第4戒:なんじ、父母を敬うべし

わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか(マタイ12・48)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は(マタイ19・29)・・捨てる

なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は(ルカ11・27)/

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19・27)

 

 

 

1.聖書

2.人間の中に教会を生み出すところの真理に対する情愛

3.教会

4.真理の方面の教会

5.真理、最高の意義では神的真理の方面の主、主から発出している神的真理が天界を作っているため、主の王国

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ10・34−39

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

 

 

マタイ12・46−50

 

 イエスがなお群集に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、御覧なさい、母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行なう人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 

 

マタイ19・29

 

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

 

 

 

マルコ10・17−31

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 

 

 

ルカ11・27−28

 

イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群集の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 

 

 

ヨハネ19・26−27

 

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 

 

 

2.人間の中に教会を生み出すところの真理に対する情愛

 

 

天界の秘義2717

 

「かれの母はかれにめとった」。これは真理の情愛を意味していることは『母』の意義から明白であり、それは教会であり(289番を参照)、ここに表象されている霊的教会は真理の中にあり、真理の情愛によって教会であるため、この情愛はここに母により意味されている。

 

 

 

天界の秘義3583

 

「あなたの母の息子たちにあなたに身をかがめさせなさい」。これは真理に対する情愛の他の凡てのものを治める(主権)を意味していることは以下から明白である、すなわち、『息子』の意義もまた真理であり(489、491、533、1147、2623、3373番を参照)、『母』の意義は霊的な真理の情愛[霊的な真理に対する情愛]であり、かくて教会である、なぜなら教会は真理から、また真理に対する情愛から教会であり、また教会と呼ばれているからである(289、2691、2717番)

 

 

 

天界の秘義4257

 

「かれがやって来て、わたしを、息子の上に母を打ちはしないかと」。これはそれがまさに死滅しようとしていることを意味していることは、説明を要しないで明白である。(中略)なぜなら『母』により彼らは教会を理解し(289、2691、2717番を参照)、『息子』により教会のものである真理を理解したからである(489、491、533、1147、2623、3373番)。ここから『息子たちの上に母を打つこと』は全く死滅することを意味しているのである。人間もまた、人間の中に教会と教会とに属しているものとが死滅すると、即ち、『母』により本来意味されていて、人間の中に教会を生み出すところの真理に対する情愛が破壊されると、全く死滅してしまうのである。

 

 

 

 

3.教会

 

 

天界の秘義289

 

『妻』により教会が意味され、普遍的な意義では諸天界と地上における主の王国が意味されていることもまた前に示した、ここからそれと同じ事が『母』によっても意味されていることが生まれている。聖言には極めて頻繁に母と呼ばれている、例えばイザヤ書には―

 

 あなたらの母の離縁状は何処に在るか(イザヤ50・1)。

 

エレミヤ記には―

 

 あなたらの母は大いに恥じた、あなたらを生んだ者は恥辱におおわれた(エレミヤ50・12)

 

 

 

 

 

真の基督教306

 

霊的な意義では母は教会を意味している。それは自然的な母は、その子を自然的な食物をもって養い育てるように、教会はその子を霊的な食物をもって養い育てるからであり、それゆえ教会は聖言の凡ゆるところに母と呼ばれている。

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

ヨハネは善い業の方面の教会を表象し、善い業は主に対する愛の凡ゆるものを、隣人に対する仁慈の凡ゆるものを含んでいるため、ヨハネは主により他の者たちよりもさらに深く愛されたのであり、そのことは以下から明白である―

 

彼は主と話したとき、主のふところにもたれかかり、主の胸に顔をすべらせた(ヨハネ13・23、25)。

 

『ふところ』と『胸』とは聖言においては行為における愛である霊的愛を意味しており、『主のふところと胸』は神的愛そのものを意味しており、それ故霊的愛の中にいる天界の者たちは胸の領域内にいるのである。

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

それでまたヨハネは主の母を彼自身の家へ連れて行き、彼女と共に住まったのであり、そのことはヨハネ伝に以下のように記されている―

 

イエスは十字架からその母とその愛された弟子がそばに立っているのを見られた、イエスはその母に言われた、女よ、あなたの息子を見なさい、と、それからイエスはその弟子に言われる、あなたの母を見なさい、と。それでその時間からその弟子は彼女を彼自身の家へ連れて行った(19・20,27)。

 

 このことは教会は行為における仁慈が在る所に、または善い業が在る所に在ることを意味したのである、なぜなら主の『母』と『女』とは教会を意味し、『ヨハネ』は善い業である行為における仁慈を意味するからである。

 

(『母』は教会を意味することは「天界の秘義」289、2691、2717、3703、4257、5581、8897番に見ることができよう。『女』も同じような意味を持つことは、前の555、707、721イ、730番イ、ロを参照されたい。)

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

主の教会は、行為における仁慈の中にいる、または善い業の中にいる者たちの中にあって、これらのものから分離した信仰の中にいる者らのもとには存在しないこともまたペテロとヨハネとについて述べられていることにより意味されている。すなわち―

 

ペテロは振り向いて、主が愛された弟子が―その者はまた夕食のさい主の胸によりかかったのであるが―後について来るのを見る。ペテロは彼を見て、イエスに言う、主よ、しかしこの者については何(と言われますか)。イエスは彼に言われる、もしわたしが、わたしの来る迄彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたにとっては何ですか。あなたはわたしについて来なさい(ヨハネ21・20−22)

 

前に(820番ロ)―そこにもまたその前に言われた言葉が説明されているが―ここの『ペテロ』は善を欠いた真理を、または信仰が教会の終わりに陥るような善い業から分離した信仰を意味していることが認め得られよう、そして『ヨハネ』は善い業と呼ばれる仁慈の善を意味し、その善は主の教会を構成している者たちのもとに在るため、それで主の後について行った者は、ペテロではなくてヨハネであったのであり、『しかしこの者については何と』と尋ねたペテロに向かって、『もしわたしが、わたしの来る迄、彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたには何ですか。あなたはわたしについて来なさい』と主は答えられたのであり、そのことは、仁慈の善は主の者たちである者たちのもとに存続し、教会の終わりに至る迄すらも、新しい教会が存在する時迄すらも、存続するが、しかしその善から分離した信仰の中にいる者らのもとには存続はしないことを意味している、このことがペテロに言われたこれらの語により意味されているものである、『それがあなたにとって何ですか。』

 

 

 

 

4.真理の方面の教会

 

 

天界の秘義5581

 

「彼らの父は彼らに言った」。これは教会の幾多の物から発した認識を意味していることは以下から明白である、即ち、聖言の歴史的なものにおける『言うこと』の意義は認識であり(そのことについては前に再三述べた)、ここでは『父』であるイスラエルの表象は教会である(『イスラエル』は内なる霊的な教会であり、『ヤコブ』は外なる霊的な教会であることは前の4286、4292、4570番に見ることが出来よう)。彼が『父』と呼ばれているのは、聖言の『父』によりまた教会が意味され、それが同じく『母』によっても意味されているためであるが、しかし『母』により真理の方面の教会が意味され、『父』により善の方面の教会が意味されているのである。このことの理由は、教会は父としての善と母としての真理から発している霊的な結婚であるということである。

 

 

 

天界の秘義9226

 

 「七日それをその母と共に置かなくてはならない」。彼らが真理の中にいるその最初の状態を意味していることは以下から明白である、即ち、『七日』の意義は再生しつつある者たちの最初の状態であり―なぜなら『日』は状態を意味し(23、487、488、493、893、2788、3462、3785、4850、5672、5962、8426、9213番)、『七』は初めから終りまでを、引いては充分な状態になったものを意味するからである(728、6508番)―『母』の意義は真理の方面の教会であり、かくてまた教会の真理である(289、2691、2717、3703、4257、5581、8897番)。ここから『七日それをその母のもとに置かなくてはならない』により充分な状態に至るまでの最初の状態が、即ち、彼らが真理の中にいる間の、初めから終りまでの凡ての状態が意味されているのである。この間の実情のいかようなものであるかは次項に述べよう。

 

 

 

 

5.真理、神的真理の方面の主、かくて主から発出している神的真理が天界を作っているため、主の王国

 

 

天界の秘義8897

 

「あなたの父と母とを敬いなさい」。これは善と真理とに対する愛を意味し、その最高の意義では主とまたその王国に対する愛を意味していることは『敬うこと』の意義から明白であり、それは愛することである、なぜなら霊的な意義では『敬うこと』は愛することを意味するからであるが、それは天界では人は互に他を愛し合っており、愛するときはまた敬いもしているという理由によっている、なぜなら敬うことの中に愛が在るからである。愛のない尊敬は天界では拒まれている、否、斥けられているのである、なぜならそれは善から発した生命を欠いているからである。『父』の意義は善であり(3703、5581、5902、6050、7833、7834番)、その最高の意義では神的善の方面の主[主の神的善]であり(15、1729、2005、2803、3704、7499、8328番)、主がその最高の意義では『父』であられることは、主が人間に新しい生命を与えられ、そのことによって人間は主の王国の子となり、嗣子[後継者]となるためであり、『母』の意義は真理であり(3703、5581番)、その最高の意義では神的真理の方面の主であり、かくて主から発出している神的真理が天界を作っているため、主の王国である。