第4誡

なんじ、父母を敬うべし。

 

 

十戒(出エジプト20)

養父・養母尊敬敬愛愛国心

老人を愛し、敬う人は祝福を受ける

聖言による連結

 

 

 

 

1.聖書

2.真の基督教/自然的意義:両親を敬い、感謝すること。王と長官を敬うこと、祖国を愛すること。

3.真の基督教/霊的意義:神と教会とを尊び、愛すること

4.真の基督教/天的意義:主イエス・キリストと主の教会

.聖書(聖書にかかわる新しいエルサレムの教義)

6.天界の秘義

7.黙示録講解

8.カテキズム(公教要理)

9.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト記20・12

 

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

 

 

 

申命記21・18−21

 

ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。

 

 

 

エゼキエル22・6、7

 

イスラエルの君侯たちは、お前の中でおのおの力を振るい、血を流している。父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている。

 

 

 

詩篇27・10

 

父母はわたしを見捨てようとも

主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

 

 

 

マタイ15・4−6

 

神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

 

 

 

マルコ7・9−13

 

更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

 

 

 

マルコ10・17−31

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

 

 

エフェソ6・1−3

 

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。

 

 

 

 

2:真の基督教/自然的意義:両親を敬い、感謝すること。孤児は保護者を敬うこと。王と長官を敬うこと、祖国を愛すること。

 

 

真の基督教305

 

「汝の父母を敬え、これは地に汝の生命の長く、幸福ならんがためなり」。

 

「自然的な意義では」それは子供たちが彼らの両親を敬い、これに従い、彼らに注意し、恩恵を感謝しなくてはならないことを意味している。何故なら、彼らの両親は、彼らが善良な市民として行動するために彼らを養い、これに着物を着せ、人生に彼らを旅立たせ、宗教の教訓によって彼らに天界への備えをさせるからである。

 

かく両親はその子のため、一時的な繁栄と永遠の幸福を備えるが、彼らはその凡てを彼らの中に主によって―この主のために彼らは行動するのであるが―植えつけられている愛によって為すのである。これに関連した意義ではこの誡命は、孤児はその保護者を敬わねばならぬことを意味している。

 

さらに、広い意義では、それは人間は王と長官を敬わねばならないことを意味している。それは彼らは両親が私的な生活の必需品を供えるように、公共の必需品を供えるからである。

 

最も広い意義では、人間はその国家を愛さなくてはならないことを意味している。国は彼らを養い、守るからであり、それ故に祖国と呼ばれるからである。もちろん、両親自らその国、王、長官を敬い且つそれと同じことを為すように彼らの子供に教えなくてはならない。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P131/596・15

 

異邦人は、祖国の聖なるものを手放すほど卑屈な民を軽蔑します。父母―祖国―を否定する人は、尊敬と自由を得ることができません。

 

 

 

 

3.真の基督教/霊的意義:神と教会とを尊び、愛すること

 

 

真の基督教306

 

「霊的な意義では」父と母とを敬うことは神と教会とを尊び、愛することを意味している。この意義では父は凡ゆるものの父にて在す神を意味し、母は教会を意味する。

 

天界の子供達と天使達は教会により主から新しく彼処に生まれる故、これ以外の如何なる父をも母をも知らないのである。それ故、主は「地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、即ち天に在す者なり」(マタイ23・9)と語り給う。これは、天界の天使達と子供達のために語られたのであって、地上の子供達と人間のために語られたものではない。

 

主はこれと同一の事を基督教会の普遍的な祈りであるところの「天にまします我らの父よ、汝の御名の崇められんことを」の中に教え給う。霊的な意義では母は教会を意味している。それは自然的な母は、その子を自然的な食物をもって養い、育てるからであり、それゆえ教会は聖言の凡ゆる所に母と呼ばれている。

 

例えば、ホゼアに「なんじらの母とあげつらうことをせよ、彼は我が妻に非ず、我は彼の夫にあらざればなり」(2・2)。

 

イザヤには、「わがなんじらの母をさりたる雑書はいずこにありや」(50・1、またエゼキエル16・45,19・10と福音書を見られよ)。

 

イエスその手を弟子たちにのべて言い給う、「我が母、我が兄弟は神の言を聞き、これを行う者なり」(マタイ12・46、49、マルコ3・33−35、ルカ8・21、ヨハネ19・25−27)。

 

 

 

 

4.真の基督教/天的意義:主イエス・キリストと主の教会

 

 

真の基督教307

 

「天的な意義では」父は我らの主イエス・キリストを意味し、母は諸聖徒の交わり、すなわち全世界に亘る主の教会を意味している。主は父で在し給うことは、以下の記事によって明白である。

 

「ひとりの嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子をあたえられたり、その名は大能の神、永遠の父、平和の君ととなえられん」(イザヤ9・6)。

 

「アブラハムわれらを知らず、イスラエルわれらを認めず、されど汝はわれらの父なり。汝は我らの父、我らの贖い主なり。汝のみ名は永遠より在るなり」(イザヤ63・16)。

 

「ピリポ言う、主よ、我らに父を示したまえ、さらば足れり。イエス言い給う、我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか。我の父に居り、父の我に居給うことを信ぜよ」(ヨハネ14・8−11、12・45)。

 

この意義では、母によって主の教会が意味されていることは、以下の記事によって明白である。

 

「我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦の如く準備せるを見たり」(黙示録21・2)。

 

「御使いヨハネに語りけるは、来たれ、我子羊の妻なる新婦を見せんと。而して我に大いなる都、聖なるエルサレムを示せり」(21・9、10)。

 

「子羊の婚姻の期いたり、その新婦みずから準備したればなり、子羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸福なり」(19・7、9およびマタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・34、35、ヨハネ3・29、19・25−27を見られよ)。

 

新しいエルサレムは、現今主によって建設されつつある新しい教会を意味することは「黙示録の啓示」(880、881番)の中に見ることが出来よう。前の教会ではなく、この新しい教会がこの意義の妻と母である。この婚姻の結実なる霊的な子孫は、仁慈の諸善であり、信仰の諸真理であり、そしてこれらを主によって持つ者たちはその婚姻の子、神の子、神から生まれたものと呼ばれる。

 

 

 

真の基督教308

 

主の教義をかき抱き、子供達がその両親に対するように、主に従い、自らを主に捧げ、主によって養われることを、すなわち教えられることを欲する凡ての者たちには、愛の神的な天界的なスフィアが絶えず主から発することが認められなくてはならない。この天界的なスフィアから、嬰児と小児達に対する愛のスフィアである自然的なスフィアが生まれ、これは普遍的なスフィアであって、単に人間のみでなく、鳥、獣、爬虫類も動かし、単に生物のみでなく無生物をも動かしている。しかし主は単に霊的なもののみでなく自然的なものにも影響を与えるために、自然界に太陽を創造し、これを地が母に似る如く、父に似させ給うた。何故なら、太陽は普遍的な父に、地は普遍的な母に似、両者の婚姻から地の面を飾る凡ゆる草木が発生するからである。自然界に注ぐかの天界的なスフィアの流入により、種子から果実に至り、かくて再び新しい種子に至る植物の驚嘆すべき成長が生じている。この理由から、多くの花は日が沈むまで日に向かって向きを変え、ある花は日が昇ると開き、日が沈むと再び閉じ、かくして、また朝、鳥は美しく囀り、さらに母なる大地から食物を得るとき囀り、このようにこれら凡てのものは、その父と母を敬っている。凡てこの事は、主は自然界の太陽と地とによって生物と無生物に必要な凡ゆるものを供え給うことを示している。

 

それ故ダビデに以下のように語られている、「諸々の天よりエホバをほめたたえよ、日よ月よ、エホバをほめたたえよ。海の怪しきものよ、淵よ、地よりエホバをほめたたえよ、実をむすぶ樹よ、すべての香柏よ、獣、諸々の家畜よ、這うもの、翼ある鳥よ、地の王たち、諸々のたみ、小きおのこ、若きおみなよ、エホバをほめたたえよ」(詩篇148・1−12)。

 

ヨブ記では「今請う、獣に問え、さらば汝に教えん、天空の鳥に問え、しからば汝に語らん、地の潅木に問え、然らばなんじに教えん、海の魚もまた汝に述ぶべし。誰か一切の者によりてエホバの手のこれを作りしなるを知らざらんや」(12・7−9)。

「問いてみよ、さらば彼らは教えん」とは主エホバがそれらのものを創造し給うたことをこれらのものによって観察し、学び、判断しなくてはならないことを意味している。

 

 

 

 

5.聖書(聖書にかかわる新しいエルサレムの教義)

 

 

聖書67

 

あなたの父と母とを敬え。『父と母』により人間は地上の己が父と母を、またその位置にある者を凡て理解し、『敬う』ことによって、彼らを尊敬して、これに服従することを理解している。しかし霊的天使は『父』により主を、『母』により教会を理解し、『敬う』ことにより愛することを理解している。そして天的天使は『父』により主の神的愛を、『母』により主の神的知恵を理解し、『敬う』ことによって主から善いことを為すことを理解している。

 

 

 

 

6.天界の秘義

 

 

天界の秘義2609

 

しかし十戒の凡ゆるものや律法と予言者の中の多くのもののような生命[生活]の教えについては、これらのものは人間の生活そのものに役立っていて、両方の意義で、即ち、文字の意義でも内意でも有益である。文字の意義に含まれたものは当時の、内的なものを把握しなかった民と幾多の民のためのものであり、内意に含まれたものは、外なるものを何らかえりみないで天使たちのためのものであった。十戒の教えの中にもまた内的なものが含まれない限りは、それらはかくも大いなる奇蹟をもってシナイ山の上で布告されはしなかったであろう。なぜならそこに含まれている事柄は、例えば、両親を敬わなくてはならない、人は盗んではならない、殺してはならない、姦淫を犯してはならない、他人のものをむさぼってはならないといった事柄は、異邦人もまた知っていて、その律法に規定された事柄であり、イスラエルの子孫も人間として、そのように布告されなくても、熟知していたに違いない事柄であるからである。しかしその教えは両方の意義で生命[生活]に役立ち、外なる形として内なる形から生み出されて、互いに相応していたため―それがそれらがあのように大きな奇蹟をもってシナイ山に天界から下った理由であり、それらはその外なる意義では地上に語られ、聞かれはしたが、その内なる意義では天界で語られ、聞かれたのである。

 

 

 

天界の秘義2609[2]

 

一例として、両親を敬う者は地にその生命が長くされるであろうという約束を考えてみられよ。『両親』により天界の天使たちは主を認め、『地』により、愛と信仰から主を拝する者たちが子としてまた嗣子として永遠に所有するに違いない主の王国を認めている一方では、地上の人間は両親により両親を理解し、『地』によりカナンの地を、長命によりその生命の年を理解したのである。更に盗んではならないという教えを考えてみられよ。このことにより天界の天使たちは、主から何ものをも取り去ってはならない、義と功績とは些かも自分自身のものとして要求してはならないことを認めているに反し、地上の人間は自分たちは盗んではならないということを理解したのであって、このことからこれらの教えは両方の意義で真であることを私たちは認めることが出来るのである。更に殺してはならないという教えを考えられよ。このことにより天界の天使たちは、何人をも憎んではならない、人の善と真理とを些かも消滅させてはならないということを認めているに反し、地上の人間は自分の友達を殺してはならないということを理解したのである。このことは他のすべての教えにも言われるのである。

 

 

 

天界の秘義3690[5]

 

 例えば、両親を敬うことについては、彼は今や、人間が新に生まれると、即ち、再生しつつあると、その人間は他の父を受け入れるのであり、かくてその父の子となり、敬わねばならない方はその父であることを認めるのであり、かくてこれがこの教えの中に隠れている意味であることを認めるのである。そして徐々に彼はこの新しい父は主であられることを学び、遂には主を拝することによって主を敬わなくてはならない、主を愛するとき、主を拝することを学ぶのである。再生しつつある者がこの真理の中におり、それに応じた生命[生活]の中にいるとき、彼は神的な教義の中におり、そのとき天使的な状態の中にいるのであり、この状態から、彼は彼が以前知って幾多の事柄が秩序をもって互に他に続いているものとして認め、またそれらがいわばはしごの段に応じて神的なものから流れ下っており、そのはしごの上にはエホバがまたは主がおられ、そのはしごの段を主の天使たちが昇ったり降ったりしているものとして認めるのである。かくて彼は以前彼が歓んだ物をそれが度に応じて彼からは更に遠ざかっているものとして見るのである。このことは十戒の他の教えにも言われるのである(2609番を参照)。このことから、『ヤコブはベエルシバから出て行った』(創世記28・10)によりここに意味されているところの神的な教義的な物から更に遠ざかった生命により意味されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義3703

 

内意では「父」が善を意味していることは、善は凡てのものが全般的にも個別的にも「存在する」源泉となるものであり、真理はそれらのものが凡て明らかに示されるようになる手段となるものであり、かくて凡ゆるものは、善と真理との結婚から発しているためである。(中略)このことから、善は父に似ており、真理は母に似ており、それで聖言の内意では「父」により善が意味され、「母」により真理が意味され、実に低いまた派生的な諸善と諸真理とが生まれてくる源泉となっている善と真理とが意味されており、その低いまた派生的な善と真理は相対的には娘と息子であり、それで聖言ではまた「娘」「息子」と呼ばれている(489―491、2362)。(中略)

 

「父と母とを敬いなさい、あなたの日があなたの神エホバがあなたに与えられる地に長くなるためである」(出エジプト20・12、申命記5・16)。

 

 この教え[法]は十戒の他の教え[法]のように、両方の意味においても真であること、父と母を敬うことは内意では善と真理を愛することであり、善と真理の中に主を愛することであることは前に見ることができよう(2609、3690)。

 

 

 

天界の秘義8896

 

12節。「あなたの父と母とを敬いなさい。あなたの日があなたの神エホバがあなたに与えられる地で長くなるためである」(出エジプト20・12)。『あなたの父と母とを敬いなさい』は善と真理に対する愛を意味し、その最高の意義では主に対する、また主の王国に対する愛を意味し、『あなたの日が地に長くなるためである』は、その結果生まれる天界の生命の状態を意味し、『あなたの神エホバがあなたに与えられる』は、そこに神的なものが存在し、その結果流入が存在している、を意味している。

 

 

 

天界の秘義8897

 

「あなたの父と母とを敬いなさい」。これは善と真理とに対する愛を意味し、その最高の意義では主とまたその王国に対する愛を意味していることは『敬うこと』の意義から明白であり、それは愛することである、なぜなら霊的な意義では『敬うこと』は愛することを意味するからであるが、それは天界では人は互に他を愛し合っており、愛するときはまた敬いもしているという理由によっている、なぜなら敬うことの中に愛が在るからである。愛のない尊敬は天界では拒まれている、否、斥けられているのである、なぜならそれは善から発した生命を欠いているからである。『父』の意義は善であり(3703、5581、5902、6050、7833、7834番)、その最高の意義では神的善の方面の主[主の神的善]であり(15、1729、2005、2803、3704、7499、8328番)、主がその最高の意義では『父』であられることは、主が人間に新しい生命を与えられ、そのことによって人間は主の王国の子となり、嗣子(しし)[後継者]となるためであり、『母』の意義は真理であり(3703、5581番)、その最高の意義では神的真理の方面の主であり、かくて主から発出している神的真理が天界を作っているため、主の王国である。主の神的真理が天界を作っていることは、主は神的善の方面では他生では太陽となられ、神的真理の方面では光となられているためである。太陽としての主から発しているこの神的な光[神の光]が天使の心を明るくして、これに理知と知恵を満たし、彼らを光の天使とならせるものである。世の春と夏の時に太陽から熱が光の中に在るように、神的善が神的真理の中に在るのである。

 

 

 

天界の秘義8898

 

「あなたの日が地に長くなるためである」(出エジプト20・12)。これはその結果生まれてくる天界における生命の状態を意味していることは以下により明白である、即ち、『長くなること』の意義は善とその増大とについて言われるものであり(そのことについては以下を参照)、『あなたの生命』の意義は生命の状態であり(23、487、488、493、893、2788、3462、3785、4850、5672、5962、6110、7680、8426番を参照)。『地』の、ここでは(『あなたの神エホバがあなたに与えられる地』はイスラエルの子孫に言われているため)カナンの地の意義は主の王国である(1413、1437、1607、1866、3038、3481、3686、3705、4240,4447番)。『長くなること』が善とその増大とについて述べられている理由は、日の長さは生命の時間の継続期間であるが、天界には時間も空間もなく、それに代って状態が在るということである。それで『長くなること』が善の方面の状態について述べられているため、それはその増大を意味している。(『長さ』は善について『広さ』は真理について述べられていることについては、1613、4482番を参照し、天界には空間はなく、時間もなく、それに代って状態があることについては、1274、1382、2625、2788、2837、3254、3356、3404、3938、4321、4814、4882、4901、4916、5605、6110、7218、7381番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義8899

 

「あなたの神エホバがあなたに与えられる」(出エジプト20・12)。これはそこに神的なものが存在して、その結果流入が存在していることを意味していることは以下の事実から明白である、即ち、これらの言葉は天界について述べられ、天界はここでは『地』により意味されており(8898番を参照)、従って『神エホバ』はその中の神的なものを意味し、『与えること』は流入を意味しているのである、なぜなら天界は凡ての者のもとでは全般的に、また各々の者のもとでは個別的に神的なものから流入を受け入れることであるからである。こうした事柄が両親を尊ぶことにかかわる戒めにより意味していることは、それが文字の意義から遠く離れているため奇妙なことに見えるかもしれない。しかし十戒の戒めは世にいる者たちのためにも、天界にいる者たちのためにも与えられている生活の規定であり―文字の意義は、または外なる意義は世にいる者たちのためのものであり、霊的な、または内なる意義は天界にいる者たちのためのものであり―従って内なる、また外なる、二つの意義とも、世にいる間にもまた天界にもいる者たちのために在リ、即ち、教義の諸真理に従って生命[生活]の善の中にいる者たちのために在ることを知られたい。十戒の戒めはまた天界にいる者たちのために在ることは聖言の凡ゆる物の内意から明らかであり、神エホバ(即ち主)御自身が話される事柄は単に人間のために、または世のために在るのみでなく、また天使たちのためにも、否、全天界のために在るという事実から判然と明らかである、なぜなら主から発生している神的な真理は天界を経て流れ、そこを経て人間のもとへ流れ下っているからである。主御自身がシナイ山から語られたこの十の戒めの場合も同じである。

 

 

 

天界の秘義8899[2]

 

これらの戒めは世にいる者たちのためのみでなく、また天界にいる者たちのためにも語られたため、それでそれらはその両方の者たちから同じようには認められなかったのである―例えば神、エホバが彼らに与えられる地で彼らの生命が長くなるために、彼らは父と母とを敬わなくてはならないというこの戒めは(両方の者から同じようには認められなかったのである)、なぜなら天界では両親と子供たちとは地上と同じように共に集まりはしないからであり、それでそこの『父』として、彼らは主を持ち、『母』として主の王国を持っているのである。また天界にいる者たちについて彼らはそこで永遠に生きるために、彼らの日は長くなるであろうと言われることも出来ないのであり、『地』もまたそこではこの戒めの場合のようにカナンの地を意味しているように理解されることは出来ないのであり、それに代って天のカナンを、または天界を意味しているように理解されるのである。『父と母』により主とその王国が意味されているため、それでこの戒めは順序では四番目に来ており、聖さではその後に来ているものに勝っているのである。エホバ、即ち、主を礼拝することにかかわる戒めは、最も聖いものであるため、第一と第二のものとなっている。次に安息日にかかわる戒めが来ているが、それはこの戒めによりその最高の意義では主における神的なものそれ自身と神的な人間的なものとの結合が意味されているためである。その後に両親を敬うことにかかわる戒めが来ているが、それはこの戒めにより主に対する愛が意味され、従って主から発している善と真理とに対する愛が意味されているためである。こうした事柄がこの戒めにより意味されているため、それで両親に対する軽蔑は『血を流すこと』により意味されている犯罪の一つとして列挙され(エゼキエル22・6、7)、そうした理由から、服従しない、また反抗する子は石で打たれたのである(申命記21・18−21)。

 

 

 

天界の秘義8900

 

『父』により主が意味され、『母』により主の王国が意味されることはすぐ前に示した(8897番)。しかし『母』によりその内意で主の王国、即ち、天界が意味されているか、否かについて或いは心で疑惑が抱かれるかもしれないため、私は前に言ったことに以下のことを付け加えよう。聖言では『母』により教会が意味され(289、4257、5581番を参照)、そうした理由からそれはまた時には主の『花嫁』とも呼ばれ、また時には主の『妻』と呼ばれており、それで主の王国は教会と同じものであるため―ただ地上の主の王国は『教会』と呼ばれるという相違はあるが―それでこのこともまた『母』により意味されているのである(マタイ13・38、3373番)。更に主の王国の中にいる者たちの凡てにとっては、その王国が彼らの国であり、教会が霊的な意味における『母』であるように、国は自然的な意味における『母』である。

 

 

 

天界の秘義9015

 

「その父と母とを打つ者」(出エジプト21・17)。これは主とその王国とを冒瀆することを意味していることは以下から明白である、即ち、『打つこと』の意義は誤謬により害うことであり(7136、7146、9007番)、それが主とその王国とについて述べられているときは、冒瀆することであり、『父』の意義は主であり、『母』の意義は主の王国である、8897番を参照されたい、そこには十戒の第四の戒めが明らかにされ、『父と母を敬うこと』により内意に意味されていることが、即ち、主とその王国とを愛することが示されており、それでそれに関連した意義では、善と真理とを愛することが示されているのである。それでまた『父と母を打つこと』は、その関連的な意義では、教会の善と真理とを冒瀆することを意味しているのである。

 

 

 

 

7.黙示録講解

 

 

黙示録講解966[2]

 

十戒の第四の戒めは、両親は尊ばれなくてはならない、である。

 この戒めが与えられたのは、両親に対する尊敬は主に対する愛と隣人に対する愛を表象し、かくて意味したためである、なぜなら天界の意味における『父』は、即ち、天界の父は主であられ、天界の意味における『母』は、即ち、天界の母は教会であるからである、『尊敬』は愛の善を意味し、彼らが得る『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味している。そのようにこの戒めは天界で理解されており、そこでは主以外いかような父も知られておらず、教会でもまたある主の王国以外にはいかような母も知られてはいないのである。なぜなら主は主御自身から生命を与えられ、教会を通して栄養を与えられるからである。天界の意味においては世における父は意味されることは出来ないのであり、実に人間が天界の観念[考え]の中にいるときは、父は言われることが出来ないことを主はマタイ伝に教えられている―

 

人間を地上であなたらの父と呼んではならない、なぜなら諸天界におられるあなたらの父は一人であられるからである(マタイ23・9)。

 

『父』は神的善の方面の主を意味していることは前に見ることが出来よう(32、200、254、297番)。『母』は主の王国、教会、神的真理を意味していることは「天界の秘義」の中に見ることが出来よう(289、2691、2717、3703、5581、8897番)、『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味し(8898番)、『尊敬』は愛の善を意味している(8897、前の288、345番)。この凡ては第三と第四の戒めは主に関係しているアルカナ〔秘義〕を、即ち、主の神的なものを承認し、告白することを、愛の善から主を拝することを含んでいることを明らかにしている。

 

 

 

 

8.カテキズム(公教要理)

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約460

 

両親の子どもたちに対する義務はどのようなものですか。

 

 神の父性に参与する者として、両親は子どもたちにとって、その教育の責任者であり、信仰を告げ知らせる最初の人です。両親には子どもたちを人格として、また神の子として愛し、尊敬する義務があります。また適切な学校を選択し、職業と生き方の選択にあたっては賢明な忠告をもって助けることを通じて、可能なかぎり、子どもたちが物質的、精神的に必要とするものを整えなければなりません。とくに、両親は子どもに対して、キリスト教的信仰教育を施す使命をもっています。

 

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約461

 

両親は子どもたちに対して、どのようにキリスト教的信仰教育を施しますか。

 

主として、模範と祈りと家庭における信仰教育、また教会生活への参加によってこれを行います。

 

 

 

カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約464

 

 公権に対する市民の義務はどのようなものですか。

 

 権威のもとにある者たちは自分たちの上長を神の代理者と考え、公共生活および社会生活が円滑に機能するよう、誠実な協力を提供しなければなりません。それには祖国への愛と奉仕、選挙の権利と義務、納税、国防の義務、そして建設的な批判の権利が含まれています。

 

 

 

 

9.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P22

 

それから、あなた、コルネリオ、“父あるいは母を虐げる者は死に当たる。父あるいは母を虐げれば、その血はその者の上に降りかかる”と書かれていることを知っておきなさい。この死は死刑執行人による死のみでなく、親や親戚などに罪を犯した人には、もっと過酷な恐るべき永遠の死が準備されています。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音第2巻122.11/天使のたより第6号/P12/天使館

 

主:

 『父と母を敬え』と十戒は言います。どのように敬うのですか? なぜ敬わねばならないのですか?

 

 真の従順をもって、正しい愛をもって、信頼に満ちた尊敬をもって、またこの信頼を阻まないが同時に年長者をしもべか劣る者であるかのように遇することのない畏敬の念をもって敬うのです。なぜ敬わねばならないかというと、の次に、両親は生命の与え主であり、生きるための物質的すべての必需品の提供者であり、地球上に生まれて来たこの未成熟な存在の、最初の教師、最初の友人は父と母だからです。

 

 落し物を拾ってくれた人に、あるいは古くて固いパンを恵んでくれた人に、『があなたを祝福されますように』と言い、『ありがとう』と、人は言うものです。また、わたしたちにたらふく食べさせるために、服を着せ、清潔にそれを保たせるために、身を粉にして働くこの人たちに、わたしたちが病めば眠りを精察するために夜中に起き、看病するために休息を拒み、わたしたちの最も辛い疲労時には、彼らの胸を褥(しとね)にしてくれるこの人たちに、わたしたちは愛を込めて、『があなたを祝福してくださいますように』、『ありがとう』と、言わないでしょうか?

 

 彼らはわたしたちの教師です。教師は畏敬されます。しかし教師はわたしたちが持ちこたえ、自らを養い、本質的なことを語るようになってもわたしたちを掴(つか)み、そしてわたしたちがまだ教えられねばならない時に、人生のより難儀な教え、すなわち『生きること』を残してくれるのです。最初の学び舎に、それから人生にわたしたちを準備してくれるのは、父と母です。

 

 彼らはわたしたちの友人です。一人の父に勝る友がどこにありうるでしょうか? 一人の母に勝る友が?あなたたちは彼らの前で震え上がることが出来ますか?『彼から、彼女からわたしは裏切られるだろう』と、言えますか? にもかかわらず、関係のない人と腕を組む愚かな若者と、もっと愚かな少女は、父親と母親に心を閉ざし、罪を犯すまで至らぬとしても、不賢明な交友によって知性と心を蝕まれ、溶けた鉛の滴のように伝う父と母の涙の原因になるのです。だがわたしは言う、その涙は塵芥(ちりあくた)や忘却の中に落ちるのではない。はそれを拾い集め、それを数える。踏み躙られた一父親の殉教を主は称されるであろう。しかし、父親を責めさいなんだ子の行為は、たとえ父と母が苦しむ愛のうちに、罪深い子のために神の憐れみを嘆願しようとも、忘れ去られることはないだろう。

 

『あなたは地球上に生き長らえたいなら、父と母を敬え』と言われている。『そして天において永遠に生き長らえたいなら』と、わたしはそれに付け加えます。両親に対して道を外れたために、ここでしばし生きるという罰は、あまりにも軽過ぎます! あの世は作り話ではなく、あの世では、いかにここで生きたかによって報酬か罰を受ける。父親に対して過ちを犯す者は、に対して過ちを犯すのです。は父親に愛の指揮権を与えたのですから、愛さない者は罪を犯します。したがって、このように物質的生命を失うばかりか、今、わたしが話した真の生命を失い、一つの死に出くわす、それどころか、霊魂はその主に対して罪を犯しているのだからすでに死んでおり、の次に最も聖なる愛を傷つけたのだから自らのうちにすでに罪をもち、悪しき子から背信の夫は由来するのだから自らのうちにすでに未来の姦通者の萌芽をもち、悪しき子から未来の盗人、残忍な暴力的な殺人犯、冷酷、悪辣な金融商人、放蕩する女たらし、冷笑的な道楽者、祖国、友人、妻を裏切る嫌悪すべき詐欺師は開花するのですから、すでに自らのうちに社会的荒廃の誘発動因をもっているのです。またあなたたちは、一人の母親の愛を裏切り、一人の父親の白髪を愚弄する者に尊敬と信頼がもてますか?

 

 

 

122.12

 

 しかしながら、更に聞きなさい、しかしながら子らの義務には、それに等しい両親の義務が対応します。罪を犯した子は禍です! しかし罪を犯した両親も禍です。子たちがあなたたちを批判できないように、彼らがあなたたちの悪いところを真似ることがないように心しなさい。正義と憐れみをもって与えられた愛を通して、子らにあなたたちを愛させなさい。憐れみです。両親はにのみ負ける憐れみであるように。子らの模範、慰めでありなさい。平和と道案内でありなさい。あなたたちの子らの初恋の人でありなさい。母は常にわたしたちが未来に望む花嫁の最初のイメージです。娘たちにとって父は、未来に夢見る花婿の顔をもつのです。何よりも、息子たちや娘たちが、父を、母を思い浮かべながら、また父と母のうちに見ている嘘偽りの無い一つの美徳を望みながら、賢い手で互いに配偶者を選ぶような、そんな両親になりなさい。

 

 この問題について語り尽くそうとするなら日夜あっても足りないでしょう。そこで、あなたたちへの愛のために、はしょります。後は永遠の霊がそれをあなたたちに語られますように。わたしは種子を撒き、通り過ぎます。しかし、善人の中に落ちた種子は根付き、穂を出すだろう。行きなさい。平和はあなたたちと共に。

 

 

122.13

 

 帰途につく者は急ぎ立ち去る。居残る者は第三の大部屋に入り、持参したパンを食べるか、弟子たちが神の名において配るパンを食べる。粗末な二脚台の上には板と麦藁が置かれ、巡礼者たちはそこで眠ることができる。

 身をベールで覆った女は、急ぎ足で立ち去る。初めから泣きっぱなしで、イエズスが話している間中泣いていたもう一人の女は、どうすべきかためらっている様子だったが、意を決したらしく立ち去る。

 

 イエズスは食事のために台所に入る。しかし食べ始めた途端に扉を叩く音がする。

 扉の一番近くにいたアンデレが中庭に出て行く。話し、そして入って来る。「先生、あの泣き虫の女があなたに話したいことがあるようです。行かねばならないが、あなたにお話ししなければならない、と言っています」。

「そんなやり方をしていたら、先生はいつ、どのように食事を召し上がるのか?」と、ペトロが声を上げる。

「もっと遅く来るようにと、あなたは言うべきでした」と、フィリポが言う。

「静に。後で食べます。あなたたちは続けてください」。

イエズスは出る。女は外に立っている。

 

先生・・・一言・・・あなたはおっしゃいました・・・おお! 家の裏手までおいでください! わたしの悲しみを申し上げるのはつらいことです!」。

 イエズスは一言も言わず女を安心させる。家の裏手に来た時、初めて尋ねる。「わたしに何を望みますか?」。

先生・・・わたしが最初にあなたのお話しを聞いたのは、以前わたしたちの只中で話された時と、その後、説教をなさった時でした。あなたはまるでわたしのために語っておられるように思われました。あなたは、肉体の、あるいは心のどんな病気にもサタンがいる、とおっしゃいました・・・わたしには、心を病む一人の息子がおります。両親について語っておられた時、息子がそれを聞いていたら! わたしの悩みの種です。悪い仲間たちに誑(たぶら)かされて人の道を外れ、そして・・・ほんとうにあなたがおっしゃったように、・・・泥棒・・・今は家におりますが・・・喧嘩っ早くって・・・横暴で・・・若いものですから肉体と暴飲暴食で身を持ちくずしています。夫は家から追い出したいらしいのです。わたしは・・・わたしは母です・・・死ぬほど苦しんでいます。ごらんください、こんなに息切れを起こしているわたしの胸を? この深い悲しみでわたしの心臓は引裂かれそうです。昨日からお話ししたかったのです、なぜなら・・・あなたに、わたしのに希望しています。なのに何一つ申し上げることができませんでした。『わたしには残酷な息子がいます』と言うことは、一人の母親としては耐え難い苦しみです!」。イエズスの前で女は泣き、背を丸めて、悲嘆にくれる。

 

「もう泣かないで。彼はその悪から治るでしょう」。

「あなたのお話しを聞けば治るでしょう。でも彼は聞こうとしません。おお! 治ることは決してないでしょう!」。

「でもあなたは彼のために信仰をもっているでしょう?」。

「それをわたしにお求めになるのですか? わたしはアルタ・パレアから彼のためにあなたにお願いに参りました・・・」。

「それでいいのです。あなたが家に辿り着いた時には、息子さんは悔い改めてあなたを迎えるでしょう」。

「でも、どうして?」。

 

「どうしてって? わたしが願い求めることをはおできにならないと思うのですか? あなたの息子さんは彼方にいます。わたしはここにいます。でもはどこにでもおられます。わたしに言います、『父よ、この母親を憐れんでください』と。そうすると、はあなたの息子さんの心にその呼び声を轟かせます。女人よ、行きなさい。いつの日かわたしはあなたの町の街道を通るでしょうが、その時息子を誇りに思うあなたは、彼を連れてわたしを迎えてくれるでしょう。また、彼があなたの膝の上で泣いて赦しを乞い、彼がそこから抜け出した神秘的な闘争を、新しい霊魂をもって物語る時、彼はどうしてこのことが起きたのか、とあなたに尋ねるでしょう。そうしたらあなたは彼に言いなさい、『お前が善へと生まれ変わったのは、イエズスのお蔭です』と。わたしについて彼に話しなさい。

 あなたがわたしのところに来たのは、あなたがわたしを知っているという何よりの印です。彼が自分のうちに救う力をもつために、わたしを知り、わたしを思うように導きなさい。さらば。信仰する母に、戻って来た子に、喜ぶ父に、再構築された家族に平和。行きなさい。」

 女は村に向って歩き出し、すべては終わる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P128/596・10

 

そして、掟は明記しています、親は、の次に敬い助けるべき隣人です。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P131/596・15

 

異邦人は、祖国の聖なるものを手放すほど卑屈な民を軽蔑します。父母―祖国―を否定する人は、尊敬と自由を得ることができません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P133/596・16

 

そして彼らは異端です。なぜなら、異教徒のように輪廻転生や運命を信じる者もいれば、先人たちが認めたことを拒絶する者もいるからです。実のところ、神ご自身が信仰の原理として与えられたもの―実践されていないとしても―それを拒絶します。神は神ご自身が唯一の神として礼拝されるべきであることを明らかにし、神に次いで父と母とを敬うように言われました。ですから、父母への服従は、神ではない教師よりも優先されるべきものです。