同性愛
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.聖母から司祭へ
5.マリア・シンマ
6.マーリン・キャロザース
7.往生要集
8.悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加える
9.ドラキュラに噛まれるとドラキュラになる
10.人々が善いものと真のものとを最早知らなくなり始め、そのことについて互いに論争し、そこから誤謬が起る
11.姦淫
12.公教要理
13.姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまう
14.ヴァッスーラ
15.姦淫はそれが悪魔性そのものとも呼ばれても良いほどにも大きな悪
16.信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくる
1.聖書
レビ記18・22−30
女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
動物と交わって身を汚してはならない。女性も動物に近づいて交わってはならない。これは、秩序を乱す行為である。
あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらはすべて、あなたたちの前からわたしが追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである。これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである。あなたたちはわたしの掟と法とを守り、土地に生まれた者であろうと、あなたたちのもとに寄留する者であろうと、以上に挙げたいとうべきことを一切してはならない。あなたたちがこれから向かう土地の住民はこれらすべてのいとうべきことをしたため、その土地は汚れている。あなたたちもその土地を汚すならば、先住民を吐き出したと同じように、土地があなたたちを吐き出すであろう。これらのいとうべきことの一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から断たれる。それゆえ、あなたたちは必ずわたしの命令を守りなさい。これまで行われてきたいとうべき風習の一つでも行って、身を汚してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。
レビ記20・13
女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当る。
申命記22・5
女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。
申命記23・18
イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。
列王記上14・22−24
ユダの人々は、主の目に悪とされることを行い、その犯した罪により、先祖が行ったすべてのことにまさって主を怒らせた。彼らもまたあらゆる高い丘の上と、茂った木の下に、聖なる高台を築き、石柱、アシェラ像を立てた。その地には神殿男娼さえいた。彼らは、主がイスラエルの前から追い払われた諸国の民のすべての忌むべき慣習に従った。
列王記上15・11−12
アサは、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い、神殿男娼をその地から追放し、先祖たちの造った偶像をすべて取り除いた。
列王記上22・43、46−47
彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った。
ヨシャファトの他の事績、彼のあげた功績、また戦いについては、『ユダの王の歴代誌』に記されている。彼は父アサの時代に残っていた神殿男娼の残りをこの国から除き去った。
列王記下23・7
彼(ヨシア)は主の神殿の中にあった神殿男娼の家を取り壊した。そこは女たちがアシェラ像のために布を織っていたところでもあった。
ヨブ記36・13−14
神を無視する心を持つ者は鎖につながれていても
怒りに燃え、助けを求めようとしない。
彼らの魂は若いうちに死を迎え
命は神殿男娼のように短い。
エゼキエル33・7−9
人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
ローマ書1・27、28、32
同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
コリント1・6・9、10
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
テモテ1・1・9−10
律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられているのです。
ユダの手紙6−7
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。
ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
黙示録21・6−8
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
黙示録22・14−15
「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人
を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」
2.スウェーデンボルグ
追補 真の基督教 遺稿(『真の基督教の増補』に併録)9
12、強盗と海賊の地獄は牛と羊の死骸のように匂い、人殺しと刺客[暗殺人]の地獄は人間の死骸のように匂い、鶏姦者[男色者]の地獄も同じように匂っている。この悪臭は彼らには芳香を放ち、香気に満ち、すがすがしく、その胸の中では甘美な御馳走のようなものとなり、またその頭の中ではワインの高貴なアルコールのようなものとなっている。彼らはこの悪臭を鼻孔を拡げ、口を開けて吸い込み、天界の何かの匂いから逃げ出した後では、その悪臭によりさわやかにされるのである。
天界と地獄134
地獄にもまた熱があるが、しかしそれは不潔なものである(*10)。天界の熱は聖い天の火により意味されるものであり、地獄の熱は汚れた、奈落の火により意味されるものである。その二つによりともに愛が意味されるが、しかし天の火により主と隣人に対する愛と、その愛から生まれる凡ゆる情愛が意味され、奈落の火により自己と世への愛と、その愛から生まれる欲念が意味されている。愛は霊的な源泉から発する熱であることは愛により熱することから明白である、なぜなら人間はその愛の性質と度とに従って燃え、熱し、その熱は[愛が]抵抗を受ける時示されるからである。それで善の愛の諸々の情愛についても、また悪の愛の諸々の欲念についても、燃える、焼ける、煮えたぎる、火がつくと言うことが普通となっている。
*10
地獄には熱があるが、しかしそれは不潔である(1773、2757、3340)。そこから発する臭気は世の糞、排泄物から発する臭気に似ており、最悪の地獄では死体の臭気に似ている(814、815、817、819、820、943、944、5394)。
極悪の交情〔友情〕について
霊界日記1976
霊界日記1977
私がこうした者らを待っている刑罰の種類について尋ねた際、彼らは極めて激しく罰しられると言われはしたが、しかし彼らはその刑罰の性質は洩らそうとはしないで、単に、それは極度に激しいものであって、彼らが、生きていない、即ち、殆ど生きていることを意識しない、そうした汚れた行為と忌まわしいことをやってのけたことを完全に忘れてしまう心の状態へ追いやられる、とのみ言ったに過ぎなかった。なぜなら彼らは神聖を装って混乱を引き起こし、同じ仮面の下に、人類を生み出すという目的である普遍的な、主要な目的を消滅させるからである。こうした混乱からは痛ましい刑罰が生まれない訳にはいかないのであり、その霊的な生命の、謂わば、消滅が生まれない訳にはいかないのである。実に、彼らはソドムの輩とは、余り隔たってはいないのである、それでこうした生活行路を自らに意識している者らは警戒されたい、なぜなら彼らは他生では容赦されはしないからである。1748年〔60歳〕5月16日。
ソドム的なものについて
霊界日記2675
他生には生涯の間ソドムの罪を犯した者たちがいる。これらの者は死後の生命について何一つ信じはしなかったし、地獄と天界とが在ることも信じはしなかったし、自分らは全く獣のようなものであって、獣のように死んでしまうと信じたのであり、それで彼らは例え論じる〔推理する〕ことは出来るものの、知的な原理は何ら得てはいないのである。他生では彼らは極めて悲惨な処置にさらされ、奈落の拷問で罰しられるが、それは描写出来ない程にも恐ろしいものであり、さらに彼らは排泄物〔糞便〕の在る尾の領域を構成している、即ち、彼らは糞であり、便所に住んでいるからである。
霊界日記3768
彼ら(クェーカ教徒の霊のこと)は、そのこと(妻の共有、同衾のこと)はいかに忌まわしいことであることか、と言われた、なぜなら四つよりは少なくはないけしからぬ無法なことがその行為の中に共に働いているからである、先ず、妻を共有することは最も唾棄すべき姦淫を伴っており、第二に、彼らはそのことを神聖の仮面の下に行い、聖いものを最も冒涜的なものの間におき、悪魔は追い出されたと見せかけている間に、悪魔は実際入り込んでおり、第三に、彼らは、このように罪は赦されたと言うことにより良心の拘束をことごとく緩めてしまい、彼らがたれ一人未だ考え付くことも出来ない下劣な屑となっていることはそのことに起因しており、第四に、かくて霊どもは人間を通してその人間の女と交渉を持つのである、なぜなら霊らは形体的な事柄においては、例えば、話したり、食べたり、歩いたり、婚姻の関係を持ったりすることにおいて人間の役割を演じる程には人間を決して支配はしないのであり、こうした事は共通の〔全般的な〕努力から流れ入っていて、彼らは専ら思考へ欲念へ働き掛けはするが、決してこうした形体的な事柄へは働き掛けはしないからである、それでこうした同衾はソドム人のそれよりも遥かに忌まわしいのである―こうした凡てのことが自分は聖霊であると言っている彼らのそうした霊らに今言われているが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これに対し彼らは何ら答えはしないし、また答えることも出来ないのである。以下のことを知ることも与えられたのである、即ち、彼らが女と同衾している際に、殆ど何らの知覚も覚えないで、殆ど我を忘れるほどにも彼らの聖霊により操られるのである。ここからまた彼らはその女たちが聖霊を得たか否かを、すなわち、その女たちが悪魔を手に入れた時、結論づけるのである。これが彼らの聖餐の秘蹟であるが、その真理を彼らは斥けており、そのことがまた私に表象されたのである。
霊界日記3796
彼ら(クェーカ教徒の霊のこと)は狡猾にも、妻を共有しても子孫の繁殖は依然起っている、と暗示した。しかしソドムの人々の間にも同じように子孫は繁殖したが、しかしそれはいかに嫌悪すべきものであるかは、あなたらは充分に知っているのである、と答えられた。1748年〔60歳〕11月1日。
淫行と姦淫とを引き起こす多くのものが在ることについて
霊界日記5939
凡ゆる度の犯罪は霊的な罪であるようなものに相応している。私は二つのものを述べよう。信仰のみの中にいて、生命については心を煩わしはしない者らは、叔母とまた母との姦淫を引き起こすのである。こうした霊らがその場に現れてくると、こうした思いが起ってくる。教会では敬虔に献身して礼拝し、そうした時に神についてのみ専ら考えはするが、生命〔生活〕については考えはしない者ら、こうした者らには姉妹との姦淫が相応しているのである。そうした思いが彼らがその場に現れてくると起ってくるのである。他の忌まわしい姦淫は、神について大いに話しはするものの、人を欺くことについては、また人の財産を盗み取ることについては―そうしたことが可能であるなら、そのことについては―何のためらいも覚えない者らによりもたらされるのである。こうした者らは、その立場で、その女中と姦淫を犯し、その女中を頻繁に変え、またたれであれその欲する者と姦淫を犯すのである。自己を愛し、他の者たちを支配することを求めている者らはソドムの輩(*)である。
*「ソドム人の輩」とは「男色者、鶏姦者」のこと。
伯母〔叔母〕との姦淫について
霊界日記5979
一人の伯〔叔〕母が現れた、彼女はスエーデンのFであった。かの社会にいる者たちは、自分らは男色がわたしに遂行されるのをすぐにも覚えると言って、そのことについて不満を洩らし、或る一人の悪魔がそうした形の姦淫を低い所で掻き立てたのである。その際彼女は摘発されたが、そのことは一時間にわたって続いた。その姦淫は脊髄の端の後部に行われ、そこへ彼らは入ろうとした。その際以下のことが述べられた、こうした姦淫は―それを私はまた以前に認めたのであるが、それは―伯〔叔〕母との姦淫に相応しているのである、と。彼らは以下のように言った、そうしたことをやってのける者らは、聖餐を通して、罪はことごとく自分らには赦されているという信念を完全に自らに確認し、・・・・・・悪い生活を送ったような人物である、と。
霊界日記6051(14)
姦淫を犯す者らは、他の点ではいかほど良く道徳的に生き、祈りに明け暮れても、地獄へ投げ込まれるという証明を提出することが出来よう。両性における生殖に捧げられている部分〔器官〕は最も内なる、または第三の天界に相応しており、そこではその天使たちは天界の結婚の中に、または善と真理との天界的な結婚の中に、他の者たちにもまさって置かれている。約言すると、諸天界における結婚は極めて聖いものであり、それゆえそれは姦淫により冒涜されてはならないのである。
黙示録講解1006[2]
しかし姦淫は奈落のものであり、忌まわしいものであることについてはその度合いに相違があることを知らなくてはならない。さらに甚だしい重い悪とその誤謬とから発生する姦淫はさらに重く、穏やかな悪とその誤謬とから発するものは穏やかである、なぜなら姦淫は善の不善化とそこから生まれてくる真理の誤謬化とに相応しており、善の不善化はそれ自身において悪であり、真理の誤謬化はそれ自身において誤謬である。これらのものと相応していることに従って地獄は種族と種類とに配置されている。妻たちに暴行を加えることが歓びであった者らに対しては死体地獄が在り、処女を汚すことが歓びであった者らに対しては排泄物地獄が在り、色々と娼婦を変えることが歓びであった者らには恐ろしいねばねばする地獄が在り、他の者らには汚れ切った地獄が在る。単に支配することに覚える歓喜から他の者たちを支配することを求める愛から悪の中におり、用を遂行する歓喜を些かも持たなかった者に対する獣を犯す地獄が在る。
黙示録講解1006[3]
教義においても生活においても善い業から信仰を分離した者らからは、息子が母または義理の母と犯す姦淫のような姦淫が吐き出され、聖言を単に栄誉のために研究はしたが、霊的な用のために研究はしなかった者らからは、父親が義理の娘と犯す姦淫のような姦淫が吐き出され、罪は聖餐によって赦されてはいるが、生命[生活」の悔改めによっては赦されてはいない、と信じる者らからは兄弟が姉妹と犯す姦淫のような姦淫が吐き出され、全く神的なもの[神]を否定する者らからは獣と犯す忌むべき事が吐き出される、といったことが起っている。そうした地獄が彼らのために存在しているのは、善と真理とを不善化する、または汚すことと相応していることのためである。
スヴェーデンボリ出版/『黙示録講解』より 宗教と生活/65
しかし、姦淫は多かれ少なかれ地獄のもの、忌まわしいものであることを知らなければなりません。重い悪とここからの虚偽から生まれる姦淫は重く、また穏やかな悪とここからの虚偽から生まれる姦淫は穏やかです。というのは、姦淫は善の不純化とここからの真理の虚偽化に対応するからです。善の不純化は本質的に悪であり、真理の虚偽化は本質的に虚偽です。地獄はそれらとの対応にしたがって、さまざまな種類に配置されています。
妻への性的暴行が歓喜であった者に屍の地獄があります。処女を誘惑することが歓喜であった者には排泄物(糞)の地獄があります。娼婦の変化と交替が歓喜であった者に忌まわしい粘り気のある地獄があります。そして、他の者に不潔な地獄があります。単に支配する快さから他の者を支配する愛から悪の中にいて、何らの役立ちの快さの中にいなかった者に男色の地獄があります。教えの事柄としてでも生活の事柄としても、信仰を善い働きから分離した者たちから、息子と母またはおばとのような姦淫が吐き出されます。霊的な役立ちのためでなく、称賛のためだけに、みことばに専念した者たちから、父と義理の娘とのような姦淫が吐き出されます。聖餐を通して罪が許されていて、生活の悔い改めを通してではないと信じる者たちから、兄弟と姉妹とのような姦淫が吐き出されます。完全に神性を否定した者たちから、獣とのようなおそるべき姦淫が吐き出されます。等々。
地獄が彼らにとってこのようなものであることは、善と真理の不純化と汚すこととの対応からです。(『講解』1006番)
天界の秘義7161
悪の中におり、そこから誤謬の中にいる者らは悪臭を発していることは、暗殺者と最も執拗な復讐を企てている者らのいる所の死体地獄と呼ばれている地獄から非常に明白であり、またそれは姦通者と汚れた快楽を目的としている者らのいる所の、糞尿地獄と呼ばれている地獄からも明白である。これらの地獄が開かれると、そこからは堪えがたい悪臭が放出されるが(4631番)、しかしこうした悪臭も、霊に属している内部を開かれている者以外の者によっては悪臭としては認められはしないのである。
結婚愛54[4]
修道院にその生涯の終わりまで閉じ込められている者たちは、即ち、処女たちと男とは―それは死後もしばらくの間続きはするが―釈放されて、自由に振舞い、結婚生活に入ることを欲する、欲しないに拘らず、その願い求めている自由を得ることを許されている。もし彼らが結婚を願うなら、結婚をし、もし願わないなら、天界の脇で独身生活を送っている者たちのもとへ連れて行かれる。しかし禁じられた色情で燃えている者らは投げ落とされる。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P42
『そして、過ちのない婦人を眺めて、私はまた、こう言う。“人間の不従順の”苦さ、サタンと人間との間の淫乱の交際を取り消すあなた! さあ、おいで。私は、あなたによってサタンに対しての復讐を行うものである』
創造主の父である神は、男と女とを“どれほど完全な愛の法則”をもって創ったか。あなたたちは、その完全さも理解できないほどである。そして、サタンの誘惑がなかったならば人類はどのように継続したかを考えよ。
果樹をごらん。それは、種子と実とを邪欲によって得るだろうか? いいえ、そうではない。雄花から花粉が出て、気象のさまざまな現象により雌花に運ばれ、子房が開かれて実を作る。人間がするような次の日に同じ快楽を味わうために、これを拒むことはない。次の季節に至るまで花を作らず、花を作るのは生殖のためである。
動物も同じである。“すべて”の動物をごらん。雄と雌とがけがらわしい実を結ばない抱擁のために探し合い、一緒になるのを見たことがあるか? そうではない。動物は近くから、あるいは遠くから、飛んだり、這ったり、走ったりして、その時期になると性交の儀式に入り、単なる快楽にとどまらないで子孫を産む。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P185
「きょうは“姦通をするな”について話します。この姦通者とはだれであるか、自分の周りに探ってはならない。お互いに愛を持ちなさい。他人があなたの顔に淫乱を読んだとしたらどうしますか。それなら隣りの人の困惑している目、赤面して目を伏せるその顔を読もうとしてはならない。
それから・・・特におまえたち男に言うが、おまえたちの中で、かつて灰とくずのパンを一度もかじっていない人がいますか。淫蕩とは淫売婦の腕を一時間枕にすることだけを指すのではなく、妻との絆を汚して、単なる性の快楽を求めるもの、避妊もそうです。婚姻は出産を意味し、性交は受胎を意味します。これがなければ行為は不道徳なものとなり、床は淫行の場となります。結婚が出産によって聖別されなければ、淫乱で汚されるだけです。大地は種子を拒まず、迎えて木にします。種子は蒔かれて後は土から逃げることがなく、やがて根を出して成長し、土くれと種子との絆によって植物が誕生するのです。男は種子で、女は大地、穂は子供です。穂を作るのを拒むならば、性は罪に変わり、夫婦の寝室で営まれる淫行にすぎず“一体となって子供を増やせ”という神の掟に背くことになります。
自分から避妊している女たちよ。社会では法律上の妻であっても、神の目にはそうではない。夫だけのものであっても、淫売婦と同じです。往々にして母性よりも快楽のみ追い求めているからで、その快楽とは麻薬のようで、足ることを知らず、家庭の外にもその満足を求め、結局は自分自身と快楽を分かち合う仲間とに嘔吐をもよおし、自分自身を軽蔑するだけです。
“淫行をするな”と言われているが、肉体の多くの行為は淫行にすぎません。レビの書が、次のことばで弾劾する悪夢のような交際に、私は触れたくもない。
“おまえは、女と寝るようにして男と寝てはならぬ。それは忌まわしい限りだ。おまえは動物と寝床の交わりをしてはならぬ。これをすれば、おまえは身を汚したものとなる。また女も動物を引き寄せて、それと交わってはならぬ。それは忌まわしい行為である”(訳注レビ記18・22−23)」
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P205
体の不自由な人は主の集会に入ってはならないと言われています。体の不自由な人が神の民に属せなくて、どうして霊魂の腐った人が神の使いとなれるでしょうか。というのは、司祭や先生たちの多くは霊魂が腐っており、男らしい霊が損なわれたものだからです。こういう司祭や先生が多過ぎます!
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P269
主が弟子達に:
私の母は愛のために処女性を神にささげたが、いとも完全な女性であったので、心と体に母性を持っていました。なぜなら女は母となるためにできているので、この声に耳をふさぐ者は正道を踏みはずします。子孫への人間の愛、とりわけ女の愛は、神がアダムとエバに言われたことばに現されている。
神は遠い創造の日の六日目に『生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ』と言われた。
4.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ
1986年12月3日
米国とカナダの司祭のマリア運動の司祭たちと共に行ったチェナクルムにおける黙想会
米国、テキサス州、ダラス市
第三の傷は、教会の多くの子らの生活に入り込んだ不忠実によるのです。この子らは、もう神のおきてと、イエズスが福音で与えてくださった教えに従わないのです。
こうして、これらの人々は、悪と罪の悪い道を進んでいるのです。罪は、悪であると、もう認められていません。
堕胎と同性愛のような自然法に反する最も重大な罪でさえも、正当化されているのです。
罪はもう告白されていません。
あなたたちは、どれほどの重病におちたことでしょう。
わたしの愛する子らよ、潔白と聖徳の道を歩むように、わたしの子らを助けて、これほど重い、そして拡がってしまった悪に対して、あなたたちは薬となってください。
すべての人に、真のカトリック倫理をあらたに教えてください。
わたしのあわれな子らである罪人を、神のおきてを守る道に連れ戻す救いの手をさしのべてください。
かれらに、度々、罪の赦しの秘跡を受けることの必要性を理解させてください。大罪の状態にいる人にとっては、聖体拝領を受けるために、赦しの秘跡がどうしても必要です。
この国では、教会は、汚聖の聖体拝領によって全身傷におおわれています。
聖母から司祭へ1987.4.17
イエズスは、不潔の罪がひじょうに拡がっていくことや、すべてを沈めるこの泥の荒波と、人間の尊厳を犯すたくさんのぶじょくによって、そのおん体にむち打ちをうけています。
聖母から司祭へ1987年6月2日 米国ワシントン州、シアトル市
イエズスの神的み心をなんと苦しめることでしょう。
きょう、ここ司教座聖堂の中で、この州の最も遠い所から来たわたしの愛する司祭とまた大勢の信徒たちといっしょに行っているチェナクルム(集い)を、よろこんで受け入れます。
あなたたちの愛とつぐないとの捧げものを受け入れます。
イエズスは、こん日もまた、神秘的な体のうちにぶじょくされ、むち打たれ、傷つけられています。不潔のもっとも重大な罪さえも正当化するたくさんの司祭たちと、何人かの司教たちが示している放任的な態度は、どれほどイエズスの神的み心を苦しめていることでしょう。ちょうどここに、この聖なる場所で、この恐るべき悪徳に堕落しているわたしの多くのあわれな子らが歓迎され、自然に反する不潔の罪の道を歩みつづけてよいと、公にはげまされたことが、イエズスのみ心を軽蔑し傷つけ、侮蔑したのです。
自然に反する不潔な行為は、神のみ前で復讐を要求する罪です。
これらの罪は、あなたたちと、あなたたちの国々のうえに、神の正義の火を呼びよせずにはいません。
神がモイゼに与えられた「姦淫するな」の第6戒は、今でもその価値を完全に保っているのです。堕落した、そして、邪悪に流れたこの世代にあってなお、これを守らねばならないことを、はっきりと、しかも勇気をもって、すべての人に宣言する時が来ました。
この種の罪を正当化するすべての牧者は、自分の上、そのいのちの上に神の正義の燃える火を呼ぶのです。
罪悪のさかずきは、すでに満ち満ち、もうこれ以上は耐えられないほどいっぱいになって、どの方向からも溢れ出るのです。それで、あなたたちの、祈りのチェナクルム(集い)をふやして、これを取りつぎとつぐないの力強い支えとし、またあなたたちのいのちを、潔白の徳をもって香り高いものとして、わたしに捧げることをすすめます。
この世がふたたび光と潔白の花園へと返り咲くことができるように、やがてこのあわれな堕落した世界の上に、天が開けて、神の正義とあわれみの燃える露が降りそそがれることを約束しましょう。
聖母から司祭へ1989.6.3
「あなたは父母を敬わなければならない」という掟に反対するために、フリーメーソンは、同棲だけでなく同性愛者どうしの同棲にもとづいた家族の新しい型までも紹介しています。
「あなたは殺してはならない」という掟に対して、フリーメーソンは、どこの国においても堕胎を正当化し、安楽死を認めさせ、人命の価値に対して示すべき尊敬をほとんど全面的になくすることに成功したのです。
「あなたは、姦淫してはならない」という掟に対しては、フリーメーソンは、どんな不潔な行いも、ほめたたえ、宣伝し、また、自然に背く行いさえも正当化しています。
聖母から司祭へ1989.10.13
五感の犠牲と邪欲の制御、慎み深さ、よい手本、潔白と聖徳の道を歩むようにと、わたしは何回も呼びかけたのです。
しかし、人類は、わたしの呼びかけを受け入れず、不潔の罪を犯さないようにと命じている神の律法の第六戒に背きつづけたのです。
それだけではありません、この罪をほめたたえて人間的な価値として、また、自分の個人的な自由を行使する新しい方法として、紹介するまでになったのです。こうして、今日では、不潔のすべての罪を正当化するほどになりました。
まず第一に、少年と青年たちの良心をだらくさせて、自分ひとりで犯した不潔な行為は、もう罪ではないという確信を教えこんだのです。また、婚約者同士の結婚前の関係が許されるどころか、善いものであることを説き、家族は自由にふるまうことができ、出産をさまたげるために人工的な手段を利用してもよいという確信を教えこんだのです。
自然に背く不潔の行為を正当化し、ほめたたえるほどにいたったのです。それだけではありません、同性どうしの共同生活を、家庭と同じものと認める法律までも提案するほどになったのです。
不道徳、不潔、猥褻は、印刷物とすべての広報機関によって、今日ほどたえず宣伝されたことは今までなかったのです。
特にテレビは、毎日猥褻な場面を映して爆撃のような悪の恐ろしい手段となったのです。その目的は、すべての人の知恵と心の清さを堕落させることをねらっています。
娯楽の場、特に映画館とディスコは、人道的、キリスト教的尊厳を公に汚す場所となったのです。
肉欲の罪をもって、ひきつづき公に、わたしたちの主である神を侮辱する時がこれです。
聖母から司祭へ1990.5.13
―サタンは、あなたたちのこの一世紀の出来事において、だれにも反対されなかった支配者となりました。その結果、神の否定、神の愛の法律の否定へと全人類をみちびいて、あらゆる所に分裂と憎しみ、不道徳と悪意をひろめました。こうして、いたる所に離婚と堕胎、不潔と同性愛を正当化させて、命をさまたげるあらゆる手段を利用させました。
聖母から司祭へ1990.11.15マルバーン(ペンシルヴァニア―米国)
あなたたちは、神と、その愛のおきてを否む道を歩みつづけました。不潔の罪がますます広がり、不道徳は、すべてを沈ませる海のようになってきました。自然に反する同性愛の不潔な罪は正当化され、命を妨げる手段を一般の人が伝えるようになってきたのです。それと同時に、神のみ前に復讐を招く無罪の胎児の殺害である堕胎は、このあなたたちの国のどこにでも広められ、行われています。
聖母から司祭へ1994.6.11
それにしても、あなたたちが生きているその環境は、なんと大きな不道徳と悪にそまっていることでしょう!
罪が平気で犯されるばかりか、それはかえって、正当化され、神のおきてに対する不従順が褒め称えられ、宣伝されているのです。こうしてサタンの兇悪な能力が、個人と国家の中に日ごとに広がってゆきます。
5.マリア・シンマ
シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P44
あなたは地上で性的倒錯行為を行った霊魂の訪問を受けたことがありますか。
はい。彼らは永遠に滅んでいません。清められるために大いに苦しまなければなりません。例えば同性愛、これは本当に悪魔から来るのです。
では、同性愛で苦しんでいるすべての人々にあなたはどういう助言をなさいますか。
それを捨てるための力強さを得るために大いに祈りなさい。特に大天使ミカエルに祈るべきです。彼は悪魔に対して並外れて優れた偉大な戦士です。
6.マーリン・キャロザース
雲の間にある虹出版/マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P106
この世には、人が決して手放したがらない「禁断の木の実」がたくさんあります。人々はそれを食べては困難を背負い込み、自分の家族や友人にもその困難を分け与えます。麻薬、ポルノ、同性愛などの悪は、神は人を苦難から解放する義務があるはずだと言う人の確信の裏に隠れていることが多いのです。彼らは言います。「自分たちをこんな者として創られたのは神ではないか。それゆえ我々はこんな生き方しかできないのだ」と。
彼らがそんな生き方をするのを神は止めることはありません。だが、決してそれを受け入れることもありません。聖書にはこう書いてあります。人の生きる道は厳しいが、御言葉に聞き従わない者に祝福はないと。しかし、もし私たちが、神の助けを得て、悪しき習慣を打ち破る努力をするなら、神は私たちを解放してくださいます。神は、サタンが人を誘い込んだすべてのことから、私たちを解き放ちたいと望んでおられるからです。
私が祈ると、神はたくさんの麻薬患者をいやしてくださいました。なぜそんなことが起こったのでしょう? むろん、私に力があったわけではありません! 神がそうしたいと願われたからなのです。神を信じ、神に祈りを捧げるクリスチャンなら、それがだれであっても、神は同じことをなさるでしょう。
7.往生要集
徳間書店/花山勝友訳/源信/往生要集/P56
この大地獄にも、十六の付属の小地獄があります。たとえば、悪見処とよばれる小地獄があります。他人の子供をつかまえて無理に性行為をして泣かせた者が、この地獄に落ちて苦を受けます。この地獄に落ちた罪人が、自分の子供を見ると、地獄に落ちていて、鬼が鉄の杖や鉄の錐(きり)でもって、その子の性器を突き刺したり、鉄の釘を打ち込んでいます。自分の子がこんな苦しみを受けるのを見て、かわいそうという気持ちから、苦しさのあまり気絶してしまうのです。でも、このような子への愛情からの苦しみは、自分が火に焼かれる苦に比べれば、十六分の一にも及びません。
この罪人は、このような心の苦しみを味わったあとで、こんどは自分の身体の苦しみを受けます。すなわち、頭を下にされ、焼けた銅の液を、肛門から注ぎ入れられ、体内の諸器官がすべて焼けただれ、最後に口から出てきます。このように、種々な身体と心との苦しみを受けるのが、数限りないほどの年月のあいだ続きます。
また、多苦悩とよばれる小地獄があります。男でありながら男と性行為を持ったものが、この地獄に落ちて苦を受けるのです。生前関係を持った男を見ると、身体じゅうが炎で包まれているので、その身体を抱くと、自分の身体も焼けて粉々になってしまいます。死んでもすぐに生き返り、恐ろしくなって逃げてゆくと、嶮しいがけの所から下に落ちます。口から炎を出している鳥や狐が、この罪人を食い散らすのです。
天界の秘義6405[2]
仁慈/
なぜならこれらの人物もまた、『ダン』により意味されている者のように、感覚的なものから判断し、かくて正しい判断なしに判断するからである。このことを例をもって説明しよう。凡ゆる者を平等に己が隣人と考え、かくて悪い者にも善い者と同じく益を与え、かくて悪い者に益を与えることによって他の者に危害を加えている者が、そうした行為を繰返しているときは、後にはそれを弁護して、凡ゆる者が自分の隣人であり、その者の性質がどのようなものであるかは、自分の知ったことではない、ただその者に益を与えることのみが大切なことであると言い、かくて彼は正しい判断もなしに、また真理そのものにも反して行動するのである、なぜなら真理そのものは凡ての者は隣人ではあるが、その度は異なっており、善の中にいる者たちは他の者以上に隣人であるということであるからである(2417、3419、3820、5025番を参照)。
天界の秘義2258[3]
それにも拘らず悪い者が地獄に断罪されるのは神的善が神的真理から分離しているためではなく、その人間が自分自身を神的善から分離するためである。なぜならすでに幾度も述べたように、主はいかような場合にも地獄に送られはしないで、その人間が自分自身を地獄に送るからである。以下の点においてもまた神的な善は神的な真理に連結しているのである、すなわち、悪い者が善い者から分離されない限り、悪い者は善い者に危害を加えるのであり、また秩序を破壊しようと絶えず努めるのであり、かくて、善い者が危害を加えられないことが慈悲から発しているのである。これは全く地上の王国と同一である。もし悪が罰せられないならば、その王国全体は悪に感染し、かくて滅亡してしまうであろう、そうした理由から王と審判者[裁判官]とは、悪い者の益を計って不当な寛容を行使することによるよりも、悪を罰し、また悪を犯す者を社会から追放することによってさらに多くの慈悲を示すのである。
天界の秘義761
人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊共のようなものになる。これが人間の実情である。
天界の秘義9348〔6〕
霊的な意義では『罠』は自己への愛と世への愛の歓喜を通して誘惑し、欺くことを意味し、かくて悪の誘惑と欺瞞を意味し、そしてこのことはこれらの歓喜を甘やかす感覚の迷妄〔妄想〕から発した理論を通して行われていることはたれにでも明らかである、なぜなら罠にかけることと落とし穴に陥れることはそれ以外の源泉からは発していないからである。悪魔の一味も人間の中に在る何かこうしたその人間の愛によらなくては攻撃はしないのであり、この愛を彼らはその人間が捕えられるまで凡ゆる可能な方法で歓ばせるのであり、その人間が捕えられると、その人間は真理に反抗して誤謬から論じ、悪から善に反抗して論じるのである。その時彼はまたそのことに満足はしないで、他の者を誤謬と悪へ陥れ、いざなうことに歓びを覚えるのである。彼がまたこうしたことに歓びを感じる理由はその時は彼はその悪魔の一味の一人になっているということである。
10.人々が善いものと真のものとを最早知らなくなり始め、そのことについて互いに論争し、そこから誤謬が起る
天界の秘義3354
これらの事柄から主のこれらの言葉により意味されていることが明らかである、即ち、教会が歪められた最初の状態が意味されていて、それは人々が善いものと真のものとを最早知らなくなり始め、そのことについて互いに論争し、そこから誤謬が起る時生まれるようになるのである。これが最初の状態であるため、『終わりはまだこない』と言われており、また『これらの事柄は悲しみの始まりである』と言われ、この状態が「色々な所の地震」と呼ばれ、それはその内意では一部分の、または最初の教会の状態の変化を意味している。この凡てが弟子たちに言われたことは、それは教会に属している凡ての者に言われていることを意味している、なぜなら十二人の弟子たちは凡てそのような者を表象したからである(2089、2129、2130番)、それで『たれもあなたたちを迷わさないように注意しなさい』と言われているのである。
11.姦淫
黙示録講解1010[4]
これまで姦淫のことが考察されたが、今は姦淫とは何であるかを述べよう。姦淫は婚姻愛を破壊する淫行である。夫が他の者の妻と、または、やもめであれ、処女であれ、または娼婦であれ、女と犯す淫行は結婚に対する嫌悪または反感から行なわれるときは、姦淫であり、同様に妻が結婚した男と、または同じような理由から独身の男と犯す淫行も姦淫である。更に、結婚していない男が他の者の妻と犯す淫行と、結婚していない女が他の者の夫と犯す淫行とは、彼らの心を結婚から姦淫へ向けることにより婚姻を破壊するため、姦淫である。色々な女との歓喜は―たとえ娼婦相手の歓喜であっても―姦淫の歓喜である。なぜなら多様な者を歓ぶ歓喜は結婚の歓喜を破壊するからである。同様に、また、結婚の意図も無しに処女を汚す歓喜も姦淫の歓喜である、なぜならその歓喜の中にいる者らは後には単に処女凌辱のためにのみ結婚を欲し、そのことが行なわれると、結婚を嫌悪するからである。約言すると、婚姻的なものを破壊し、その愛を消滅してしまう淫行は凡て姦淫であり、または姦淫に属しているが、他方婚姻的なものを破壊しない、婚姻愛を消滅してしまいはしない淫行は、結婚を求める性質の或る一種の本能から発生する淫行であり、それには色々な理由から未だ取扱うことは出来ない。
カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約492
貞潔に反するおもな罪にはどのようなものがありますか。
それぞれの対象の性質に応じて、貞潔に著しく反する罪には次のものがあります。すなわち、姦通、自淫(自慰)、私通、ポルノ、売(買)春、強姦、同性愛の行為です。これらの罪は肉欲の悪徳の表れです。これらが未成年者に対してなされるとき、それらの行為は彼らの肉体的、精神的一体性を損なうきわめて重大な侵害となります。
カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約493
第六のおきては「姦淫してはならない」というふうに表現されているのに、貞潔に反するすべての罪を禁じるのはなぜですか。
十戒の聖書のテキストは「姦淫してはならない」(出エジプト20・14)という文言ですが、教会の伝統は旧、新約聖書の道徳的教え全体に従って、第六のおきては貞潔に反するすべての罪を包含すると考えています。
13.姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまう
天界の秘義6666〔3〕
こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終わりが無いなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊まりに染み込み、かくて遂に凡てのものに染み込むように、伝染し、染み込むからである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P90
‘87・12・31
小さな者よ、私を愛するか?
主を限りなく礼拝します 主よ。
そう ヴァッスーラ、私を愛しなさい。 今まで私を愛さなかった分も、私を愛さない人びとの分も、花よ、どの花も光を必要とする その花びらに与える影響を知っていて、娘(こ)よ 悔い改めてくれるか?
(私は過去の分と現下の罪を悔い改めました(*))
*神は 聖体拝領で主をお受けする準備をしておられるのでした。
花よ あなたを赦す、このすべてを心の底から忌み嫌いなさい、不潔を嫌いなさい(*) これはソドムの悪徳であった ♡♡
*霊魂の不潔。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P149
‘89・3・29
コーテテル(JU)(スイスの北)の集会に際して与えられたメッセージ
♡ 私、あなたの聖なる者は、苦しみを負い からだは この暗やみの世の 不従順、不潔と罪によって 引き裂かれている! ああ 被造物よ! 我が苦しみの叫びは、天使たちが打ちふるえて ひれ伏し、天全体を揺れ動かす。 私の声はまだ 届いていないか、我が娘息子たちよ? 天からの我が叫びに対し あなた方の聞こえない耳に 悪魔たちでさえ 唖然としている・・・血の涙に 目は溢れ、夜昼と、何時間も、あなたを待ち続けている、我が霊を 永遠に拒むのか? 憩う牧場が一つもなく、走って行って生き返らせてくれる泉も 一つとない、この荒れ果てた荒野に 我が声はこだまする。 私はいにしえの牧場に 天の玉座から降って来たが そこは粗末にされ 不毛と化していた、愛を込め 手ずから植えた花は、一つまた一つと 枯れていき、花床は荒れ果て 干からびている、泉はもう空の、ほこりっぽい、暗い穴に過ぎず、毒蛇の巣となった ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P209
‘90・8・5−29 ― 十誡 ― ロードス島にて
安息日を聖とするように覚えておきなさい と求めた、だがあなた方は不潔をもってそれを逆転させ 自らの身体や精神を辱しめる醜悪な楽しみや習慣によって汚した それは神聖な真理を偽りとして手放し 私に仕える代わりに被造物を拝み それに仕えたからです。 ソドムとゴモラもあなた方の不潔と比べたなら 殆ど無垢で清く見える。 まことに言う、その日には ソドムとゴモラのほうがあなた方より軽い咎めで済まされよう、あなた方の殆どは安息日を守っていない、そう、我が掟を守ってはいない・・・
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P213
‘90・8・5−29の続き ― 十戒 ― ロードス島にて
私は地上の王たちを治めているが あなた方にはどのような不潔な行為も 姦通も犯さないように頼んだ。サタンは姦淫を上品な衣でまとい、位階制度の中 一般信徒両方の間で その意味を失わせた ♡ もうこれ以上はあなた方の罪を耐え忍ばない。 サタンの恥ずべき権力を追い求め それを旗じるしに我が神聖と聖性 および聖なる生けにえを廃止しようとする者たち(*6)に対しては、こう言う: 神を持たない人たちの間で 私の名が冒涜されている責めはあなた方にある ♡ 卑しい情念を持つ堕落した者たちを叙階して 私の聖所を汚した。 そこでたとえ神不在の人たちが今日姦淫を犯し 自然のことと見なすとしても それは真理を曲げようと企む獣の指示による 教会内の大いなる放任主義が原因です。 あなた方の身体が我が神秘体の一部であると どうしてそう簡単に忘れてしまうか? あなた方の身体は我が聖霊の神殿なるがゆえに 倒錯から自由であってほしい ♡ 私、あなたの神は、聖であるがゆえに聖なる生活を送っているのを見たい
15.姦淫はそれが悪魔性そのものとも呼ばれても良いほどにも大きな悪
静思社/柳瀬芳意訳/イマヌエル・スエデンボルグ/生命74
第六の(または普通第七のと呼ばれている)戒めに記されている『姦淫を行う』ことは、その自然的な意義では、淫行を行うことのみではなく、淫猥なことを行い、みだらなことを話し、また汚らわしいことを考えることを意味している。しかし霊的な意義では『姦淫を行う』ことは聖言の善を不善化し、その真理を誤謬化することを意味している。その最高の意義では『姦淫を行う』ことは主の神性を否定し、聖言を冒瀆することを意味している。これらが『凡ゆる種類の姦淫』である。自然的な人は、『姦淫を行う』ことは淫猥なことを為すこと、淫らなことを話すこと、汚らわしいことを考えることをその意味に含んでいることを合理的な光から知ることは出来るが、姦淫を犯すことはまた聖言の善を不善化し、その真理を誤謬化することを意味していることは知らないし、ましてそれは主の神性を否定することを、聖言を冒瀆することを意味していることは知らない。従って彼はまた姦淫はそれが悪魔性そのものとも呼ばれても良いほどにも大きな悪であることを知らない、なぜなら自然的な姦淫を犯しているからである。それがそうであることは『結婚について』と題された特別の小著に示されるであろう。しかし己が信仰と生活から姦淫を罪として認めていない者らは同時に凡ゆる種類の姦淫を犯しているのである。
生命77
「この凡てから私たちは、ある人間が基督教徒であるか、否かを、実にある人間が何らかの宗教を持っているか、否かを、明確に結論もし、また認めることが出来るのである。もしある人間がその信仰から、またその生活から姦淫を罪として認めないなら、そのときはその者は基督教徒ではないし、また宗教も何ら持ってはいないのである。他方、もし人が姦淫を罪として避けるなら、特にそうした理由からそれに反感を覚えるなら、更に特にそうした理由からそれを忌み嫌うならば、そのときはその者は宗教を持っており、もしその者が基督教会にいるならばその者は基督教徒なのである。
(しかしこのことについては『結婚について』と題された小著に更に多くのことを参照することが出来よう、それまではこのことについて『天界と地獄』を取扱った著作に言われたことを参照されよ、366−368)。
16.信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくる
天界の秘義8904〔2〕
信仰が無い所には、真理に代って誤謬が在り、善に代って悪が在り、そこから姦淫が最早犯罪としては認められはしないという結果が流れ出てくるのである。なぜなら人間のもとには天界が閉じられると、そうしたものが地獄から流れ入ってくるからである。(この主題について前に述べ、また示したことを参照されたい、2727−2759、4434、4835、4837番)。