色情
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.スウェーデンボルグ
4.サンダー・シング
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P185
私は自分の口から何者であるかを知らせよう。私は“贖い主”です。人を贖うためには罪があってはなりません。私は色欲を踏みにじりました。色欲という毛虫が穴から出て来て、泥から外の泥へはい回ろうとしたが、私はその虫を踏み潰しました。こうして私は何時も色情を踏み潰している。しかも今は、あなたを健康で清い者にし、病気を治すために、またそれを踏みつけるつもりです。
私が人間となったのは、贖い主としてあなたたちを救うためです。罪を犯すためではなく、罪を破滅させるためです。人の罪を取り除くためで“ともに罪を犯す”ためではない。あなたたち人間を愛するために人間となったのは、自分の命と血とことばを与える“愛”としてです。人間を天へ、正義へ導くためであって、獣のように行動するためではない。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P91
あなたたちは淫欲に溺れるとき、多分神に対して罪を犯していると思っていないのではないか? しかしあなたたちは間違いなく罪を犯している。なぜならあなたたちは至高の霊であるわたしを迎えるために霊魂が住むあなたたちの身体を汚しているからだ。そして冷静に意識した意思で遂げられる人間の淫欲はどこまで達しようとしているか? 嫌悪すべきこの人間の堕落の深淵は考究しないほうがよい。わたしは貴女に言う。ある種の動物は不潔だと言われてきたが人間はすでにそれらの動物を上回り、まだもっと上回るだろう。もし猿と蛇と豚をかけ合せて新しい動物を創れたとしても、その怪物さえ、ある種の人間たち、人間の顔をそなえながら、内面的にはいちばん不潔な動物よりさらに激しい淫欲をそなえ、さらに嫌悪の念を起させる人間たちよりは汚らわしくないだろう、と。
3.スウェーデンボルグ
天界の秘義4992
色情のみから妻と連結することは、霊的なものでない自然的なものであるが、しかし婚姻愛から妻と連結することは霊的な自然的なものであり、夫がその後色情のみから連結する時は、彼は、淫猥なことを為す者のように自分は罪を犯していると信じるのであり、それゆえ彼はそのことが仮にも彼のものとされることを最早願いはしないのである。
スウェーデンボルグ/夢日記12/たま出版
夜の間の、私の大きな喜び。自分自身の名誉のために、何もすることが残っていないという自分に驚き、それで感動すらした。また、性へ心が傾くことが少しもなくなっていた、以前の私の全生命ともいえるものであったのに。
スウェーデンボルグ/夢日記14/たま出版
ハーグに到着した後、私の著作への関心や自己愛の消え去っていることが分かった様子。これには私自身、驚いた。
異性へと傾く気持ちがこうも突然に止んでしまった様子。これは私の最も強い熱情であった。
スウェーデンボルグ/夢日記17/たま出版
私のそばの女が静めてくれた様子、まるで目覚めているようだった。これは誰なのか知りたかった。女はゆっくりと語り、「私は純潔です。でも、あなたには悪意が嗅ぎ取れます」と言った。私の信じるところ、これは私の守護天使である、そのとき試練が始まったから。
スウェーデンボルグ/夢日記19/たま出版
多くの区画に分けられた庭園にいた。美しい。どれか一つ私にも欲しいと望んだ。しかし、外へ出る道があるのか見つけようと見回した。一つ見つけたように思え、また別のことも考えた。たくさんの目に見えない這うものをつまみ上げて殺している人がいた。
「虫ですよ、だれかがここに落としたか投げ込んでいったんだ、ここの住民にはびこるやつでね」と言った。私はその虫を見なかったけれども、そばの女の白いリンネルの布の上に私が落とした別の小さな這うものを見た。これは、私から根絶されなくてはならないある汚れだった。
4.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P61
聖徒の一人がいった。「汚れた行為ばかりが罪なのではない。汚れた想念、汚れた視線も罪なのだ。この罪は見知らぬ女との姦通にのみいえることではない。妻との間に過ぎた獣的関係をもつこともまた罪である。夫婦は快楽のためではなく、支えあい助けあうため、本当の意味で一緒になるのだ。子供とともに、人類への奉仕と神の栄光に生きるようにするためである。この生の目的から外れる者は姦淫の罪を負うことになる」と。