は子供です。穂を作るのを拒むならば、性は罪に変わり、夫婦の寝室で営まれる淫行にすぎず“一体となって子供を増やせ”という神の掟に背くことになります。

 自分から避妊している女たちよ。社会では法律上の妻であっても、神の目にはそうではない。夫だけのものであっても、淫売婦と同じです。往々にして母性よりも快楽のみ追い求めているからで、その快楽とは麻薬のようで、足ることを知らず、家庭の外にもその満足を求め、結局は自分自身と快楽を分かち合う仲間とに嘔吐をもよおし、自分自身を軽蔑するだけです。

 “淫行をするな”と言われているが、肉体の多くの行為は淫行にすぎません。レビの書が、次のことばで弾劾する悪夢のような交際に、私は触れたくもない。

“おまえは、女と寝るようにして男と寝てはならぬ。それは忌まわしい限りだ。おまえは動物と寝床の交わりをしてはならぬ。これをすれば、おまえは身を汚したものとなる。また女も動物を引き寄せて、それと交わってはならぬ。それは忌まわしい行為である”(訳注レビ記18・22−23)

 

 

 

 

7.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1987年6月2日 米国ワシントン州、シアトル市

 

イエズスの神的み心をなんと苦しめることでしょう。

 

きょう、ここ司教座聖堂の中で、この州の最も遠い所から来たわたしの愛する司祭とまた大勢の信徒たちといっしょに行っているチェナクルム(集い)を、よろこんで受け入れます。

 あなたたちの愛とつぐないとの捧げものを受け入れます。

 

 イエズスは、こん日もまた、神秘的な体のうちにぶじょくされ、むち打たれ、傷つけられています。不潔のもっとも重大な罪さえも正当化するたくさんの司祭たちと、何人かの司教たちが示している放任的な態度は、どれほどイエズスの神的み心を苦しめていることでしょう。ちょうどここに、この聖なる場所で、この恐るべき悪徳に堕落しているわたしの多くのあわれな子らが歓迎され、自然に反する不潔の罪の道を歩みつづけてよいと、公にはげまされたことが、イエズスのみ心を軽蔑し傷つけ、侮蔑したのです。

 

 自然に反する不潔な行為は、神のみ前で復讐を要求する罪です。

これらの罪は、あなたちと、あなたたちの国々のうえに、神の正義の火を呼びよせずにはいません。

神がモイゼに与えられた「姦淫するな」の第6戒は、今でもその価値を完全に保っているのです。堕落した、そして、邪悪に流れたこの世代にあってなお、これを守らねばならないことを、はっきりと、しかも勇気をもって、すべての人に宣言する時が来ました。

 

この種の罪を正当化するすべての牧者は、自分の上、そのいのちの上に神の正義の燃える火を呼ぶのです。

 罪悪のさかずきは、すでに満ち満ち、もうこれ以上は耐えられないほどいっぱいになって、どの方向からも溢れ出るのです。それで、あなたたちの、祈りのチェナクルム(集い)をふやして、これを取りつぎとつぐないの力強い支えとし、またあなたたちのいのちを、潔白の徳をもって香り高いものとして、わたしに捧げることをすすめます。

 

 この世がふたたび光と潔白の花園へと返り咲くことができるように、やがてこのあわれな堕落した世界の上に、天が開けて、神の正義とあわれみの燃える露が降りそそがれることを約束しましょう。

 

 

聖母から司祭へ1989.6.3

 

「あなたは父母を敬わなければならない」という掟に反対するために、フリーメーソンは、同棲だけでなく同性愛者どうしの同棲にもとづいた家族の新しい型までも紹介しています。

「あなたは殺してはならない」という掟に対して、フリーメーソンは、どこの国においても堕胎を正当化し、安楽死を認めさせ、人命の価値に対して示すべき尊敬をほとんど全面的になくすることに成功したのです。

「あなたは、姦淫してはならない」という掟に対しては、フリーメーソンは、どんな不潔な行いも、ほめたたえ、宣伝し、また、自然に背く行いさえも正当化しています。

 

聖母から司祭へ1989.10.13

 

 大艱難の時がこの世に下ったのです。なぜなら、神の天使たちは、その持っている災害で地を罰するためにつかわされるからです。

 五感の犠牲と邪欲の制御、慎み深さ、よい手本、潔白と聖徳の道を歩むようにと、わたしは何回も呼びかけたのです。

 しかし、人類は、わたしの呼びかけを受け入れず、不潔の罪を犯さないようにと命じている神の律法の第六戒に背きつづけたのです。

 それだけではありません、この罪をほめたたえて人間的な価値として、また、自分の個人的な自由を行使する新しい方法として、紹介するまでになったのです。こうして、今日では、不潔のすべての罪を正当化するほどになりました。

 まず第一に、少年と青年たちの良心をだらくさせて、自分ひとりで犯した不潔な行為は、もう罪ではないという確信を教えこんだのです。また、婚約者同士の結婚前の関係が許されるどころか、善いものであることを説き、家族は自由にふるまうことができ、出産をさまたげるために人工的な手段を利用してもよいという確信を教えこんだのです。

 自然に背く不潔の行為を正当化し、ほめたたえるほどにいたったのです。それだけではありません、同性どうしの共同生活を、家庭と同じものと認める法律までも提案するほどになったのです。

 不道徳、不潔、猥褻は、印刷物とすべての広報機関によって、今日ほどたえず宣伝されたことは今までなかったのです。

 特にテレビは、毎日猥褻な場面を映して爆撃のような悪の恐ろしい手段となったのです。その目的は、すべての人の知恵と心の清さを堕落させることをねらっています。

 娯楽の場、特に映画館とディスコは、人道的、キリスト教的尊厳を公に汚す場所となったのです。

 肉欲の罪をもって、ひきつづき公に、わたしたちの主である神を侮辱する時がこれです。

 すでに、聖書の中で、肉で罪を犯すものは、同じ肉でふさわしい罰を受けると忠告されています。

 こうして、第一の災害の天使が神の命令に従って、罰を与えるために世界を訪れる時がきたのです。

 

―第一の災害の天使は、額と手に獣の印を受けるのに承知し、獣の像を礼拝した人々の肉に、ひじょうに苦しい悪性の傷をきざむのです。この傷をうけた人は、失望のあまりに叫ぶようになります。

 

 この傷は、不治の悪性の病で、体におそいかかる苦しみを示しています。

 苦しい悪性の傷とは、無神論によって唯物的な文化をつくり、快楽を探すことを人間生活の最高の目的とする今日、これほど堕落した全人類にふりかかる無知のことです。わたしのあわれな子らのある者は、自分たちの不潔な罪と道徳上の無秩序のために、この傷をうけ、行った悪の重荷を自分たちのうちに担っています。

 他の者は、これと異なって、善良で罪はないにしても、この同じ傷を受けます。この場合、この人々の苦しみは、あなたたちをみな一つに結び合わせる連帯性によって、多くの悪人の救いに役立ちます。

 

―第一の災害は、悪性の腫瘍、各種の癌のことです。医学は各分野にあれほど進歩したにもかかわらず、何もできないのです。これらの病気は、ますます広がり、人間の体を傷つけ、ひじょうに苦しい悪性の傷をもって破壊します。

 最愛の子らよ、不治のこれらの病気が全世界にどれほど広がり、そのために何百万人の人が死ぬということを省みてごらんなさい。

 

―第一の災害はまた、エイズの新しい病気なのです。この病気は、特に麻薬、悪徳、自然に背く不潔の罪の罰のぎせい者となるわたしのあわれな子らにおそいかかります。

 あなたたちの天の母は、人類がこの第一の災害に傷つけられているこの時代に、みんなのために助けと支え、慰めと希望となりたいのです。

 このために、断食と苦業と償いの道を歩むように、わたしは呼びかけます。

 

―少年たちに、潔白の徳のうちに成長し、このむずかしい道において親と教育者たちの助けをうけるようにと、わたしは願います。

 

―青年たちは、祈りとわたしに一致した生活をもって、邪欲をおさえることをならうように願います。また、映画館やディスコに行くのを止めるように願います。なぜなら、そこに、わたしの汚れなき心がこれほど愛する美徳を犯す重大な絶えざる危険があるからです。

 

―婚約者に、結婚前のすべての関係を慎むように、わたしは願います。

 

―キリスト信者の家庭には、結婚生活における貞潔を守るように養成され、命を妨げる人工的な手段を決して使わないように、わたしは願います。

 このようにしなければならないのは、キリストの教えによることであり、教会は今日も、照らされた知恵に従って、みなに教えるのです

 司祭たちが、独身生活を細心の注意を払って守り、修道者は貞潔の誓願を忠実にきびしく守るように、わたしは願います。

 苦しい悪性の病気の第一の災害にかかったわたしのかわいそうな子らに、わたしはあわれみ深い母として力づけ、慰め、希望と平和をもたらしたいのです。

 これらの人々に、わたしは、自分たちの苦しみを、つぐないと清めと聖化の精神で捧げるように願います。

 とくべつに、これらの人々のために、わたしの汚れなき心は、最も歓迎する避難所となり、救いと喜びの神にみちびく安全な道となります。わたしのこの天的花園に、すべての人は慰めとはげましをうけ、わたし自身、かれらの苦しみをやわらげるために、そして、神のみ旨ならば、癒しの恵みを与えるために、愛にみちた世話をひきうけます。

 したがって、人類がこの第一の災害にみまわれるこの時に、慰めと助けとを得るために、あなたたちの天の母であるわたしを仰ぎ見るようにと、みなに呼びかけるのです。

 

 

 

 

8.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P213

‘90・8・5−29の続き ― 十戒 ― ロードス島にて

 

私は地上の王たちを治めているが あなた方にはどのような不潔な行為も 姦通も犯さないように頼んだ。サタンは姦淫を上品な衣でまとい、位階制度の中 一般信徒両方の間で その意味を失わせた ♡ もうこれ以上はあなた方の罪を耐え忍ばない。 サタンの恥ずべき権力を追い求め それを旗じるしに我が神聖と聖性 および聖なる生けにえを廃止しようとする者たち(*6)に対しては、こう言う: 神を持たない人たちの間で 私の名が冒涜されている責めはあなた方にある ♡ 卑しい情念を持つ堕落した者たちを叙階して 私の聖所を汚した。 そこでたとえ神不在の人たちが今日姦淫を犯し 自然のことと見なすとしても それは真理を曲げようと企む獣の指示による 教会内の大いなる放任主義が原因です。 あなた方の身体が我が神秘体の一部であると どうしてそう簡単に忘れてしまうか? あなた方の身体は我が聖霊の神殿なるがゆえに 倒錯から自由であってほしい ♡ 私、あなたの神は、聖であるがゆえに聖なる生活を送っているのを見たい