ソドム

 

同性愛

 

 

1.聖書

2.悪の欲念

3.男色者、鶏姦者

 

 

1.聖書

 

 

ユダ7

 

ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。

 

 

 

 

新共同訳聖書コンコルダンスP396

 

ソドム・・・ヨルダンのシディムの谷の町

 

 

 

 

2.悪の欲念

 

 

天界の秘義1212

 

「ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムにきて、レシャにさえもたっした」。これらはその知識の終局となっている誤謬と悪とを意味していることは聖言の歴史的な部分と予言的な部分におけるその言葉の意義から認めることができよう。全般的に誤謬には二つの起源があり、一つは自己と世を求める愛に属した欲念であり、他は理論を通して働く知識 (cogniotines et scientifika) であり、このようにして発生してくる誤謬が諸真理を制圧しようとするとき、その誤謬が『ソドムとゴモラとアデマとゼボイム』により意味されるのである。誤謬と誤謬から発した悪とが内なる礼拝を欠いた外なる礼拝の境界であることはたれでも認めることができよう。こうした礼拝には死んだもの以外には何ものもない、それでこうした礼拝の中にいる人間は何処に身を向けても、誤謬に陥るのである。彼を真理の道に導き、そこに留めておく内的なものは一つとしてなく、ただ外なるもののみがあって、それが彼を欲念と幻想とに導かれるままに何処へなりと連れ去って行くのである。ソドムとゴモラとアデマとゼボイムは聖言の歴史的な部分にも記されているため、その各々のものにより特に意味されていることは主の神的慈悲の下にそこに説明されるであろう。

 

 

 

天界の秘義1587

 

「エホバがソドムとゴモラとを滅ばされた前で」。これは悪の欲念と誤謬の確信[信念]により破壊された外なる人を意味していることは以下から明白である、すなわち『ソドム』の意義は悪の欲念であり、『ゴモラ』の意義は誤謬の確信[信念]である、なぜならこの二つのものは外なる人を破壊して、それを内なる人から分離するものであり、またこの二つのものは洪水以前の最古代教会を破滅させたものであったからである。悪の欲念は意志に属し、誤謬の確信[信念]は理解に属していて、この二つのものが支配するとき、外なる人はすべて破壊され、そしてそれが破壊されると、それはまた内なる人から分離してしまうのである。霊魂または霊は身体から分離するのではなく、善と真理とが人間の霊魂または霊から分離されて、遠方からしか流入しなくなるのである。この流入については主の神的慈悲の下に他のところで述べよう。そして外なる人が人類の中にそのように破壊され、その外なる人と内なる人との、すなわち、善と真理とのきずなが破壊されてしまったため、主はその外なる人を内なる人に、すなわち、人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られたのである。

 

 

 

天界の秘義2220

 

『ソドム』は自己愛から発したあらゆる悪を全般的に意味しており、『ゴモラ』はそこから発した誤謬を意味

 

 

 

天界の秘義2239

 

「ソドムとゴモラの叫び声が大きくなったためであり、またかれらの罪が極めて甚だしくなったためである」。これは自己愛の誤謬と悪とが増大して終局にさえも至ったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『ソドム』の意義は自己愛から発した悪であり、『ゴモラ』の意義は誤謬であり、『罪』の意義は悪であり(そのことは間もなく説明しよう)、このすべてから、その『叫びが大きくなって、罪が極めて甚だしくなったこと』が誤謬と悪とがその頂点に、即ち終局に達したことを意味していることが明白である。

 

 

 

天界の秘義2246

 

「彼らはソドムの方へ行った」。これは、人類がこうした大いなる悪の中にいるものとしてその人類について考えられたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『ソドム』の意義は自己愛から発した愛であり、(前の2220番を参照)、また『ソドムの顔〔正面〕の方を眺めること』の意義は、人類の状態の方を、である(2219番)。『ソドム』がこうした大いなる悪の中にいる人類の状態を意味しているのは『ソドム』によりソドムが意味されてはいないで、自己愛の中にいる全世界のすべての者が意味されており、ソドムを記すことによって、以下の記事から明白であるように、その悪の中にいるすべての者の状態が意味されているためである。自己愛は凡ゆる悪の源泉であり、かくて悪そのものであることは、そのことについて前に(2045、2057、2219番)、言われもし、示されもしたことから明白であり、それで彼らはこうした大いなる悪の中にいたとここに言われている。

 

 

 

天界の秘義2322

 

 『ソドム』は悪い者を、とくに教会の中の悪い者を意味していることは、『ソドム』の意義が自己愛の悪であり(2220、2246番を参照)、従ってその悪の中にいる者であることから明白である。文字の意義にのみ従って聖言に近づく者は、『ソドム』により自然の秩序に反した醜いものが意味されていると考えるであろうが、しかしその内意では『ソドム』により自己愛の悪が意味されているのである。この悪からあらゆる種類のあらゆる悪が噴出しており、自己愛の悪から発している悪は聖言では『姦淫』と呼ばれ、またその言葉により記されてもおり、そのことは本章の終わりに引用される聖言の記事から明白となるであろう。

 

 

 

 

3.男色者、鶏姦者

 

 

極悪の交情〔友情〕について

霊界日記1977

 

 私がこうした者らを待っている刑罰の種類について尋ねた際、彼らは極めて激しく罰しられると言われはしたが、しかし彼らはその刑罰の性質は洩らそうとはしないで、単に、それは極度に激しいものであって、彼らが、生きていない、すなわち、殆ど生きていることを意識しない、そうした汚れた行為と忌まわしいことをやってのけたことを完全に忘れてしまう心の状態へ追いやられる、とのみ言ったにすぎなかった。なぜなら彼らは神聖を装って混乱を引き起こし、同じ仮面の下に、人類を生み出すという目的である普遍的な、主要な目的を消滅させるからである。こうした混乱からは痛ましい刑罰が生まれないわけにはいかないのであり、その霊的な生命の、謂わば、消滅が生まれないわけにはいかないのである。実に、彼らはソドムの輩とは、余り隔たってはいないのである、それでこうした生活行路を自らに意識している者らは警戒されたい、なぜなら彼らは他生では容赦されはしないからである。1748年〔60歳〕5月16日。

 

 

 

ソドム的なものについて

霊界日記2675

 

 他生には生涯の間ソドムの罪を犯した者たちがいる。これらの者は死後の生命について何一つ信じはしなかったし、地獄と天界とが在ることも信じはしなかったし、自分らは全く獣のようなものであって、獣のように死んでしまうと信じたのであり、それで彼らはたとえ論じる〔推理する〕ことは出来るものの、知的な原理は何ら得てはいないのである。他生では彼らは極めて悲惨な処置にさらされ、奈落の拷問で罰しられるが、それは描写出来ないほどにも恐ろしいものであり、さらに彼らは排泄物〔糞便〕の在る尾の領域を構成している、すなわち、彼らは糞であり、便所に住んでいるからである。

 

 

 

クェーカ教徒について

霊界日記3768

 彼ら(クェーカ教徒の霊のこと)は、そのこと(妻の共有、同衾のこと)はいかに忌まわしいことであることか、と言われた、なぜなら四つよりは少なくはないけしからぬ無法なことがその行為の中に共に働いているからである、先ず、妻を共有することは最も唾棄すべき姦淫を伴っており、第二に、彼らはそのことを神聖の仮面の下に行い、聖いものを最も冒涜的なものの間におき、悪魔は追い出されたと見せかけている間に、悪魔は実際入り込んでおり、第三に、彼らは、このように罪は赦されたと言うことにより良心の拘束をことごとくゆるめてしまい、彼らがたれ一人未だ考え付くことも出来ない下劣なくずとなっていることはそのことに起因しており、第四に、かくて霊どもは人間を通してその人間の女と交渉を持つのである、なぜなら霊らは形体的な事柄においては、例えば、話したり、食べたり、歩いたり、婚姻の関係を持ったりすることにおいて人間の役割を演じるほどには人間を決して支配はしないのであり、こうした事は共通の〔全般的な〕努力から流れ入っていて、彼らは専ら思考へ欲念へ働きかけはするが、決してこうした形体的な事柄へは働きかけはしないからである、それでこうした同衾はソドム人のそれよりも遥かに忌まわしいのである―こうした凡てのことが自分は聖霊であると言っている彼らのそうした霊らに今言われているが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これに対し彼らは何ら答えはしないし、また答えることも出来ないのである。以下のことを知ることも与えられたのである、すなわち、彼らが女と同衾している際に、殆ど何らの知覚も覚えないで、殆ど我を忘れるほどにも彼らの聖霊により操られるのである。ここからまた彼らはその女たちが聖霊を得たか否かを、すなわち、その女たちが悪魔を手に入れたとき、結論づけるのである。これが彼らの聖餐の秘蹟であるが、その真理を彼らは斥けており、そのことがまた私に表象されたのである。

 

 

 

霊界日記3796

 

彼ら(クェーカ教徒の霊のこと)は狡猾にも、妻を共有しても子孫の繁殖は依然起っている、と暗示した。しかしソドムの人々の間にも同じように子孫は繁殖したが、しかしそれはいかに嫌悪すべきものであるかは、あなたらは充分に知っているのである、と答えられた。1748年〔60歳〕11月1日。

 

 

 

淫行と姦淫とを引き起こす多くのものが在ることについて

霊界日記5939

 

 凡ゆる度の犯罪は霊的な罪であるようなものに相応している。私は二つのものを述べよう。信仰のみの中にいて、生命については心を煩わしはしない者らは、叔母とまた母との姦淫を引き起こすのである。こうした霊らがその場に現れてくると、こうした思いが起ってくる。教会では敬虔に献身して礼拝し、そうした時に神についてのみ専ら考えはするが、生命〔生活〕については考えはしない者ら、こうした者らには姉妹との姦淫が相応しているのである。そうした思いが彼らがその場に現れてくると起ってくるのである。他の忌まわしい姦淫は、神について大いに話しはするものの、人を欺くことについては、また人の財産を盗み取ることについては―そうしたことが可能であるなら、そのことについては―何のためらいも覚えない者らによりもたらされるのである。こうした者らは、その立場で、その女中と姦淫を犯し、その女中を頻繁に変え、またたれであれその欲する者と姦淫を犯すのである。自己を愛し、他の者たちを支配することを求めている者らはソドムの輩(*)である。

 

*「ソドム人の輩」とは「男色者、鶏姦者」のこと。