第4誡

なんじ、父母を敬うべし。

 

十戒(出エジプト20)

養父・養母尊敬敬愛愛国心

老人を愛し、敬う人は祝福を受ける

 

 

 

1.自然的意義:両親を敬い、感謝すること。王と長官を敬うこと、祖国を愛すること。

2.霊的意義:神と教会とを尊び、愛すること

3.天的意義:主イエス・キリストと主の教会

4.黙示録講解

5.マリア・ワルトルタ

6.父と母を敬うことは内意では善と真理を愛することであり、善と真理の中に主を愛すること

 

 

 

 

出エジプト記20・12

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

 

 

 

詩篇27・10

 

父母はわたしを見捨てようとも

主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

 

 

 

マタイ15・4−6

 

神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

 

 

 

マルコ7・9−13

 

更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

 

 

 

マルコ10・17−31

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

 

 

エフェソ6・1−3

 

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。

 

 

 

 

1:自然的意義:両親を敬い、感謝すること。孤児は保護者を敬うこと。王と長官を敬うこと、祖国を愛すること。

 

真の基督教305

 

「汝の父母を敬え、これは地に汝の生命の長く、幸福ならんがためなり」。

 

「自然的な意義では」それは子供たちが彼らの両親を敬い、これに従い、彼らに注意し、恩恵を感謝しなくてはならないことを意味している。何故なら、彼らの両親は、彼らが善良な市民として行動するために彼らを養い、これに着物を着せ、人生に彼らを旅立たせ、宗教の教訓によって彼らに天界への備えをさせるからである。

 

かく両親はその子のため、一時的な繁栄と永遠の幸福を備えるが、彼らはその凡てを彼らの中に主によって―この主のために彼らは行動するのであるが―植えつけられている愛によって為すのである。これに関連した意義ではこの誡命は、孤児はその保護者を敬わねばならぬことを意味している。

 

さらに、広い意義では、それは人間は王と長官を敬わねばならないことを意味している。それは彼らは両親が私的な生活の必需品を供えるように、公共の必需品を供えるからである。

 

最も広い意義では、人間はその国家を愛さなくてはならないことを意味している。国は彼らを養い、守るからであり、それ故に祖国と呼ばれるからである。もちろん、両親自らその国、王、長官を敬い且つそれと同じことを為すように彼らの子供に教えなくてはならない。

 

 

 

 

2.霊的意義:神と教会とを尊び、愛すること

 

 

真の基督教306

 

「霊的な意義では」父と母とを敬うことは神と教会とを尊び、愛することを意味している。この意義では父は凡ゆるものの父にて在す神を意味し、母は教会を意味する。

 

天界の子供達と天使達は教会により主から新しく彼処に生まれる故、これ以外の如何なる父をも母をも知らないのである。それ故、主は「地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、即ち天に在す者なり」(マタイ23・9)と語り給う。これは、天界の天使達と子供達のために語られたのであって、地上の子供達と人間のために語られたものではない。

 

主はこれと同一の事を基督教会の普遍的な祈りであるところの「天にまします我らの父よ、汝の御名の崇められんことを」の中に教え給う。霊的な意義では母は教会を意味している。それは自然的な母は、その子を自然的な食物をもって養い、育てるからであり、それゆえ教会は聖言の凡ゆる所に母と呼ばれている。

 

例えば、ホゼアに「なんじらの母とあげつらうことをせよ、彼は我が妻に非ず、我は彼の夫にあらざればなり」(2・2)。

 

イザヤには、「わがなんじらの母をさりたる雑書はいずこにありや」(50・1、またエゼキエル16・45,19・10と福音書を見られよ)。

 

イエスその手を弟子たちにのべて言い給う、「我が母、我が兄弟は神の言を聞き、これを行う者なり」(マタイ12・46、49、マルコ3・33−35、ルカ8・21、ヨハネ19・25−27)。

 

 

 

 

3.天的意義:主イエス・キリストと主の教会

 

 

真の基督教307

 

「天的意義では」父は我らの主イエス・キリストを意味し、母は諸聖徒の交わり、すなわち全世界に亘る主の教会を意味している。主は父で在し給うことは、以下の記事によって明白である。

 

「ひとりの嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子をあたえられたり、その名は大能の神、永遠の父、平和の君ととなえられん」(イザヤ9・6)。

 

「アブラハムわれらを知らず、イスラエルわれらを認めず、されど汝はわれらの父なり。汝は我らの父、我らの贖い主なり。汝のみ名は永遠より在るなり」(イザヤ63・16)。

 

「ピリポ言う、主よ、我らに父を示したまえ、さらば足れり。イエス言い給う、我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか。我の父に居り、父の我に居給うことを信ぜよ」(ヨハネ14・8−11、12・45)。

 

この意義では、母によって主の教会が意味されていることは、以下の記事によって明白である。

 

「我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦の如く準備せるを見たり」(黙示録21・2)。

 

「御使いヨハネに語りけるは、来たれ、我子羊の妻なる新婦を見せんと。しかして我に大いなる都、聖なるエルサレムを示せり」(21・9,10)。

 

「子羊の婚姻の期いたり、その新婦みずから準備したればなり、子羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸福なり」(19・7およびマタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・34、35、ヨハネ3・29、19・25−27を見られよ)。

 

新しいエルサレムは、現今主によって建設されつつある新しい教会を意味することは「黙示録の啓示」(880、881番)の中に見ることが出来よう。前の教会ではなく、この新しい教会がこの意義の妻と母である。この婚姻の結実なる霊的な子孫は、仁慈の諸善であり、信仰の諸真理であり、そしてこれらを主によって持つ者たちはその婚姻の子、神の子、神から生まれたものと呼ばれる。

 

 

 

真の基督教308

 

主の教義をかき抱き、子供達がその両親に対するように、主に従い、自らを主に捧げ、主によって養われることを、すなわち教えられることを欲する凡ての者たちには、愛の神的な天界的なスフィアが絶えず主から発することが認められなくてはならない。この天界的なスフィアから、嬰児と小児達に対する愛のスフィアである自然的なスフィアが生まれ、これは普遍的なスフィアであって、単に人間のみでなく、鳥、獣、爬虫類も動かし、単に生物のみでなく無生物をも動かしている。しかし主は単に霊的なもののみでなく自然的なものにも影響を与えるために、自然界に太陽を創造し、これを地が母に似る如く、父に似させ給うた。何故なら、太陽は普遍的な父に、地は普遍的な母に似、両者の婚姻から地の面を飾る凡ゆる草木が発生するからである。自然界に注ぐかの天界的なスフィアの流入により、種子から果実に至り、かくて再び新しい種子に至る植物の驚嘆すべき成長が生じている。この理由から、多くの花は日が沈むまで日に向かって向きを変え、ある花は日が昇ると開き、日が沈むと再び閉じ、かくして、また朝、鳥は美しく囀り、さらに母なる大地から食物を得るとき囀り、このようにこれら凡てのものは、その父と母を敬っている。凡てこの事は、主は自然界の太陽と地とによって生物と無生物に必要な凡ゆるものを供え給うことを示している。

 

それ故ダビデに以下のように語られている、「諸々の天よりエホバをほめたたえよ、日よ月よ、エホバをほめたたえよ。海の怪しきものよ、淵よ、地よりエホバをほめたたえよ、実をむすぶ樹よ、すべての香柏よ、獣、諸々の家畜よ、這うもの、翼ある鳥よ、地の王たち、諸々のたみ、小きおのこ、若きおみなよ、エホバをほめたたえよ」(詩篇148・1−12)。

 

ヨブ記では「今請う、獣に問え、さらば汝に教えん、天空の鳥に問え、しからば汝に語らん、地の潅木に問え、然らばなんじに教えん、海の魚もまた汝に述ぶべし。誰か一切の者によりてエホバの手のこれを作りしなるを知らざらんや」(12・7−9)。

「問いてみよ、さらば彼らは教えん」とは主エホバがそれらのものを創造し給うたことをこれらのものによって観察し、学び、判断しなくてはならないことを意味している。

 

 

 

天界の秘義8897

 

「あなたの父と母とを敬いなさい」。これは善と真理とに対する愛を意味し、その最高の意義では主とまたその王国に対する愛を意味していることは『敬うこと』の意義から明白であり、それは愛することである、なぜなら霊的な意義では『敬うこと』は愛することを意味するからであるが、それは天界では人は互に他を愛し合っており、愛するときはまた敬いもしているという理由によっている、なぜなら敬うことの中に愛が在るからである。愛のない尊敬は天界では拒まれている、否、斥けられているのである、なぜならそれは善から発した生命を欠いているからである。『父』の意義は善であり(3703、5581、5902、6050、7833、7834番)、その最高の意義では神的善の方面の主[主の神的善]であり(15、1729、2005、2803、3704、7499、8328番)、主がその最高の意義では『父』であられることは、主が人間に新しい生命を与えられ、そのことによって人間は主の王国の子となり、嗣子(しし)[後継者]となるためであり、『母』の意義は真理であり(3703、5581番)、その最高の意義では神的真理の方面の主であり、かくて主から発出している神的真理が天界を作っているため、主の王国である。

 

 

 

聖書67

 

あなたの父と母とを敬え。『父と母』により人間は地上の己が父と母を、またその位置にある者を凡て理解し、『敬う』ことによって、彼らを尊敬して、これに服従することを理解している。しかし霊的天使は『父』により主を、『母』により教会を理解し、『敬う』ことにより愛することを理解している。そして天的天使は『父』により主の神的愛を、『母』により主の神的知恵を理解し、『敬う』ことによって主から善いことを為すことを理解している。

 

 

 

 

4.黙示録講解

 

 

黙示録講解966

 

[2]十戒の第四の戒めは、両親は尊ばれなくてはならない、である。

 この戒めが与えられたのは、両親に対する尊敬は主に対する愛と隣人に対する愛を表象し、かくて意味したためである、なぜなら天界の意味における『父』は、即ち、天界の父は主であられ、天界の意味における『母』は、即ち、天界の母は教会であるからである、『尊敬』は愛の善を意味し、彼らが得る『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味している。そのようにこの戒めは天界で理解されており、そこでは主以外いかような父も知られておらず、教会でもまたある主の王国以外にはいかような母も知られてはいないのである。なぜなら主は主御自身から生命を与えられ、教会を通して栄養を与えられるからである。天界の意味においては世における父は意味されることは出来ないのであり、実に人間が天界の観念[考え]の中にいるときは、父は言われることが出来ないことを主はマタイ伝に教えられている―

 

人間を地上であなたらの父と呼んではならない、なぜなら諸天界におられるあなたらの父は一人であられるからである(マタイ23・9)。

 

『父』は神的善の方面の主を意味していることは前に見ることが出来よう(32、200、254、297番)。『母』は主の王国、教会、神的真理を意味していることは「天界の秘義」の中に見ることが出来よう(289、2691、2717、3703、5581、8897番)、『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味し(8898番)、『尊敬』は愛の善を意味している(8897、前の288、345番)。この凡ては第三と第四の戒めは主に関係しているアルカナ〔秘義〕を、即ち、主の神的なものを承認し、告白することを、愛の善から主を拝することを含んでいることを明らかにしている。

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音第2巻122.11/天使のたより第6号/P12/天使館

 

主:

 『父と母を敬え』と十戒は言います。どのように敬うのですか? なぜ敬わねばならないのですか?

 

 真の従順をもって、正しい愛をもって、信頼に満ちた尊敬をもって、またこの信頼を阻まないが同時に年長者をしもべか劣る者であるかのように遇することのない畏敬の念をもって敬うのです。なぜ敬わねばならないかというと、の次に、両親は生命の与え主であり、生きるための物質的すべての必需品の提供者であり、地球上に生まれて来たこの未成熟な存在の、最初の教師、最初の友人は父と母だからです。

 

 落し物を拾ってくれた人に、あるいは古くて固いパンを恵んでくれた人に、『があなたを祝福されますように』と言い、『ありがとう』と、人は言うものです。また、わたしたちにたらふく食べさせるために、服を着せ、清潔にそれを保たせるために、身を粉にして働くこの人たちに、わたしたちが病めば眠りを精察するために夜中に起き、看病するために休息を拒み、わたしたちの最も辛い疲労時には、彼らの胸を褥(しとね)にしてくれるこの人たちに、わたしたちは愛を込めて、『があなたを祝福してくださいますように』、『ありがとう』と、言わないでしょうか?

 

 彼らはわたしたちの教師です。教師は畏敬されます。しかし教師はわたしたちが持ちこたえ、自らを養い、本質的なことを語るようになってもわたしたちを掴(つか)み、そしてわたしたちがまだ教えられねばならない時に、人生のより難儀な教え、すなわち『生きること』を残してくれるのです。最初の学び舎に、それから人生にわたしたちを準備してくれるのは、父と母です。

 

 彼らはわたしたちの友人です。一人の父に勝る友がどこにありうるでしょうか? 一人の母に勝る友が?あなたたちは彼らの前で震え上がることが出来ますか?『彼から、彼女からわたしは裏切られるだろう』と、言えますか? にもかかわらず、関係のない人と腕を組む愚かな若者と、もっと愚かな少女は、父親と母親に心を閉ざし、罪を犯すまで至らぬとしても、不賢明な交友によって知性と心を蝕まれ、溶けた鉛の滴のように伝う父と母の涙の原因になるのです。だがわたしは言う、その涙は塵芥(ちりあくた)や忘却の中に落ちるのではない。はそれを拾い集め、それを数える。踏み躙られた一父親の殉教を主は称されるであろう。しかし、父親を責めさいなんだ子の行為は、たとえ父と母が苦しむ愛のうちに、罪深い子のために神の憐れみを嘆願しようとも、忘れ去られることはないだろう。

 

『あなたは地球上に生き長らえたいなら、父と母を敬え』と言われている。『そして天において永遠に生き長らえたいなら』と、わたしはそれに付け加えます。両親に対して道を外れたために、ここでしばし生きるという罰は、あまりにも軽過ぎます! あの世は作り話ではなく、あの世では、いかにここで生きたかによって報酬か罰を受ける。父親に対して過ちを犯す者は、に対して過ちを犯すのです。は父親に愛の指揮権を与えたのですから、愛さない者は罪を犯します。したがって、このように物質的生命を失うばかりか、今、わたしが話した真の生命を失い、一つの死に出くわす、それどころか、霊魂はその主に対して罪を犯しているのだからすでに死んでおり、の次に最も聖なる愛を傷つけたのだから自らのうちにすでに罪をもち、悪しき子から背信の夫は由来するのだから自らのうちにすでに未来の姦通者の萌芽をもち、悪しき子から未来の盗人、残忍な暴力的な殺人犯、冷酷、悪辣な金融商人、放蕩する女たらし、冷笑的な道楽者、祖国、友人、妻を裏切る嫌悪すべき詐欺師は開花するのですから、すでに自らのうちに社会的荒廃の誘発動因をもっているのです。またあなたたちは、一人の母親の愛を裏切り、一人の父親の白髪を愚弄する者に尊敬と信頼がもてますか?

 

 

 

122.12

 

 しかしながら、更に聞きなさい、しかしながら子らの義務には、それに等しい両親の義務が対応します。罪を犯した子は禍です! しかし罪を犯した両親も禍です。子たちがあなたたちを批判できないように、彼らがあなたたちの悪いところを真似ることがないように心しなさい。正義と憐れみをもって与えられた愛を通して、子らにあなたたちを愛させなさい。憐れみです。両親はにのみ負ける憐れみであるように。子らの模範、慰めでありなさい。平和と道案内でありなさい。あなたたちの子らの初恋の人でありなさい。母は常にわたしたちが未来に望む花嫁の最初のイメージです。娘たちにとって父は、未来に夢見る花婿の顔をもつのです。何よりも、息子たちや娘たちが、父を、母を思い浮かべながら、また父と母のうちに見ている嘘偽りの無い一つの美徳を望みながら、賢い手で互いに配偶者を選ぶような、そんな両親になりなさい。

 

 この問題について語り尽くそうとするなら日夜あっても足りないでしょう。そこで、あなたたちへの愛のために、はしょります。後は永遠の霊がそれをあなたたちに語られますように。わたしは種子を撒き、通り過ぎます。しかし、善人の中に落ちた種子は根付き、穂を出すだろう。行きなさい。平和はあなたたちと共に。

 

 

122.13

 

 帰途につく者は急ぎ立ち去る。居残る者は第三の大部屋に入り、持参したパンを食べるか、弟子たちが神の名において配るパンを食べる。粗末な二脚台の上には板と麦藁が置かれ、巡礼者たちはそこで眠ることができる。

 身をベールで覆った女は、急ぎ足で立ち去る。初めから泣きっぱなしで、イエズスが話している間中泣いていたもう一人の女は、どうすべきかためらっている様子だったが、意を決したらしく立ち去る。

 

 イエズスは食事のために台所に入る。しかし食べ始めた途端に扉を叩く音がする。

 扉の一番近くにいたアンデレが中庭に出て行く。話し、そして入って来る。「先生、あの泣き虫の女があなたに話したいことがあるようです。行かねばならないが、あなたにお話ししなければならない、と言っています」。

「そんなやり方をしていたら、先生はいつ、どのように食事を召し上がるのか?」と、ペトロが声を上げる。

「もっと遅く来るようにと、あなたは言うべきでした」と、フィリポが言う。

「静に。後で食べます。あなたたちは続けてください」。

イエズスは出る。女は外に立っている。

 

先生・・・一言・・・あなたはおっしゃいました・・・おお! 家の裏手までおいでください! わたしの悲しみを申し上げるのはつらいことです!」。

 イエズスは一言も言わず女を安心させる。家の裏手に来た時、初めて尋ねる。「わたしに何を望みますか?」。

先生・・・わたしが最初にあなたのお話しを聞いたのは、以前わたしたちの只中で話された時と、その後、説教をなさった時でした。あなたはまるでわたしのために語っておられるように思われました。あなたは、肉体の、あるいは心のどんな病気にもサタンがいる、とおっしゃいました・・・わたしには、心を病む一人の息子がおります。両親について語っておられた時、息子がそれを聞いていたら! わたしの悩みの種です。悪い仲間たちに誑(たぶら)かされて人の道を外れ、そして・・・ほんとうにあなたがおっしゃったように、・・・泥棒・・・今は家におりますが・・・喧嘩っ早くって・・・横暴で・・・若いものですから肉体と暴飲暴食で身を持ちくずしています。夫は家から追い出したいらしいのです。わたしは・・・わたしは母です・・・死ぬほど苦しんでいます。ごらんください、こんなに息切れを起こしているわたしの胸を? この深い悲しみでわたしの心臓は引裂かれそうです。昨日からお話ししたかったのです、なぜなら・・・あなたに、わたしのに希望しています。なのに何一つ申し上げることができませんでした。『わたしには残酷な息子がいます』と言うことは、一人の母親としては耐え難い苦しみです!」。イエズスの前で女は泣き、背を丸めて、悲嘆にくれる。

 

「もう泣かないで。彼はその悪から治るでしょう」。

「あなたのお話しを聞けば治るでしょう。でも彼は聞こうとしません。おお! 治ることは決してないでしょう!」。

「でもあなたは彼のために信仰をもっているでしょう?」。

「それをわたしにお求めになるのですか? わたしはアルタ・パレアから彼のためにあなたにお願いに参りました・・・」。

「それでいいのです。あなたが家に辿り着いた時には、息子さんは悔い改めてあなたを迎えるでしょう」。

「でも、どうして?」。

 

「どうしてって? わたしが願い求めることをはおできにならないと思うのですか? あなたの息子さんは彼方にいます。わたしはここにいます。でもはどこにでもおられます。わたしに言います、『父よ、この母親を憐れんでください』と。そうすると、はあなたの息子さんの心にその呼び声を轟かせます。女人よ、行きなさい。いつの日かわたしはあなたの町の街道を通るでしょうが、その時息子を誇りに思うあなたは、彼を連れてわたしを迎えてくれるでしょう。また、彼があなたの膝の上で泣いて赦しを乞い、彼がそこから抜け出した神秘的な闘争を、新しい霊魂をもって物語る時、彼はどうしてこのことが起きたのか、とあなたに尋ねるでしょう。そうしたらあなたは彼に言いなさい、『お前が善へと生まれ変わったのは、イエズスのお蔭です』と。わたしについて彼に話しなさい。

 あなたがわたしのところに来たのは、あなたがわたしを知っているという何よりの印です。彼が自分のうちに救う力をもつために、わたしを知り、わたしを思うように導きなさい。さらば。信仰する母に、戻って来た子に、喜ぶ父に、再構築された家族に平和。行きなさい。」

 女は村に向って歩き出し、すべては終わる。

 

 

 

 

6.父と母を敬うことは内意では善と真理を愛することであり、善と真理の中に主を愛すること

 

 

天界の秘義3703

 

内意では「父」が善を意味していることは、善は凡てのものが全般的にも個別的にも「存在する」源泉となるものであり、真理はそれらのものが凡て明らかに示されるようになる手段となるものであり、かくて凡ゆるものは、善と真理との結婚から発しているためである。(中略)

このことから、善は父に似ており、真理は母に似ており、それで聖言の内意では「父」により善が意味され、「母」により真理が意味され、実に低いまた派生的な諸善と諸真理とが生まれてくる源泉となっている善と真理とが意味されており、その低いまた派生的な善と真理は相対的には娘と息子であり、それで聖言ではまた「娘」「息子」と呼ばれている(489―491、2362)。

(中略)

 

「父と母とを敬いなさい、あなたの日があなたの神エホバがあなたに与えられる地に長くなるためである」(出エジプト20・12、申命記5・16)。

 

 この教え[]は十戒の他の教え[]のように、両方の意味においても真であること、父と母を敬うことは内意では善と真理を愛することであり、善と真理の中に主を愛することであることは前に見ることができよう(2609、3690)。

 

 

 

天界の秘義8897

 

「あなたの父と母とを敬いなさい」。これは善と真理とに対する愛を意味し、その最高の意義では主とまたその王国に対する愛を意味していることは『敬うこと』の意義から明白であり、それは愛することである、なぜなら霊的な意義では『敬うこと』は愛することを意味するからであるが、それは天界では人は互に他を愛し合っており、愛するときはまた敬いもしているという理由によっている、なぜなら敬うことの中に愛が在るからである。愛のない尊敬は天界では拒まれている、否、斥けられているのである、なぜならそれは善から発した生命を欠いているからである。『父』の意義は善であり(3703、5581、5902、6050、7833、7834番)、その最高の意義では神的善の方面の主[主の神的善]であり(15、1729、2005、2803、3704、7499、8328番)、主がその最高の意義では『父』であられることは、主が人間に新しい生命を与えられ、そのことによって人間は主の王国の子となり、嗣子(しし)[後継者]となるためであり、『母』の意義は真理であり(3703、5581番)、その最高の意義では神的真理の方面の主であり、かくて主から発出している神的真理が天界を作っているため、主の王国である。