口に入るものは人を汚さず、口から

出て来るものが人を汚すのである

(マタイ15・11)

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入る

4.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ15・10−20

                      

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

 

 

マルコ7・14−22

 

 それから、イエスは再び群集を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群集と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て汚すのである。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1003

 

 これらの事から『肉をその魂と共に、その血と共に食べないこと』は汚れた物を聖いものと混合しないことであることが今や明白である。主はマタイ伝に明白に教えられているように、人間が肉と共に血を食べることによっては汚れた物が聖いものとは混合しないのである―

 

口に入るものは人を汚さない、口から出るもの、それが人を汚すのである、口から出るものは心から出るからである(マタイ15・11、18−20)。

 

 しかしユダヤ教会では、すでに言ったように、血を肉と共に食うことにより天界では冒涜が表象されたため、そのことは禁じられたのである。その教会で行われた事は凡て天界ではそれに相応した表象物に変化したのである。即ち、血は聖い天的なものに、生贄意外の肉は欲念を意味したため、汚れたものに、その両方を食べることは聖いものと汚れたものとを混合することに変ったのである。こうした理由からそれは当時極めて厳格に禁じられたのである。しかし主が来られた後、外なる祭儀が禁止され、かくて表象物が存在しなくなった時、このような物は最早天界でそれに相応した表象物に変化しなくなったのである。何故なら人間が内なるものになり、内なる事柄について教えられる時、外なる物は、彼には何ら顧みられなくなるからである。その時彼は聖いものの何であるかを知るのである、即ち、仁慈とそこから発した信仰を知るのである。その時これらのものに応じて、彼の外なる物が顧慮されるのである、即ち、その外なる物の中に在る主に対する仁慈と信仰との量に応じて顧慮されるのである。それ故主が来られてからは、人間は天界では外なる物から顧慮されないで、内なるものから顧慮されている。そしてもしたれかが外なる物から顧慮されるならば、それは彼が単純であって、その単純さの中には無垢と仁慈が在り、その無垢と仁慈がその人間に知られないままに、主から発して、彼の外なる物の中に、即ち、彼らの外なる礼拝の中に存在しているためである。

 

 

 

天界の秘義4151[6]

 

 これが実情であることは世から他生へ入って間もない霊たちにひんぱんに示されている。しかしその霊たちのある者はもし悪と誤謬もまたすべて流れ入ってくるなら、悪と誤謬とは一つとして彼らに帰せられることはできない、それらは他の源泉から来ているため、彼らは過ってはいないと言ったのである。しかし彼らは以下のように答えられた、すなわち彼らは彼ら自身で考え、意志していると信じることにより悪と誤謬とを己がものとしてしまったのであり、それに反し、もし彼らがまことに実情のあるがままに信じたなら、そのときは彼らは悪と誤謬とを己がものとはしなかったであろう、なぜなら彼らは善と真理とはすべて主から発していることを信じたであろうし、もし彼らがそのことを信じたなら、彼らは彼ら自身が主により導かれるのに甘んじたであろうし、それで異なった状態の中にいたであろう、またそのときは彼らの思いと意志とに入った悪は彼らを動かしはしなかったであろうから、なぜなら悪ではなくて善が彼らから発したであろうから、なぜならわたしたちを動かすものは入ってくるものではなくて、発するものであるからであり、それはマルコ伝7・15の主からの御言葉に従っているのである。

 

 

 

天界の秘義6308

 

しかし善の中にいる者たちはそれを知ることができるのであり、彼らはまた聖言から以下のことを知っているのである、すなわち、彼らの内部には彼らのもとで悪と誤謬とに反抗して戦うものがあり、霊的な人は自然的な人と戦っており、かくて天使たちは、人間の内部の中に、また人間の霊的なものの中にいて、人間の外部の中に、また人間の自然的なものの中にいる悪霊らと戦っており、教会が戦闘的なものと呼ばれているのはまたこのことから発しているのである。しかし悪霊らから思考の中へ流れ入っている悪は、もしその人間がその悪を受け入れないなら、その人間に何の害も与えないが、しかし彼がそれを受け入れて、それをその思いから意志の中へ移すなら、彼はそれを彼自身のものとするのであり、そのときは彼は奈落の霊らの側について、天界の天使たちから遠ざかってしまうのである。このことが主が、人間の中へ入ってくるものは人間を汚しはしないが、人間から出るものは、心から、すなわち、意志から出てくるため、人間を汚すと言われるとき、教えておられる事柄である(マルコ7・14−23)。

 

 

 

天界の秘義7437

 

「見なさい、彼は水のほとりへ出かけて行きます」。これは、こうした悪から彼らは再び誤謬を考えることを意味していることは以下から明白である、即ち、『出かけて行くこと』の意義は悪から誤謬に進む思いであり―なぜなら悪の中にいる者らが悪から誤謬を考える時は、彼らは『出かけて行く』と言われるからである、なぜなら悪は意志に属しているため、それは最も内なるものであり、誤謬はその外側に在るからである、それは誤謬は理解に属し、従って思考に属しているためである、こうしたことが『出て行くこと』の霊的意義に意味されており、またマルコ7・21−23のように、悪い意志から発した悪い行為も意味されており、『水』の意義は真理であり、その対立した意義では誤謬であり(739、790、2702、3058、3424、4676、5668番を参照)、またパロがそのもとへ出かけて行こうとしているエジプトの川の水は誤謬を意味しているためである(7307番)。

 

 

 

天界の秘義8910

 

「あなたはあなたの隣人の家をむさぼってはならない、あなたはあなたの隣人の妻を、その僕を、その婢を、その牛を、そのろばを、なんであれ、あなたの隣人のものをむさぼってはならない」。これは自己と世への愛を警戒しなくてはならない、かくて前の戒めに含まれている悪が意志のものとなって、現れて出ないように警戒しなくてはならないことを意味していることは、『むさぼること(concupiscere)』の意義から明白であり、それは悪い愛から意志する[欲する]ことである。『むさぼること』にこの意義があることは、欲念はすべて何らかの愛から生まれているためである、なぜなら何一つもしそれが愛されないかぎりむさぼられないのであり、それで欲念(または『むさぼること』)は愛から『連続しているもの』であり、この場合、自己または世への愛から連続しているものであり、その呼吸している生命のようなものであるからである。なぜなら悪い愛が呼吸しているものは『欲念』と呼ばれるが、善い愛が呼吸しているものは、『願望』と呼ばれるからである。愛そのものは意志と呼ばれている心の他の部分に属している、なぜなら何であれ人はその愛しているものを意志もする[欲しもする]からである、しかし欲念は、それは元来理解の中にある意志のものではあるが、意志にも理解にも属している。この凡てから『あなたはあなたの隣人のものをむさぼってはならない』により、人間はそうしたものが意志のものとならないように警戒しなくてはならないことが意味されていることが何処から発してくるかが明白である、なぜなら意志は人間そのものであるため、意志のものとなるものはその人間のものとなるからである。

 

 

 

天界の秘義8910[2]

 

思考[考え]が人間であると世では信じられているが、しかし人間の生命を構成している二つのもの、理解と意志が存在しているのである。理解に思考が、意志には愛から生まれる情愛が属している。愛から生まれている情愛を欠いた思考は人間のもとに何ら生命を作ってはいないが、愛から生まれた情愛から発した思考が、かくて意志から発した思考が生命を作るのである。この二つは互いに他から明確に区別されていることは、以下の事実から、(そのことを)反省する者にはすべて明らかである、すなわち、人間はその意志している[欲している]ことが悪であり、また意志している、または意志していないことが善であることを理解もし、認めも出来るのであり、そのことから意志は人間そのものであるが、しかし思考は、その中へ何かが意志から発して、入っていない限り、人間そのものではないことが明らかである。ここから人間の思考の中へ入りはするが、思考を経て意志の中へ入らないものは人間を汚さないのであり、思考を経て意志の中へ入るものが人間を汚すのである。この後のものが、それがそのとき人間に所有されて、人間のものとなるため、人間を汚すのである、なぜなら前に言ったように、意志が人間そのものであるからである。意志のものとなるものはその心の中へ入って、そこから現れてくると言われているに反し、思考のみに属しているものは―マタイ伝の主の御言葉によると―口の中は入りはするが、腹を通って厠へ落ちると言われている―

 

 口の中へ入るものが人間を汚すのではなく、口から出てくるもの、それが人間を汚すのである。何であれ口へ入るものは腹の中へ入り、厠へ棄てられるのである。しかし口から出てくるものは心から出てきて、それが人間を汚すのである。なぜなら心から悪い思いが、殺人が、姦淫が、私通が、窃盗が、偽証が、涜神[冒涜]が現れてくるからである(15・11、17、19)。

 

 

 

天界の秘義8910[3]

 

主の御言葉はいかような性質のものであったかは、これらの言葉から、他の凡てのその御言葉からも明らかになるように明らかになるのである、すなわち、内なる霊的な事柄が意味されていたのであるが、しかしそれは外なる、または自然的な事柄により表現されたのであり、しかもそれは相応に従っていたのである、なぜなら口は思考に相応しており、同じくまたくちびる、舌、のどといった口にぞくしたものもすべて思考に相応しており、心[心臓]は愛から生まれる情愛に相応し、かくて意志に相応しているからである(心がこれらのものに相応していることについては、2930、3313、3883−3896、7542番を参照)。従って『口に入ること』は思考に入ることを意味し、『心から出てくること』は、意志から発してくることを意味し、『腹に入って、厠(または便所)へ落ちること』は地獄へ投げこまれることである、なぜなら腹は地獄にいたる道に相応し、厠または便所は地獄に相応しているからであり、地獄は聖言ではまたそのように呼ばれているものである。このことから『何であれ口に入るものは凡て腹に入って、厠へ捨てられる』により意味されていることが明らかであり、すなわち、悪と誤謬とは地獄から人間の思考の中へ注ぎこまれるが、しかし再びそこへ送り帰されることが明らかである。これらのものは送り返されるため、人間を汚すことはできない、なぜなら人間は悪を考えることは避けることはできないが、しかしそれを行うことは避けることができるからである。しかしかれが悪を思考から意志の中へ受けるとすぐに、それはそのときはかれから出て行きはしないで、かれの中へ入るのであり、そのことが『心から出てくること』と呼ばれているのである。そこから出てくるものがかれを汚すことは、人間が意志する[欲する]ものは、法律に対する恐れ、名声、名誉、利得、生命を失いはしないかとの恐れという外なる拘束物で抑えられないかぎり、言葉となり、行為ともなるためである。この凡てから『あなたはむさぼってはならない』により人は悪が意志のものとなって、現れてこないように警戒しなくてはならないことが意味されていることが今や明白である。

 

 

 

天界の秘義8910[4]

 

欲念(または『むさぼること』)が意志に属し、かくて心に属していることもまたマタイ伝の主の以下の御言葉から明白である―

 

 あなたは姦淫を行ってはならない、と昔の者たちが言われたことをあなたらは聞いているが、しかしわたしはあなたらに言う、もしたれかが自分のものでない女を眺めて、これに色情を抱くなら、心ですでにその女と姦淫を行ったのである(5・27,28)。

 

『色情を抱くこと』によりここでは意志する[欲する]ことが意味され、(外なる拘束物である)恐怖により抑制されない限り、行うことが意味されている、ここから『女を眺めて、これに色情を抱く者は心でその女と姦淫を犯している』と言われている。

 

 

 

天界の秘義8910[5]

 

マタイ伝の主の御言葉の中にもまた悪の欲念が『つまづかせる右の目』により意味され、誤謬の欲念が『つまづかせる右の手』により意味されているのである。

 

もしあなたの右の目があなたをつまづかせるなら、それをくじり出して、投げすてなさい、あなたの肢体の一つが滅んで、全身がゲヘナに投げこまれない方があなたにはまさっているからである。もし右の手があなたをつまづかせるなら、それを切りとり、投げすてなさい。あなたの肢体の一つが滅んで、全身がゲヘナに投げこまれない方があなたにはまさっているからである(5・29,30)

 

 これらの言葉から主はいかように話されたかが、すなわち、聖言の他の凡ゆる所と同じく、神的なものから話されたことが再び明白であり、かくて主は内なる天界的な事柄を相応に従って外なる、または自然的な物により表現されたのであり、ここでは悪の情愛または悪の欲念を『つまづかせる右の目』により、誤謬の情愛または誤謬の欲念を『つまづかせる右の手』により表現されたのである、なぜなら目は信仰に、左の目は信仰の真理に、右の目は信仰の善に相応し、その対立した意義では信仰から生まれた悪に相応しており、かくて『つまづかせる右の目』はその欲念に相応しているからである(4403−4421、4523−4534)。しかし手は真理にぞくした力に、右の手は善から発した真理の力に相応し、その対立した意義では悪から発した誤謬の力に相応し、かくて『つまづかせる右の手』はその欲念に相応しているのである(3091、3563、4931−4937、8281番)。

 

『ゲヘナ』は欲念の地獄を意味している。たれでもこの記事には『右の目』により右の目が意味されてはおらず、目をくじり出すことも意味されておらず、また『右の手』により右の手が意味されてはおらず、それを切りとらなくてはならないことも意味されてはいないで、他の何かが意味されており、その何かは『目』により、とくに『右の目』により意味されていることが知られないかぎり、また『手』により、とくに『右の手』により意味されていることが、同じく『つまづきを与えること』により意味されていることが知られないかぎり知られることはできないのであり、これらの表現により意味されていることは内意によらなくては知られることもできないのである。

 

 

 

天界の秘義8910[6]

 

欲念は悪い意志から発し、かくて悪い心から発し、また意志からは、マタイ伝15・19の主の御言葉に従って、殺人、姦淫、私通、窃盗、偽証が発し、かくて十戒の前の戒めに含まれているようなものが発してくるため、それで『隣人のものであるそれらの物をむさぼらないこと』により、前の戒めに含まれている悪が意志のものとなって、現れてこないように警戒しなくてはならないことが意味されていると言ったのである。『隣人のものであるそれらの物をむさぼらないこと』により自己と世を求める愛を警戒しなくてはならないことが意味されていることは欲念の悪は凡てこれらの悪からそれをその源泉として発生しているためである(2045、7178、7255、7366−7377、7488、8318、8678番を参照)。

 

 

 

 

3.悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入る

 

 

天界の秘義6204

 

悪は地獄から絶えず注ぎ入れられており、またそれは絶えず天使たちによりはね返されているため、思考に入ってくる悪は人間に何ら害を与えはしないことを知られたい。しかし悪が意志へ入るとそのときはそれは害を与えるのである。なぜならそのときはそれは外なる束縛により抑えられないときは常に行為へと進むからである。悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入るのである。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館/第5巻上/P57

 

立ち上がっていたイエズスは再び座り、がいる場所へ皆入るようにと出席者たちに合図し、彼らに言う、「皆さん、聞きなさい、そしてこの真理を理解しなさい。人間のうちに入って彼を汚染することの出来るのは人間以外に何もありません。でも人間から出るもの、これが汚染するのです。理解する耳を持つ者は理解しなさい。そして理解するために理性を、実行するために意志を用いなさい。さあ、出発しましょう。ナインのあなたたちは善行を根気強く続けなさい。わたしの平和は常に皆さんと共に」。