裁判官における仁慈

 

 

 

 

申命記16・18−20

 

あなたの神、主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁きをもって民を裁かせなさい。 裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。 ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。

 

 

 

静思社/柳瀬芳意訳/イマヌエル・スエデンボルグ/仁慈の教義163(4)

 

もし彼らが主に目を注ぎ、悪を罪として避けて、公正な判決を下すなら、彼らは仁慈の形となるのである。なぜなら彼らは共同体にも共同体の個人にも、かくて隣人に、用の善を行うからである。そして彼らは裁判をする時も、裁判をしていない時も、絶えずそのことを行っているのである、なぜなら彼らは公正に考え、公正に語り、また公正に行うからである。なぜなら公正は彼らの情愛のものであり、霊的な意義ではそれが隣人であるからである。このような裁判官は凡ゆる訴訟事件を公正なものから判決すると同時に、公平からも判決するのである、なぜならそれらは分離されることは出来ないからである。そしてその時は彼は法律に従って裁判するのである。なぜなら法律はすべてその両方のもの(公正と公平)をその目的としているからであり、それで狡猾な人間がその法律の意義を歪めようと努めるときは、彼はその訴訟を終らせてしまうのである。裁判において、友情を、または贈与を、または血縁関係を、または権威を顧慮し、または法律に従って生きている者はことごとく庇護されなくてはならないということ以外のことを顧慮することを彼は罪であると考えるのであり、また彼は例え彼が公正に裁判して、公正が第一位に立たないで、第二位に立っているにしても、それをそのようなものであると考えるのである。公正な裁判官の判決はすべて、例え彼は邪悪な犯罪者に罰金を、または刑罰を課するにしても、仁慈のものである、なぜなら彼は彼らを矯正し、彼らが隣人である無垢な者たちに悪を行わないように警戒するからである。彼は実に父のようなものであり、父は、もしその子供たちを愛しているなら、もしその子供らが悪を行うなら、彼らを手厳しく折檻するのである。

 

 

 

天界の秘義2258[3]

 

それにも拘らず悪い者が地獄に断罪されるのは神的善が神的真理から分離しているためではなく、その人間が自分自身を神的善から分離するためである。なぜならすでに幾度も述べたように、主はいかような場合にも地獄に送られはしないで、その人間が自分自身を地獄に送るからである。以下の点においてもまた神的な善は神的な真理に連結しているのである、すなわち、悪い者が善い者から分離されない限り、悪い者は善い者に危害を加えるのであり、また秩序を破壊しようと絶えず努めるのであり、かくて、善い者が危害を加えられないことが慈悲から発しているのである。これは全く地上の王国と同一である。もし悪が罰せられないならば、その王国全体は悪に感染し、かくて滅亡してしまうであろう、そうした理由から王と審判者[裁判官]とは、悪い者の益を計って不当な寛容を行使することによるよりも、悪を罰し、また悪を犯す者を社会から追放することによってさらに多くの慈悲を示すのである。

 

 

 

天界の秘義4730[3]

 

 しかしもしこれらの人々が隣人に対する仁慈の何であるかを知ったなら、彼らは決してこうした教義の誤謬に陥りはしなかったであろう。仁慈の根本的なものとは自己の義務または職業に属している凡ゆる事柄において正しくまた公正に行動することである―例えば、裁判官である者が悪を行った者を法律に従って罰し、しかもそれを熱意から行うなら、彼はそのときは隣人愛に生きているのである、なぜなら彼はその者が矯正されることを欲しており、かくてその者の善を欲しており、また社会と国家とがその悪を行った者からさらに危害を受けないようにと、その社会と国家とに良かれと願っているのである、かくて彼は、父がその懲らしめる息子を愛しているように、その者をもしその者が矯正されるなら愛し、かくして彼は社会とその国家とを愛しているのである、なぜならその社会と国家とは彼にとっては全般的な隣人であるからである。

 

 

 

天界の秘義8223[]

 

悪霊が善良な者に悪を加えようと欲するとき、痛ましい刑罰を受け、他の者に加えようと意図したその悪がその者自身に帰ってくることが再三他生で起こっているのである。その時はそれはそれが恰も善良な者により復讐であるかのように見えるが、しかしそれは復讐ではなく、また善良な者から発していないで、悪い者から発しており、その悪い者にそのとき秩序の法則から機会が与えられるのである。 否、善良な者は彼らに悪を欲しはしないが、それでも刑罰の悪は取り去ることは出来ないのである。それは彼らはそのとき善い意図の中に留めおかれているためである―それは丁度犯罪人が罰せられるのを見るときの裁判官にも似ており、または自分の息子がその教師から罰せられるのを見るときの父にも似ているのである。刑罰を加える悪い者はそれを悪を行う欲念から為すが、しかし善良な者は善を行う情愛からそれを為すのである。この凡てから、前のような、マタイ伝の、敵に対する愛に関わる主の言葉の意味と、主から廃止されはないで、説明をされた報復の律法に関わる主の御言葉の意味を認めることが出来よう。即ち、天界的な愛の中にいる者たちは報復、または復讐に歓喜を覚えてはならず、益を与えることにそれを覚えなくてはならないのであり、また善いものを守る秩序の法則そのものは、悪い者らを通して、それをその法則そのものから遂行しているのである。

 

 

 

 

あかし書房/フェデリコ・バルバロ訳編/マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P74

 

固く辛い言葉は、悔い改めようとしない罪人のためのものです。