姦淫

 

 

第6戒:なんじ、姦淫するなかれ

同性愛サイレン(妖婦)

好色の姦通

肉欲色欲色情

みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである(マタイ5・28)

 

 

 

 

1.聖書

2.自己愛の悪から発している悪は聖言では『姦淫』と呼ばれ、ソドム

3.姦淫は善の不善化とそこから生まれてくる真理の誤謬化とに相応

4.姦淫は異教徒ほどにはキリスト教徒に毛嫌いされていない

5.姦淫は婚姻愛を破壊する淫行

6.マリア・ワルトルタ

7.真の婚姻愛もなく、または子供を生む願いもなしに性交を行う者らについて

8.凡ゆる方法で姦通を持ち込もうと努めている悪魔について

9.姦通者である妖婦について

10.淫行と姦淫とを引き起こす多くのものが在ることについて

11.姦淫、支配を求める愛、詐欺などについて

12.公教要理

13.姦淫は凡ての悪の合成体

14.地獄は姦淫

15.不潔

16.発狂

17.姦淫を行う者は社会を破壊しようとする欲念の中におり、その多くの者は残酷

18.たれでも地上で姦淫を犯すと、そのときは天界はすぐさま彼に閉じられてしまう

19.信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくる

20.姦淫者は霊界ではサチルスやプリアピイのような姿で現れる

21.能力

22.奈落の者らは、婚姻愛のスフィアを知覚するようになると、狂憤に燃え上がる

23.姦淫は許されると考える者ら

24.レイプの歓喜、その歓喜の中にいる者らの地獄は屍のよう

25.婚姻愛の内部には、その究極のものに至るまでも、天界が在り、姦淫の愛の内部には地獄が在る

26.支配を求め、無神論者である者らのもとにおける奈落の結婚について、その男の側には致死的な[相手を殺そうとする]憎悪がある

27.姦通者は不正、不信仰、不誠実であり、契約の邪悪な破棄者であり、虚言を弄(ろう)し、恥知らず。かれは何ら内的な公正、内的な忠節、内的な真実、内的な恥辱感をもっておらず、かくて何ら廉恥心を、また内的な徳も持ってはいない

28.他人の美しい妻を誘惑した英国人の貴族の刑罰

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト記20・14

 

姦淫してはならない。

 

 

 

出エジプト記20・17

 

隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

 

 

 

マタイ5・27−30

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 

 

 

マタイ15・16−20

 

イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

 

 

マタイ19・9

 

言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。

 

 

 

 

2.自己愛の悪から発している悪は聖言では『姦淫』と呼ばれ、ソドム

 

 

天界の秘義2322

 

 『ソドム』は悪い者を、特に教会の中の悪い者を意味していることは、『ソドム』の意義が自己愛の悪であり(2220、2246番を参照)、従ってその悪の中にいる者であることから明白である。文字の意義にのみ従って聖言に近づく者は、『ソドム』により自然の秩序に反した醜いものが意味されていると考えるであろうが、しかしその内意では『ソドム』により自己愛の悪が意味されているのである。この悪から凡ゆる種類の凡ゆる悪が噴出しており、自己愛の悪から発している悪は聖言では『姦淫』と呼ばれ、またその言葉により記されてもおり、そのことは本章の終わりに引用される聖言の記事から明白となるであろう。

 

 

 

淫行と姦淫とを引き起こす多くのものが在ることについて

霊界日記5939

 

 凡ゆる度の犯罪は霊的な罪であるようなものに相応している。私は二つのものを述べよう。信仰のみの中にいて、生命については心を煩わしはしない者らは、叔母とまた母との姦淫を引き起こすのである。こうした霊らがその場に現れてくると、こうした思いが起ってくる。教会では敬虔に献身して礼拝し、そうした時に神についてのみ専ら考えはするが、生命〔生活〕については考えはしない者ら、こうした者らには姉妹との姦淫が相応しているのである。そうした思いが彼らがその場に現れてくると起ってくるのである。他の忌まわしい姦淫は、神について大いに話しはするものの、人を欺くことについては、また人の財産を盗み取ることについては―そうしたことが可能であるなら、そのことについては―何のためらいも覚えない者らによりもたらされるのである。こうした者らは、その立場で、その女中と姦淫を犯し、その女中を頻繁に変え、またたれであれその欲する者と姦淫を犯すのである。自己を愛し、他の者たちを支配することを求めている者らはソドムの輩(*)である。

 

*「ソドム人の輩」とは「男色者、鶏姦者」のこと。

 

 

 

 

3.姦淫は善の不善化とそこから生まれてくる真理の誤謬化とに相応

 

 

黙示録講解1006[]

 

 しかし姦淫は奈落のものであり、忌まわしいものであることについてはその度合いに相違があることを知らなくてはならない。さらに甚だしい重い悪とその誤謬とから発生する姦淫はさらに重く、穏やかな悪とその誤謬とから発するものは穏やかである、なぜなら姦淫は善の不善化とそこから生まれてくる真理の誤謬化とに相応しており、善の不善化はそれ自身において悪であり、真理の誤謬化はそれ自身において誤謬である。これらのものと相応していることに従って地獄は種族と種類とに配置されている。妻たちに暴行を加えることが歓びであった者らに対しては死体地獄が在り、処女を汚すことが歓びであった者らに対しては排泄物地獄が在り、色々と娼婦を変えることが歓びであった者らには恐ろしいねばねばする地獄が在り、他の者らには汚れ切った地獄が在る。単に支配することに覚える歓喜から他の者たちを支配することを求める愛から悪の中におり、用を遂行する歓喜を些かも持たなかった者に対する獣を犯す地獄が在る。

 

 

 

スヴェーデンボリ出版/『黙示録講解』より 宗教と生活/65

 

 しかし、姦淫は多かれ少なかれ地獄のもの、忌まわしいものであることを知らなければなりません。重い悪とここからの虚偽から生まれる姦淫は重く、また穏やかな悪とここからの虚偽から生まれる姦淫は穏やかです。というのは、姦淫は善の不純化とここからの真理の虚偽化に対応するからです。善の不純化は本質的に悪であり、真理の虚偽化は本質的に虚偽です。地獄はそれらとの対応にしたがって、さまざまな種類に配置されています。

 妻への性的暴行が歓喜であった者に屍の地獄があります。処女を誘惑することが歓喜であった者には排泄物(糞)の地獄があります。娼婦の変化と交替が歓喜であった者に忌まわしい粘り気のある地獄があります。そして、他の者に不潔な地獄があります。単に支配する快さから他の者を支配する愛から悪の中にいて、何らの役立ちの快さの中にいなかった者に男色の地獄があります。教えの事柄としてでも生活の事柄としても、信仰を善い働きから分離した者たちから、息子と母またはおばとのような姦淫が吐き出されます。霊的な役立ちのためでなく、称賛のためだけに、みことばに専念した者たちから、父と義理の娘とのような姦淫が吐き出されます。聖餐を通して罪が許されていて、生活の悔い改めを通してではないと信じる者たちから、兄弟と姉妹とのような姦淫が吐き出されます。完全に神性を否定した者たちから、獣とのようなおそるべき姦淫が吐き出されます。等々。

 地獄が彼らにとってこのようなものであることは、善と真理の不純化と汚すこととの対応からです。(『講解』1006番)

 

 

 

黙示録講解1006[]

 

教義においても生活においても善い業から信仰を分離した者らからは、息子が母または義理の母と犯す姦淫のような姦淫が吐き出され、聖言を単に栄誉のために研究はしたが、霊的な用のために研究はしなかった者らからは、父親が義理の娘と犯す姦淫のような姦淫が吐き出され、罪は聖餐によって赦されてはいるが、生命[生活」の悔改めによっては赦されてはいない、と信じる者らからは兄弟が姉妹と犯す姦淫のような姦淫が吐き出され、全く神的なもの[]を否定する者らからは獣と犯す忌むべき事が吐き出される、といったことが起っている。そうした地獄が彼らのために存在しているのは、善と真理とを不善化する、または汚すことと相応していることのためである。

 

 

 

 

4.姦淫は異教徒ほどにはキリスト教徒に毛嫌いされていない

 

 

黙示録講解1008[]

 

 姦淫は異教徒ほどにはキリスト教徒に毛嫌いされてはおらず、実に或る野蛮な国民ほどにすら毛嫌いされてはいないのは、現今キリスト教界の中には善と真理との結婚はなく、悪と誤謬との結婚が在るという理由

 

 

 

霊界日記6054

 

 更に、姦淫については、姦淫が、現今、キリスト教世界で極めて全般的に行われている理由は、そこにいる者らは誤謬と悪との結婚の中にいるためである。姦淫については、それは結婚した男が娼婦と犯すものであり、結婚していない男が他の人間の妻と犯すものであり、または汚れていない処女と、その者を妻にめとる意図も無しに、犯すものであり、かくて処女性を汚すことであり、または多様な性質の歓喜である、なぜならこうしたものはことごとく婚姻的なものを破壊してしまうからである。結婚していないで、全く抑制することが出来ないものの、法律の原因から婚姻の状態に入ることが出来ないで、自分自身に、(淫行に)同意している売春婦、妾、または情婦を接合させる男の場合は異なっている。しかしその者は、その女を妻に娶る意図を持たない限り、内的な愛である婚姻愛は入ってこないことに気をつけなくてはならない。前の部類の者らは自ら結婚の歓喜をことごとく剥奪してしまうが、しかし後の者たちにはそうしたことは無い。

 

 

 

 

5.姦淫は婚姻愛を破壊する淫行

 

 

黙示録講解1010[]

 

これ迄姦淫のことが考察されたが、今は姦淫とは何であるかを述べよう。姦淫は婚姻愛を破壊する淫行である。夫が他の者の妻と、または、やもめであれ、処女であれ、または娼婦であれ、女と犯す淫行は結婚に対する嫌悪または反感から行われるときは、姦淫であり、同様に妻が結婚した男と、または同じような理由から独身の男と犯す淫行も姦淫である。さらに、結婚していない男が他の者の妻と犯す淫行と、結婚していない女が他の者の夫と犯す淫行とは、彼らの心を結婚から姦淫へ向けることにより婚姻を破壊するため、姦淫である。色々な女との歓喜は−たとえ娼婦相手の歓喜であっても−姦淫の歓喜である、なぜなら多様な者を歓ぶ歓喜は結婚の歓喜を破壊するからである。同様に、また、結婚の意図も無しに処女を汚す歓喜も姦淫の歓喜である、なぜならその歓喜の中にいる者らは後には単に処女陵辱のためにのみ結婚を欲し、そのことが行われると、結婚を嫌悪するからである。約言すると、婚姻的なものを破壊し、その愛を消滅してしまう淫行は凡て姦淫であり、または姦淫に属しているが、他方婚姻的なものを破壊しない、婚姻愛を消滅してしまいはしない淫行は、結婚を求める性質の或る一種の本能から発生する淫行であり、それには色々な理由から未だ取り扱うことは出来ない。

 

 

霊界日記6110(10)

 

結婚した配偶者らは、または婚姻愛は、神の映像、神に似た形そのものであり、姦淫はそれを破壊してしまうのである。

 

 

 

霊界日記6110(66)

 

他人の妻との姦淫は夫と妻との間の生命の歓喜をことごとく破壊し、他方の者に対する嫌悪の念を生み出し、また子供たちに対する顧慮を破壊し、すなわち、母の、また父の顧慮を破壊し、同時に別居に至ってしまう。それは婚姻的なものを破壊してしまう。姦通者は、たれか或る姦通者が自分自身の妻を汚すなら、その妻について考えはしないかぎり、そのことを認めはしない。

 

 

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P185

 

「きょうは“姦通をするな”について話します。この姦通者とはだれであるか、自分の周りに探ってはならない。お互いに愛を持ちなさい。他人があなたの顔に淫乱を読んだとしたらどうしますか。それなら隣りの人の困惑している目、赤面して目を伏せるその顔を読もうとしてはならない。

 それから・・・特におまえたち男に言うが、おまえたちの中で、かつて灰とくずのパンを一度もかじっていない人がいますか。淫蕩とは淫売婦の腕を一時間枕にすることだけを指すのではなく、妻との絆を汚して、単なる性の快楽を求めるもの、避妊もそうです。婚姻は出産を意味し、性交は受胎を意味します。これがなければ行為は不道徳なものとなり、床は淫行の場となります。結婚が出産によって聖別されなければ、淫乱で汚されるだけです。大地は種子を拒まず、迎えて木にします。種子は蒔かれて後は土から逃げることがなく、やがて根を出して成長し、土くれと種子との絆によって植物が誕生するのです。男は種子で、女は大地、穂は子供です。穂を作るのを拒むならば、性は罪に変わり、夫婦の寝室で営まれる淫行にすぎず“一体となって子供を増やせ”という神の掟に背くことになります。

 自分から避妊している女たちよ。社会では法律上の妻であっても、神の目にはそうではない。夫だけのものであっても、淫売婦と同じです。往々にして母性よりも快楽のみ追い求めているからで、その快楽とは麻薬のようで、足ることを知らず、家庭の外にもその満足を求め、結局は自分自身と快楽を分かち合う仲間とに嘔吐をもよおし、自分自身を軽蔑するだけです。

 “淫行をするな”と言われているが、肉体の多くの行為は淫行にすぎません。レビの書が、次のことばで弾劾する悪夢のような交際に、私は触れたくもない。

“おまえは、女と寝るようにして男と寝てはならぬ。それは忌まわしい限りだ。おまえは動物と寝床の交わりをしてはならぬ。これをすれば、おまえは身を汚したものとなる。また女も動物を引き寄せて、それと交わってはならぬ。それは忌まわしい行為である”(訳注レビ記18・22−23)

 しかし、“悪意によって”不妊となり、聖ではなくなる婚姻への夫婦の義務に触れた後、お互いの悪徳やお金や贈り物のための男女間の厳密な意味での淫行について一言触れたい。

 人間の体は、一つの祭壇を有する素晴らしい神殿であり、祭壇上には神がおられるはずです。だが不道徳な行為のあるところには神はおられないので、淫行を行なう人の体には、神のない聖別を失った祭壇があるだけです。

 汚らわしい淫行により、人は自分自身を貶めて不浄の獣よりも下等なものとします。はっきり言ってほしい。あなたたちの中で、穀物あるいは動物のように、自分の体を売買の商品とした者は、何か良いことがありましたか。自分の心を手のひらにのせ、その傷を見つめ、苦しみの戦慄を感じたら、私に答えなさい。清らかに生まれたあなたたちが、その不浄の体を無理にでも生かそうとするほど、この苦しみを味わってまでも、罪の実は甘美であったのですか。

 自分の家から逃げ、あるいは追い出された快楽の道具の女たちよ、“お母さん”と呼ぶ子供の声を聞いても、心の中ですすり泣きもしないほど堕落したのですか。

 一人の花嫁の幸福、それとも処女の清らかさを見て、失われたものを惜しんで心がうずき、“私は、それを捨てた。もう二度とは持てない”と言うべきではないですか。

 

 

 

 

7.真の婚姻愛もなく、または子供を生む願いもなしに性交を行う者らについて

 

 

(真の婚姻愛もなく、または子供を生む願いもなしに性交を行う者らについて)

 

霊界日記1202

 

 生涯の晩年になって結婚する者が多く、特に基督教国にいるため、また合法的な結婚によらないで、みごもり、子供を生むなら罰しられるため、そこから多くの男女は子供を何ら求めないで性交を求めるといった性質を身に付けてしまい、かくて彼らは結婚の中心と最も内なるものから彼ら自身を徹底的に遠ざけてしまうのである。

 

 

 

霊界日記1203

 

 こうした単なる性交の欲望は、真の婚姻愛を欠いている故、堕地獄のものであるため、彼らは(そうした欲望を抱いている限り)天界から極めて長い間分離され、そのように生きて、死ぬ場合には、死後痛烈な刑罰にさらされる、なぜなら四足獣の、いわば、脈動しているリズムで、しかし他の者らよりは迅速にまた口数も多く話す霊たちがおり、その人間または霊の生殖器の領域に来て、彼らがそうした性質のものであるか、否かを調べ、そうした者をたれか見つけるなら、その霊または霊とともにその領域から、最も内なる天界に対立した中線からやや離れた、前方の、中ほどの深さの辺りに沈むのである。彼らは私に以下のように話した、即ち、彼らはそこでリンネルの布の上に仰向けにされ、その頭は下の方へぶら下がり、胸は、いわば、開かれて、酷らしく罰せられるのである、と。しかし私は彼らの刑罰を以下のものを除いては見なかった、即ち、彼らはその際頭を下に向けてひっくり返され、その外的な、または形体的な物が引き出され、かくて彼らは長々と上の方へ引きずり上げられているように見え、その内部も―即ち、その霊的な部分も同じ方向へ引き上げられ、かくて彼らは、子供を何ら求めないで、ただ色情のためにのみ性交しようとするその汚れた欲情を剥奪されるのである。なぜなら彼らはこのようにしてその霊らにより(いわば)殺されるのであり、その霊らは自分らは彼らを殺したいと言うのである、なぜならそうしたものがそうした人物らを殺そうとするその霊らの『アニムス〔精神〕』であるからであり、それで彼らは彼らを仰向けにし、いわば、彼らをナイフで切り刻むのである。その霊魂らもまた自分らが殺されている、と考え、そのようにしてその欲念を剥奪されるのである。

 

 

 

 

8.凡ゆる方法で姦通を持ち込もうと努めている悪魔について

 

 

凡ゆる方法で姦通を持ち込もうと努めている悪魔について

霊界日記4784

 

一度姦淫の歓喜を認めた人間は―なぜならそのことを持ち込むことが彼らの目的であったからであるが―殆ど決してそこから遠ざけられて、斥けられることは出来はしないのであり、さらに、いかような者も主から庇護されない限りは、決してそれに抵抗することは出来ないのである。

 

 

 

 

9.姦通者である妖婦について

 

 

姦通者である妖婦について

 

霊界日記3194

 

淫行と姦淫には何ら不当なものがないと思い込んでいる者らがおり、こうした信念を彼らは多くの考えから確認し、かくてその中に正当な生命[生活]をおいている。こうした者らは妖婦の姦通者らである、なぜなら彼らは自分らは礼儀正しい、敬虔な者であるという信念[自信]を持つと、そのときは天使的な霊たちをさえも殆ど迷わせる[たらしこむ]ことが出来るが、しかし天使たちにはその性格を認めることが与えられている。これらの者について、私は霊たちと話したが、そうした者らは基督教が行きわたっているヨーロッパから来ていて、アジア、アフリカ、アメリカの地域からは来てはいない、と言われたのである。1748年[60歳]9月19日

 

 

 

 

10.淫行と姦淫とを引き起こす多くのものが在ることについて

 

 

淫行と姦淫とを引き起こす多くのものが在ることについて

霊界日記5939

 

 凡ゆる度の犯罪は霊的な罪であるようなものに相応している。私は二つのものを述べよう。信仰のみの中にいて、生命については心を煩わしはしない者らは、叔母とまた母との姦淫を引き起こすのである。こうした霊らがその場に現れてくると、こうした思いが起ってくる。教会では敬虔に献身して礼拝し、そうした時に神についてのみ専ら考えはするが、生命〔生活〕については考えはしない者ら、こうした者らには姉妹との姦淫が相応しているのである。そうした思いが彼らがその場に現れてくると起ってくるのである。他の忌まわしい姦淫は、神について大いに話しはするものの、人を欺くことについては、また人の財産を盗み取ることについては―そうしたことが可能であるなら、そのことについては―何のためらいも覚えない者らによりもたらされるのである。こうした者らは、その立場で、その女中と姦淫を犯し、その女中を頻繁に変え、またたれであれその欲する者と姦淫を犯すのである。自己を愛し、他の者たちを支配することを求めている者らはソドムの輩(*)である。

 

*「ソドム人の輩」とは「男色者、鶏姦者」のこと。

 

 

 

 

11.姦淫、支配を求める愛、詐欺などについて

 

 

姦淫、支配を求める愛、詐欺などについて

 

霊界日記6051

 

 姦淫とその他の罪は、例えば、この所では、姦淫はいかに奈落のものであるかを記さなくてはならない、即ち、姦淫の有無に拘らず、姦淫は許されるものである、と信じることは(いかに奈落のものであるかを記さなくてはならない)。現今殆どたれ一人それは極めて奈落のものであり、姦淫を犯す者らは到底救われることが出来ないことを信じてはいないのである。その理由は以下のものである、即ち、

 

 

 

霊界日記6051(11)

 

 智恵は貞潔に応じて増大することはその起原は善と真理との結婚であり、主と教会との結果であるためである。そのことがその原因である、それで姦淫を犯す者らはたれ一人霊的な事柄では盲目となり、内部では悪魔となるのである。

 

 

 

霊界日記6051(14)

 

姦淫を犯す者らは、他の点ではいかほど良く道徳的に生き、祈りに明け暮れても、地獄へ投げ込まれるという証明を提出することが出来よう。両性における生殖に捧げられている部分〔器官〕は最も内なる、または第三の天界に相応しており、そこではその天使たちは天界の結婚の中に、または善と真理との天界的な結婚の中に、他の者たちにもまさって置かれている。約言すると、諸天界における結婚は極めて聖いものであり、それゆえそれは姦淫により冒涜されてはならないのである。

 

 

 

霊界日記6054

 

 更に、姦淫については、姦淫が、現今、キリスト教世界で極めて全般的に行われている理由は、そこにいる者らは誤謬と悪との結婚の中にいるためである。姦淫については、それは結婚した男が娼婦と犯すものであり、結婚していない男が他の人間の妻と犯すものであり、または汚れていない処女と、その者を妻にめとる意図も無しに、犯すものであり、かくて処女性を汚すことであり、または多様な性質の歓喜である、なぜならこうしたものはことごとく婚姻的なものを破壊してしまうからである。結婚していないで、全く抑制することが出来ないものの、法律の原因から婚姻の状態に入ることが出来ないで、自分自身に、(淫行に)同意している売春婦、妾、または情婦を接合させる男の場合は異なっている。しかしその者は、その女を妻に娶る意図を持たない限り、内的な愛である婚姻愛は入ってこないことに気をつけなくてはならない。前の部類の者らは自ら結婚の歓喜をことごとく剥奪してしまうが、しかし後の者たちにはそうしたことは無い。

 

 

 

 

 

霊界日記6110(5)

 

 姦淫は罪ではないという、心に抱かれる単なる結論は人間を姦通者としてしまう、そのことは「生命の教義」(*)の中でこの主題について言われた事柄から示されている。心における結論はことごとく身体の努力を構成し、努力は本質的な行為である。

 私は、猫について、猫はなぜそうした性質を持っているのか、と尋ねた。以下のように述べられた、雌の猫のもとでは、先ず戦う快楽が掻き立てられ、そのことが雄の猫から観察され、そしてそのことが過ぎ去ると、交接が起こるのである、と。

 

*『生命』63、74−77

 

 

 

天界と地獄374

 

彼は言った、私は姦淫が教会の外よりも教会の中に更に犯されているのを考えて驚いているが、姦淫を楽しむことは、それ自身では、霊的な意味では、従って霊界では、悪に連結した誤謬の愛を楽しむことであり、その楽しみは奈落的なものである、なぜならそれは善に連結した真理の愛を楽しむことである天界の楽しみとは全く相反したものであるから。

 

 

 

天界と地獄384

 

 地上の結婚は人類の、また天界の天使たちの苗床であるためー天界は、すでに述べたように、人類から発しているーまたそれは霊的な起原、即ち、善と真理との結婚から発しているため、また主の神的なものは第一次的にはその愛の中へ流れ入るため、それは天界の天使たちの眼には最も聖いものである。他方姦淫は結婚愛に反しているため、それは天使たちから汚れたものとして認められている。なぜなら彼らは結婚の中に天界である善と真理との結婚を見るように、姦淫の中に地獄である誤ったものと悪いものとの結婚を見るからである。それで彼らは姦淫が口に出されるのを聞くのみで、面をそむけてしまう。これがまた人間が歓喜から姦淫を犯すとき、天界はその者に閉じられ、彼はもはや神的なものを承認せず、また教会の信仰を何一つとして認めない理由である。地獄にいる者は凡て結婚愛に反抗していることはそこから放出されるスフィア[霊気]から私は認めることができたが、それは結婚を解消し、破壊しようとする不断の努力に似ていた。そのことから地獄を支配している享楽は姦淫のそれであり、姦淫の享楽はまた善と真理との連結をーその連結が天界であるがー破壊することを楽しむものであることが明白となった。従って姦淫の享楽は奈落の享楽であり、天界の楽しさである結婚の楽しさとは正反対のものであることが生まれている。

 

*8。姦淫は汚れたものである、9961、10174。天界は姦淫に対しては閉じられる、2750。姦淫の中に歓喜を認めた者らは天界に入ることは出来ない、539、2733、2747−49、2751、10175.姦淫は無慈悲であって、宗教上の主義も持たない、824、2747、2748.姦通者の考えは汚れている、2747、2748。他生では彼らは汚れたものを愛し、汚れた地獄にいる、2755、5394、5722。聖言では姦淫により善の不善化が意味され、淫行により真理の歪曲が意味されている、2466、2729、3399、4865、8904、10648。

 

 

 

天界と地獄385(天界の秘義2733に同内容)

 

 

身体の生命内で得た慣わしから私を独特な狡知を弄して悩ませ、しかもそれを穏やかな、いわば波のような流入でー気質の善良の霊の流入は普通そうしたものではあるがー行った若干の霊がいたが、しかし彼らの中には狡知とかそういった他の悪が秘んでいてそれが彼らを駆って他を罠にかけ欺いているのを私は認めたのである。遂に私は彼らの一人と話したが、彼は世で生きていたときは、軍隊の指揮官であったと言われた。私は彼の思考の観念の中に好色がつきまとっているのを認めたので、一瞬にして言いたいことや多くの事を完全に表現する表象的な物をもって霊的な言葉で、彼と結婚について話した。彼は身体の生命にいた頃は姦淫を意に介していなかったと言った。しかし私は、彼に以下のように話すことが出来たのである。姦淫を犯している者には、その者が姦淫の中に感じる享楽とその享楽から心が動かされるため、姦淫は不法なものであるとは思われず、合法的なものであるとさえ思われるけれど、それは忌むべきものである。それがそうであることを、あなたは、結婚は人類の苗床であり、従ってまた天国の苗床であり、それゆえそれは決して汚してはならないものであって、聖いものと考えなくてはならないという事実から知ることが出来よう。またあなたは今は他生におられ、認識できる状態におられるから、知っているに相違ない以下の事実からも知ることが出来よう。即ち、結婚愛は主から天界を通って降り、その愛から、それを両親として、天界の基礎である相互愛が発している。またあなたは、姦通者は天界の社会へ近づくのみで、自分自身の悪臭を認め、自分自身を地獄へまっさかさまに投げ下ろすということも知ることが出来よう。少なくともあなたは結婚を破壊することは、神の秩序にも、人間の秩序にも反しているため、神の律法に反し、凡ゆる王国の国内法にも反し、また理性の純粋な光にも反していることを知ろうと思えば知ることは出来たのである。その他のことは言わずもがなである、と。しかし彼は自分は身体の生命ではそうしたことは考えてもみなかったと答えた。彼はそれがそうしたものであるか、否かを論じたいと願った。しかし、彼は以下のように言われた。真理は議論を許さない。なぜなら議論は人が楽しむところを、引いては悪と誤謬とを支持するからである。あなたは、今言われた事柄について、それは真理であるため、先ず考えなくてはならない。または少なくとも何人も他人からしてもらいたくないことを他人にもしてはならないという世で充分に知られている原理からさえもそのことについて考えなければならない。

 

 

 

 

 

12.公教要理

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約492

 

貞潔に反するおもな罪にはどのようなものがありますか。

 それぞれの対象の性質に応じて、貞潔に著しく反する罪には次のものがあります。すなわち、姦通、自淫(自慰)、私通、ポルノ、売(買)春、強姦、同性愛の行為です。これらの罪は肉欲の悪徳の表れです。これらが未成年者に対してなされるとき、それらの行為は彼らの肉体的、精神的一体性を損なうきわめて重大な侵害となります。

 

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約493

 

第六のおきては「姦淫してはならない」というふうに表現されているのに、貞潔に反するすべての罪を禁じるのはなぜですか。

 十戒の聖書のテキストは「姦淫してはならない」(出エジプト20・14)という文言ですが、教会の伝統は旧、新約聖書の道徳的教え全体に従って、第六のおきては貞潔に反するすべての罪を包含すると考えています。

 

 

 

 

13.姦淫は凡ての悪の合成体

 

 

結婚愛356

 

 このように話して、天使は口をつぐんだ。新しく来た者たちは不斷の享楽の能力があり得ることを彼の言葉の精神から悟った。これは彼らの心を喜ばせたので、彼らは叫んだ、『ああ、天使の状態は何と幸いなことでしょう。私たちはあなた方が天界で春の状態に永遠に止まり、それでその年頃の精力の中に永遠に止まられることを認めます。しかしどうして私らもまたその精力を得るかを告げてください』。

 天使は答えた、『姦淫を地獄のものとして避け、主のもとに近づきなさい。そうすればあなた方はそれを得られます』

 彼らは答えた、『私たちはそのようにそれを避けて、主のもとに参りましょう』。

 しかし天使は答えた、『あなた方は他の凡ての悪も同じように避けない限り、姦淫を奈落の悪として避けることは出来ません。なぜなら姦淫はそれらの凡てのものの合成体ですから。あなた方はそれらを避けない限り、主のみもとへ来ることは出来ません。それ以外の者は主は受け入れ給いません』。

 かく話して天使は去った。が、新しい霊らは悲しみつつ去った。

 

 

 

結婚愛427

 

姦淫の悪は悪の幾多の欲念の密集体であり、結婚の善は善の幾多の情愛の一つの束であり、それでそれらは互いに全く対立したものであることが感覚に明らかとなるのである。

 

 

 

 

14.地獄は姦淫

 

 

結婚愛429(5)

 

「それで姦通愛は、地獄が天界に対立しているように、結婚愛に対立している」。地獄にいる凡ての者は悪と誤ったものとの雑婚におり、天界にいる凡ての者は善と真理との結婚にいる。前に述べたように(427、428)、悪と誤ったものとの雑婚は同じく姦淫であるため、地獄もまた姦淫である。それでそこの者は凡て姦通愛の色欲、好色の破廉恥におり、結婚愛の貞潔と慎ましさから離れ去って、これに慄然としている(前の428を参照)。これらの考察から、姦通愛と結婚愛のこの二つの愛は、地獄が天界に、天界が地獄に対立しているように、互いに対立していることを見ることが出来よう。

 

 

 

15.不潔

 

 

結婚愛430(6)

 

「地獄の不潔は姦通愛から来ており、天界の清潔は結婚愛から来ている」。地獄は凡て不潔なものを発散させており、その全般的な起原は破廉恥な、淫猥な姦通愛である。そうしたものにその歓びは変化している。霊界では愛の凡ゆる歓びは色々な外観の下に目に示されていることをたれが信じることが出来よう、即ち、それらが感覚の認識には色々な臭いの下に、目には色々な形の鳥や獣の下に示されていることをたれがしんじることが出来よう。姦通愛の淫猥な幾多の歓びが地獄で幾多の形の下で目に示されているが、その形は排泄物と泥濘であり、またその歓びはそこでは臭いとなって感覚に知覚されているが、その臭いは悪臭と吐き気をもよおさせる蒸発気である。またその歓びはそこで鳥や獣の形で目に示されているが、その鳥や獣の形は、ぶた、蛇、OchimTziimと呼ばれる鳥である。しかしそれに対立したものこそ天界の結婚愛の歓びである。その愛の歓びもそこに(幾多の)外観の下に目に示されているが、その外観は庭園と花咲く野であり、その歓びはそこで匂いとなって感覚に知覚されているが、その匂いは果実の香気と花の芳香であり、またそれはそこに動物の形の下で目にも示されているが、それは小羊と小山羊、山鳩と楽園の鳥である。愛の幾多の歓びがこのような、またそれに類似した形に変わっている理由は霊界に存在するようになっている物は凡て相応であるということである。彼らの心の内なるものは、それが外に現れ出て、感覚の前に外なるものとなるに連れ、それに相応したものに変化するのである。しかし、姦淫の淫猥の種類に応じているが、その種類は姦淫とその度を取扱う以下の章に見ることが出来よう。しかしこうした不潔なものは悔改めた者の愛の歓びからは発してはいない。それは彼らは世でそうしたものから洗われているためである。

 

 

 

天界の秘義2755

 

 姦通者どもの地獄は多い。そこに彼らは汚物と排泄物とを何物にもまさって愛していて、今やそうしたものの中に歓喜を感じているのである。このことは身体の生命の中にいるそうした種類の多くの者からもまた明白になるであろう。なぜなら彼らには汚れた事柄を考え、それについて語ることが歓ばしいのであって、単にお体裁のためにのみそのことを慎んでいるにすぎないからである。姦淫の歓喜は他生ではこのような物に変わるのである。それは太陽の熱が、または実に春の熱が排泄物にまたは腐れ肉に流れ入る時のようなものである。

 

 

 

16.発狂

 

 

結婚愛432(8)[2]

 

姦通者は言葉と態度以外には賢くはなく、また博識で有名な、位階のすぐれた人々や、道徳家らと交わっている時を除いては賢くもない。しかし彼らはただ独り、自分自身と共にいる時は発狂して、教会の神的な、聖いものを軽んじ、生活の道徳を淫猥な、不貞なもので汚すことを姦淫を取扱う章で示そう。こうしたものまね師は外なる形の方面でのみ人間であり、内なる形の方面では人間ではないことをたれが認めないか。

 

 

 

 

17.姦淫を行う者は社会を破壊しようとする欲念の中におり、その多くの者は残酷

 

 

天界の秘義2747

 

姦淫を行う者は社会を破壊しようとする欲念の中におり、その多くの者は残酷であり(824番)、かくて心では仁慈と慈悲に対立しており、他人の悲惨を嘲笑し、たれからでもその者が持っているものを奪おうと欲し、そのことを敢えて能う限りやってのけるのである。彼らの歓喜は友情を破壊することであり、敵意を生み出すことである。彼らの宗教的告白は、自分たちは宇宙の創造者と摂理を―しかし単に普遍的なものを承認しており、信仰による救いを承認しており、自分らには他の者以上に悪い事柄は為される筈はないことを信じているということである。しかし彼らはその心ではいかようなものであるかを点検されると―そのことは他生で行なわれるのであるが―彼らはその告白したことすらも信じてはいないのであり、宇宙の創造者の代わりに自然を考えており、普遍的な摂理の代わりに何事をも考えてはおらず、信仰についても何ごとも考えてはいないのである。このことが凡てそのようになっているのは、姦淫は善と真理とに全く相反しているためである。それでこのような者がどうして天界にいることが出来るかを判断されたい。

 

 

 

天界の秘義2754

 

最も詐欺を働く輩は時として頭の上の高い所に現れるが、しかしその地獄は足のくびすの下の深い所に在る。彼らは現代的な洪水以前の者らである。彼らは無垢を、敬虔を、色々な善良な情愛を偽装して、説得し、罠にかける。彼らは世に生きていた間は他の者にもまさって姦通者であったのである。美しくて若い妻がいるところでは、そこへ彼らは良心もなしに入って行って、このような手段で彼女をたらし込んだのである。彼らは秘かに行動するため、目に触れず、また見つけられることを好まない。彼らはまた残酷であって、自分のことのみを気にかけ、たとえ全世界が彼らのために死滅してしまっても、それを何ら意に介しはしない。現今ではこのような霊は非常に多くおり、こうした者は基督教国から来ていると言われたのである。彼らの地獄は凡てのものの中でも最も痛ましいものである。

 

 

 

 

18.たれでも地上で姦淫を犯すと、そのときは天界はすぐさま彼に閉じられてしまう

 

 

天界の秘義2750

 

 私は天使たちから以下のように教えられたのである。即ち、たれでも地上で姦淫を犯すと、そのときは天界はすぐさま彼に閉じられてしまい、その後では彼は単に世的な形体的な物の中にのみ生き、その後彼は愛と信仰との幾多の事柄を聞くけれども、それらのものは彼の内部には浸透しないのであり、彼が彼自身それらのものについて言うことも彼の内部から発しないで、単に誇りまたは利得を求める愛から呼び出されて、記憶と口から発するにすぎないのである。なぜなら彼の内部は閉じ込められてしまって、真剣な悔改めによらない限り開かれることが出来ないからである。

 

 

 

 

19.信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくる

 

 

天界の秘義8904〔2〕

 

信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくるのである。なぜなら人間のもとには天界が閉じられると、そうしたものが地獄から流れ入ってくるからである。(この主題について前に述べ、また示したことを参照されたい、2727−2759、4434、4835、4837番)。

 

 

 

結婚愛80

 

こうした言葉が言われたので、私は西の端を眺めてみた、と見よ! 火と硫黄との池のようなものが現れた。私は天使にたずねた、『そこの地獄はなぜあのように見えるのですか』。

(中略)

再び私はたずねた、『なぜあなたはそこにいる者は霊的な、また自然的な姦淫者であると言われたのです。なぜ悪を行う者、不敬虔な者と言われないのです』。

 

彼は答えた、『姦淫を取るに足らぬことと考える者は、即ち、それは罪ではないと確認して、それを計画的に行う者は凡て悪を行う者、心の不敬虔な者であるからです。なぜなら人間の結婚と宗教とは一足毎に共に連れ立って行くからです。宗教から宗教の中へ進み、歩み入ることは、基督教徒に属し、また基督教徒に特有なものであるところの、結婚的なものから結婚的なものの中へ進み、歩み入ることです』。

 

『その結婚的なものとは何です』と尋ねられて、彼は言った、『それは只一人の妻と生活しようとする願いです。そして基督教徒はその宗教に従って、そうした願いを持っています』。

 

その後で、私は古代ではかくも聖かった結婚がかくも痛ましく姦通に変わったことを霊の中で悲しんだのである。

 

 

 

天界の秘義254

 

『蛇の裔(すえ)』により不誠実[不信仰]そのものが意味されていることは『蛇』の意義が悪そのものであることから明白である、『裔[種、精]』は生み出し、生み出されたもの、または生み、生まされたものであり、ここでは教会が語られているため、これは不誠実[不信仰]である。イザヤ書には、ユダヤ教会の歪められた状態に言及し、それは『悪を行う者の裔』『不義の[姦淫の]』『虚偽の裔』と呼ばれている―

 

  禍いなるかな、罪に満ちた国民、不法を負うた民、悪を行う者の裔、破り害う息子ら。彼らはエホバをすて去った、彼らはイスラエルの聖者を怒らせた、彼らは自らを引きはなして、後へ退いた(1・4)。

 

 さらに―

 

 女魔法使いの子らよ、姦淫を行う者の裔よ、ここへ近よりなさい、おまえらは咎を行う子ら、虚偽の裔ではないか(57・3,4)。

 

 さらにそこにはルシファと呼ばれている『蛇』または竜が語られている―

 

 おまえはおまえの地を腐敗させ、おまえの民を殺してしまったため、忌みきらわれる枝のようにおまえの墓の外に投げすてられた、悪を行う者の裔はとこしえに呼ばれはしない(14・19、20)。

 

 

 

霊界日記6110(36)

 

これらの者は内的な徳と廉恥心とを何ら持たない、従って、こうした者は人間ではない。姦通者は不正でもあり、不信仰であり、不誠実であり、契約の邪悪な破棄者であり、虚言を弄(ろう)し、恥知らずである。かれは何ら内的な公正を、または内的な忠節を、内的な真実を、内的な恥辱感をもってはおらず、かくて何ら廉恥心を、また内的な徳も持ってはいない。こうしたものが内的にあるがままのものが、またこうした者が外的にあるがままのものがその人間である。

 

 

 

 

20.姦淫者は霊界ではサチルスやプリアピイのような姿で現れる

 

 

真の基督教316

 

なぜなら、彼は依然として、姦淫と密通は罪ではないと信じており、それ故、それを神の眼前に不法なものとして認めず、かくて彼はたとえこれを行為に現さないにしても、霊に於いて行う者であり、それ故彼は死後霊となる時、公然とこれを弁護するのである。さらに、姦淫者は契約を破棄する者に比較され、また「何処に我々は処女を、婚約をした娘達を、既婚の女を見出し、これを弄ぶことが出来るか」と叫びながら、森を彷徨った古代のサチルス神とプリアピイ神に比較することが出来よう。姦淫者は、霊界では実際サチルスやプリアピイのような姿で現れるのである。彼らは、更に、悪臭を放つ山羊に譬えられ、また街々を駆けめぐって、己が欲望を満足させる相手を探し求めてこれを嗅ぎつけまわる犬に譬えることが出来よう。

 

 

 

結婚愛44

 

天使的霊は微笑んで答えた、『(中略)天界に昇ってくる新来者はすべてその貞潔を点検されます。なぜなら彼らは処女たち―天界の住人たち―のもとへ入ることを赦されるからです。彼女たちは彼らが性愛の方面でいかような性質を持っているかを、その語調から、言葉から、容貌から、眼から、身振りから、流れ出ているスフィアから認めており、もしそれが不潔なものであるなら、彼女たちは逃げて、その友達に、私たちはサチルスをまたはプリアピイ(*)を見ました、と言います。そして天使たちの目にはこうした新来者は実際変わって、毛深く見え、その足は子牛または豹のように見えるのです。で、すぐさま彼らはその欲情で天界の気流を汚さないように投げ落とされてしまいます』。

 

サチルスとプリアピイ・・・サチルスはギリシャ神話に出てくる半人半獣の森の神の一人で、酒と女が大好物。プリアピイは男性生殖力の神。

 

 

 

21.能力

 

霊界日記6110(6)

 

わたしは、天界では、不断の能力が在ることを姦通者らに話すと、かれらは、もし自分らはそのことを世で知ったら、決して淫行は犯しはしないで、かくて天界に入りもすることができるように、と言った。しかしわたしは、天界では、結婚した配偶者のみを愛することが許され、地獄では欲するままに淫行を犯すことが許されている、と言い、この場合あなたらは地獄にいたいですか、それとも天界にいたいですか、とたずねた、しかしわたしはかれらから答えをもぎとることはできなかった。

 

 

 

霊界日記6110(7)

 

 もし男が、姦淫を罪として避けることにより、その妻にその愛を集中させるなら、その時は愛はその能力と共に日毎に増大するが、しかしもし男がその愛を殺(そ)いでしまって、それを娼婦のもとで使い果たすなら、婚姻愛はもみがらのようになって、死滅してしまう。

 

 

 

 

22.奈落の者らは、婚姻愛のスフィアを知覚するようになると、狂憤に燃え上がる

 

霊界日記6110(9)

 

奈落の者らは、婚姻愛のスフィアを知覚するようになると、狂憤に燃え上がるのである、多くの経験から。

 

 

霊界日記6110(11)

 

地獄はそこにいる者らが婚姻愛のスフィアを認めるとき発狂したように激怒する―いわば、天界から与えられた経験から。

 

 

 

霊界日記6110(65)

 

キリスト教徒の霊らは男性と女性との霊的なスフィアに堪えることはできない。彼らは婚姻愛の霊的なスフィアに堪えることはできない、地獄は、それと同時に狂憤にかき立てられる。彼らは結婚した配偶者たちの間の裸身のスフィアに堪えることはできない、そうした時には、逃げ出してしまう。彼らは結婚した配偶者から発する愛のスフィアには、そのいかようなものにも、堪えることはできない。彼らはおきまりの性交にもたえることはできない、すなわち、妻との連結が日常のこととなり、または自由に許されるとき、それは吐き気を催させる。

 

 

霊界日記6110(67)

 

悪霊らは、女性的な性質を考えることに、従って、その霊的なスフィアには、全く堪えることはできない。かれらは拷問にかけられるかのように大声をたてて、逃げて行く―経験から。しかしかれらは、それが姦淫のスフィアの下に、またはその考えの下にベールをかけられているときは、それに堪えることができるのである。

 

 

 

23.姦淫は許されると考える者ら

 

霊界日記6110(12)

 

姦淫は許されると考えられると、それは身体全体の中に努力となって存在する。

 

 

霊界日記6110(38)

 

もし人間が姦淫は罪ではないと決定するなら、かれは姦淫を行う者である、なぜなら、その結論は意志と理解とが共になった状態から発しており、またその中には意図が在るからである。そこから内的な意志が生まれ、その意志とは努力であって、その人間全体を支配するのである。努力の性質。

 

 

霊界日記6110(58)

 

姦淫は許されることである、と確認することは、光は暗黒であり、暗黒は光である、と確認することにたとえることができよう。

 

 

 

 

 

24.レイプの歓喜、その歓喜の中にいる者らの地獄は屍のよう

 

 

霊界日記6110(21)

 

レイプの歓喜、その歓喜の中にいる者らの地獄は屍のようなものである、その理由。凌辱の歓喜、売淫の性質。多様なものの歓喜はいかような種類の歓喜であるか、その中にいる者らは雄のはつかねずみのようになる。他人の妻と姦淫を犯す快楽はいかようなものであり、またいかような種類のものであるか。妻を持っている男と密通する快楽はいかような種類のものであるか。結婚前に妾をもつ快楽、すなわち、それは許されている、いかように、またたれに。

 

 

 

25.婚姻愛の内部には、その究極のものに至るまでも、天界が在り、姦淫の愛の内部には地獄が在る

 

霊界日記6110(25)

 

婚姻愛には好色はない、なぜなら好色は不貞であるから、婚姻愛の中にいる者たちのもとにも同一の知覚が在る、従って、不潔なものは何一つなく、純潔なものが在る。不潔なものが在るかのようには見えるが、それでもそうしたものではない。その理由は、婚姻愛の内部には、その究極のものに至るまでも、天界が在り、姦淫の愛の内部には地獄が在るためであり、各々のものの究極的なものは、その歓喜の方面では、類似はしているものの、それでも類似はしていない。その相違は婚姻愛によらなくては認められない。

 

 

 

26.支配を求め、無神論者である者らのもとにおける奈落の結婚について、その男の側には致死的な[相手を殺そうとする]憎悪がある

 

霊界日記6110(35)

 

支配を求め、無神論者である者らのもとにおける奈落の結婚について、その男の側には致死的な[相手を殺そうとする]憎悪がある。しかし、それでも、かれは、妻の下僕と奴隷であり、かくてかれは彼女の意志に反しては敢えて不満を洩らしはしない、しかしこのことは彼女が、色々な手段によりその優越性を獲得したときに、見られる。その理由は、その男の理解は征服されるためである。

 

 

 

27.姦通者は不正、不信仰、不誠実であり、契約の邪悪な破棄者であり、虚言を弄(ろう)し、恥知らず、かれは何ら内的な公正、内的な忠節、内的な真実、内的な恥辱感をもっておらず、かくて何ら廉恥心を、また内的な徳も持ってはいない

 

 

霊界日記6110(36)

 

これらの者は内的な徳と廉恥心(れんちしん)とを何ら持たない、従って、こうした者は人間ではない。姦通者は不正でもあり、不信仰であり、不誠実であり、契約の邪悪な破棄者であり、虚言を弄(ろう)し、恥知らずである。かれは何ら内的な公正を、または内的な忠節を、内的な真実を、内的な恥辱感をもってはおらず、かくて何ら廉恥心を、また内的な徳も持ってはいない。こうしたものが内的にあるがままのものが、またこうした者が外的にあるがままのものがその人間である。

 

 

 

28.他人の美しい妻を誘惑した英国人の貴族の刑罰

 

 

霊界日記6110(71)

 

以下の英国人―貴族―について、すなわち、かれらは他人の美しい妻を金によりかれら自身へ誘惑し、数カ月間これと共に住み、後で送り返すのである。こうした者らは他生でもそれと同じことを行う。他の者の妻を自らへ誘惑する者らはすぐにも摘発されて、苛烈に罰しられる。

 

 

 

霊界日記6110(72)

 

かれらは身体を引き裂かれる刑罰を受けるが、それは凡ての中でも最も苛烈なものである。かれらは言った、刑罰の後では、自分の手足が共にくっついているか、いないかはわからなくなり、自分らは長い間ベッドに臥し、また、思いとどまらないなら、地獄へ投げ込まれる、と。世でそうしたことを、それは罪であるため慎しんだ者らは、他生でも慎みはするが、他の理由から慎んだ者らは、慎みはしない。

 

 

 

霊界日記6110(73)

 

1765年[73歳]の4月29日、わたしは幾多の社会から幾多の英国貴族らが移されるのを見た、かれらは、世では、他の者たちの美しい妻を誘惑して、その妻たちがもはや気にくわなくなるまでは、これと同棲したのである。おびただしい者らがいた。かれらはその幾多のの社会から引き離され、低地へ降らされて、かつて悔改めを行い、それが神の律法に反していることを信じたか、否かについて調べられたのである。