見なさい。あなたの母です。
ヨハネ19・27
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.デボラ
5.ヴァッスーラ
6.サンドロ・ニョッキ
7.トマス・ア・ケンピス
8.聖母から司祭へ
9.ルイザ・ピッカレータ
10.ドレックス教授
11.聖母は新しいエルサレムであること
12.グリニョン・ド・モンフォール
13.ヨゼファ・メネンデス
14.アグレダのマリア
1.聖書
ヨハネ14・21
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。
ヨハネ14・23−24
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
ヨハネ19・25−27
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
マルコ13・37
あなた方に言うことは、すべての人に言うのだ。
ガラテヤ4・26−27
他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。
「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
喜びの声をあげて叫べ、
産みの苦しみを知らない女よ。
一人取り残された女が夫のある女よりも、多くの子を産むから。」
2.スウェーデンボルグ
黙示録講解9(5)
第五のアルカナはヨハネは愛の善を表象していることが知られるとき、即ち、主が十字架から母マリアとヨハネに、以下のように言われた言葉により意味されていることが知られるとき明らかになるのである、即ち―
それでイエスは、その母を、またその愛された弟子が側に立っているのを見られ、その母に言われる、女よ、あなたの息子を見なさい、と。それからその弟子に言われる、見なさい、あなたの母を、と。その時間からその弟子は彼女を彼自身の家へと引き取った(ヨハネ19・26、27)。
『母』により、また『女』によりここでは教会が意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味され、ここに言われている事柄により、教会は仁慈の善が存在するところに存在することが意味されているのである。(聖言では、『女』により教会が意味されていることは「天界の秘義」252、253、749、770、3160、6014、7337、8994番に見ることが出来、同じようなことが『母』によっても意味されている、289、2691、2717、3703、4257、5581、8897、10490番。『彼女を彼自身の家へ引き取る』ことは、これらのものは共に住まなくてはならないということであることは明白である)。
このことから今やいかに大いなるアルカナが聖言に隠れているかが認められることが出来るのであり、そのアルカナは聖言の内なる、または霊的な意義を知っている者たちにのみ明らかにされるのである。
黙示録講解821ロ[6]
ヨハネは善い業の方面の教会を表象し、善い業は主に対する愛の凡ゆるものを、隣人に対する仁慈の凡ゆるものを含んでいるため、ヨハネは主により他の者たちよりも更に深く愛されたのであり、そのことは以下から明白である―
彼は主と話した時、主のふところにもたれかかり、主の胸に顔をすべらせた(ヨハネ13・23、25)。
『ふところ』と『胸』とは聖言においては行為における愛である霊的愛を意味しており、『主のふところと胸』は神的愛そのものを意味しており、それ故霊的愛の中にいる天界の者たちは胸の領域内にいるのである。
黙示録講解821ロ[7]
それでまたヨハネは主の母を彼自身の家へ連れて行き、彼女と共に住まったのであり、そのことはヨハネ伝に以下のように記されている―
イエスは十字架からその母とその愛された弟子がそばに立っているのを見られた、イエスはその母に言われた、女よ、あなたの息子を見なさい、と、それからイエスはその弟子に言われる、あなたの母を見なさい、と。それでその時間からその弟子は彼女を彼自身の家へ連れて行った(19・20,27)。
このことは教会は行為における仁慈が在る所に、または善い業が在る所に在ることを意味したのである、なぜなら主の『母』と『女』とは教会を意味し、『ヨハネ』は善い業である行為における仁慈を意味するからである。
(『母』は教会を意味することは「天界の秘義」289、2691、2717、3703、4257、5581、8897番に見ることができよう。『女』も同じような意味を持つことは、前の555、707、721イ、730番イ、ロを参照されたい。)
黙示録講解821ロ[8]
主の教会は、行為における仁慈の中にいる、または善い業の中にいる者たちの中にあって、これらのものから分離した信仰の中にいる者らのもとには存在しないこともまたペテロとヨハネとについて述べられていることにより意味されている。即ち―
ペテロは振り向いて、主が愛された弟子が―その者はまた夕食のさい主の胸によりかかったのであるが―後について来るのを見る。ペテロはかれを見て、イエスに言う、主よ、しかしこの者については何(と言われますか)。イエスは彼に言われる、もしわたしが、わたしの来る迄かれがとどまることを欲するにしても、それはあなたにとっては何ですか。あなたはわたしについて来なさい(ヨハネ21・20−22)。
前に(820番ロ)―そこにもまたその前に言われた言葉が説明されているが―ここの『ペテロ』は善を欠いた真理を、または信仰が教会の終わりに陥るような善い業から分離した信仰を意味していることが認め得られよう、
そして『ヨハネ』は善い業と呼ばれる仁慈の善を意味し、その善は主の教会を構成している者たちのもとに在るため、それで主の後について行った者は、ペテロではなくてヨハネであったのであり、『しかしこの者については何と』とたずねたペテロに向かって、『もしわたしが、わたしの来る迄、彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたには何ですか。あなたはわたしについて来なさい』と主は答えられたのであり、そのことは、仁慈の善は主の者たちである者たちのもとに存続し、教会の終わりに至る迄すらも、新しい教会が存在する時迄すらも、存続するが、しかしその善から分離した信仰の中にいる者らのもとには存続はしないことを意味している、このことがペテロに言われたこれらの語により意味されているものである、『それがあなたにとって何ですか。』
黙示録講解822[5]
このことから信仰を業から分離する者はいかような種類の人間であるかが明らかである、即ち、彼は何ら信仰を持っていないのであり、その者の業は悪であって、自己を、世を求める愛から発出しており、信仰に属しているようなものにより覆われ、取り巻かれてはいるが、内部に存在する幾多の悪により汚染され、冒瀆されているのである。それゆえそうした人間はその内部の中へ入れられるときは―そうしたことは彼が死後霊となるとき起こるのであるが―円周のものを構成したところの、その信仰に属している凡ゆるものが投げ捨てられ、散らされてしまうのである。このことから、仁慈の業を、または善い業を表象したヨハネが主の胸によりかかり、ペテロではなくてヨハネが主に従った理由を、また彼が主の復活の後、主の母と住んだ理由を認めることが出来よう。
天界の秘義838
ここに以下に記されていることは試練の後の彼の状態であり、それが彼のもとのみでなく、また再生する凡ての者のもとにも行われた順序を追って正確に記されている、なぜなら主の聖言はそれが一人の人間を取扱う所では常に凡ての人間をまた個人各々を取扱っており、それが各々の者の気質に応じた相違を以て為されているという性質を持っており、これが聖言の普遍的な意義である。
天界の秘義1896
ここに『その名はハガルであった』と言われているように、聖言の中でたれかの名前が述べられているときは、それはその名前の中に注意しなくてはならない何ごとかが含まれているということを意味している、なぜなら『名を呼ぶ』ことは(前の144、145、340番に示されたように)人間の性質を知ることを意味しているからである。聖言では一音節でも原因なしには、または内意における何か実際的な事柄の意義なしには記されてはいないのである。
天界の秘義2649[3]
ここに、その女が主の母について語った時、主は前に記された者について語られたのである。すなわち、『たれでもわたしの父の御意志を行う者、その者がわたしの兄弟、わたしの姉妹また母である』。これは以下の御言葉と同一である。『何と祝福されていることであろう。神の聖言を聞いて、それを守る者たちよ!』。ヨハネ伝には―
イエスはその母とその愛された弟子とが近くに立っているのを見られて、その母に言われた。『女よ、あなたの息子をごらんなさい』。それからかれは弟子に言われた。ごらん、あなたの母を、それでその時からその弟子は彼女を彼自身の家に引き取った(ヨハネ19・26,27)。
これらの言葉から主は、彼女が十字架の上の主を眺めた時のその彼女の思いに従って、彼女に話されはしたが、そのときですらも彼女を母とは呼ばれないで、『女』と呼ばれ、母の名を弟子により意味されている者たちに移されたことが明白であって、そうした理由から主はその弟子に『ごらんなさい。あなたの母を』と言われたのである。このことはマタイ伝の主御自身の御言葉からさらに明らかである―
イエスはパリサイ人にたずねて、言われた。あなたたちはキリストをいかように考えますか、かれは誰の子ですか。かれらはかれに言う、ダビデの子です。かれは彼らに言われる。それならどうしてダビデは霊の中でかれを主と呼ぶのですか、かれはこのように言っています。すなわち、主はわが主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、あなたはわたしの右手に座りなさい、と、それでもしダビデがかれを主と呼んでいるなら、かれはどうしてかれの子でしょうか。それでたれ一人かれに一言も答えることができなかった(マタイ22・41−46、マルコ12・35−37、ルカ20・42−44)。
かくてかれはその肉の方面では、もはやダビデの子ではあられなかったのである。
天界の秘義2649[4]
さらに、母の人間的なものを分離し、脱ぎ去ることについては、主の人間的なものについては単に形体的な観念を抱くのみで、それを他の人間の人間的なものを考えるようにしか考えない者はそのことを把握しないのであり、かくてこれらの事柄はこうした者らを躓かせるものとなるのである。彼らは、生命があるままにその人間があることを、生命の神的エッセ(存在)またはエホバは妊娠から主の中に存在したことを、またそれに類似した生命のエッセが結合により主の人間的なものの中に発生してことを知らないのである。
結婚愛119
教会は母と呼ばれていることは以下の記事に現れている―
エホバは言われた、あなたらの母と論じよ、彼女はわたしの妻ではない、わたしもその夫ではない(ホセア2・2)。
あなたはその夫を嫌っているあなたの母の娘である(エゼキエル16・45)。
わたしが出したあなたの母の離縁状はどこに在るか(イザヤ50・1)。
あなたの母は水の傍に植えられて、果を結ぶぶどうのようである(エゼキエル書19・10)。
これらの事はユダヤ教会について言われたのである。
イエスはその手を弟子たちに伸ばして言われた、わたしの母、わたしの兄弟は神の言を聞いて、これを行う者である(ルカ8・21、マタイ12・48、49、50、マルコ3・33−35)。
主の弟子たちによって教会が意味されている。
イエスの十字架の傍に、かれの母が立っていたが、イエスはその母とその愛された弟子が傍に立っているのを見て、その母に言われた。女よ、あなたの子を見なさい。また弟子に言われた。あなたの母を見なさい。それでこの時からその弟子は彼女を自分の家へ迎えた(ヨハネ19・25−27)。
このことによって主はマリアを母としては認められないで、教会として認められたことが意味されている。その理由から主は彼女を女、また弟子の母と呼ばれたのである。主が彼女をこの弟子の、またはヨハネの母と呼ばれたのは、ヨハネが教会の仁慈の諸々の善を表象したためである。仁慈の善は教会の実体そのものである。それで彼は彼女を彼のもとへ迎えたと言われているのである。ぺテロは真理と信仰とを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の諸々の善を表象したことは「啓示された黙示録」の5、6、790、798、879に見ることが出来よう。十二弟子は合して教会の凡ゆる物を表象したことは、233、790、903、915に見ることが出来よう。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ652/天使のたより第6号P28/天使館
わたしは話していた時、そこに居合わせている者たちの他に、精神において真実と意欲をもってわたしの弟子になるであろうすべての者たちを、常に目前にしていました。
マリア・ヴァルトルタ/天使館第4巻上P77/236・8
例えば、どんな特殊な学派あるいはセクトの新教師になったのかと尋ねられると、ただ次のように答えられました。「神の学派です。わたしが聖なる律法において従うのは神であり、これら小さき者たち(そして愛情深くヨハネと、ヨハネのうちにすべての正直な心の者たちを見つめて)のために、主なる神がシナイ山上でそれを発布されたあの日にそうであったように、その本質をすべて一新しようとしてわたしが心を配っているのは彼のためです。わたしは人間を再び神の光に連れ戻すのです」と。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P259
幼いヤベに主が:
「三人とも(聖母マリア、マリア・サロメ、クレオファのマリア)おまえをたくさん、たくさん、たくさん愛してくれますよ。善い子だし、おまえを大好きな私の愛のためにも愛してくれます。この人たちと一緒に暮らし、成長して大人になったら神の聖なる使徒となり、先生としておまえにこの世でもう一人の母を与えたイエズスのことを伝道しなさい。イエズスは、亡くなったおまえのお父さんとお母さんに天の門を開くし、おまえのときにも開きます。おまえが死んだときには、天への長い長い階段を上る必要はない。善い弟子だから、この世で一生涯かけて階段を上り、天国が開かれた門の前に立った時、私もそこにいて“私の友よ、マリアの子よ、おいで”と言い、いつまでもおまえと一緒に過ごします」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P276
マリアとペトロが一緒に走ってきて、
「どうしたの」となだめる。ひどく泣きじゃくっているので話ができないヤベを、マリアが抱いてあやす。
「おうおう、私の小さな子よ、もう泣かないで・・・初めにあなたに気がつかなくてごめんなさいね」
それから皆に向かって、
「この子は、私のかわいい子です・・・」と言った。
「私が一緒に連れてきたみなしごです」と、イエズスが話していたらしい。
マリアは別のことを直感する。
子供はめそめそ泣いているが、マリアに抱かれて接吻すると、だんだんと涙に洗われたあわれな顔に笑みが戻ってくる。
「涙をきれいに拭いてあげましょうね。もう泣かないで!ほら、私にも接吻してちょうだいな」
ヤベは・・・この時を待っていた。大勢のひげ面の男たちの愛撫の後に、マリアのすべすべした頬に接吻して大喜びである。
マリア・ワルトルタ47・8/天使館第1巻P420
ゼベダイのヨハネは純潔な人です。わたしの弟子のなかで純潔な人です。彼は天使の体に花の霊魂を宿している!最初の師であった洗礼者ヨハネの言葉でわたしを呼び、わたしに平安を願い求めた。だが、その純潔な生活によって、彼は自分のうちに平安を有しています。わたしは彼をその純潔ゆえに愛し、その純潔にわたしの教えと秘密と、わたしが有していた最も愛すべき被造物(マリア)を託したのです。
ゼベダイのヨハネは、わたしの一番弟子であり、彼がわたしを見た最初の瞬間から、わたしの愛弟子でした。彼の霊魂は、わたしがヨルダンの岸辺に沿って歩いているところを、洗礼者から指し示されて見たその日からわたしの霊魂と溶け合っていた。それ以後、荒野からのわたしの帰還後に、わたしと出会っていなかったとしても、彼は必死でわたしを捜し出そうとしただろう。純潔な人は謙遜であり、神の知識を学ぼうと熱望し、川の水が海へと流れ込むように、天の教えを説く教師たちだと認識した人たちのところに来るからです。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P259
幼いヤベに主が:
「三人とも(聖母マリア、マリア・サロメ、クレオファのマリア)おまえをたくさん、たくさん、たくさん愛してくれますよ。善い子だし、おまえを大好きな私の愛のためにも愛してくれます。この人たちと一緒に暮らし、成長して大人になったら神の聖なる使徒となり、先生としておまえにこの世でもう一人の母を与えたイエズスのことを伝道しなさい。イエズスは、亡くなったおまえのお父さんとお母さんに天の門を開くし、おまえのときにも開きます。おまえが死んだときには、天への長い長い階段を上る必要はない。善い弟子だから、この世で一生涯かけて階段を上り、天国が開かれた門の前に立った時、私もそこにいて“私の友よ、マリアの子よ、おいで”と言い、いつまでもおまえと一緒に過ごします」
聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P98
そしてマリアが世のために、私と共に、私を通して、崇高なる犠牲を成し遂げたその時になって、真の信仰と愛にあふれた信者たちは、ようやくマリアの名の真の意味を理解するのです。そして未来永劫、まことの信仰と愛にあふれた信者一人ひとりにこのことを悟る恵みが与えられます。偉大なる御母、聖なる乳母の御名、それはキリストのすべての子供たちをその涙で養い、天国の永遠の生命へと慈しみ育て上げるのです。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P332
たそがれのような気味の悪い光の中で、母はわが子に近づくために十字架の下ににじり寄ってきたので、イエズスはマリアにヨハネを、ヨハネにマリアを与えようと頭を垂れて話しかける。
「婦人よ、これはあなたの子です。子よ、これはあなたの母です」と言われた。
イエズスの遺言でもあるこのことば、人間への愛のためにマリアから生まれた神なる人間でありながら、自分の母に一人の人しか与えられないこのことばを聞いて、マリアはその顔を曇らせる。あわれな母はおえつを漏らす。その口元には苦しいほほえみ、イエズスのためのほほえみ、イエズスを慰めるためのほほえみをたたえてはいても、知らず知らずに涙がはらはらとこぼれ落ちる。
私にそのことができたのは、イエズスがヨハネにおいて私を自分のすべての子供たちの母にしたからです・・・
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷中P163/583・8
常に、羊飼いたちの助言や命令に従い、彼らに仕えなさい。彼らの伝道や働きを支えて、彼らの姉妹のようでありなさい。今日ここにいない人たちに伝えなさい。これから来る人たちに伝えなさい。そして、今もいつも、わたしの母の娘のようでありなさい。彼女は、すべてにおいて、あなた方を導くでしょう。
彼女は、処女たちも、未亡人たちも、人妻も、母親も導くことができます。どの条件についても、彼女は、自身の経験と、超自然的知恵によって、それがどういうことであるかを知っていますから。互いに愛し合い、マリアの中のわたしを愛してください。あなた方は裏切られることはありません。なぜなら、彼女は命の木、生ける神の櫃(ひつ)であり、肉となった神が、そこに座と恵みを置かれたのですから。
4.デボラ
世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P76
1993年8月7日
主なる神は私に、永遠にあなた方の母となる使命をお与えになりました。それであなた方の真中で、私にあなた方を治めさせてほしいのです。神の母である私は、悪霊が決定的にあなた方を攻撃する前に、神聖で母性的な私の祝福のもとに、あなた方を置きたいのです。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P42
マリアを『お母さま』と呼ぶことを学びなさい。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P101
一つの霊魂の苦しみごとに、救われるもう一つの霊魂がある。まさにこれが、なぜ私が神聖な血の最後の一滴までを流し、わたし自身を葬らなければならなかったか、という理由である! それはあなたがた各自の霊魂のためであった。木から、柱から、十字架の上から私は勝ち、皆を引き寄せるのである。あなた方も苦しみながら勝つように定められている。あなたがたが、苦悩を私への捧げ物として受け入れるとき、悪魔は何もできない。落胆させようとする彼のもくろみは失敗し、同時に彼の喜びの狙いも切断される。
そう思いわずらうことはない。愛する人たちは皆、私と同じであるために苦しまなければならない。そして心の中にあるこの愛は、ただちに私の霊の力によって膨張し、あらゆる人の上に吹きかけられて特別なわざを示すであろう。この救いの仲介者として私があなたがたを選んだので、あなたがたは嬉しくはないか? 私はあなたがたに言う。天使たちもそれに驚いている、と。
だから勇気を出しなさい。私とあなたがたの母であるあのおとめが、いかに苦しみを霊の喜びのうちに生きるべきかということを教えてくださるだろう。
5.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P362
ヴァッスーラ:主よ、主任司祭は御母を私たちの聖なる母として否定したのです。そして私たちが御母を尊ぶべきだということを、それで、あなたがそれを十字架の上からおっしゃったとお伝えすると、この司祭は言いました。それはヨハネにたいしてだけおっしゃったので、聖書のどこにも御母は私たちの母親でもあることは書かれてないと。それに、私たちが御母の子どもだとも書いてないと言われます。
主:しかし もう一度言う 娘よ、私の母は本当にあなたの母でもある、あなた方は御母の子どもたち、それはみことばの中に書かれてあり 私はそれを知らない人たちのために繰り返し言う、聖書に書かれてある、
ヴァッスーラ:どこですか 主よ?
主:黙示録の中で、サタンが私の母を追うのに失敗したとき、非常に怒ってほかの彼女の子どもたちに対して戦いをいどんだと、すなわち、十戒を守り、私の証をする人たちすべてに対して。
ヴァッスーラ:ありがとうございます。主イエスよ、お助けくださって。
主:ヴァッスーラ 言ってあるが、あなたの前に私はいつもいる。
黙示録12・13−18
竜は、自分が地上へ投げ落とされたと分かると、男の子を産んだ女の後を追った。しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた。蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし、大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。
‘88・2・10
主:ヴァッスーラ 私の声を聞き 書きなさい。
ヴァッスーラ:はい 主よ。
主:私はみことば アルファでありオメガ、私は不死の霊薬、愛の源 すべては私が在らしめた。あなた方を贖うため 肉となり地上に降った。娘よ 十字架からヨハネと母に与えたみことばに対して 私の教会には非常に多くの混乱が見られる、主である私が、御母を天の元后として戴冠させたことを、何にもましてあなた方に思い出させたい
ヴァッスーラ:主よ?
主:何か ヴァッスーラ?
ヴァッスーラ:主はご自分を神として紹介なさいました、それから御母を二度口にされました。いましがたは聖マリアがあなたのお母さまであると宣言なさいました、「神の母」という呼び名を確認し。ご自分でそう仰ったのです! プロテスタントが拒む呼び名ですのに。
主:私は喜びでいっぱいだ 娘よ、教えていたのが無駄ではなかった、私のわざを理解してくれたことを喜んでいる、学び続けるよう努力しなさい、その達成のために祈りなさい、願うなら必要な洞察力を与える、ヴァッスーラ、再び繰り返す、みことばが知られることを望む。神である私は母の胎内で育った、あなた方の神をこの方は育まれた 被造物よ! 私はこの方に養っていただいた。みことばである私はこの方を愛し 尊んでいる。ヴァッスーラ 初めの頃に私の十字架刑を詳しく述べた、「私の視線が母の上に留まった、そのお方を見た時私どもの心が呼応した(*) <我が愛する子どもたちを与えよう あなたの子たちとなるように、この子たちの母となってほしい>」
(*イエスと聖マリアの間に交わされた無言の相互理解と直観的な一致のこと)
ヴァッスーラ:はい 主よ、けれど私たちのプロテスタントの兄弟は 主の十字架上のみことばは文字通り ヨハネに向けられたものだと言っています、お母さまが「未亡人」となり 主がおられなくなってもヨハネが世話するようにと。聖マリアは「神の母」でないとも言っています。
主:しかし 私のヴァッスーラ 聖書に偽りはない、聖書には書かれてある、「私の主の母」と。聖霊に促され エリザベトはこの言葉を口にした、書くように:「すべての女の中であなたは最も祝福された方、そしてご胎内の子も祝されています。私の主の御母に訪ねていただく名誉をいただくとは? 」十字架上で述べた言葉はあなた方の多くが理解するよりはるかに深い(*)。あなた方の聖なる母でもあるこの方を 尊びなさい。もう私の心の中で休むように、私の現存を覚え 喜ばせてほしい、私を尊びなさい 我がヴァッスーラ、
*イエスは「我が神、どうして私を見捨てられたか。」といった、他の言葉のことも意味しておられます。
ヴァッスーラ/私の天使ダニエル/P61
‘86.10.4
母を愛しなさい。私が十字架に架かっていた時のことを覚えているか? なんと言ったか? 聖母を あなたの母でもあると言った。 あなたを愛し 気遣っておられる。 アッバはお望みの者に与えてくださる。 神が与えるものを受け入れなさい。
6.サンドロ・ニョッキ
サンドロ・ニョッキ/神さまの声が聞こえる/P100
もし神が一人のお母さんを私たちに与えることを考えてくださったのなら、このような配慮を無視してよいのでしょうか。この態度は“聖母を自分の家に迎えた”使徒ヨハネの態度ではないのでしょうか。
7.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10・5
だからもっとも小さいご恩に対しても感謝せよ。そうすればいっそう大きいのを受けるに足る者となろう。
もっとも小さいものでも、自分にとってはもっとも大きいものと思い、取るに足らぬものでも、特別の賜物と考えよ。
もし与え主のとうとさを考えたならば、どんな賜物でも小さいとか、つまらないとか思われないだろう。この上なく高い神のくださる物につまらぬもののあるはずがないからである。
たとい罰や鞭が与えられても、あなたはこれをありがたく思わなければならぬ。なんとなれば神は私たちにくることをお許しになるものはなんでも、私たちの救霊の役にお立てになるからである。
8.聖母から司祭へ
この花園が、あなたがたのものにもなるように、彼は望みました。
それで、ご自分の母を、あなたがたにくださったのです。
聖母から司祭へ1983.4.1
わたしの子は、十字架上でその恐ろしい臨終にあえいでいます。その十字架のもとに、わたしは立っています。そばにヨハネがいます。かれは、あなたがたみんなの代表者です。
聖母から司祭へ1987年1月1日
こうして、わたしは、神のまことの母となりました。でも、わたしは、全人類の母でもあります。
イエズスは、その限りない血まみれの苦しみで、あがなわれた人類に、ご自分の母を与えようと望まれました。
いまも、わたしは、イエズスが、その愛をお与えになった、あのいいつくせない場面を思い出しています。あれは、イエズスが、汚れなき“いけにえ”として、十字架につけられた、その恐ろしい苦しみの悶えの最後の瞬間を生きぬこうとしておられた時でした。
おとめの胎内で鼓動しはじめたそのみ心は、死の沈黙のうちにあって、あなたたち、ひとりびとりに対して、ご自身がかぎりない愛にかられて、これほどの大きな苦しみであがなった兄弟たちの、ひとりも亡びるのをお望みにならないのです。
あのとき、すべてを与えたいあまりに、ご自身の最期のおくりものを与えてこうおっしゃいました、「これは、あなたの母です」と。
このみことばで、わたしは、すべての人の母となりました。
こん日、わたしは、おとめとしての、わたしの母性の汚れなきマントで全世界を包みたいのです。
聖母から司祭へ
1987年4月17日
あなたたちの冷淡で、残酷なこの世紀のカルヴァリオの上にイエズスは、今もその血まみれのご受難をくりかえしておられるのです。
それにしても、この世紀の十字架のもとに、今もなお、あなたたちの悲しみの母は立っているのです。
わたしの愛する子らであるあなたたちもみな、ヨハネのように、わたしと共にとどまりなさい。
聖母から司祭へ1991年12月8日
―わたしは、あなたたちの救いのために開かれる門です。
それは、あなたたちみなが、一人ずつ主と出合うためにこの門をくぐらなければならないからです。
このためにこそ、わたしの子イエズスは、わたしを全人類のまことの母として定められたのです。
あなたたちは、このわたしの門をくぐることによってのみ、苦業とつぐない、信仰と祈り、謙遜と潔白、愛徳と聖徳との天の花園に辿りつくことができるのです。
聖母から司祭へ1994.4.1
イエズスから、愛が母とヨハネの上にくだって、母は新しい霊的母性に心を開くように召され、ヨハネはあなたたちみんなの代表者として、おん子の神的み心の、最高の贈りものを受けるように召されています。
9.ルイザ・ピッカレータ
第三番目は、助け、導き手、そして慰め手としてわたしの聖なる母をあなたに与えましょう。わたしの母にはあなたにどのような恵みでも与えることのできる権能があり、あなたの答えに応じた量の恵みの宝を与えるでしょう。
10.ドレックス教授
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1971年10月1日早朝の主の御言葉
ゴルゴタの贖罪の時に、私は「貴方の母を見よ!」と使徒ヨハネに呼びかけた。この言葉は私が血を流した贖罪の死の時に意味を持つものであったが、それは私の使徒ヨハネのためにだけ向けられたものではなく、世の終わりまで人類に対して向けられたものである。私の童貞聖マリアは、わが名に聞き従うすべての人々の御母でなければならないからだ。この御母を否定し、退ける司祭たちは、恐るべき禍(わざわい)となり、自分自身が永遠から拒否される始まりとなる。
天使館/天使のパン16号P28
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1972年10月6日早朝の主の御言葉
更に、私はヨハネが人類を代表して十字架の下に佇んだ時、私は貴方たちに聖なる聖母を与えた。歴史の中で、最も暗かったその時、しかし最も憐れみに満ちたその時に、私は「貴方たちの母を見よ! この私の御母は信者すべての母であり、教会の母である」と言ったのである。この私の御母こそが争いの時、必要の時の道しるべなのである。聖母はサタンやすべての悪の力の征服者である。
この世の霊に導かれる人びとは、聖母に対する愛を失い、霊魂の心の中が冷たくなっている。そして、この事が教会の荒廃の三つ目の理由である。私が贖いの十字架上で死に向かっていた時、私の12人の弟子の中で最も愛した使徒ヨハネに対して、私は私の御母を示して、“この方はあなたの母です”と言ったではないか。しかし、この恵みと祝福を意味する私の遺言は忘れられ、軽視されている。更にこのことが大きな禍いをもたらしている!
私の至誠なる聖母を愛し、聖母に祈り、聖母を崇めることに熱心な者たちすべてに対し、私は祝福を、それも非常に大きな祝福を送る。
11.聖母は新しいエルサレムであること
ヨハネは生命の善を表象し、ペテロは信仰の真理を表象するため、それで―
ヨハネは主の胸によりかかり、イエスに従ったが、しかしペテロは従わなかった(ヨハネ21・18−21)。
主はまたヨハネについて「彼は主の来られるまで止まらなくてはならない」と言われ(22,23節)、かくて主が来られることである今日までも止まらなくてはならないと言われた。それで生命[生活]の善は新しいエルサレムである主の教会に属する者たちのために今教えられるのである。
12.グリニョン・ド・モンフォール
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳
144.マリアは、甘美な母、慈悲深い母です。マリアは、ご自分の子らに対する愛と大らかさの点では、天上天下、だれにもヒケをとりません。このマリアが、ご自分を尊びご自分に仕えるため、自らをまったくご自分にささげ尽くしている人をごらんになるとき、また、ご自分をかざってくれるため、自分のいちばんだいじなものをいさぎよく脱ぎ捨てている人をごらんになるとき、ご自分のほうからも同様にこの人に、ご自分にすべてをささげ尽くしているこの人に、ご自分のすべてを、しかもすばらしい仕方でお与えになるのです。
マリアはこの人を、ご自分の恩寵の深いふちに沈めてくださるのです。この人を、ご自分のクドクで美々しくかざってくださるのです。
ご自分の権能でささえてくださるのです。
ご自分の光で照らしてくださるのです。
ご自分の愛で燃やしてくださるのです。
この人にご自分の徳を、すなわち、謙虚、信仰、純粋、その他の善徳を、流通してくださるのです。マリアはこの人のために、イエズスに対しては、保証人、補充、すべてとなってくださるのです。
さいごに、この人は自分のすべてを、マリアにささげ尽くし、全くマリアのものとなりきっているのですから、マリアも同様に、全くこの人のものとなりきっておられるのです。マリアの完全なしもべ、マリアの本当の子どもであるこの人こそ、福音記者ヨハネが自身について言っているように、「彼は、彼女をわが家に引きとった」(ヨハネ19・27)といえる人なのです。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/
216
Bあなたは聖母に、自分のすべてを―身体も霊魂もささげ尽くしました。聖母は、惜みなく与える人に対しては、ご自分も惜みなく与えるかたです。どんなに惜みない人よりも、もっともっと惜みないかたです。だから、聖母もあなたに、おかえしとして、ふしぎな方法で、具体的な仕方で、自分自身をお与えになるのです。
そんなわけで、あなたはあえて、聖母にこう申し上げることができるのです。「聖母よわたしはまったくあなたのものですから、どうかわたしを救ってください。」(詩篇119・94)または、イエズスの愛する弟子ヨハネとともに、「聖母よ、わたしはあなたを、自分の全財産としてお受けいたしました」(ヨハネ19・27)。
13.ヨゼファ・メネンデス
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P148
突然、聖母がいらっしゃいました。くすんだ紫のお召し物にベールも同じ色でした。御手の血に染まった茨の冠を示しながらこうおっしゃいました。
『カルワリオ山で、イエズス様は私に人々を私の子供としてお与えになりました。ですからいらっしゃい。あなたも私の子供なのです。私がそれほど本当にあなたの母であるかということをまだよく知らないでしょう。』と。
私は冠に接吻していいかどうか伺うと、冠を私に渡して下さって、お手を私の肩においておっしゃいました。
『イエズス様が私に人々をお託しになった時の追憶は、どんなに感慨深いことでしょう。』
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P420
“婦人よ、見よ汝の子これにあり。”
『“おお、母上よ、これこそわが兄弟! かれらを守り愛したまえ。わたしが命を与えた、おまえたちはもう独りではない。今母ができた。すべて必要の時、母に援助を求めることができるのだ。”』
ヨゼファはここでその記録を止めて、
『私は十字架の傍に聖母がたたずみ、イエズス様を打ち眺めていらっしゃるのを見ました。紫の上衣に、同じ色のベールをまとわれ、深いお悲しみのうちにも、しっかりした御声で、仰せられました。
『ごらんなさい。人々に対する愛がどんなお姿にしてしまったか。あなたが拝するような哀れな悲しい有様の御者が、私の御子なのです。愛が死をもたらし、そして愛が御自身の母を与えて、人々が互いに最も親しい兄弟のきずなで一つに結ばれるようになさったのです。』
14.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P245
「婦人よ、汝の息子を見よ!」という第三の御言葉で、自分たちを捕まえて放さない婦人が主なる神の御母であり、天空に現れ、自分たちの頭を踏み砕くと預言されている女と同じ御方であると発見します。今までそれが判らなかったことほど、何でも知っていると思う高慢をぶち壊すことはありません。血に飢えたライオンのようになり、聖母に対する憎しみを千倍に増やします。聖ヨハネが聖母の守護者に任命され、しかも司祭の権能を与えられていることに気付き、聖ヨハネの司祭としての力と司祭全員の力が、我らの救い主に由来するということ、司祭たちは主により守られ、自分たちより強いということで、悪魔たちは手出しできなくなります。