父親

 

 

1.聖書

2.善

3.神的善

4.神的なものそれ自身

5.悪

6.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ5・43―48

 

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

マタイ6・1−4

 

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 

 

 

マタイ6・5−15

 

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

だから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように。

御国が来ますように。

御心が行われますように、

天におけるように地の上にも。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

わたしたちの負い目を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を

赦しましたように。

わたしたちを誘惑に遭わせず、

悪い者から救ってください。』

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

 

 

マタイ7・7−12

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

 

 

マタイ11・25−27

 

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

 

 

 

マタイ23・9

 

また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

 

 

 

マタイ26・39

 

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 

 

 

マルコ11・25

 

また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。

 

 

 

マルコ13・32

 

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。

 

 

 

マルコ14・36

 

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 

 

 

ルカ6・35−36

 

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 

 

 

ルカ15・20

 

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 

 

 

ルカ22・42

 

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 

 

 

ルカ23・46

 

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

 

 

 

ヨハネ12・26

 

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 

 

 

ヨハネ12・27−28

 

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 

 

 

ヨハネ12・45

 

わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。

 

 

 

ヨハネ13・1

 

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 

 

 

ヨハネ14・2−3

 

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

 

 

ヨハネ14・6

 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。

 

 

 

ヨハネ14・13−14

 

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。

 

 

 

ヨハネ14・15−16

 

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 

 

 

ヨハネ14・23

 

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

 

 

 

ヨハネ15・9

 

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

 

 

 

ヨハネ16・15

 

父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 

 

ヨハネ16・25−28

 

わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出てきたことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。

 

 

 

ヨハネ17・1−13

 

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 

 

 

ヨハネ17・21

 

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。

 

 

 

 

2.善

 

 

天界の秘義3703

 

内意では「父」が善を意味していることは、善は凡てのものが全般的にも個別的にも「存在する」源泉となるものであり、真理はそれらのものが凡て明らかに示されるようになる手段となるものであり、かくて凡ゆるものは、善と真理との結婚から発しているためである。(中略)

このことから、善は父に似ており、真理は母に似ており、それで聖言の内意では「父」により善が意味され、「母」により真理が意味され、実に低いまた派生的な諸善と諸真理とが生まれてくる源泉となっている善と真理とが意味されており、その低いまた派生的な善と真理は相対的には娘と息子であり、それで聖言ではまた「娘」「息子」と呼ばれている(489―491、2362)。

(中略)

 

「父と母とを敬いなさい、あなたの日があなたの神エホバがあなたに与えられる地に長くなるためである」(出エジプト20・12、申命記5・16)。

 

 この教え[]は十戒の他の教え[]のように、両方の意味においても真であること、父と母を敬うことは内意では善と真理を愛することであり、善と真理の中に主を愛することであることは前に見ることができよう(2609、3690)。

 

 

 

天界の秘義3703(7)

 

「あなたたちは先生[]と呼ばれてはならない、あなたたちの先生は一人であり、キリストである、あなたたちはすべて兄弟である。地上であなたたちの父と呼んではならない、あなたたちの父は一人であられ、かれは天におられるからである」(マタイ23・8,9)

 

地上で先生[]と呼ばれ、父と呼ばれることがここに禁じられているのではなく、禁じられていることは主以外のたれか心で承認することであり、すなわち、「先生」「父」と言われるとき、主が理解されなくてはならないのであって、主がかれらによりその最高の意義の中に意味されているのであり、このことは天的な人であった最古代の人々について前に言われたことに応じているのである(3702)。

 

 

 

同3703(8)

 

これに似たことが主がその弟子たちの一人に話されたことに含まれている。その者は言った―

 

「主よ、先ずわたしに行って父を葬ることを許して下さい。しかし、イエスはかれに言われた、わたしに従ってきなさい、死んだ者に死んだ者を葬らせなさい」(マタイ8・21,22)

 

 なぜなら地上の父は天の父または主に対しては、生きている者に対する死人のようなものであるからである。かくて両親を敬うことにかかわる律法そのものは、その中に主に対する尊敬、礼拝、愛がない限りいわば死んだものである。なぜならかの律法はこの神的律法から下降しており、そこからその律法の中に真に生きているものが発しているからであり、それで主は、「わたしに従ってきなさい、死んだ者に死んだ者を葬らせなさい」と言われたのである。

 

 

 

 

3.神的善

 

 

天界の秘義3704

 

神的善

 

 

 

 

4.神的なものそれ自身

 

天界の秘義10067

 

神的なものそれ自身

 

 

 

 

5.悪

 

 

天界の秘義3708(20,22)

 

聖言の大半の表現にはまた対立した意義があるように、「父」にもまたそれがあり、その意義ではそれは悪を意味しており、「母」も同様であって、それは純粋な意義では真理を意味しているが、しかしその対立した意義では誤謬を意味しているのである。それがそうであることは以下の記事から認めることができよう。ダビデの書には―

 

「かれの父祖たちの不法はエホバに憶えられ、その母の罪は消し去られはしなであろう(詩篇109・14)。

さらに、(中略)

 

マタイ伝には―

 

兄弟は兄弟を、父は息子を死にわたし、子供たちは親に逆らって起き上がり、かれらを殺すであろう。そしてあなたたちはわたしの名のために凡ての人から憎まれるであろう。わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をしうとめに争わせるために来たのである、人の敵はその人自身の家のものとなるであろう。わたしよりも父または母を愛する者はわたしにふさわしくはない、わたしよりも息子または娘を愛する者はわたしにふさわしくない(マタイ10・21、22、35−37、ルカ12・49、52、53)。

 

さらに―

 

わたしのために家を、または兄弟を、または姉妹を、または父を、または母を、または妻を、または子供を、または畠を棄て去った者は、百倍を受け、また永遠の生命を受けるであろう(マタイ19・29、ルカ18.29,30、マルコ10.29,30)。

 

ルカ伝には―

 

もしたれでもわたしのもとへ来て、自分の父を、母を、妻を、子供を、兄弟を、姉妹を、いな、また自分自身の魂をも憎まないなら、わたしの弟子になることはできない(ルカ14・26)。

 

マルコ伝には―

 

兄弟は兄弟を、父は子供たちを死にわたし、子供たちは親に逆らって起き上がり、かれらを死にわたすであろう、あなたたちはわたしの名のために凡ての人から憎まれるであろう(マルコ13・12,13、ルカ21・16,17)。

 

ここには代の終結が、善と真理との方面で歪められた教会の状態が、即ち、悪が真理に反抗し、誤謬が善に反抗して立つことが記されているのである。父によりその対立した意義では悪が意味されていることはすでに引用した記事から、またヨハネ伝の以下の記事からも明白である―

 

イエスは彼らに言われた、もし神があなたたちの父であるなら、あなたたちはわたしを愛するであろう、わたしは神から出て来て、(神から)来ているからである。あなたたちは悪魔であるあなたたちの父のものであり、父の欲念を為すことがあなたたちの意志である、彼は始めから人殺しであって、真理はその中にないため、真理に立たなかったのである、彼は偽りを話すときは、かれ自身のものを話すのである、なぜなら彼は偽り者[嘘つき]であって偽りの父であるからである(ヨハネ8・42、44)。

 

 

 

黙示録講解724ロ

 

 しかし、「息子」は聖言の多くの記事の中に言われており、未だ息子は教会の、教義の真理を意味していることは知られてはいないため、多くのものの中から私は確認のために単に以下の記事を引用しよう。福音書には―

 

イエスは言われた、わたしの名のために、家を、兄弟を、姉妹を、父を、母を、妻を、子供たちを、畠を離れる者は百倍を受け、永遠の生命を受けつぐであろう(マタイ19・29、マルコ10・29,30)。

 

わたしのもとに来て、自分自身の父を、母を、子供たちを、兄弟たちを、姉妹たちを、実に自分自身の魂を憎まない人間はことごとくわたしの弟子となることはできない(ルカ14・26)。

 

 父、母、妻、子供たち、兄弟たち、姉妹たち、また家と畑とはここには意味されてはいないで、人間そのものに属して人間自身のものと呼ばれているようなものが意味されていることをたれが認めることが出来ないか。なぜならもし人間が主を拝し、主の弟子となることを欲し、「百倍のものを受け入れ」、「永遠の生命をつぐこと」を望むなら、これらのものを棄て去って憎まなくてはならないからである。人間自身のものであるものは、人間の愛に属し、かくて人間がその中へ生まれている人間の生命に属しているものであり、従ってそれらのものは凡ゆる種類の悪と誤謬である、これらのものは人間の愛と生命とのものであるため「人間は自分自身の魂を憎まなくてはならない」と言われている。

 

これらの悪と誤謬とは「父と母、妻、子供たち、兄弟たちと姉妹たち」と呼ばれている、なぜなら人間の愛と生命とに属している凡ゆるものは、または情愛とそこから発する思考に属しているものは、または意志とそこから発する理解に属しているのはことごとく一人の父と一人の母から下降している幾世代のもののように形作られ、連結し、また幾多の家族と家とに区別されるように区別されるからである。自己を求める愛とそこから発する世を求める愛はそれらの「父と母」であり、そこから発する幾多の欲念とそれらの悪と誤謬とは「兄弟と姉妹」である「子供たち」である。

 

これがその意味であることは以下から明らかに認めることが出来よう、即ち、主は何人かがその父と母とを、または妻あるいは子供たちを、または兄弟を、または姉妹を憎むことを欲しられないのである、なぜならそうしたことは天界から各人の中に植えつけられている霊的愛に反し―それは子供たちに対する両親の愛であり、また両親に対する子供たちの愛であるが、それに反し―妻に対する夫の愛であり、夫に対する妻の愛である結婚愛にも反し、同じくまた兄弟と姉妹が相互に抱いている愛である相互愛にも反しているからである。

 

実に、主は敵を憎んではならない、愛さなくてはならないと教えられるのである。凡てこのことは、聖言における血族関係の者、同盟関係の者、縁故関係の者を決定する言葉は霊的な意味における血族関係の者、同盟関係の者、縁故関係の者を意味することを示している。

 

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館/第4巻中/P170

 

父親は常に助けます。そしてあなたたちは神から助けられているのですからすべてをなし、すべてをよくしなさい。